桜の花が満開に咲く春。
真新しい制服に袖を通した僕は、少しだけ緊張しながら中学校の校門をくぐった。
小学校とは違う校舎。見慣れない制服。少し大人びた先輩たち。
期待よりも、不安のほうが大きかった。だけど、僕は一人じゃない。
「紬、こっち」
人ごみの向こうから手を振る馨を見つけた瞬間、不思議と肩の力が抜ける。
馨は小学校の頃よりさらに頭一つ分くらい背が伸びていた。少し癖のある髪が風に揺れ、真新しい制服が驚くほど似合っている。
僕は一瞬見惚れてしまった。
(馨ってこんなにかっこよかったんだ)
自分に向かって手招きをする馨の傍に駆け寄る。
「クラス別々だな」
「えー、一緒がよかったのに」
「でも、これからも一緒に登下校しような?」
「部活が始まっても一緒に登下校できるかな?」
「できるよ。俺は紬が部活終わるのを待ってるし、紬も俺の部活が終わるのを待っててよ」
「わかった」
この約束はいつになっても変わらない。
馨は身長も高いし運動神経もいいからバスケ部に入部するって言っていた。
「紬は何部に入るの?」
「まだ決めてないんだ。どうしよう……」
「運動部に入れよ。紬はもっと体力つけたほうがいいって」
「えぇ……運動部かぁ……」
「バドミントン部、先輩が優しくていいらしいぞ」
「じゃあ見学だけ行ってみようかな?」
ほんの少しだけ、歩く方向が変わってきた僕と馨。でも『一緒に登下校しよう』という約束だけは変わらない。僕は、その馨の気持ちが嬉しかった。
これから始まる中学校生活。この時の僕は、『あんな出来事』が起こるなんて思ってもいなかった。
そして僕は結局バドミントン部、馨はバスケ部に入部し、新しい生活が始まった。
中学校は小学校とは全然違う世界だった。制服である学ランは窮屈だし、勉強も急に難しくなる。先生も怖そうだ。新しいことばかりの連続に、僕は早くも負けてしまいそうになる。
それでも馨と一緒に登下校する時間が、僕にとっての救いだった。
馨は世話好きだから、疲れきった僕をすぐに気にかけてくれる。
「紬、中学校生活大変?」
そんな優しい言葉が心に染みる。馨の前だとつい弱音を吐いてしまうのだ。
「うん。勉強も急に難しくなったし、部活も大変だし……。いっぱいいっぱいって感じだよ」
「そっか……。でも紬は頑張ってるじゃん」
「本当?」
「うん。だって紬は運動が得意じゃないのに部活だって頑張ってるし、勉強だって頑張ってるじゃん」
「え? なんで知ってるの?」
「実は、時々部活の休憩中に、バドミントン部で練習してる紬を見に行ってる」
「え?」
「それから授業が早く終わった時には、紬のクラスを覗いているし。俺、こう見えても、紬を遠くから応援してるんだよ」
「知らなかった……」
何故だか妙にドキドキと胸の音が騒がしい。
「あ、ストーカーじゃないからな⁉」
「あははは! わかってるよ」
馨が慌てて両手を顔の前で振るものだから可笑しくなって、つい吹き出してしまう。
でも、そんな風に僕のことを心配して、遠くから見守ってくれていることが僕は嬉しかった。
心の中が、じんわりと温かい。離れていても、馨がすぐ傍にいるように感じられた。
それに、こうやって変わらず登下校も一緒だ。
中学校に入って目まぐるしく生活は変わったけれど、変わらないものがここにある。僕はようやく一息つくことができたような気がする。
家に帰ってからも、制服姿の馨の顔が頭に浮かんでくる。
あんな風にドキドキした理由が僕にはわからなかった。
◇◆◇◆
放課後。
いつものように馨と待ち合わせをして一緒に帰る。
その日は部活がなく、馨のクラスで体育祭の実行委員を決める日だったようで、少しだけ遅れて昇降口にやって来た。
「ごめん、待った?」
そう言いながら走ってくる馨。
バスケ部に入部し、逞しくなってきた体が夕日に照らされて、制服のシャツを腕まくりした姿が妙に眩しい。
「ううん。大丈夫だよ」
「結局、体育祭の実行委員を押し付けられちゃったよ」
「あははは! 馨は運動神経がいいから、みんなに目をつけられてたのかもね」
「あー、入学早々面倒くさい」
その時、女子生徒の話し声が聞こえてきた。
「瀬名君ってかっこいいよね」
「バスケ部のエース候補なんだって」
「彼女いるのかな?」
「あんだけかっこよければいるんじゃない?」
「えー、あたし告白しようか悩んでたのにぃ!」
その言葉を聞いた瞬間、胸がざわつく。
(なんで……?)
今までそんなこと気にしたことなんてなかったのに。馨に彼女ができるかもしれない。その光景を想像しただけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
(嫌だ……)
どうしてそう思ったのか、自分でもわからなかった。
「紬?」
そんなことを考えていた僕を馨が覗き込む。
(きょ、距離が近い……)
思わず顔が熱くなるし、鼓動まで速くなってきてしまった。
「顔が赤いけど大丈夫?」
額にそっと馨の手が触れる。その瞬間──。心臓が壊れそうなくらい高鳴った。
「だ、大丈夫だよ。なんでもない」
僕は恥ずかしさをごまかすように、そっと馨の手から逃れた。こんな思いを抱いていることを、絶対に馨に知られたくない。僕は精一杯、冷静を装った。
「ならいいけど……」
「いいから帰ろう」
「あ、うん」
僕は女子生徒たちの視線から逃げるように、その場を立ち去る。だけど、胸の高鳴りだけは家へ帰るまでずっと治まらなかった。
ゴールデンウィークが終わる頃になると、校内は少しずつ体育祭ムードに包まれ始めた。
昼休みになると実行委員の生徒たちが慌ただしく廊下を行き交い、放課後はあちこちの教室から打ち合わせをする声が聞こえてくる。
その中にはもちろん馨の姿もあった。
クラスの実行委員になった馨は、毎日のように先生に呼ばれたり、他の生徒たちと話し合ったりしていて、放課後もなかなか帰れない。
「ごめん、待たせちゃった」
昇降口までやってきた馨が申し訳なさそうに笑う。
「ううん。大丈夫だよ」
そう答えながらも、一人で馨を待つ時間が少しだけ長くなったことを、僕は少しだけ寂しく感じていた。
それからいつものように肩を並べて家路に就く。
「紬は体育祭の競技、何に出るの?」
「大縄跳びと百メートル走だけ。僕みたいに運動神経のない奴は、大縄跳びくらいしか出場できないよ。馨は選抜のリレーに出るんでしょ?」
「うん。一応選手に選ばれたから」
「馨は凄いなぁ。運動神経がいいって本当に憧れるもん」
「そんなことないよ。クラスは違うけど、俺は紬のことを応援してるからさ」
「あ、ありがとう……」
その言葉に心臓がひとつトクンと跳ね上がる。顔が火照ってきたから、慌てて下を向いた。
最近の僕は何だか変だ。妙に馨を意識してしまって、以前のように普通に接することができない。
女子生徒が馨の話をしているだけで胸がざわつく。理由はわからない。それでも、この胸のざわめきは日に日に大きくなっている。
原因もわからないまま、体育祭はどんどん近づいていった。
体育祭当日。
朝から雲ひとつない快晴だった。
校庭には赤や青、黄色の応援旗が並び、スピーカーからは軽快な音楽が流れている。体育祭はクラスがばらばらになるようにチームを組むことになっていて、僕は赤組で、馨は青組だ。
赤組のメンバーは「絶対に優勝するぞ!」「選抜のリレー頑張れよ!」と朝から大盛り上がり。そんな賑やかな空気の中で、僕は一人の姿を探していた。
「あ、いた」
グラウンドの中央では、実行委員になった馨が先生と話をしながら慌ただしく走り回っている。実行委員の腕章をつけたその姿は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
クラスのみんなに声をかけられ、笑顔で答える馨。そんな姿を見る度に、胸の奥がむず痒くなる。
(なんでだろう)
馨を見ていると、やっぱり胸が落ち着かなくなる。それに、馨がどんどん自分の傍から離れていってしまっているように感じられた。
「瀬名くーん!」
三年の女子の先輩たちが手を振ると、馨は照れ臭そうに笑って軽く会釈をする。その笑顔を見た瞬間、今度は胸の奥がチクリと痛んだ。
(本当になんなんだよ)
僕は無意識に体操服の胸の辺りをギュッと手で握り締める。
自分でも理由がわからないまま、僕はもう一度馨の背中を目で追っていた。
開会式が始まると、全校生徒が各色ごとに校庭に整列した。
五月とは思えない日差しが照り付け、じっと立っているだけで額に汗が滲む。校長先生の話は相変わらず長くて、前の列では欠伸を嚙み殺している生徒もいた。
僕もぼんやりと話を聞きながら、つい視線だけは実行委員の列へ向けてしまう。
腕章をつけた馨は、真剣な表情で先生の指示を聞いていた。
選手宣誓が終わると、大きな拍手が校庭に響いた。
ラジオ体操を終えた生徒たちは、一斉に応援席へと戻っていく。運動が苦手な僕は、今日一日をなんとかやり過ごすことだけで頭がいっぱいだ。こういう時に、運動神経のいい人を見ると、つい羨ましくなってしまう。
グランドには白線が引かれ、先生たちが慌ただしく競技の準備を始めていた。
開会式が終わると、いよいよ競技が始まる。プログラムを開くと、一番最初に書かれていたのは一年男子百メートル走だった。
僕は思わず小さく溜息をつく。
(どうかビリにだけはなりませんように……)
そう心の中で祈った。
『一年生男子は、入場門へ集まってください』
放送が流れると、あちらこちらから「行ってくる!」という声が聞こえてくる。そんな声を聞きながら、僕も重い腰を上げた。
「紬、大丈夫か?」
後ろから声をかけられ振り向くと、馨が立っていた。
「馨……」
「頑張れよ。転ばないように」
「子ども扱いしないでよ」
「だって、紬の走り方危なっかしいんだもん」
「いいよな。馨みたいに足が速い奴は……。どうせ一番だろう?」
「まぁね。でも俺は紬を応援してるから頑張れよ」
そう言いながら肩を叩いてくれる。その姿からは余裕さえ感じられた。
(本当に馨が羨ましい……)
僕は唇を尖らせながら、入場門へと向かう。
結果は、ビリにはならなかった。でもゴールした僕を見て「やったじゃん!」と笑ってくれた馨の姿の方が、ずっと嬉しかった。
『大縄跳びに出場する選手は、入場門に集合してください』
大縄跳びは集団でやるものだから個人は目立ちにくい。頑張って飛び跳ねていれば無難に終わるはずだ。僕も赤組のメンバーに続き入場門へ向かう。
赤組のメンバーたちは「百回は目指すぞ!」「引っ掛かるなよ!」と肩を叩き合いながら円陣を組んでいる。そんな中、僕だけは縄を見つめたまま小さく息をついた。
(また引っ掛かったらどうしよう)
僕は大縄跳びのタイミングを合わせるのが苦手だ。
「紬!」
「馨。なんでこんな所にいるの? 実行委員の仕事は?」
「紬のことを応援しに来たんだ。緊張してるかな……って」
「……ちょっと緊張してる」
正直に答えると、馨がクスッと笑う。
「大丈夫。紬なら飛べるって」
「そんな簡単に言わないでよ」
「最初だけみんなに合わせれば平気だから」
「そんなことよりいいの? 他のチームの応援なんかして」
「いいのいいの。俺は自分のチームよりも、紬のことを応援してるんだから」
そう言って親指を立てる馨は、自分の競技じゃないのに、まるで自分のことのように真剣だった。
「一年赤組、前へ!」
先生の声が響き、僕たちは一斉に縄の前へ並ぶ。
ドクン、ドクン。
心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。
「せーの!」
掛け声と共に縄が勢いよく回り始める。
「一回! 二回! 三回!」
赤組のメンバーみんなの息がぴったりと揃い、回数が少しずつ増えていく。
「いいぞ!」
「そのまま!」
あちらこちらから応援の声が飛ぶ中、不思議と僕の耳には一つの声だけが真っ直ぐ届いた。
「紬、頑張れ!」
馨の声だった。
その声を聞いた瞬間、不思議なくらい肩の力が抜ける。
(大丈夫)
そう思えた。
「九十八! 九十九! 百!」
歓声が上がると同時に縄が止まり、僕は一斉に息を吐いた。
「やったぁ!」
赤組のメンバーが飛び跳ねながら喜び合う。僕も嬉しくて、小さくガッツポーズを作ってしまった。
胸を撫で下ろしながら応援席へ戻ろうとすると、馨が笑顔で近付いてきた。
「ほら、ちゃんと跳べたじゃん」
「うん」
「だから言っただろう? よく頑張ったな」
「あ、ありがとう……」
そう言って僕の肩をポンと叩く。それだけなのに、胸の奥がふわりと熱くなった。
プログラムも終盤に差し掛かり、グラウンドの熱気も最高潮に達していた。次はいよいよ、各クラスの代表が出場する学年別選抜リレー。
運動が得意な選手だけが走る、この日一番の花形競技だ。
アンカーを務める馨は、肩から選手用のたすきを掛け、スタート地点から少し離れた場所で静かに出番を待っている。
その姿は、いつもよりずっと頼もしく見えて、思わず目を奪われた。
「頑張れー!」
「瀬名君、ファイトー!」
あちらこちらから歓声が飛び交う中、僕はアンカーの場所に立つ馨の姿をじっと見つめた。
(馨、頑張れ)
そう思うと自然と拳に力が入る。
本当なら赤組の選手を応援するべきなんだろうけど、僕にはもう馨の姿しか目に入ってこない。
(どうか一番になれますように……)
そう心の中で祈った。
「位置について。用意……」
バンッというピストルの合図と共に選手が一斉に走り出す。僕は赤組なのに、青組の選手を自然と目で追ってしまう。五色ある組はどの選手も足が速く、接戦となっている。
バトンは次から次へ選手へと渡り、いよいよアンカーの番だ。スタートラインに立つ馨は、より一層逞しく見える。
(かっこいい……)
僕の胸は自然と高鳴る。
馨は四位でバトンを受け取る。前との差は決して小さくない。それでも迷うことなく前を見据え、地面を蹴った。
風を切るように走る姿に、僕は思わず息を呑む。
「瀬名君、頑張って!」
「瀬名君! 抜かしちゃえ!」
普段ならうるさく感じるこの声援も、不思議なくらい耳に入ってこない。ただ僕は、必死に走る馨を見つめていた。
「馨! 頑張れ! あっ……」
大声で叫んだ僕は慌てて口を両手で覆う。違う組の選手を応援していることを、クラスメイトに知られたら大変なことになる。でも、心の中では馨たった一人を応援していた。
三位。二位。一人抜く度に歓声が大きくなる。
そしてついに一位。
「やったぁ!」
僕は嬉しさのあまり椅子から立ち上がる。
馨は誰よりも早くて、誰よりも勇ましくて、その姿は誰よりもかっこよかった。
そのまま一位でゴールを切った馨の周りに、リレーに出た選手たちが集まってくる。互いに肩を叩き合い、称え合うその姿に僕は感動してしまった。
その時、ふと馨と視線が合う。そして僕に向かって拳を振り上げた。
「馨、本当に頑張ったね」
きっとアンカーというプレッシャーもあっただろう。でもそんなものは関係なく、馨はチームを一位へと導いた。その功績を思えば胸が熱くなる。それと同時に、ギュッと心臓を鷲掴みにされたような気がした。
馨はみんなに囲まれて笑っている。僕が知らない顔をみんなが知っている。
嬉しいはずなのに、少しだけ苦しい。どうしてこんな気持ちになるんだろう。
馨がひどく遠くへ行ってしまったような気がした。
けれど、この頃の僕はまだ知らなかった。馨と当たり前のように過ごせる日々が、ずっと続くわけではないことを──。



