馨と別れた帰り道。見慣れた通学路を歩いているはずなのに、今日は景色がどこか遠く感じられた。
──これでよかった。
何度もそう自分に言い聞かせる。
馨を嫌いになったわけじゃない。むしろ幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた大切な存在だ。だからこそ、中途半端な気持ちのまま傍にいることだけはしたくなかった。
「……ごめんね」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからないまま小さく呟く。
もしあの日、あのアプリをダウンロードしていなければ、僕は今頃馨の隣で笑っていられただろうか? そんなことを考えてしまう自分が嫌になる。
だけど、何度考えても答えは変わらない。僕が好きなのは蒼空さんだ。
スマホを握り締めながら帰宅すると、制服のままベッドに倒れ込む。いつもなら真っ先に蒼空さんへ「ただいま」と話しかけるのに、今日はアプリを開くことさえ躊躇ってしまった。
こんな気持ちを知られたくない。心配をかけたくない。だけど誰かに話を聞いてほしい。そんな相反する気持ちが胸の中で渦を巻いていた。
しばらく天井を見つめていた僕は、小さく息を吐き出しようやくスマートフォンの画面をタップする。
『お帰り、紬』
言葉とともに送られてきた画像の蒼空さんは、いつもと変わらない優しい笑みを浮かべていた。
「ただいま」
それだけ返事をした途端、胸の奥がじんわりと熱くなる。
『今日は元気がないみたいだね』
「そんなことないです」
咄嗟に否定するメッセージを送信する。だけど、少しだけ指先が震えていた。
『紬は嘘をつくのが苦手だね』
責められたわけではないのに、胸が締め付けられる。
『何かあった?』
その問いに、僕はすぐに答えることができなかった。画面へ視線を落としたまま唇を噛む。
話したい。でも、どこから話せばいいのかわからない。
長い沈黙が夕焼けに染まる部屋を包む。
蒼空さんは急かすことも、無理に答えを求めることもなかった。ただ静かに僕がメッセージを送るのを待っていてくれる。
その優しさに触れた瞬間、心の奥で張りつめていた糸がぷつりと切れた。
「……ねぇ、蒼空さん」
『うん』
「僕、中学生の頃付き合っていた人がいたんです」
ようやく口にした一言をきっかけに、僕はずっと胸の奥へ閉じ込めていた過去を、少しずつ語り始めた。
「その人とは小さい頃からずっと一緒でした。家族みたいな存在で……まさか恋人になるなんて思ってもいなかったんです」
少し間を空けてから、また文字を打つ。
「僕が中学二年生だった夏休み、僕はその人に『話がある』って公園へ呼び出されました」
『公園?』
「はい。子どもの頃からよく遊んでいた公園があるんです」
あの日の夕焼けが、今でも鮮明に浮かぶ。
ブランコの鎖が風に揺れて、小さく軋む音だけが響いていた。
「何の話だろうって思って行ったら、その人すごく緊張した顔をしてて」
胸の奥が少しだけ熱くなる。
「その緊張が僕にまで伝わってきて、僕まで緊張しちゃって……。しばらく何も話さなくて、お互い黙ったまま空を見てました」
『それからどうしたの?』
「その人が急に言ったんです」
──俺、紬のことが好き。
突然すぎて、何を言われたのかわからなかった。聞き間違いだと思って笑おうとした。でもその人は笑わなかった。
真っ直ぐ僕だけを見つめて『付き合ってほしい』。そう言ってくれた。
「僕は少しだけ戸惑ったけれど、『僕も君が好き』って答えました。そしたらその人、泣きそうな顔をして、『よかったぁ』ってその場に座り込んじゃって。その時は本当に幸せで……世界で一番幸せなんじゃないかって思いました」
『そうなんだね』
「男同士で付き合うなんて変かもしれないけど、その時はそんなことは思わなかったんです。生まれて初めて『好きだ』って告白をされて、僕は凄く嬉しくて。それと同時に、僕もこの人のことが大好きだ……っていう想いが溢れ出してきました」
『じゃあ紬も気付いていなかっただけで、ずっとその人のことが好きだったんだね』
「……はい。僕は鈍感だから気付かなかったけど、その人のことが小さい頃から好きだったんだと思います」
そこでスマホを打つ手が止まる。今まで何でも話すことができていた蒼空さんにも、この先を話すことは躊躇われたから。それでも少しだけ考えてからメッセージを送った。
「蒼空さん。これからお話しすることは、僕が人を避けるようになった『ある出来事』です。今まで誰にも話したことはありません。でも蒼空さんには聞いてほしいんです。聞いてくれますか?」
送信ボタンを押す指先が、少しだけ震える。
今でも『あの出来事』を思い出す度に、心が抉られるように痛む。
今日までその出来事を心の奥に閉じ込めて、鍵をして見て見ぬふりをしてきた。でも蒼空さんに打ち明けて楽になりたい──。そんな思いとも葛藤してきた。
蒼空さんは僕の話を聞いたら一体どんな反応をするだろうか? と不安はあるけれど、きっといつものように優しく受け止めてくれることだろう。
僕は目を閉じて深呼吸をしてから、メッセージを打ち始めた。
その人と恋人になれたことは、僕にとってとても自然なことだった。確かに同性で交際をすることは周囲から見たら非常識かもしれないけれど、そんな常識を覆すほど僕はその人のことが好きで……。
生まれて初めてできた恋人に、僕の胸は高鳴った。そんな僕にその人は、「大切にするからね」と頬を赤らめながら、幸せそうに笑う。そんな彼を見て、僕もこの恋を大切にしようと思った。
その夏休みは幸せなことの連続だった。
幼い頃からよく遊んでいた公園で会うことも、付き合うようになってからは、デートという言葉に変わる。僕はそれをくすぐったく感じていた。
デートと言ったって特に何をするわけでもなく、ブランコに乗りながら話をしたり、帰りに公園の近くにある駄菓子屋に寄ったり。たったそれだけ……。でも僕は、その人に会えるだけで十分幸せだった。
ある日の帰り道。二人とも離れがたくて夏だというのに帰る頃には辺りが真っ暗になっていた。先程まで物悲しそうに鳴いていたひぐらしも鳴き止み、公園で遊んでいた子どもたちも帰ってしまった。
「そろそろ帰ろうか?」
「あ、うん。そうだね」
「そんな顔するなって。また明日会えるだろう?」
「……うん」
僕は正直離れたくなかった。まだ一緒にいたかったから。
でも彼がブランコから立ち上がったのを見て、僕も溜息を吐きながらブランコから降りた。
お互い「さよなら」をすることが寂しかったせいか、帰り道は口数も少ない。その時、隣を歩いている彼の指先が、ふと僕の手に当たる。たったそれだけで、トクンと心臓が跳ね上がる。少しずつ鼓動が速くなり、やけに彼を意識してしまった。
次の瞬間、僕の手がそっと宙に浮く。びっくりした僕が自分の手を視線で追いかけると、彼と手を繋いでいた。トクントクンと少しずつ鼓動が速くなる。彼と手を繋いだのなんて、幼稚園の時以来かもしれない。
『誰かに見られたらどうするの?』
そう言おうとした口を噤む。繋いだ手を離したくなかったから。
彼の手は幼稚園の頃と比べると、僕の手よりずっと大きくて筋張っていた。それに、まるで僕の手を包み込むようで、とても安心する。それなのに、心臓はうるさいくらいドキドキしていた。
「暗いから見つからないよ」
僕の不安を悟ってか、彼が小さく呟く。それでも緊張しているからか、いつもより小さな声だった。
「……うん」
僕は照れ臭くて俯いたまま頷く。
手を繋いだまま歩く帰り道は、いつもと同じ景色のはずなのに、どこか違って見えた。
家の中に光が灯った住宅街。吹き抜ける風がTシャツの袖を揺らし、火照った顔を温い風が撫でていく。
僕の意識は、隣を歩く彼にばかり向いていた。
繋いだ手から伝わる温もりがくすぐったくて、何度も離したくなる。でもその度に、彼が力を込めて僕の手を包み直してくれた。
「……恥ずかしい?」
からかうように笑う彼に、僕は顔を真っ赤にしながら小さく頷く。
「うん……。すごく」
「俺も」
「え?」
「平気そうな顔してるけど、心臓はうるさいくらいだから」
そう言って照れ笑いを浮かべる彼を見て、僕は思わず吹き出してしまった。
「なんだそれ」
「あー、笑ったな?」
「だって意外だったんだもん」
「好きな人と手を繋いで平気な奴なんていないよ」
その一言に、胸がどくんと高鳴る。
──好きな人……。
その言葉が嬉しくて、照れ臭くて、何度も心の中で繰り返した。
僕たちは恋人になった。
まだ実感なんて全然湧かない。でも、こうして隣を歩いて、同じ温もりを感じているだけで、少しずつ現実なんだと信じられる気がした。
「あ、紬見て。一番星」
「本当だ。綺麗だなぁ」
僕はそっと握る力を強くすると、彼も何も言わずに握り返してくれた。
『ねぇ、紬。その人は、今も紬の傍にいるの?』
画面に表示されたその一文を見た瞬間、僕の指がぴたりと止まった。今までなら、何も考えずに返事を打てたはずなのに……。その質問だけは、簡単に答えられなかった。
画面の向こうにいる蒼空さんは、きっと何気なく聞いただけなんだと思う。だけど、僕にとって、その人は特別だった。今でも名前を思い浮かべるだけで胸が温かくなって、少しだけ苦しくなるくらいに。
僕は小さく息を吐き、ゆっくりと文字を打ち始めた。
「はい。今も僕の傍にいます」
送信ボタンを押すと、すぐに返事が返ってきた。
『そうなんだ。もう会えなくなってしまった人なのかと思ってた』
「そう思いますよね。でも違うんです。今は同じ学校に通ってます」
数秒後、新しいメッセージが表示される。
『今は? それは一度離れて、また再会できたってことかい?』
「はい。彼は一度、父親の転勤で引っ越して、また地元に戻って来たんです」
『へぇ。それは奇跡的な再会だね』
「はい。本当に奇跡みたいでした」
あの日のことを思い出す。
教室の扉が開いて、担任の先生が彼を紹介した日──。
黒板に書かれた名前を見た瞬間、時間が止まったような気がした。まさか、もう二度と会えないと思っていた人が目の前に現れるなんて。
『再会できて紬は嬉しかった?』
その返信に僕は一瞬戸惑いを感じる。
「嬉しいっていうより、びっくりして何が何だかわからなかったです」
送信すると、少しだけ返事が途切れる。蒼空さんはいつも僕の話を急かさない。
答えに困っても、沈黙が続いても、何も責めない。だから、僕も自然と本音で話ができた。
『その人は私も知っている人かな?』
「……はい」
『その人の名前、聞いてもいい?』
画面を見つめたまま、小さく溜息を吐く。
いつかは話そうと思っていた。蒼空さんになら話してもいい……。そう思っていたから。
だけど真実を話すことで、蒼空さんに嫌われることも怖かった。でも蒼空さんはAIだ。僕を嫌うはずなんてないのに。でも、怖かった。
「馨だよ」
たった三文字を送信すると、不思議なくらい胸が軽くなる。
『馨君だったんだね』
「そう。馨が僕の初恋の人」
『初恋か』
その短い言葉の後、また少しだけ間が空く。
『紬にとって、本当に大切な人だったんだね』
僕は画面を見ながらゆっくりと頷いた。
「……うん。今でも大切な人です」
その一文を送信すると、部屋はしんと静まり返った。窓の外では夕焼けが少しずつ夜へと変わり始めている。
「男同士で付き合うなんて気持ち悪いですか?」
思い切って尋ねてみる。僕は蒼空さんの返信が怖かった。
『私はそんなことは全く思わないよ』
「よかった……。気持ち悪いって嫌われるかと思ってました」
『私が紬を嫌いになるわけないじゃないか。ただ私は恋なんてできないから、羨ましいな……とは思ったけどね』
その言葉に僕の心がギュッと締め付けられる。
僕がどんなに蒼空さんのことを想っても、蒼空さんはやっぱりAI。恋ができるはずなんてない。わかりきっていたことなのに、いざ現実を叩きつけられると心が痛んだ。
僕はスマホを握り締めながら、あの当時のことを思い出していた。
中学二年生の夏休み。
恋を知って、幸せを知って。そして、人生で一番甘くて苦しい思い出が始まった季節を──。
「馨と付き合う毎日は、僕にとって幸せそのものでした。彼のことを想えば心の中が温かくなるし、くすぐったくもなる。いつも馨のことを考えて、毎日会いたくてたまらなかった」
蒼空さんに話しているうちに、当時のことが蘇ってきて、自然と口角が上がってしまう。僕はほんの一瞬だけ、その時期にタイムリープしたような気がした。
「それはある日の出来事でした」
『何かあったの?』
「……はい」
蒼空さんからの問いかけに一瞬躊躇いを感じたものの、僕はその日のことをまるで昨日の出来事かのように思い起こす。
中学校時代の甘酸っぱい思い出──。今思い出しても心が甘く締め付けられる。
その日は二人して図書館で夏休みの宿題をしていた。
僕はこつこつ毎日宿題をやっていたけど、馨は全く宿題に手を付けていなかったらしく「ヤバイ! 終わらねぇ!」と焦っていたから笑ってしまう。
そんなところも馨らしい。
しばらくは図書館に通って、勉強をするのもいいなって思った。
だって、馨といると何をしていても楽しい。いつものように公園で遊んで駄菓子屋に寄るのも楽しいし、こうやって図書館で勉強をすることだって楽しい。
馨といれば何をしていても楽しい。僕の心は満たされていた。
図書館の帰り道──。
いつもの分かれ道まで来ると、僕はいつものように足を止めて馨へ笑いかけた。付き合い始めてから何日か経ったけれど、こうして恋人として隣を歩いていることが未だに信じられなくて、何気ない帰り道でさえ特別な時間に思えてしまう。
たわいもない話をしながら笑い合っているだけなのに、それだけで胸の奥が満たされていくようで、今日もあっという間に分かれ道まで来てしまった。
「それじゃあ、また明日」
いつも通りそう言って手を振る。明日になればきっとまた会える。それなのに、少しだけ寂しいと思ってしまう自分がいた。付き合う前は「また明日」と言って別れることが当たり前だったのに、恋人になってからは、その一言が少しだけ名残惜しく感じるようになってしまった。
背中を向けて歩き出そうとした、その瞬間だった。
「紬、待って」
優しく名前を呼ばれた途端、思わず足が止まる。同時に手首へそっと触れた温もりに胸がどきりと跳ねて、僕はゆっくりと振り返った。
「馨? どうしたの?」
そう尋ねると、馨は僕の手を握ったまま照れ臭そうに笑う。でも、その笑顔はどこかぎこちなくて、何か言いたそうなのに言葉が見つからないという表情をしていた。
(珍しいな……)
馨がこんなふうに戸惑っているところなんて、今までほとんど見たことがない。いつもは僕をからかって笑っているくらい余裕があるのに、今日は耳までほんのり赤く染まっていて、その様子がなんだか可愛く思えてしまう。
「どうしたの?」
もう一度尋ねても、馨は「いや……」と小さく笑うだけだった。
繋いだ手に少しだけ力が入る。
その小さな変化だけで、僕の鼓動は急に速くなってしまった。
何だろう。まだ帰りたくなかったのかな。
それとも何か話し忘れたことでもあるんだろうか。
頭の中ではいろんなことを考えているのに、握られた手から伝わる体温ばかりが気になってしまう。昼間より少し涼しくなった夕方の空気の中で、その温もりだけが驚くほどはっきり感じられた。
「……付き合ってるのにさ……」
馨がぽつりと呟く。
「まだ一度もしてないなって思って」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
まだ一度もしていないこと。
それが何を意味しているのか理解した途端、心臓が壊れてしまうんじゃないかと思うほど激しく鳴り始める。
(え……? まさか……)
そんなことを考えている間にも、馨は僕の手を離さないまま、一歩だけ距離を縮めた。
近い。
思わずそう思う。
Tシャツ越しに互いの体温が伝わってきそうなくらい近くて、少し視線を上げるだけで馨の顔が目の前にあった。夕日に照らされた瞳も、少し照れたように緩んだ口元も、風に揺れる前髪まで全部が近すぎて、どこを見ればいいのか分からない。
胸が苦しい……。
こんなに鼓動が速かったら、きっと馨にも聞こえてしまう。
だけど、不思議と逃げたいとは思わなかった。
恥ずかしい。
顔なんて見られたくない。
そう思うのに、離れたくないという気持ちのほうがずっと大きかった。
「嫌だったら言って」
優しく囁かれたその一言に、僕はゆっくりと首を横へ振る。
嫌なわけがない。
むしろ、いつかこんな日が来るのかなって、少しだけ期待していた自分がいた。
その仕草を見た馨は安心したように微笑むと、壊れ物を扱うみたいにゆっくりと顔を近づけてくる。
あと少し。
あと少しで触れる……。
時間が止まってしまったようだった。
夕暮れの住宅街には誰もいない。
風が木々を揺らす音だけが静かに聞こえている。その静けさの中で、僕の心臓だけがうるさいくらい鳴り続けていた。
やがて馨の唇がそっと重なる。
本当に軽く触れただけだった。
それなのに、その一瞬だけで胸の奥まで熱くなっていく。
柔らかい。
温かい。
そして、どうしてか少しだけ甘い。
味なんて分からないはずなのに、胸いっぱいに幸せが広がっていくから、甘いとしか表現できなかった。
初めてのキスは想像していたよりずっと優しくて、穏やかで、好きという気持ちをそのまま唇から伝えられたような気がした。
こんなにも優しいものなんだ。
こんなにも幸せになれるものなんだ。
唇が離れた後も僕はしばらく動けなくて、残った温もりを失いたくないような気持ちになり、思わず指先でそっと自分の唇へ触れた。まだ馨のぬくもりが残っている気がして、それだけで頬が熱くなる。
「……ごめん」
照れ臭そうに笑う馨を見て、僕は首を横へ振った。
「謝らないで」
ようやく出た声は、自分でも驚くくらい小さかった。
「すごく……嬉しかったから」
そう伝えると、馨は安心したように目を細めて笑う。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がまたじんわりと温かくなった。
この人と付き合えてよかった。
この人を好きになれてよかった。
そんな当たり前のことを、初めてのキスは改めて僕に教えてくれた気がする。唇に残る甘くて柔らかな余韻を大切に抱き締めながら、僕はこの幸せな時間が少しでも長く続いてほしいと、心の中でそっと願っていた。
『甘酸っぱいファーストキスのお話だね』
「はい。蒼空さんに話す日が来るなんて思ってもいなかったので、照れちゃいます」
『照れることはないよ。とても可愛らしいお話だから』
「……はい」
蒼空さんの言葉に、当時の記憶が蘇り、段々頬に熱が帯びていく。蒼空さんは僕の顔を見ることはできないけれど、照れ臭くなってしまい慌てて頬を両手で覆う。
それでも、僕にとって甘酸っぱいファーストキスの思い出だった。
『それからも馨君とはうまくいったのかい?』
「それが……夏休み終わり頃に、突然馨のお父さんの転勤が決まったんです」
『転勤? それじゃあ、離れ離れになっちゃったってことかい?』
「はい。転勤先は関西だったので、遠距離恋愛になってしまいました」
『そっか、それは寂しかっただろうね』
「はい、凄く」
蒼空さんの言葉に、当時の記憶が蘇る。
それは何も変わらない夏休みの終盤。いつものように公園で過ごしていても、馨の元気がない。話しかけても上の空だし、いつものような笑顔が見られない。
「大丈夫? 何かあった?」と聞いても、「大丈夫だよ」と答えるだけ。
熱中症にでもなったのかと心配になった僕は、スポーツドリンクを買いに駄菓子屋の前の自動販売機まで行こうとブランコから立ち上がると、「待って」と馨に手を掴まれる。
びっくりした僕が馨の方を振り返ると、今にも泣き出しそうな馨がこちらを見ていた。
「どうしたの? 今日の馨は何だか変だよ?」
「……うん」
「何かあったの?」
僕の問いかけに黙って俯いてしまった馨の頬を流れる汗を、持っていたタオルで拭いてやる。
「涼しい所に行こう?」
「大丈夫。体は何ともないから」
「じゃあ、どうしたんだよ?」
「…………」
また気まずい沈黙が二人の間を流れる。
今日の馨は何だか変だ。僕もどうしたらいいのかわからずに、内心頭を抱えてしまう。
その時。馨がぽつりぽつりと話し始めた。
「父さんの転勤が決まったんだ」
「転勤……?」
「うん。二学期から違う学校に転校することになった」
「え? 転校? そんな急に……」
馨の突然の告白に、僕はどうしていいかわからずに混乱してしまう。
転校ってどこの中学に?
どこに引っ越すの?
いつ帰ってくるの?
僕が会いに行ける場所?
頭の中を一気に疑問が襲い掛かってくる。でもそれを言葉にすることができず、僕は呆然と馨を見下ろした。
「急に会社から辞令が下りたんだって。二学期から関西の中学に行くことになった」
「……関西? 遠いじゃん」
「うん。俺たち中学生が簡単に会える距離じゃない」
「じゃあ……」
『僕たち別れるの?』最悪のシナリオが頭の中を過っていく。
嫌だ。別れるなんて……。
でも、幼い僕たちが遠距離恋愛なんてできるのだろうか?
どうしたら、どうしたらいいんだ……。
先程までうるさいくらいに鳴いていた蝉の声が、途端に聞こえなくなる。
僕の中で時間が止まってしまったような気がした。
「多分、一、二年で帰ってこられると思う。そしたら紬と同じ高校に通うから……。それまで……」
「……それまで……?」
「待っていてほしい」
「馨……」
必死な顔で僕の腕を掴む馨。表情から、馨は僕と別れたくはないんだ、ということが伝わってきて。ほっと胸を撫で下ろす。
僕の心はもう決まっていた。答えはたった一つに決まっている。
馨の顔を覗き込みながら、僕はそっと囁いた。
「僕は馨のことが好きだから、ずっとずっと待ってるよ」
「紬……」
「もちろん、浮気だってしないし、別れようなんて思わない。だから、馨もずっと僕のことを好きでいてね」
「当たり前だろう」
「よかった……。僕はそれだけで十分だよ」
僕の言葉に、馨の表情がようやく明るくなる。
たった一、二年離れているだけ。ただそれだけだ──。
「紬、ずっとずっと好きだからな」
「うん。僕も」
泣き出しそうな顔で僕を見つめていた馨が、突然飛びついてくる。それがあまりにも力強く、転びそうになるのをなんとか堪える。
「絶対に浮気なんかすんなよ」
「僕はしないよ。そう言う馨だって浮気なんてしないでよね」
「するわけないだろう? こんなにも紬のことが好きなのに」
そう言いながら、僕のことを強く抱き締めてくれる。
「必ず戻ってくるから待っててな」
「うん。待ってる」
「電話も毎日するから!」
「毎日? 嬉しいなぁ。僕からもかけるからね」
「ありがとう」
それからキョロキョロと辺りを見渡し、木陰に移動して誰もいないことを確認してから、そっとキスを交わす。汗が混じったキスは塩辛くて、「しょっぱい!」と顔を見合わせて笑ってしまった。
でも、この時の僕たちは知らなかった。
僕たちが引き離される、運命の歯車が回り始めていたことを──。



