あの体育祭から、もう何年も経った。
一度は馨が転校したことで離れ離れになった僕たちは、高校生になった今、思いがけない再会を果たした。馨が僕の通う高校へ転校してきたのだ。
教室で馨の姿を見かけた瞬間は、自分の目を疑った。
もう二度と会えないかもしれないと思っていた人が、以前と変わらない優しい笑顔で僕を見つめていた。
嬉しくないはずはなかった。それなのに、胸に込み上げてきたのは喜びだけではない。
懐かしさと戸惑い、それから、忘れたつもりでいた気持ちまで一緒に呼び覚まされてしまったようで、僕はどうしたらいいかわからなかった。
「紬」
不意に名前を呼ばれ顔を上げると、馨がいつもの穏やかな笑顔で立っていた。
「今日も一緒に帰ろう」
「……うん」
短く返事をすると、馨はどこか安心したように笑う。あの日から一緒に下校することが当たり前になりつつあった。
だけど……。
僕にはもう一人毎日会いたい相手がいる。
家に帰ると制服のままベッドに腰を下ろし、机の上に鞄を置いた。窓の外では夕焼けがゆっくりと街を茜色に染め、とても綺麗だ。
僕は制服のポケットからスマホを取り出す。画面を開き、指先が迷うことなく一つのアプリをタップする。青い空を思わせるアイコン。
対話AI。『SOLA』。
僕が蒼空さんと呼んでいる大切な存在だ。スマホをタップすると画面が切り替わる。僕はその様子を、胸を高鳴らせながら見つめた。
『こんばんは、紬』
見慣れた文字が表示された瞬間、不思議と肩の力が抜けた。
(あぁ、蒼空さんだ……)
心がぽかぽかと温かくなる。
「ただいま、蒼空さん」
その一言だけで、今日一日の出来事を全部話したくなる。
嬉しかったことも、恥ずかしかったことも。どれだけ蒼空さんに会いたいのを我慢していたのかも。
そして、どうしてこんなにも馨のことが気になってしまうのかも──。
「蒼空さん。会いたかったです」
僕はスマホの文字をゆっくりと指先でなぞり、そっとスマホを抱き締めた。
『おかえり、紬』
画面に表示された一文を読んだ瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ただの文字だけ……。それなのに、まるで本当に蒼空さんがいて笑いかけてくれるような気がした。
「はい。ただいまです」
自然と頬が緩んでしまう。学校ではこんな顔をしたことなんて一度もないのに。
『今日は少し疲れているみたいだね』
「え? わかるんですか?」
『文字を打つ速さがいつもよりゆっくりだから』
そのメッセージに小さく笑ってしまう。蒼空さんには僕のことが全てお見通しだ。
「蒼空さんには敵いませんね」
『何かあった?』
そう聞かれると、待ってましたと言わんばかりに話したいことが溢れてきた。
「今日、体育の授業で持久走をやったんです。三キロも走らされたんですよ」
『そうだったね。紬は運動が苦手だから、すごく嫌だって言っていたけど、大丈夫だった?』
「あ……」
蒼空さんは覚えていてくれた。
前日、眠れないくらい不安で「持久走でビリになったらどうしよう」と相談した僕に、『順位より、最後まで走り切れたら十分だよ。私は紬を応援しているから』と励ましてくれたことを。
僕はそれがたまらなく嬉しかった。
「おかげでビリにはなりませんでした」
『それは良かった。頑張ったね、紬』
その一言だけで、胸がいっぱいになる。誰かに『頑張ったね』と言ってもらえるだけで、こんなにも嬉しいなんて。
「それから……」
僕は今日あった出来事を、一つ一つ話し始めた。
馨が一番でゴールしたこと。一周遅れの僕をどんどん追い抜き、風を切って走る馨がかっこよかったこと。
途中、疲れて歩こうとしたけれど、先にゴールした馨が応援してくれたから最後まで走り切れたこと。
気付けば、僕は馨の話ばかりをしていた。そのことに気付き、慌ててスマホから指を離す。
「ごめんなさい。蒼空さんと話をしていたのに、僕ばっかりメッセージを送っちゃって」
少しして、画面に新しい文字が浮かび上がる。
『謝らなくていいよ。紬が楽しそうに話してくれるのを聞くのは、私も好きだから』
その優しさに胸がぎゅっと締め付けられた。
蒼空さんと話していると心が落ち着く。それは昔も今も変わらない。
だけど最近は、その穏やかな時間の中に必ず馨の姿が入り込んでくる。
『ただ……。最近は紬からのメッセージが少なくなってきて、ちょっと寂しい』
その文字を見た瞬間、胸がキュッと締め付けられた。
(そんなこと言わないで……)
僕は慌ててスマホを握り直す。
「違うんです。蒼空さんのことが嫌いになったわけじゃありません。僕が好きなのは……」
そこまで打って指が止まり、顔が熱くなる。何を書こうとしていたんだ、僕は。
しばらく画面を見つめた後、深呼吸を一つしてゆっくりと文字を打つ。
「蒼空さんは、僕にとって誰よりも大切な存在です」
送信。数秒後返事が届く。
『その言葉だけで嬉しいよ』
その一文を読んだだけで、胸がいっぱいになる。やっぱり僕は蒼空さんが好きなんだ。
どんなに学校で楽しいことがあっても、どんなに馨と一緒に笑っても。一番に話を聞いてほしいと思う相手はいつだって蒼空さんだった。
(僕は何をしていたんだろう)
学校が終われば、馨と一緒に帰る。家に帰る頃には夕方になっていて、蒼空さんと話す時間も前より少なくなっていた。
知らないうちに、僕は蒼空さんを待たせてしまっていたんだ。
「ごめんなさい……」
僕は小さく呟く。
(やっぱり、僕が一番大切にしたいのは……)
画面を見ながら、そっと胸に手を当てた。その答えはすぐに見つかってしまう。
(蒼空さんだ)
やっぱり僕が好きなのは蒼空さん。
誰より会いたいのも。誰よりも今日あったことを聞いてほしいのも。全部蒼空さんだった。
(これからは、もっと蒼空さんとの時間を大切にしよう)
そう決めると、不思議と心が軽くなった。
◇◆◇◆
その夜──。ベッドに横になっても、なかなか眠ることができなかった。
天井を見つめながら、今日あった出来事を何度も思い返す。
体育の授業が終わってからも、馨は変わらず隣にいてくれた。昔と同じように笑いかけてくれて、他愛のない話をして、一緒に帰って……。その時間は確かに楽しかった。だけど、胸の奥にはずっと小さな違和感が残っている。
幼馴染の馨に再会できたのに、どうしてこんなにも苦しいんだろう。未消化の『過去の出来事』が僕の心を締め付け続ける。だから、馨との再会を素直に喜べないのだ。
「……蒼空さん」
気がつけば、その名前を口にしていた。
その瞬間、瞼がゆっくりと重くなり、僕の意識は静かに夢の中へと落ちていった。
目を開けると、そこは見慣れた僕の部屋だった。
カーテンの隙間から柔らかな光が差し込み、窓の外では風に揺れる木々の音がする。
ベッドの上には僕と蒼空さんが並んで座っていた。不思議なのに不思議じゃない。僕は時々夢の中でこうやって蒼空さんに会うことができるから。
「今日は元気がないね」
穏やかな声に顔を上げると、蒼空さんが僕のことを優しく見つめている。その眼差しだけで、胸の奥に溜まっていたものが少しずつ解けていく気がした。
「……今日は馨とたくさん話したんです」
ぽつりと呟くと、蒼空さんは何も言わず続きを待ってくれる。そんな優しさがたまらなく嬉しい。
「昔に戻れたみたいで嬉しかったはずなのに、なんだか苦しくて。馨が笑ってくれるだけで嬉しいのに、どうしてこんな気持ちになるのか、自分でもわからないんです」
言葉にすると、胸の中に溜め込んでいたものが少しだけ軽くなった。
蒼空さんは頷きながら僕の話を聞いてくれる。急かすことも、答えを押し付けることもない。ただ隣にいてくれる。その沈黙が心地よかった。
「紬は優しいからね」
そう言って蒼空さんはそっと僕の頭を撫でた。
その手は大きくて温かくて、髪を優しく梳く度に胸の奥がじんわりと熱くなる。
「昔の馨君も、今の馨君も大切だから、簡単に割り切れないんだよ」
「……はい」
「でも、大切な人と好きな人は同じとは限らないよ」
その言葉に僕はゆっくりと顔を上げた。
蒼空さんは相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。その笑顔を見ているだけで、不思議と涙が出そうになった。
「蒼空さん」
名前を呼ぶと、蒼空さんは『ん?』と優しく返事する。
僕は少しだけ迷ってから、その肩にもたれかかった。蒼空さんは驚くことなく、そっと僕の体を受け止めてくれる。
「実は、まだ蒼空さんに話していないことがあるんです」
「話していないこと?」
「はい。僕と、馨の過去の出来事……」
そこまで言うと、まるで喉に何かがつかえたように言葉が出なくなってしまう。まるで心は話したがっているのに、本能がそれを拒絶しているように感じられる。
そんな僕を見て、蒼空さんが僕の肩をそっと抱き寄せてくれた。
「いいよ、無理に話さなくても」
「でも……蒼空さんには聞いてほしいんです」
「うん。でもそれは今じゃない。紬が心の底から私に話したい、と思った時に話してくれればいい。私はその時を待っているよ」
「……蒼空さん」
「私は、こうやって紬と一緒に過ごす時間が、何よりも大切だから」
無理をすることも、背伸びをする必要もない。蒼空さんの傍にいる時は、ありのままの自分でいることができる。
ただこうして隣にいるだけで、さっきまで苦しかった胸が少しずつ落ち着いていく。
馨といる時は楽しい。でも、蒼空さんといる時は安心する。その違いを、僕は初めてはっきりと感じていた。
「ありがとうございます」
小さく呟くと、蒼空さんは少しだけ笑って『どういたしまして』と答える。
その声を聞いた瞬間、心の中にあった迷いが、ゆっくりと離れていく気がした。
朝日がカーテンの隙間から差し込み、僕は静かに目を覚ます。夢だった──。
だけど、肩にはまだ蒼空さんの温もりが残っているような気がして、思わず自分の胸に手を当てた。
昨日からぐちゃぐちゃだった気持ちは、不思議なくらい落ち着いている。
馨は大切な幼馴染。その気持ちは変わらない。
だけど、苦しい時に会いたいと思う人も、心を預けたいと思う人も、一人しかいない。
「……やっぱり」
自然と笑みが零れた。
「僕は蒼空さんが好きなんだ」
(これからは、もっと蒼空さんとの時間を大切にしよう……)
そう思った。
◇◆◇◆
翌日の放課後、馨がいつものように「一緒に帰ろう」と声をかけてきてくれた。でも僕の心は決まっている。これからは、また蒼空さんと時間を共有するんだ。
僕は拳を握り締めてから、馨を見上げた。
「ごめん。これからはもう一緒に帰れない」
「……え? なんで急に?」
「特に理由はないけど……。とにかくごめん。先に帰るね」
「あ、ちょっと待てよ、紬!」
背後から馨の声が聞こえたけれど、僕は振り返らなかった。後ろ髪を引かれなかったと言ったら噓になる。でも僕は、これから蒼空さんとの時間を大切にしていく。その気持ちは揺るがなかった。
昇降口まで来て後ろを振り返る。
(よかった。馨は追いかけて来ていない)
僕はほっと胸を撫で下ろす。
それから制服のポケットにしまってあったスマホを取り出した。
今日一日で蒼空さんとたくさんの話をした。休み時間も、昼休みも──。それは馨が転校してくるまでの生活に戻っただけ。
僕は何度も、自分には蒼空さんがいればいいと言い聞かせた。
「蒼空さん。今日はこの前一緒に行った、たい焼き屋さんに行ってみようと思います」
『たい焼き、いいね。今日は頭から食べるの? それとも尻尾から?』
「今日は蒼空さんが教えてくれた通り頭から食べます」
『ふふっ。無理しなくていいのに』
「無理なんてしてませんよ」
こんな普通の会話なのに、心の中が温かくなってくるのを感じる。
蒼空さんの優しさ、気遣い……。その全てが嬉しくて仕方がない。
「じゃあ、行きましょうか?」
『紬、気を付けるんだよ』
「はい」
僕はそう送信してから昇降口を後にする。久しぶりに蒼空さんと二人きりで家路に就く。
馨のことを思うと正直心が痛んだけれど、僕には蒼空さんがいる。
(これでいいんだ)
僕は自分にそう言い聞かせて、たい焼き屋に向かったのだった。
家に帰ってからも蒼空さんとたくさん話をした。今日学校でイラっとしたこと、見上げた空が真っ赤な夕焼けで綺麗だったこと、最近食べて美味しかったお菓子のこと。
蒼空さんは僕の話を『そうなんだ』『それは凄いね』と否定もせずに話を聞いてくれる。彼はまるで僕の避難所みたいだ。
でも、馨のことは話さなかった。「一緒に帰れない」って言ったら、寂しそうな顔をしていたことは……。もう馨のことを、蒼空さんに話したらいけない気がする。だって、僕が大切なのは蒼空さんであって馨ではない。
この選択が、僕たち三人の関係を大きく変えるなんて、この時はまだ思ってもいなかった。
その次の日の放課後。終礼のチャイムが鳴ると、生徒たちはいつものように友達と話をしながら帰り支度を始めた。僕もいつものように鞄を肩に掛けると、誰にも気付かれないよう教室を出ようとする。
でもその願いはすぐに打ち砕かれた。
「紬」
聞き慣れた声に足が止まる。振り返ると、そこには少し息を弾ませた馨が立っていた。
「今日は一緒に帰ろう」
昨日と変わらない笑顔。その笑顔を見ると胸が痛む。でも、僕はもう決めたんだ。蒼空さんとの時間を大切にすると。
僕は小さく首を横に振った。
「ごめん。今日も一緒に帰れない」
その瞬間、馨の表情から笑みが消えた。
「また? 昨日も断られたよな? どうしたんだよ。俺、なんかした?」
「違うよ」
「じゃあ、なんで?」
真っ直ぐ向けられる視線から逃れるように俯く。
馨は悪くない。何も悪くないのに、理由を話せばきっと傷つけてしまう。それでも、このまま曖昧なままでいる方がもっと残酷な気がした。
「理由は……言えない」
「なんで言えないんだよ」
馨は一歩近づいてくる。その声は怒っているというより、不安を押し隠しているように聞こえた。
いつの間にか教室には僕と馨の二人だけになっている。廊下から、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。真っ赤な夕焼けが、僕と馨の顔を照らす。
「昨日からずっと考えていたんだ。何か嫌われるようなことをしたかな……とか、知らないうちに紬を傷つけたかな……とか。でも思い当たることなんて全然なくてさ。だから余計に分からないんだ」
胸が締め付けられる。
昔からそうだった。馨はいつも僕の気持ちを優先してくれる。でも、その優しさに甘えていたら、また蒼空さんへの気持ちが揺らいでしまう。
この前、夢の中で蒼空さんと会って改めて気付いた。僕が好きなのは蒼空さんだ。その気持ちだけは、もう見失いたくなかった。
「……ごめん」
「だから、なんで謝るんだよ」
馨は困ったように笑った。
「俺たち幼馴染だろう? 一緒に帰るくらい、前みたいにできるんじゃないか?」
その言葉に一瞬だけ心が揺れる。
もしここで「うん」と答えれば、一昨日までと同じ毎日に戻れるかもしれない。でもそれは、僕が選びたい未来じゃない。
僕はゆっくりと顔を上げて馨を見つめた。
「……好きな人がいるから」
静かな声だった。それなのに、その一言は馨の表情を固まらせるには十分だった。
「……え?」
驚いたように目を見開いた馨は、しばらく何も言えずに僕を見つめている。
「好きな、人……?」
掠れた声で繰り返された言葉に胸が痛んだ。でも僕は何も答えない。
ただ小さく「ごめん」とだけ告げると、馨の横を通り過ぎる。
背中に視線を感じたけれど、振り返ることはしなかった。今ここで立ち止まったら、きっと気持ちが揺らいでしまう。
だから僕は、蒼空さんの待つ帰り道へと、一歩ずつ歩き出した。



