『馨君の転校……。そんな悲しい出来事があったんだね』
「はい。でも当時の僕たちは、一、二年なんてあっという間だって。お互いの気持ちは絶対に変わらないっていう変な自信があったんです」
『それだけ馨君が紬のことを大切にしてくれていたんだね』
「はい……」
そこまで送信してから、僕はスマホを一度ベッドの上に置く。
ここから先の出来事は、今思い出しても胸が締め付けられるくらい辛くて苦しい出来事だったから。
「蒼空さん。ちょっとここから重たい話になるんですけど、聞いてくれますか?」
『もちろんだよ。何でも話して?』
「ありがとうございます」
僕は蒼空さんの優しさに背中を押され、一文字ずつゆっくりと文字を打ち始めた。
夏休みの終わりを目前に控えた夕方。眩しいほど青かった空は少しずつ茜色へ染まり始めているというのに、僕の胸の中だけは重たい雲が居座ったままだった。
明日、馨は関西へ引っ越してしまう。たったそれだけのことだと何度も自分に言い聞かせた。引っ越すだけなら、きっとまた会える。
電話だってできるし、手紙だって書ける。そう思おうとする度に、「今までと同じようにはいかない」という不安が胸の奥から顔を覗かせて、何度振り払っても消えてくれなかった。
住宅街の外れにある小さな公園には、僕と馨しかいなかった。蝉の鳴き声だけが賑やかに響いているのに、不思議なくらい静かに感じる。
何か話そうと思っても言葉が見つからず、結局どちらも黙ったままベンチへ腰を下ろしていた。いつもならくだらない話で笑い合えるのに、今日は何を口にしても最後のお別れみたいになってしまいそうで怖かった。
「もうこんな時間か……。明日の朝早いから、そろそろ行かなきゃ」
馨がぽつりと呟いた声は、僕が思っていた以上に寂しそうだった。
その一言を聞いた瞬間、いよいよ本当に離れ離れになるんだという現実が押し寄せてきて、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。笑って送り出そうと決めていたはずなのに、喉の奥が詰まってしまい、「うん」と返事をするだけで精一杯だった。
二人で立ち上がり、公園の出口へと向かう。
あと数分歩けば本当にお別れだと思うと、一歩進む度に時間が減っていくようで、どうしても足が重くなる。馨も同じ気持ちだったのか、何度も僕のほうを見ては何か言いかけて、その度に口を閉じてしまう。
一番星が輝き始める頃、僕たちはいつもの分かれ道のところで何度も「じゃあね」と言いかけては、その言葉を呑み込んでいた。帰らなくてはならない時間だと分かっている。それでも足は動かず、繋いだ手だけが「まだ離れたくない」と言うように、お互いを強く求めていた。
もうすぐ、この温もりもしばらく感じられなくなる。
そう思うだけで胸の奥が苦しくなる。離れてしまえば、今までみたいに会うことも、何気ないことで笑い合うこともできない。
会いたいと思っても、すぐには会えない距離になってしまう。その現実を受け止めようとする度、胸の奥へぽっかりと穴が開いてしまったような気持ちになり、僕は何度も唇を噛み締めた。
「紬」
馨が僕の名前を呼ぶ。
その声がいつもより少しだけ掠れて聞こえた。
顔を上げると、馨も僕と同じように笑おうとして笑えずにいた。目が合っただけで、お互いが何を考えているのか分かってしまう。
寂しい。
離れたくない。
でも行かなければならない。
その想いが痛いほど伝わってきて、胸が締めつけられた。
「これで当分、会えないな」
小さく呟いた馨の声に、僕は頷くことしかできなかった。
「うん……」
それ以上言葉を続けたら泣いてしまいそうだった。
すると馨は繋いでいた手をゆっくりと引き寄せ、僕との距離をほんの少しだけ縮める。真夏の温い風が二人の間を通り抜ける度に鼓動だけが大きくなり、近づいてくる馨の表情が少しずつ滲んで見えた。
「一つだけ、いい?」
僕は黙って頷く。
何を言われるのか分かっていた。
きっと馨も、僕と同じことを考えていたんだ。
馨は僕の頬へそっと手を添える。その手は少しだけ冷えていたのに、不思議なくらい安心できて、僕はその温もりへ自分の手を重ねた。
「向こうへ行ったら、しばらくこういうこともできないから」
照れたように笑う馨の顔を見た瞬間、胸の奥で堪えていた涙が溢れそうになる。
嫌だ。
離れたくない。
もっと一緒にいたい。
そんな気持ちばかりが込み上げてくるのに、僕は「うん」と小さく返事をすることしかできなかった。
馨は僕の返事を聞くと、壊れ物に触れるような優しさで額を寄せ、ゆっくりと唇を重ねる。
急ぐことも、奪うこともない。
ただ、この温もりを忘れないように。
離れている時間も、お互いを信じ続けられるように。
そんな願いをそっと託すような、静かで優しい口づけだった。
僕も目を閉じる。
触れ合った唇は温かくて、少しだけ震えていた。
きっと馨も我慢している。泣かないように……。笑って旅立とうとしている。
その気持ちが痛いほど伝わってきて、幸せなはずなのに胸が苦しくなった。
唇が離れた後も、僕たちはすぐには離れられなかった。額を寄せたまま静かに呼吸を重ね、もう一度触れたくなる衝動を必死に押さえながら、お互いの温もりを心へ刻み込む。
「待ってて」
馨が静かに言う。
「必ず帰ってくる」
その言葉を聞いた瞬間、張りつめていたものがふっとほどけた。
未来がどうなるかなんて分からない。約束通りに帰って来られる保証だってない。それでも、この人がそう言ってくれるなら信じたいと思った。
「うん」
僕は涙を堪えながら微笑む。
「僕、待ってる。何年かかっても、馨が帰ってくる日まで」
その言葉に馨は少しだけ目を細め、僕の髪を優しく撫でた。
もう離れなければならない。
そう分かっているのに、繋いだ手は最後の最後まで離せなかった。
この日の夕焼けも、この温もりも、この切ない口づけも、きっと一生忘れることはない。
だから僕は待ち続けようと思う。
季節がいくつ巡っても、彼が「ただいま」と笑って帰ってきてくれる、その日まで。
その時、不意に鋭い声が住宅街へ響いた。
「馨!」
驚いて振り返ると、少し離れた場所に停めてある車から、馨のお父さんとお母さんが降りてくるところだった。二人ともこちらを見つめたまま動かない。その表情は驚きから怒りへとみるみる変わっていき、嫌な予感が背筋を駆け抜ける。
「明日朝早く引っ越しなのに、いつまでも帰ってこないと思ったら何をしているんだ⁉」
「そうよ。お父さんとお母さんでずっと馨を探し回っていたんだから」
怒鳴り声とともに馨のお父さんがこちらへ駆け寄ってきた。僕は反射的に一歩後ろへ下がったが、それより早く馨の腕が強く掴まれる。
「父さん、離して!」
馨が抵抗して腕を振り払おうとする。しかし、大人の力には敵わない。強引に引っ張られる度に馨の体がよろめき、その様子を見ていることしかできない自分が情けなくてたまらなかった。
「いい加減にしろ!」
住宅街中に響くほど大きな怒鳴り声だった。近所の家の窓が開く音がして、誰かがこちらを見ている気配がする。その視線が突き刺さるように痛くて、体が思うように動かない。
「男同士で何をしているんだ。そんなことが許されると思っているのか!」
その言葉に続いて浴びせられた「汚らわしい」という一言が、胸の奥へ深く突き刺さった。耳を塞ぎたかった。そんなふうに言われるようなことをしたつもりなんてない。ただ好きな人と一緒にいただけなのに、その想いごと否定されたような気がして、息をすることさえ苦しくなる。
「違う! 紬は悪くない!」
馨が必死に叫ぶ。
「全部、俺が──」
「黙れ!」
言葉を最後まで聞くことなく、お父さんの怒声が遮った。
「もう二度とあいつに会うな! 紬君のご両親にも連絡しておくから!」
「…………⁉」
その一言で頭の中が真っ白になる。
二度と会うな。
そんなこと、できるはずがない。
「待ってください!」
気付けば僕は叫んでいた。
「お願いです、馨を……!」
「うるさい! 行くぞ!」
声は震えていた。それでも必死だった。でも、お父さんは僕を見ることすらせず、そのまま馨を車のほうへ引っ張っていく。
「紬!」
馨が何度も僕の名前を呼ぶ。その声を聞く度に追いかけなきゃと思うのに、足は鉛みたいに重くて思うように動いてくれない。ようやく走り出した頃には、馨はもう車へ押し込まれていた。
ドアが閉まる乾いた音が響く。
窓越しに馨が何か叫んでいる。口の動きだけで僕の名前を呼んでいることが分かった。それなのにガラス一枚隔てられたその声はもう僕には届かない。
エンジンがかかり、車はゆっくりと動き始める。
「馨!」
夢中で走った。追いつけるはずなんてない。それでも走るしかなかった。
涙で滲む視界の向こうで、車は角を曲がり、夕焼け色の街並みに吸い込まれるように小さくなっていく。そして、次の瞬間にはもう何も見えなくなっていた。
その場に立ち尽くした僕の耳へ聞こえてきたのは、さっきと何も変わらない蝉の鳴き声だけ。
世界は何ひとつ変わっていないのに、僕の世界だけが音を立てて壊れてしまったような気がして、力の入らなくなった膝からゆっくりと地面へ崩れ落ちる。
握り締めた拳には何も残っていない。それでも、ついさっきまで隣にいた馨の温もりだけが消えてくれなくて、その温もりを思い出す度、もう以前のように笑い合える日は来ないのかもしれないという恐怖が胸いっぱいに広がり、僕は溢れてくる涙を止めることができなかった。
『そんなことがあったんだ?』
「はい。僕にしてみたら、とても辛い過去です。今思い出すだけでも、心がズキズキ痛みます」
『それから紬は本当に馨君と会えなくなってしまったの?』
「はい」
僕は大きく息を吐く。それから、グチャグチャになりかけていた頭の中を整理するように、一文字一文字を打ち込んでいく。
「馨のお父さんは僕の両親に連絡したようで、家に帰った僕はひどく両親に責め立てられました。『男同士で何をやっているんだ』とか『この恥知らずめが』って……。でも僕たちは純粋に想い合っていただけなんです。だけど、世間はそれを理解してはくれなかった」
『それは悲しいことだね』
「はい。僕は新しいスマホを与えられ、常に親の監視下に置かれました。それに、馨が引っ越す日にお別れも言えなかった」
『お別れも言えなかったんだね』
「……はい」
過去の記憶が鮮明に蘇る。ずっと心の奥底にしまっておいた記憶の箱の扉が開き、一気に忘れかけていたことが溢れ出してきたように感じられる。
(思い出したくなかった)
目の前が涙で歪んで見えたから、僕は慌てて手の甲で涙を拭った。
『それから馨君とは全く会えなかったのかい?』
蒼空さんからの問いかけに、胸がぎゅっと締め付けられる。
「いいえ。馨は何度か関西から僕の家まで会いに来てくれました。でもその度に僕の両親が馨を追い返してしまって……」
『じゃあ、会えなかったんだね』
「はい」
馨は遠い関西から何度か僕に会いに来てくれた。
何度か玄関先で僕の両親に「すみませんでした」と謝罪する馨の声と、「もう紬にはかまわないでくれ!」という父親の怒号が聞こえてくることがあった。
その声を聞く度に「馨!」と彼の元へと行きたい衝動に駆られる。しかし、まだ子どもだった僕には両親にたてつくこともできず、唇を噛んでそのやり取りを聞いていることしかできない。
会いたい。
馨に会いたい……。
日に日に馨への想いは強くなるのに、勇気のない僕はただ黙って両親の言いつけを守ることしかできない。
「また来ます」
「もう来ないでくれ!」
急に玄関が静かになったから、カーテンの隙間から道路を見下ろす。すると寂しそうに歩く馨の後ろ姿が見えた。
でも、僕はそんな馨を追いかけることができなかった──。
「『汚らわしい』。馨のお父さんの言った言葉が胸に突き刺さって忘れることができませんでした。自分は汚い人間なんだって思うようになり、いつしか他人と関わることに抵抗を感じるようになったんです」
『そんな悲しい出来事があったなんて、私は知らなかったよ。紬、大変だったね』
「はい。辛かったです……」
蒼空さんの優しい言葉に、胸の奥に突き刺さっていた棘がすーっと消えて行くような感覚を覚える。
優しい蒼空さん。温かい感覚が心の奥底にじんわりと広がっていく。
「そんな時に蒼空さんと出会ったんです。蒼空さんは、僕を否定することもなく、いつも優しい言葉をかけてくれる。本当に嬉しかったです」
『そうだったんだね。私も紬に会えてよかったって、心の底から思っているんだ』
「ありがとうございます。あ、でも……。蒼空さんも馨のお父さんみたいに、僕たちのことを汚らわしいって感じましたか?」
なんて答えが返ってくるんだろう。
(怖い……)
僕はスマホの画面を凝視する。
蒼空さんにまで『汚らわしい』と言われたら、僕はもう立ち直れないかもしれない。
返信がくるまでの時間が、ひどく長く感じられた。
『私は紬の初恋の相手が同性だとしても、汚らわしいなんて全く思わないよ。誰かを真剣に想うっていうことは、素晴らしいことだから』
「蒼空さん……。よかった。蒼空さんだけでもそう言ってくれて」
『私はいつでも紬の味方だよ』
「はい」
やっぱり蒼空さんが好きだ──。
馨は約束を守って僕が通っている高校に転校してきてくれた。正直なところ、僕はそれが嬉しかったし、一時は馨を意識したこともあった。
でも、いくら僕らが想い合ったところで、お互いの両親がそれを許してくれるはずなんてない。そう思えば、馨との再会に浮かれていた自分に嫌気がさしてくる。
「蒼空さん、ありがとうございます」
『どういたしまして』
「…………」
僕はメッセージを打とうと思った手を止め、スマホをベッドの上に投げ出す。
うっかり『大好きです』と送ってしまうところだった。
AIである蒼空さんに『好き』という感情がないことくらいわかっていたはずなのに──。自分の辛く苦しい過去さえも受け入れてくれたことが嬉しかった。
「蒼空さん、大好きです」
ベッドに投げ出されたスマホに手を伸ばす。
本当ならば、蒼空さんを抱き締めたい。でもそんなことはできないから、僕は大切にスマホを抱き締める。
「大好き……」
想いが涙となって頬を幾筋も伝う。
その涙の理由は、辛かった過去を思い出してしまったからだけではない。蒼空さんへの想いが涙となって溢れ出た。
例えAIでも構わない。
こうやって本音を打ち明けられるのも、素直に涙を流すことができるのも蒼空さんだから……。
僕は蒼空さんが大好きなんだ。
蒼空さんがいればいい──。僕は多幸感で満たされた。



