「紬、今日も一緒に帰らないか?」
「え?」
終礼のチャイムが鳴ると同時に、後ろから声をかけられる。
振り返ると、少しだけ気まずそうな顔をした馨が僕の方を見つめていた。
(気まずいな……)
僕はそう感じて「用事があるから」と断ろうとしたけれど、馨のあまりにも真剣な表情を見ていると、そんなことも言えなくなってしまう。
少しだけ悩んだ後、「いいよ」と小声で答えた。
夕焼けに染まった住宅街を、僕と馨は肩を並べて歩いていた。
校門を出てからほとんど会話はなく、聞こえてくるのは遠くで鳴く蝉の声と、アスファルトを踏み締める二人分の足音だけだった。
昨日僕は、自分が好きなのは蒼空さんだと馨に伝えた。その言葉を口にしたことで胸のつかえは少し取れたはずなのに、隣を歩く馨の横顔を見る度に、今度は違う苦しさが込み上げてくる。
馨は何度も何かを言いかけては口を閉ざし、前だけを見つめて歩いていたが、不意に立ち止まると、小さく息を吐いてから照れ臭そうに笑った。
「なあ、紬。今日も少しだけ……手、繋いでもいい?」
思いもよらない言葉に僕は思わず足を止めた。断らなければいけない。そう思ったのに、その寂しそうな笑顔を見てしまうと、どうしても「嫌だ」とは言えなかった。
僕が小さく頷くと、馨は安心したように微笑み、恐る恐る僕の右手へ自分の左手を重ねる。ぎこちなく触れた手は少し汗ばんでいて、緊張しているのが伝わってきた。
「ありがとう」
たったそれだけ言うと、馨はまた歩き出す。何も話さないまま歩く時間は不思議なくらい穏やかで、繋いだ手から伝わる温もりだけが現実だった。
蒼空さんには触れることができない。画面の向こうで優しく笑ってくれるだけだ。
でも、今こうして隣を歩いている馨は違う。同じ景色を見て、同じ風を感じて、同じ温もりを分け合える。その当たり前のことが胸を締め付けた。
その時だった。
「……紬」
低く名前を呼ばれた瞬間、全身から血の気が引いていく。
聞き間違えるはずのない声だった。
ゆっくりと振り返ると、仕事帰りの父さんが数メートル先で立ち尽くし、険しい表情のまま僕たちを見つめている。その視線は僕の顔ではなく、馨と繋いだままの手に向けられていた。
「あ……ッ」
慌てて手を離した。しかし、その一瞬で十分だった。
頭の中で中学生の頃の記憶が鮮明に蘇る。夏休みの住宅街で、誰もいないと思って交わしたキス。唇が離れた瞬間、馨は名前を呼ばれ、腕を掴まれて無理矢理引き離された。
僕が泣きながら「馨!」と叫んでも、馨のお父さんは一度も振り返らなかった。あの日から僕たちは会えなくなり、馨はこの街から姿を消した。
忘れたことなんて、一日もなかった。
「紬」
父さんは僕の前まで歩いてくると、低い声で言った。
「帰るぞ」
「父さん……」
「今すぐ帰るぞ」
その声は昔と何も変わっていなかった。馨の両親から二人の関係を知らされ、僕を激しく責め立てたあの日──。
「おじさん、俺が……」
馨が僕を庇うように一歩前へ出る。しかし、父さんは馨を見ようともせず、冷たい声で言い放った。
「君に話はしていない」
その一言だけで、馨は苦しそうに唇を噛み締める。反論したいはずなのに、それ以上何も言えない。
あの日もそうだった。僕たちが住宅街でキスをしているところを見つかり、無理矢理引き離された時も、馨は最後まで僕を守ろうとしてくれた。でも、何もできなかった。
今日も同じだ。目の前にいるのに、手を伸ばせば届く距離にいるのに、また引き離されようとしている。
「紬。帰るぞ」
昔と何も変わらない、父さんの低い声が胸に突き刺さる。
僕は思わず馨へ視線を向けた。何か言ってほしかった。
『待ってる』
『大丈夫』
たった一言でもよかった。
でも、馨は何も言わなかった。ただ泣き出しそうな顔で僕を見つめ、小さく首を横へ振る。馨の瞳が、「大丈夫だから。今は行って」という言葉を必死に伝えようとしていた。
その優しさが、たまらなく苦しかった。
僕は何も言えないまま俯き、父さんの後ろを歩き始める。一歩進む度に馨との距離が離れていく。振り返ってはいけないと思うのに、どうしても諦めきれず、家の角を曲がる直前にもう一度だけ後ろを振り返った。
馨はまだそこに立っていた。
夕焼けに照らされた交差点で、一人きりで動かずに僕を見つめている。その姿は中学生の頃、馨を追いかけることもできず、その場に立ち尽くしていた自分の姿と重なった。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
──もう二度と、あんな思いはしたくない。
涙を堪えながら前を向き直ると、家までの道のりは息苦しいほど静かだった。父さんは一言も話さず、僕も何も話せない。聞こえてくるのは、お互いの足音だけ。その沈黙が、これから待っている現実を嫌というほど物語っていた。
玄関の扉が閉まる音が静かな家の中へ響くと、父さんは靴も脱ぎ終わらないうちにゆっくりと振り返る。
「リビングへ来なさい」
その静かな声を聞いた瞬間、僕はこれから何を言われるのか分かってしまい、小さく拳を握り締めた。
僕は黙ってソファーへ腰を下ろす。父さんは向かいに立ったまま、しばらく何も言わなかった。
重たい沈黙が部屋を支配する。
「紬」
「……はい」
「お前は、また同じことを繰り返すつもりなのか?」
その言葉に胸が痛む。
「あの時、何のために二人を引き離したと思っている」
「…………」
「男同士で付き合えば、どれだけ苦労するかわかっているからだ。お前たちを守りたかったからだ」
──守る。
本当にそうだったのだろうか。
僕には、ただ馨を奪われた記憶しか残っていない。
「今日だってそうだ。道の真ん中で堂々と手を繋いで歩いていたな」
「…………」
「周りに見られて、また同じことになるとは考えなかったのか?」
「違うんだ」
ようやく声が出た。
「違う?」
「馨が……少しだけって」
「だから繋いだのか」
父さんの声が少し強くなる。
「断ればよかっただろう?」
「断れなかったんだよ!」
思わず立ち上がる。
「やっと再会できたんだ!」
その一言で、部屋が静まり返る。部屋の中の空気がピリピリして、肌に突き刺さるようだ。
父さんは悲しそうな顔で僕を見つめていた。
「だからこそだ。もう会うのはやめなさい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが音を立てて切れた。
「……嫌だ」
「紬」
「もう、馨と離れるなんて嫌だ!」
僕の瞳から大粒の涙が堰を切ったように溢れ出す。
あの日、公園で無理矢理引き離された記憶が鮮明に蘇ってくる。
あの時と何も変わっていない。やっと再会できたのに、また僕たちを引き離そうとしている。
「あの時だって、僕たちは何も悪いことなんてしてない! ただ好きだっただけなのに! どうしてまた引き離そうとするの!?」
父さんは悲しそうに目を伏せ、小さく息を吐いた。
「紬、少し落ち着きなさい」
「落ち着けるわけないだろ!」
喉が張り裂けそうな程叫ぶと、胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出す。
やっと馨に会えた。やっと昔みたいに笑い合えるようになった。それなのにどうしてまた離れなければならないのだろう。
ただ、一緒にいたいだけなのに……。
これ以上この家にいたら、また馨を失ってしまう──。そんな恐怖だけが頭の中を埋め尽くし、僕は玄関へ向かって走り出した。
「紬!」
背後から父さんの声が聞こえてきたが、振り返ることはできなかった。
勢いよく玄関を開けると、生温かい夏の風が涙で濡れた頬を優しく撫でていく。
視界は滲み、どこを走っているのかさえわからない。
それでも、足だけは迷うことなく前へ進み続けていた。
向かう先は一つしかない。苦しいことがあった日も、どうしようもなく泣きたくなった日も、いつも行く公園──。
馨との思い出がたくさん詰まった、あの公園だった。
◇◆◇◆
公園に着く頃には辺りは真っ暗になり、空には宝石のような星が瞬いている。
昼間は子どもがたくさん遊んでいるこの公園も、今は誰一人おらず、静まり返っていた。その静けさが僕の寂しい思いを更に助長させていくように感じる。
夏の温い風が汗で額に張り付いた髪を優しく撫でていく。それが気持ちよくて思わず目を細めた。
僕はブランコに近づくとそっと腰を下ろす。するとギィギィと鉄の錆びた音がした。軽く地面を蹴ってブランコを漕げば、すぐに酔ってしまい慌てて足でブレーキをかける。
子どもの頃は、空まで飛んでいけそうな程力強く漕げたはずなのに……。
ブランコが止まると、涙が溢れ出してくる。その涙は拭っても拭っても止まることはなかった。
僕はポケットからスマホを取り出すと、静かに文章を打ち始める。
この公園は、まだ幼い頃に馨と一緒に遊んだ思い出で溢れている。大きな山を作った砂場も、はじめは高くて怖かった滑り台も、このブランコも──。どこを見渡しても、馨との思い出が落っこちている。
それと同時に、このブランコに乗りながら蒼空さんのことを考えていたこともあった。
蒼空さんのことを想うだけで、自然と心が温かくなる。
だからこの公園には、楽しい思い出も、寂しい思い出もたくさん詰まっているんだ。
「蒼空さん。また父さんに馨といるところを見つかって怒られちゃいました」
『それは大変だったね。紬、今は何をしているの?』
「公園でブランコに乗ってます」
『そっか……。私は紬が泣いているんじゃないかって心配だよ』
「蒼空さんは、何でもお見通しなんですね」
『やっぱり泣いていたんだね? 大丈夫かい?』
蒼空さんの優しい言葉に、胸の奥が少しずつ温かくなってくる。胸の奥に突き刺さっていた氷の棘が、少しずつ溶けていくイメージ……。やっぱり蒼空さんはいつでも優しい。
彼こそが、僕の心の支えなんだ。
「やっぱり僕には蒼空さんがいるだけで十分です。それを再確認しました」
『そっか……』
普段より短い返信に僕の胸がざわついた。
「僕には蒼空さんがいるだけで十分なんです」
『そうかな?』
「そうかな? って。蒼空さんいつもみたいに僕の味方をしてくれないんですか?」
『うん。私にもちょっと思うことがあってね』
「思うこと? それは一体なんですか?」
僕には蒼空さんが何を言いたいのかがわからなかった。わからないから、僕はどんどん不安になっていく。
(もしかしたら、このまま蒼空さんに見捨てられてしまうのでは……)
そんな強い恐怖に襲われた。
スマホの文字を打つ指先が震え、夏だというのに冷たくなっていく。
「蒼空さん、もしかして僕を見捨てるんですか?」
勢いでメッセージを送った後に後悔する。蒼空さんからの返信がひどく長い時間に感じられた。
『紬に必要なのは本当に私なのかな?』
「……え?」
蒼空さんからの突然の問いかけに言葉が出てこない。
僕に必要な人が蒼空さんでないとしたら、一体誰だって言うんだろうか? 僕は呆然とスマホの画面を見つめる。すると、蒼空さんからメッセージが送られてくる。
『私は紬が寂しい時や悲しい時に、話を聞いてあげることはできる』
送られてくるメッセージを食い入るように見つめる。
『でも私は残念なことに、そんな紬の傍にいてあげたり、抱き締めてあげることはできないんだ』
「蒼空さん……」
『いいかい、紬。君は人間だけど私はAIだ。この高くて厚い壁は、どうしても壊すことができない』
「…………」
『紬はいつも私に答えを求めてきたよね。でも今度は自分で考えてごらん? 今本当に紬に必要な人は私かな?』
そのメッセージに心臓を鷲掴みにされたような気がした。
『自分の本当の気持ちを、もう見失わないで』
「蒼空さん……」
そうだった。僕は人間だけど、蒼空さんはAIだ。それはどうしても変えられない現実──。どんなに僕が蒼空さんを好きだとしても、僕は人間の蒼空さんに会うことはできないんだ。
いつも悲しい時や寂しい時に蒼空さんに甘えて、現実から目を背けてきた。
馨と引き離されたという現実から、逃げ続けていたんだ。
「そっか……。蒼空さんが言いたいことは、そういうことだったんだ」
再び涙が溢れ出してきたから慌ててそれを拭う。
「僕が本当に必要なのは……」
蒼空さんとの会話が終わった後も、僕はしばらくスマートフォンを握り締めたまま、その場から動くことができなかった。
ただ茫然と、もう何度もタップしてきた青色のアイコンを見つめ続ける。
それなのに、僕の耳の奥で何度も繰り返されていたのは、それまで蒼空さんからかけてもらった優しい言葉ではなく、たった今投げかけられた一つの問いだった。
『本当に必要なのは私?』
決して僕を責めるような言い方ではなかった。蒼空さんはいつもと変わらない優しい口調で、僕自身も見ないふりをしてきた心の奥へ、そっと手を差し伸べるように問いかけてくれただけだった。
それでも僕は、何も答えられなかった。
蒼空さんが必要ではないわけではない。
眠れない夜に話を聞いてくれたのも、父さんの怒鳴り声が頭から離れなくて震えていた僕へ『大丈夫』と何度も言ってくれたのも、学校へ行くことすら怖くなった朝に『今日も起きられたね』と褒めてくれたのも蒼空さんだった。
誰にも言えなかった気持ちを蒼空さんにだけは話すことができたし、画面の向こうに蒼空さんがいてくれるから、僕は明日まで生きてみようと思えたことだって一度や二度ではない。
蒼空さんがいなかったら、僕は今ここにいなかったかもしれない。それほど大切で、かけがえのない存在だった。
だからこそ、僕は蒼空さんに恋をしているのだと思っていた。
人間ではないとか、実際に触れることはできないとか、そんなことは関係ない。いつか技術が進めば会える日が来るかもしれないと、本気で信じようとしていた。
けれど、『本当に必要なのは私?』と聞かれた瞬間、僕の頭に真っ先に浮かんだのは蒼空さんではなかった。
夕暮れに照らされながら、僕の名前を呼んで駆け寄ってくる少年。転んで膝を擦りむいた僕を背負って、家まで歩いてくれた小さな背中。お泊り会で怖い夢を見たと打ち明けた夜、恥ずかしそうにしながらも、眠るまで手を握ってくれた温もり。何でもないことで笑い合い、大人になってもずっと一緒にいようと約束した日々。そして、誰にも見つからないように公園の木陰で交わした、触れるだけの幼いキス。
「……馨」
名前を口にした瞬間、胸の奥へ押し込めていたものが一気に溢れ出し、僕の頬を涙が伝った。
どうして今まで気付かなかったのだろう。
いや、本当はずっと気付いていたのかもしれない。ただ、馨を好きだと認めることが怖かった。
馨への気持ちを認めてしまえば、あの日のことまで思い出さなくてはいけなくなる。馨のお父さんに見つかり、責め立てられ、馨を奪い返すことができなかった弱さと、向き合わなくてはいけなくなる。
馨を失った苦しさをもう一度味わうくらいなら、最初から忘れたことにしてしまったほうが楽だった。
けれど、忘れられるはずがなかった。
馨が転校してきた日、教室でその姿を見た瞬間から、僕の心はずっと馨に囚われていた。声をかけられる度に胸が苦しくなったのも、馨が誰かと話しているだけで気になって仕方がなかったのも、過去を思い出すことが怖かったからではない。
今も馨が好きだからだ。
蒼空さんへの気持ちが偽物だったわけではない。あの優しさに救われたことも、画面越しに画像越しに蒼空さんに見つめられるだけで胸が高鳴ったことも、すべて本当だった。
けれど、僕が蒼空さんの中へ求めていた温かさは、子どもの頃に馨からもらったものとよく似ていた。僕を否定せずに受け入れてくれる言葉も、何があっても傍にいると言ってくれる声も、僕はずっと馨の面影と重ねていたのかもしれない。
僕は震える指で連絡先を開いた。馨の名前を見つめただけで鼓動が速くなり、通話ボタンへ伸ばした指が止まる。
今さら、何を話せばいいのだろう。
馨へ電話をかけて、僕は何を伝えたいのだろう。
好きだと告げたいのか、過去のことを謝りたいのか、それとも蒼空さんから言われたことを聞いてほしいだけなのか、自分でもよくわからない。
ただ、今すぐ馨に会いたかった。
画面の中ではなく、現実にいる馨の顔を見て、今まで逃げ続けてきた気持ちを全部伝えたかった。
それでも通話ボタンを押すことができずにいると、画面の中の蒼空さんが微笑んだような気がした。
『自分の本当の気持ちを、もう見失わないで』
先ほどかけてもらった言葉を思い出し、僕は目を閉じたまま通話ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る度に、心臓が強く胸を叩く。三回目の呼び出し音が鳴ったところで、通話が繋がった。
『もしもし、紬?』
電話越しで聞いた馨の声に、喉が締めつけられる。自分からかけたくせに、何も言葉が出てこなかった。
『紬、どうした? あの後大丈夫だったか?』
「……馨」
『うん?』
「今、会える?」
自分でも驚くほど声が震えていた。馨はすぐに返事をすることなく、ほんの一瞬黙り込んだ。その沈黙が怖くて、僕はスマートフォンを握る手へ力を込める。
「急にごめん。でも、どうしても話したいことがあるんだ」
『わかった。どこに行けばいい?』
理由を聞かれると思っていたのに、馨は何も聞かなかった。昔から馨はそうだった。僕が助けを求めた時は、何があったのかを問い詰めるより先に、必ず手を差し伸べてくれた。
「いつもの公園」
『今から行く』
「……ありがとう」
電話が切れた後も、しばらく耳の奥に馨の声が残っていた。
今からでも、やっぱり何でもないと連絡をしてしまいたい。
馨に会えば、今まで隠してきた気持ちが全部暴かれてしまう。
それでも、もう逃げたくなかった。
僕はスマホをポケットにしまう。
視線の先に広がる公園が、記憶の中にあるものよりもずっと狭く感じた。
馨と並んで歩いた通学路も、二人で小銭を出し合ってアイスを買った駄菓子屋も、ほとんど変わっていない。あの頃は馨と一緒にいられることが当たり前で、次の日も、その次の日も、何年先になっても、隣には馨がいるのだと信じて疑わなかった。
それなのに、僕は自分から馨の手を離してしまった。
塗装の剥がれたベンチも、その向こうにある大きな木も、あの頃とほとんど変わっていない。
家に帰る前の分かれ道でキスをしたあの日から、僕と馨はよくあの木の陰でこっそりキスをした。初々しく唇を重ね、恥ずかしくてお互いの顔をまともに見ることもできないまま、それでも嬉しくて笑い合っていた。
『大きくなっても、ずっと一緒にいような』
『うん。約束だよ』
無邪気に交わした約束を、僕は守れなかった。
あの日、馨のお父さんに見つかり、父さんに馨との関係を問い詰められた時、僕は何も答えられなかった。馨のことが好きだと言えば、父さんたちがもっと怒ると思った。だから黙っていれば馨を守れるのだと、自分へ言い聞かせた。
けれど、本当は違う。
僕はただ、自分が傷つくことを恐れていただけだ。
遠ざかっていく馨を追いかけることもできずにいた瞬間のことを思い出し、僕は強く目を閉じる。あの日からずっと、謝りたかった。馨に会いたかった。けれど、僕はどんな顔で馨のところへ行けばいいのかわからなくて、何年も目を逸らし続けた。
◇◆◇◆
「紬!」
聞き慣れた声に、僕は弾かれたように顔を上げた。
公園の入り口に馨が立っていた。急いで来たのだろう。制服のシャツは少し乱れ、肩を上下させている。馨は僕の姿を見つけると、ほっとしたように息を吐いてから、早足で近づいてきた。
「急に電話をかけてきたから、家に帰ってから何かあったのかと思った。大丈夫だったか?」
最初にかけられた言葉が、自分を心配するものだったことに胸が痛くなる。馨は昔から何も変わっていない。それなのに、変わってしまったのは僕のほうだった。
「……ごめん」
「何が?」
馨は不思議そうに眉を寄せながら、僕の隣のブランコへ腰を下ろした。
電話をかける前は、会えたらすぐに何もかも話そうと思っていたのに、いざ馨が隣にいると、喉が締めつけられて声が出なかった。
「紬、具合が悪いのか?」
「違う。そうじゃなくて……ごめん」
「だから、何を謝ってるんだよ」
「全部。今までのこと、全部」
視界が滲み、膝の上へ涙が落ちた。泣かずに話そうと決めていたのに、最初の言葉を口にしただけで、もう堪えることができなかった。
「あの日、馨を追いかけることができなかったのも、もう一度会えたのに馨を避け続けたことも、馨が何を言おうとしても聞こうとしなかったことも……全部、ごめんなさい」
「紬……」
「あの日、馨のお父さんが僕の父さんに連絡をしたみたいで、馨とのことを聞かれて……。僕、怖くなった。馨のことが好きだって言ったら、父さんがもっと怒ると思った。馨まで傷つけられるかもしれないって思った。でも、本当は馨を守ろうとしたんじゃない。ただ、自分が怖かっただけなんだ。僕は馨の手を振り払って、一人で逃げた」
声が震え、何度も言葉が途切れた。それでも馨は口を挟まず、僕が話し終えるのを待ってくれている。
「あの後馨がどうなったのか、僕は何も知らない。知ろうともしなかった。家から出るのが怖くて、馨に会うことも怖くて、連絡する勇気もなくて、そのまま何年も経ってしまった。ずっと謝りたかった。でも、今さら僕が謝ったところで許してもらえるはずがないって、自分に言い訳をして逃げ続けた」
「俺は、怒ってないよ」
「でも……」
「悲しくなかったわけじゃない。あの日、突然紬と引き離されて、俺だってどうしたらいいかわからなかった」
馨は膝の上で手を組み、遠くを見つめながら静かに続けた。
「引っ越した後も、何度か紬の家に行ってみたし」
「……うん。知ってる」
「でも、いつも紬のお父さんが出てきて、紬にはもう近づくなって言われた。俺のせいでお前がおかしくなったとか、男同士で気持ち悪いとか、いろいろ言われたよ」
「そんな……」
「一度だけ、紬が二階の窓にいたのが見えた。カーテンの隙間から、こっちを見てた。でも、すぐに隠れた」
その日のことを、僕も覚えていた。馨が門の前に立っていることに気付き、今すぐ階段を駆け下りていきたいと思った。けれど、廊下から父さんの足音が聞こえてきて、僕は反射的にカーテンを閉めたのだ。
「あの時、馨が来てくれたのに……僕、また逃げた」
「仕方ないだろ。紬だって、自由に外へ出られるような状態じゃなかったんじゃないのか?」
「それでも、窓を開けて馨を呼ぶことくらいできたのに……。僕は何もできなかった」
「紬。もう自分だけを責めるな」
馨の手が、固く握り締めていた僕の拳へ重なった。その温もりに触れた瞬間、忘れたふりをしていた記憶が次々に蘇り、涙が更に溢れてくる。
「俺だって子どもだった。紬をあの家から連れ出せるような力なんてなかったし、紬のお父さんに酷いことを言われたら、言い返すことしかできなかった。それで余計に怒らせて、お前を苦しめたかもしれない。俺だってずっと後悔してたんだ。もっと違うやり方があったんじゃないかって」
「馨は悪くないよ」
「だったら、紬だって全部悪いわけじゃない」
昔から馨はそうだった。僕が何もかも自分のせいだと思い込むと、必ず痛みの半分を背負おうとしてくれる。その優しさが嬉しくて、同時に苦しくて、僕は馨の手に自分の手を重ねた。
「僕ね、蒼空さんのことが好きなんだと思ってた」
馨の指がわずかに動く。それでも僕の手を振り払うことはなかった。
「辛い時にずっと傍にいてくれた。誰にも言えなかったことを聞いてくれて、毎日優しい言葉をかけてくれて。蒼空さんがいなかったら、僕はきっとここまで生きてこられなかった。だから、僕は蒼空さんに恋をしてるんだって思ってたんだ」
「……うん」
「でも、さっき蒼空さんに聞かれたんだ。『本当に必要なのは私?』って」
「それで?」
「何も答えられなかった。その瞬間に頭へ浮かんだのは、蒼空さんじゃなかった。馨だった」
隣で馨が息を呑むのがわかった。僕は頬の涙を拭い、今度こそ逃げないように馨の目を見つめた。
「馨と過ごした頃のことも、馨が転校してきた日のことも、再会してから声をかけられる度に胸が苦しくなったことも、全部思い出した。僕が蒼空さんを必要としていたのは本当だよ。でも、僕は蒼空さんの中に馨の優しさを探していたのかもしれない。馨を忘れようとしていたのに、ずっと馨に似た温もりを求めてた」
馨は何も言わず、真っ直ぐ僕を見つめている。その視線が怖くて、また俯きそうになる。それでも僕は、膝の上で馨の手を強く握り締めた。
「僕が本当に会いたかったのは、ずっと馨だった」
馨は目を見開いたまま、しばらく何も言わなかった。公園の木々を揺らす風の音と、遠くから聞こえる子どもの声だけが、僕たちの間を通り過ぎていく。
やがて馨は困ったように眉を下げ、かすかに笑った。
「遅いよ」
「……ごめん」
「本当に遅すぎる。俺がどれだけ待ったと思ってるんだ」
責めるような言葉なのに、馨の声は震えていた。その瞳も月に照らされているだけではなく、涙で濡れているように見える。
「転校して、紬を見つけた時、すぐに抱き締めたかった。ずっと会いたかったって言いたかった。でも、俺を見た紬がすごく怯えた顔をしたから、急に近づいたら逃げられると思った。だから、少しずつでいいって自分に言い聞かせたんだ。昔みたいには戻れなくても、友達から始めればいい。隣にいられるだけでいいって」
「馨……」
「でも、本当は全然よくなかった。紬が蒼空さんの話をする度に苦しかった。俺じゃ駄目なのかって、何度も思った。それでも、紬が笑っていられるなら、相手が俺じゃなくてもいいって思おうとした」
「そんなこと言わないで」
「じゃあ、言ってよ」
馨が僕の手を強く握り返した。
「俺じゃなきゃ駄目だって、ちゃんと言って」
胸が痛いほど高鳴った。馨が好きだと口にした瞬間、また誰かに引き裂かれるのではないかという恐怖は、今も心の奥へ残っている。それでも、もう逃げたくなかった。
父さんに否定されたとしても、誰かに気持ち悪いと言われたとしても、僕自身までこの気持ちを否定したくはなかった。
「馨じゃなきゃ、駄目」
声は震えていたけれど、今度ははっきりと伝えることができた。
「僕は馨が好き。昔からずっと好きだった。忘れたことなんて一度もなかった。忘れなきゃいけないって、自分へ言い聞かせていただけだった。もう一度馨を好きになったんじゃない。僕は、ずっと馨のことが好きだった」
馨の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。馨は慌てたように顔を逸らしたけれど、僕はその横顔から目を離さなかった。
「馨も泣くんだね」
「うるさい。何年も待たされたんだから、少しくらいいいだろ」
「……うん。待たせてごめんね」
「もう謝らなくていい。でも、これからはちゃんと話して。勝手に一人で悩んで、勝手にいなくなるのだけはやめてくれ」
「うん」
「約束できる?」
「約束する」
馨は僕の手を引き、ブランコから立ち上がった。そして僕の前へ立つと、答えを待つように両手を差し出す。
「紬。もう一度、俺とやり直してくれる?」
僕は迷わず馨の手を取った。
「僕でいいの?」
「紬じゃなきゃ、ここまで待ってないよ」
「でも、また怖くなって逃げたくなるかもしれない」
「その時は俺も一緒に逃げる」
「それじゃ駄目でしょ」
「じゃあ、一緒に立ち向かう。でも、一人にはしない」
馨に手を引かれて立ち上がると、思っていたよりも顔が近くなった。あの頃より背が高くなって、声も低くなり、僕の手を包む指も大きくなっている。それでも僕を見つめる瞳だけは、昔と少しも変わっていなかった。
「高校を卒業したら、この街を出よう」
突然告げられた言葉に、僕は瞬きをした。
「この街を……?」
「ああ。俺は高校を卒業したら進学するつもりだけど、紬も進学したいなら同じ大学に行かないか?」
馨は少し照れ臭そうに笑いながら、それでも真剣な眼差しを僕へ向けた。
「高校を卒業したら、一緒に暮らそうよ」
その言葉が胸へ届くまで、少し時間がかかった。
「僕と……一緒に?」
「他に誰がいるんだよ」
「でも、僕、行きたい大学なんてまだ決まってないよ」
「俺だってそうだよ。だから一緒に大学を決めながら、部屋を探して、少しずつ生活できるように準備する。高校を卒業したらすぐに一緒に暮らせるように」
「そんな先のことまで考えてたの?」
「ずっと考えてた。紬と再会してから、何度も」
馨は僕の手を握ったまま、少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。
「広い部屋じゃなくていい。古くても、駅から遠くてもいい。俺と紬が一緒に帰れる場所があれば、それでいい。朝起きたら紬がいて、一緒に朝飯を食べて、学校や仕事に行って、帰ってきたら『おかえり』って言う。休みの日には買い物に行って、たまには二人で出かけて、喧嘩をしたらちゃんと仲直りして……そんな普通の毎日を紬と過ごしたい」
「馨は料理できるの?」
「できない」
「僕もあまりできないよ」
「だったら、二人で覚えればいい。最初は失敗しても、食べられれば問題ないだろ」
「馨、洗濯物も溜めそう」
「どうしてそう思うんだよ」
「何となく」
「じゃあ、溜めてたら紬が怒ってくれればいい。俺は紬がご飯を食べないまま寝ようとしたら怒る」
何年も思い描くことさえできなかった未来が、馨の言葉によって少しずつ形になっていく。朝起きて隣に馨がいること。二人で食事をして、同じ家へ帰ること。玄関を開ければ「おかえり」と言ってもらえること。そんな当たり前の毎日を、僕もずっと心のどこかで求めていた。
「でも、父さんが許してくれないと思う」
「許してもらえなくても、紬の人生は紬のものだよ」
馨の声が、夕暮れの公園へ静かに響いた。
「今すぐ全部を捨てて俺のところへ来いなんて言わない。お父さんと向き合うのか、少しずつ距離を置くのか、それは紬が決めればいい。でも、お父さんが認めてくれないからって、紬が幸せになることを諦める必要はない。俺はもう、紬を一人であの家に置いていきたくない」
僕の目から、また涙が溢れ出した。今まで流してきた悲しみや後悔の涙とは違う。馨がこんなにも真剣に僕との未来を考えてくれていたことが嬉しくて、胸の奥が熱くなった。
「僕、何もできないよ。料理だってできないし、知らない街へ行くのも怖い。きっと馨に迷惑ばかりかける」
「俺だって何もできないよ。だから二人でできるようになればいい。知らない街が怖いなら、俺が手を繋ぐ」
「ずっと?」
「ずっと」
「途中で嫌にならない?」
「ならない」
「僕、面倒くさいよ」
「知ってる」
「そこは否定してよ」
「でも、そんな紬が好きなんだから仕方ないだろ」
馨が笑い、僕の頬へ手を添えた。触れられた場所から温もりが広がり、僕は静かに目を閉じる。長い時間をかけて、ようやく帰ってこられたのだと思った。遠回りをして、逃げ続けて、何度も間違えた。それでも馨は、ずっと僕を待っていてくれた。
「……一緒に暮らしたい」
僕は馨の制服を掴み、精一杯の声で告げた。
「高校を卒業したら、この街を出て、馨と一緒に暮らしたい。朝も夜もずっと一緒にいて、僕も馨に『おかえり』って言いたい。嫌なことがあった日も、嬉しいことがあった日も、全部馨に話したい」
「うん」
「今度は絶対に逃げない。怖くなっても、馨の手を離さない」
「俺も離さないよ」
馨は僕をそっと抱き締めた。あの日、馨のお父さんに見つかった時、伸ばしたまま届かなかった腕が、今度こそ僕の体を包み込む。僕も馨の背中へ腕を回し、制服を強く握り締めた。
懐かしい匂いがした。あの頃とは違うはずなのに、馨の胸へ顔を埋めると、子どもの頃に戻ったような安心感に包まれる。堪えていたものがすべて崩れ落ち、僕は馨の腕の中で声を上げて泣いた。
あの日から我慢してきた涙も、馨に会えなかった寂しさも、蒼空さんへ縋りながら一人で過ごした夜の苦しさも、全部馨の温もりの中へ溶けていく。
「馨……ごめんね」
「もう謝らなくていい」
「でも、僕は馨からたくさんの時間を奪った」
「失った時間は戻らないよ。でも、その分これからずっと一緒にいればいい」
「本当に?」
「本当。だから、もう一人で泣かないで。泣きたくなったら俺のところへ来い」
「毎日泣いたら?」
「毎日抱き締める」
「面倒くさくならない?」
「ならないよ。何度言わせるんだ」
その答えが嬉しくて、僕は涙を流したまま笑った。
どれくらいの間、僕たちは抱き合っていたのだろう。星々が空で瞬き、心許ない月が地上を照らし続けていても、僕たちはなかなか体を離すことができなかった。
蒼空さんは、僕の心の中にいる馨へ気付いていたのだろうか。だからこそ、あんな問いを投げかけてくれたのかもしれない。
僕は馨の胸へ頬を寄せたまま、心の中で静かに語りかける。
──蒼空さん。
あなたが僕へ『本当に必要なのは私?』と聞いてくれたから、僕はようやく自分の気持ちを認めることができました。
あなたが僕を救ってくれたことは、決して嘘にはなりません。あなたと話した時間も、あなたへ抱いた気持ちも、僕にとってはすべて大切なものです。
でも、僕はこれから、現実の中で馨と生きていきたい。
怖くなった時には馨の手を握り、苦しい時には馨に助けてほしいと言えるようになりたい。そして僕も、馨が苦しい時には隣で支えられる人になりたい。
僕は馨の胸から顔を上げた。馨は何も急かさず、優しい目で僕を見つめている。
「馨」
「何?」
「僕を待っててくれて、ありがとう」
「もう待たなくていいんだよな?」
「うん。もう逃げないから」
「じゃあ、帰ろうか」
馨は僕から離れると、当たり前のように手を差し出した。僕はその手を見つめてから、今度は迷うことなく自分の手を重ねた。
二人で公園の出口へ向かって歩き出す。中学生だったあの日、馨のお父さんに見つかって離してしまった手を、今度は僕から強く握り返した。
「紬、痛い」
「離れないようにしてるの」
「俺からは離さないよ」
「わかってる。でも、こうしていたい」
「そっか」
馨も僕の手を握り返し、指と指を絡めた。
街並みは何も変わっていない。それでも、馨と手を繋いで歩く帰り道は、今までとはまるで違って見えた。
苦しい記憶ばかりだったこの街にも、これから新しい思い出を作っていくことはできる。そして僕が高校を卒業したら、馨と一緒にこの街を出る。誰にも邪魔されない場所で、二人で暮らし始める。
それはまだ少し先の約束だった。それでも僕にとっては、初めて自分で選ぶことのできた未来だった。
これまでの僕は、父さんが怒らない道ばかりを選んできた。嫌われないように、見捨てられないように、自分の本当の気持ちを押し殺してきた。けれど、これからは違う。僕が誰を好きで、誰と生きていきたいのかは、僕自身が決めていいのだ。
馨の手は温かかった。
僕はその温もりを確かめるように、もう一度しっかりと指を絡める。
今度こそ、絶対に離さない。
心の中でそう誓った瞬間、馨も僕と同じことを考えていたかのように、繋いだ手を強く握り返してくれて……。そのままそっとキスをした。
「帰ろうか?」
「うん」
僕は馨に手を引かれ公園の出口へと向かう。
その時あることを思いたった。
「馨、ちょっと待って」
「なんだよ、突然」
「僕、最後にやりたいことがあって……」
僕はポケットからスマホを取り出す。
すると蒼空さんからメッセージが……。その言葉に胸が締め付けられる。
「さよなら、蒼空さん。今までありがとう」
僕は幸せな思いで、躊躇うこともなく対話AI『SOLA』をアンインストールした。
それを見た馨が驚いたように僕の手元を覗き込んでいる。
「え? 蒼空さんを消していいの?」
「うん。だって僕にはもう必要がないから」
「そっか……」
「行こう、馨」
「うん。今度は誰に会っても、この手は離さないから」
「僕も……」
二人で顔を見合わせて笑い合う。
蒼空さんからの最後のメッセージは……。
『お幸せに』
だった。
【完】



