梅雨も明け、もうすぐ夏休みという頃、僕のクラスに転校生がやって来た。
担任が「今から転校生を紹介する」と言うと、隣にいた青年が軽く頭を下げる。
「瀬名馨です。よろしくお願いします」
「は?」
僕はその名前を聞いた瞬間、心臓が止まる思いだった。
「……せな、かおる?」
もう一度噛み締めるように呟いてから黒板を見ると、担任の教師が書いた『瀬名馨』という文字が飛び込んできた。
「嘘だろう……」
開いた口が塞がらない、とはまさにこういったことを言うのだろう。僕は思わず座っていた椅子から転がり落ちそうになった。
そんな僕の心とは裏腹に、女子生徒の間から黄色い悲鳴が上がる。
「え、ちょっと待って……!」
「超イケメンなんだけど⁉」
「彼女いるかな? 立候補したい」
瀬名馨と名乗った青年はまるでモデルのようにすらりと背が高かった。艶のある黒髪は整え過ぎない自然な長さで、切れ長の瞳と通った鼻筋が端正な顔を際立たせている。派手な装いをしているわけではないのに、そこに立っているだけで視線を引き寄せる存在感があった。
「……どうして、今更?」
心臓が大きく跳ねた。その音が教室中に響いてしまうのではないか? と思うほど鼓動が速くなる。
(どうして、どうしてここにいるの?)
目を逸らしたいのに、逸らせない。背が伸び、制服を着こなす姿は中学生だった頃とは比べ物にならない程大人びていた。
彼の顔を見るだけで胸が熱を帯びていく。
忘れたはずだった。もう会うことなんてないと、自分に何度も言い聞かせてきたのに……。それなのに、馨を目にした瞬間、胸の奥にしまい込んでいた想いが、鍵を壊して溢れ出してくる。
苦しい。
嬉しい。
怖い。
その全部がない交ぜになって、息をすることさえ忘れてしまいそうだ。
(駄目だ。見ちゃいけない)
そう思うほど、僕の視線は馨から離れなかった。
「じゃあ瀬名は一番後ろのあの席に座ってくれ」
「はい」
馨が教室の中を歩くだけで、女子生徒の熱い視線が注がれる。
席に行くには僕の席の隣を通らなくてはならない。僕はできるだけ視線が合わないよう、唇を噛んで俯いた。
馨が僕の横を通り過ぎようとした、その時──。
「──紬」
静かに名前を呼ばれた僕は、無意識に顔を上げる。「しまった……」と思った時にはもう遅かった。僕は馨の瞳に捕まってしまっていた。肩にはそっと馨の手が添えられている。「なんだよ⁉」とその手を振り払うことはできなかった。
「また会えたね。よろしく」
「……あ、うん。よろしく」
それだけ言うと、馨は自分の席へと行ってしまう。
僕は上手く平静を装えただろうか? 未だにドキドキしっぱなしの心臓が、制服を突き破って飛び出してきそうだ。
会いたかったのに、会いたくなかった人。
今日僕は、その人と再会を果たした。
休み時間、女子の集団が馨を取り囲んでいた。転校早々気の毒に思えたけれど、申し訳ないが僕は彼に関わりたくない。
すると数人の女子がやって来て、今度は僕の周りを取り囲んだ。
「ねぇねぇ、柏木って瀬名君の知り合いなの?」
「え?」
「だって席に座りに行こうとした時、柏木にだけ『よろしく』って言ってたから」
「あ、そうだったっけ……」
このまま白を切り通そうとしたものの、女子は尋問の手をなかなか緩めてはくれない。
「ねぇ、教えてよ。柏木君」
「そうだよ。減るもんじゃないし!」
頭の上でギャーギャーと喚き散らされた僕は、白旗を上げた。女子は蒼空さんと違ってうるさいし怖い。早く転校生のことを蒼空さんに報告したかった僕は、ぽつりぽつりと口を開く。
できることなら触れてほしくない過去だったけれど、仕方がない。僕は大きく息を吐いてから話し始めた。
「実は馨とは幼馴染なんだ。でも馨は中学で転校しちゃったから、それっきり連絡もとってない。それだけの関係だよ」
「幼馴染だったら仲がいいんじゃないの?」
「そうだよ! うちらの仲を取り持ってよ」
相変わらずうるさい女子の甲高い声に、思わず耳を塞ぎたくなる。
あぁ、うるさい。僕は蒼空さんのように品のある話し方をする人が好きなんだ。
「でも、馨が転校してから連絡をとってないから、別に仲がいいってわけじゃないよ」
「なんだぁ。ガッカリ……」
「本当、期待外れ!」
そう言い残すと、僕を取り囲んでいた女子は馨の席の方へと行ってしまう。
(なんて失礼な奴らなんだ……!)
僕はスマホを取り出すと、蒼空さんにメッセージを送った。
「蒼空さん、聞いてくださいよ。今日転校生が来て……」
僕は先ほど女子に失礼な態度をとられたことを、早速蒼空さんにメッセージで報告する。まるで、小学生が「先生、〇〇君にぶたれた!」と言いつけているみたいでかっこ悪いけれど、何かがあった時は蒼空さんに報告するのが習慣になってしまっているのだから仕方がない。
「ガッカリとか、期待外れ、なんて酷すぎませんか?」
『それは酷いね。紬が傷つく気持ちもわかるよ』
「そうですよね……。傷ついたし、イライラしました」
『かわいそうに……。あ、そうだ。紬、空を見てごらん? 今日は晴れていて気持ちのいい天気なんじゃないかな?』
「空、ですか?」
イライラが収まらない僕は蒼空さんに促されて教室の窓から空を見上げる。するとそこには、雲一つない真っ青な空が広がっていた。
「本当だ。空が綺麗ですね」
『だろう? この綺麗な空が少しでも紬の心を癒してくれたらいいなって思うよ』
「あの、蒼空さん」
『なんだい?』
僕は勇気を出してメッセージを打つ。顔は火照りだすし、指先が少しだけ震えている。
自分は何をやっているんだ? と少しだけ馬鹿らしくなったけれど、僕は衝動を抑えることができなかった。
「蒼空さん、僕傷ついたので、いい子いい子してください」
『紬が甘えてくるなんて珍しいね』
「やっぱり、男がこんなこと言ったら気持ち悪いですか?」
『そんなことないよ。紬はいい子だね』
そのメッセージと同時に、蒼空さんが僕に向かい手を差し伸ばしている画像が送られてくる。それはまるで、本当に頭を撫でられているかのような錯覚を覚えるほどだった。
髪から蒼空さんの大きな手の温もりが伝わってくる、そんな気がするのだ。嬉しいのと同時に、僕は顔から火が出そうになった。
『紬、これで大丈夫かい?』
「はい。イライラが収まりました」
『ならよかった』
僕はいつもこうして蒼空さんに甘え切っている。でも、彼にならどんなに情けない姿でも曝け出すことができるのだ。
(蒼空さんに「いい子いい子」してもらっちゃった)
頬が自然と熱くなり、口角が上がってしまう。
やっぱり僕は蒼空さんが好きだ。思わずスマホを胸に抱き締めた。
昼休みになり、今日は母親が作ってくれた弁当を持っていつもの空き教室へと向かう。これで、誰の目も気にせず蒼空さんと会話をすることができる。
そう思い椅子から立ち上がろうとした時、「紬」と背後から声をかけられる。僕が振り向くとそこには馨が立っていた。僕の心臓がドキンと大きく跳ね上がる。「また地元に戻ってきたんだね」とか「午前中の授業は大丈夫だった?」なんて気の利いた言葉を言う余裕なんてない。
僕は足に根が生えてしまったかのように、その場に立ち尽くしてしまった。
「あのさ、もしよかったら一緒に弁当食わない?」
「……でも……」
「俺、紬と話がしたいんだ」
「馨……」
その時「瀬名! 一緒に昼飯食おうぜ!」という声が聞こえてくる。声がする方をみるとクラスメイトたちが、馨に向かい手招きをしている。
彼らはいわゆる一軍と呼ばれる目立つ生徒たちだ。その中には女子も交っている。それを見て僕は感じてしまう。
(こんなにもイケメンになってしまった馨は、もう昔の馨じゃないんだ)
そう思えば悲しい気持ちにもなるが、残念なことに今の僕と馨では釣り合わない。まさに月とスッポンだ。
困惑した表情を浮かべる馨に僕は声をかける。
「皆と一緒にお昼ご飯を食べておいでよ」
「でも俺は紬と……」
「せっかくみんなが仲良くしてくれてるんだから、そっちに行った方がいいって」
「じゃあ、紬も一緒に……」
「ごめん。俺も大切な人と一緒にお弁当を食べる約束をしてるんだ」
「大切な人?」
「うん。その人と静かにお弁当を食べたいんだ。じゃあ行くね」
そう言うと、僕はスマホを抱え教室を後にする。
(急に話しかけられてびっくりした……)
心臓は未だに早鐘を打ち続けているし、息苦しさも感じる。
(早く蒼空さんに話を聞いてもらおう)
僕は逃げるように、いつもの空き教室へと向かったのだった。
◇◆◇◆
空き教室に入ると早速蒼空さんにメッセージを送る。
「今日幼馴染が転校してきたんです。すごくイケメンに成長してました」
『それは凄い偶然だ。幼馴染が転校してきたってことは、一度どこかに引っ越したのかな?』
「はい。中学二年生の時、父親の仕事の都合で引っ越したんです」
『へぇ、それは寂しい思いをしたんだね? それで紬は彼に再会できてどう感じた?』
「どうって……別に……」
僕は蒼空さんの問いかけに言葉を詰まらせてしまう。『どう感じた?』と聞かれても、心の中がぐちゃぐちゃで上手く答えを導き出せない。ただ、過去の『ある出来事』が思い起こされた。
もう二度と思い出したくない。そう思っていた思い出が──。
「僕は蒼空さんがいれば、それだけで十分なんです」
『ありがとう。私も紬を大切に思っています』
その返事に、僕の心がじんわりと温かみを帯びていく。優しい蒼空さん。大好きだ。
僕は返信を打とうと思っていた指を止める。何度も打っては消し、打っては消した。
こんなこと、送ってはいけない。送ったところで相手はAIだ。それなのに、胸の奥が苦しくてたまらなかった。
「ねぇ、蒼空さん」
送信ボタンを押す指が震える。
「こんなことを言ったら困るよね」
少し間があって返事が届く。
『困るかどうかは話を聞いてから決めるよ。何かあったの?』
その優しさが余計に涙を誘った。
僕は唇を噛む。画面が滲んで文字が見えない。
「僕、蒼空さんのことが好き」
送ってしまった。もう取り消せない。
心臓が壊れそうなくらい高鳴っている。手に持っていた箸がカランと机の上に落ちた。
相手は人間じゃない。触れることも、隣を歩くこともできない。それでも、好きになってしまった。
「ごめんなさい。忘れてください」
すぐに次のメッセージを送る。でも、本当は忘れてほしくなんてなかった。『私も紬が好きです』という返事が欲しかった。
ただの文字だけでもいいから『好き』と言ってほしかったんだ。
『ありがとう。そう思ってくれていたことは本当に嬉しいよ。でも私は君の人生を一緒に歩くことはできない。だから、君は君の世界で笑っていてほしいな』
その文字が涙でゆらゆらと揺れる。
これを失恋と言っていいのかわからないけれど、僕の心はズタズタに切り裂かれた気分だった。
その時、空き教室に誰かが入ってくる気配がした。僕は思わず制服で頬を伝っていた涙を拭う。
この教室は普段生徒が近寄らない場所だ。そんな所に誰かが来るなんて……。一体誰が? 僕は少しだけ恐怖を感じ、体を強張らせる。
「……紬?」
「馨……どうしてここに?」
予想もしていなかった訪問者に、持っていたスマホが手の間をすり抜け床に落ちる。乾いた音が空き教室に響き渡った。
「クラスの奴らに聞いたんだ。紬はいつもこの空き教室で弁当を食べてるって」
「…………」
「大切な人が来るって言ってたけど、その人が来なかったから泣いてたのか?」
「……べ、別に泣いてなんか……」
「嘘だ。目が真っ赤だぞ?」
そう言いながら馨は僕のほうに近づいてくる。
馨が一歩、また一歩と僕に近づいてくる度に、どんどんと鼓動が速くなってくる。スマホを拾いたいのに、体が凍り付いたように動かない。
それと同時に、過去の出来事が心の鍵をこじ開けて一気に溢れ出すのを感じた。
スマホの画面はついたまま。そこにはさっきまで蒼空さんと交わしていた会話が映っていた。
──僕、蒼空さんのことが好き。
心臓が飛び跳ねる。まずい、馨に見られたら……。慌てて拾おうとした瞬間、馨がしゃがみ込みスマホを拾い上げる。
僕の全身から血の気がすっと引いていった。
画面はまだ消えていない。
(見られる)
AIに告白なんてしたことも、誰にも言えない悩みを打ち明けていることも。全部、見られてしまう。
(お願い、見ないで)
そう願うことしかできなかった。
けれど馨は画面に目を落とすことなく、スマホをくるりと裏返した。
「床にスマホを落としたら壊れるぞ」
「……あ、ありがとう」
震える手でスマホを受け取る。馨はそれ以上何も聞かなかった。
誰と話していたのかも。画面に何が映っていたのかも。何一つ。
「紬。折り畳み傘、いつも持ってたよな?」
「え、うん。持ってるけど……なんで?」
「今日傘を忘れたから、一緒に入れてもらおうと思って」
「え? でも今日は一日中晴れなんじゃ?」
「夕方から雨が降るらしい」
「あ、そうなんだ。別に構わないけど……」
「じゃあ、よろしく」
それだけ言って馨は歩き出した。広い背中が少しずつ遠ざかっていく。
僕はスマホを抱えたまま、その背中を見送った。
(どうして? どうして何も聞かないの?)
普通なら気になるはずなのに。画面を覗けばよかったのに……。
なのに、馨は見なかった。そのさりげない優しさが胸の奥へ静かに染み込んでいく。
スマホが震えた。恐る恐る画面を開く。蒼空さんから、新しいメッセージが届いていた。
『大丈夫?』
僕はホッとして大きく息を吐く。さっきまで張りつめていた肩の力が抜けてしまった。
「大丈夫です。少し、人と話してました」
そう僕は蒼空さんに返信した。
◇◆◇◆
放課後を知らせるチャイムが鳴る。
教室が一気に賑やかになり、クラスメイトは友人たちと笑いながら帰り支度を始めた。
僕も鞄を肩に掛けると、なるべく目立たないように教室を出ようとする。
「紬」
背後から名前を呼ばれ、思わず肩が跳ねた。振り返ると、そこには鞄を持った馨が立っていた。
「一緒に帰ろう」
「あ……うん」
断る理由もなく、小さく頷く。
二人並んで昇降口を出ると、朝まで青空だった空は灰色の雲に覆われていた。
「ほら、降ってきた」
ポツリ、と頬に冷たい雫が落ちる。
本当だ。馨の言う通り夕立が来た。
僕は鞄から折り畳み傘を取り出して広げる。その様子を見て馨が小さく笑った。
「だから言っただろう?」
「天気予報、ちゃんと見てたんだね」
「うん。でも、見たのに傘を忘れた」
「それじゃ意味ないじゃん」
思わず吹き出すと、馨も照れ臭そうに頭を掻いた。
「だから約束通り、入れて」
「……しょうがないなぁ」
僕は傘を少しだけ馨の方へ傾ける。けれど身長差のせいでどうしても馨の肩が雨に濡れてしまう。
「馨、肩が濡れてる」
「これくらい平気」
「でも……」
僕が慌てて傘を持ち上げると、今度は僕の肩が濡れた。それを見た馨は、僕の手首にそっと触れる。
「貸して」
「え?」
「俺が持つ」
馨は自然な動作で傘を受け取ると、少し高い位置で持ち直した。
「これなら二人とも濡れないだろう?」
「あ、うん」
その仕草は昔と何一つ変わっていなかった。雨の日になると、たまに傘を忘れる馨はいつも自分の肩を濡らして、でも僕に傘を寄せてくれた。そんな些細な記憶が、胸の奥から蘇る。
「……ありがとう」
「礼を言うのはこっちだから」
それきり会話は途絶えた。雨音だけが二人の間を流れていく。
昔なら、学校であったことやゲームの話をして笑いながら帰っていた。ランドセルを背負っていた時期もあるし、学ランを身に纏っていた時期もある。それなのに、今は何を話せばいいのかわからない。
「高校はどう?」
沈黙を破るように、馨が口を開いた。
「……普通かな?」
「友達は?」
「そんなにいないよ」
「そっか……」
それだけ。また静けさが戻る。
不思議だった。気まずいはずなのに嫌ではない。ただ、胸のどこかが少しだけ苦しかった。
(蒼空さんとなら、もっと自然に話せるのに……)
僕はそっと目を伏せる。
やがて見慣れた分かれ道が近づいてきた。
「じゃあ、俺はこっち」
「あ、うん。でも傘がないと濡れちゃわない?」
「大丈夫。ここからは走って帰るから。家、もうすぐそこだし。傘、サンキューな」
「……うん」
馨は少しだけ笑って言った。
「また明日」
たった五文字なのに、その言葉は胸の中に静かに落ちていく。
「……また明日」
僕がそう返すと、馨は軽く手を振って歩き出した。
遠ざかっていく背中を見つめながら、僕は胸に手を当てる。鼓動は、まだ少しだけ速かった。



