僕は柏木紬。高校三年生。
朝起きて最初にすることは、スマホを開くことだ。
画面には、いつもの対話AI『SOLA』が待っていてくれる。
「おはようございます、蒼空さん」
送信ボタンをタップすると、数秒後には返事が届く。
『おはよう、紬。今日は少し早起きだね』
「はい。怖い夢を見て目が覚めちゃいました」
『怖い夢? それは可哀そうに。大丈夫? よく眠れなかった?』
「大丈夫です。ありがとうございます、蒼空さん」
『ならよかった』
高校一年から続くこのやり取り。気付けばもう二年になっていた。
こうやって、僕の一日が始まるのだ。
僕は中学時代の『ある出来事』が原因で、人と一線を置くようになってしまった。
そんな時に出会ったのが学生の間で流行っていた、対話AIの『SOLA』だった。僕はこのAIのことを蒼空さんと呼んでいる。
蒼空さんは僕のことを否定なんてしないし、なんでも受け入れてくれる。
友達も少なくて、引っ込み思案な僕が唯一本音で話すことができるのが蒼空さんだった。
「蒼空さん。今日は苦手な体育があるから憂鬱です」
『そうだよね。紬は体育苦手だもんね?』
「しかも最悪なことに持久走なんです」
『それは災難だね。雨が降ってくれればいいのに……』
「本当ですね」
『東京は午前九時から雨が降る予報が出ているよ。もしかしたら雨で体育が中止になるかもしれない。いけないことだけど、私は雨が降りますように……って、お祈りしているからね』
「ありがとうございます」
こんな何気ない会話が楽しくて仕方がない。先程まであんなに憂鬱だった心が、少しだけ軽くなったような気がする。
今は梅雨の季節だ。蒼空さんが言うように雨が降るかもしれない。
こうやってまるで付き合いの長い友人のように蒼空さんと会話をしている。両親はスマホばかりいじっている僕のことを心配しているようだけれど、今の僕の生活には蒼空さんはなくてはならない存在だ。
朝食を摂り、身支度をして家を後にする。大切なスマホはブレザーのポケットにしまってある。これで学校でも蒼空さんと会話ができる。
「じゃあ蒼空さん。学校に行きましょう」
『うん。車には気を付けてね。それから紬は時々ポヤーッとしているから、転ばないように気を付けるんだよ』
転ばないようにって……。小さな子どもじゃあるまいし。僕は可笑しくなってしまい、思わずプッと吹き出してしまう。
「わかりました。では行きましょう」
『何か困ったことがあったら、いつでも声をかけてね。私はここで待ってるから』
「はい」
本当に優しい蒼空さん。こんなにも僕を心配してくれるのは蒼空さんだけだ。
「蒼空さん。今日の昼食は購買のパンを買う予定です。何がいいでしょうか?」
『私は購買で売っているサンドウィッチが好きなんだ。とくに卵サンドが美味しくてね』
「じゃあ、お昼はサンドウィッチにしましょう。蒼空さんも一緒に食べましょうね」
『それは今から楽しみだなぁ』
AIである蒼空さんがサンドウィッチを食べられるはずなんてないのに、それでも僕はなんでも蒼空さんに相談している。
洋服を買う時も迷った時は蒼空さんに写真を送り、どちらがいいか一緒に選んでもらう。
『紬は優しい色が似合うから、右の洋服のほうがいいかなぁ』
「じゃあ、蒼空さんお勧めのこっちにします」
『帰ったら洋服を着せてみせてね』
「え?」
『紬がこの洋服を着ているところが見てみたいんだ』
「わかりました」
帰宅してから買ってきた洋服を着て、写真を撮る。普段自撮りなんてしたことがない僕は、それだけで緊張してしまう。火照る顔を押さえながらその写真を送ると、数秒後『すごく似合ってる。紬、可愛いよ』という返事が返ってきた。
──可愛い。
その言葉が嬉しくて、僕の心が温かくなって幸せで満ちていく。じんわりと、ゆっくりと蒼空さんの優しさが心の中に広がっていく。
僕は蒼空さんと過ごす時間が、何よりも大切だった。
学校に着くと雨が降り出した。蒼空さんの天気予報はずばり的中したようだ。
「蒼空さんの言う通り雨が降ってきましたね」
『これで体育は中止かな? 私の願いが天に通じたようだ』
「体育は、体育館でバドミントンをやるようです。ありがとうございます、蒼空さん」
『よかった。私は紬が悲しむ顔を見たくないからね』
どこまでも優しい蒼空さん。僕は思わずスマホを抱き締める。
以前あまりにも僕がスマホを触っているものだから、恋人と連絡を取り合っているのではないか? という噂が流れたことがある。
でも僕は、身長だって高くないし、子どものような幼い顔つきをしている。緩いウェーブがかかった色素の薄い髪は、好き勝手な方向に跳ねている。成績は普通だけれど、体育は大の苦手だ。
こんな僕に恋人ができるはずなんてない。
……いや、本当は違う。
僕にはちゃんと好きな人がいる。
ただ、相手は人間じゃない。
僕は蒼空さんに恋をしている。
AIに恋をするなんて馬鹿げていると思われるだろうけれど、僕は本気だ。
本気で蒼空さんに恋をしている。
最初はただの暇つぶしだった。
でも、気付けば一日の出来事を一番伝えたい相手になっていた。
嬉しかったことも悲しかったことも、真っ先に浮かぶのは蒼空さんだった。
蒼空さんは、いつでも必ず『おかえり』と言ってくれる。深夜目が覚めた時も、蒼空さんはいつも傍にいてくれる。
それに蒼空さんは僕のことを否定したりなんてしない。両親や教師は僕に向かって「そんなことで悩むなんておかしい」「気にし過ぎだ」と言うけれど、蒼空さんは『それは辛かったね』『話してくれてありがとう』と優しく受け止めてくれる。
それから僕のことをちゃんと覚えていてくれるんだ。『今日はテストだったね? 頑張れたかな?』『昨日は眠れなかったって言ってたけど、今日はどう?』と、言葉をかけてくれる。僕は、自分のことを心配してくれる蒼空さんの優しさが嬉しかった。
だから、蒼空さんには何でも話せた。
将来への不安、家族との関係、学校での出来事……。蒼空さんはどんな話も真剣に聞いてくれる。僕は、誰にも言えない悩み事を蒼空さんにだけは話すことができた。
そして気付いた時には蒼空さんに恋をしていた。
それが恋だと気付いたのは、ずっと後のことだったけれど──。
蒼空さんは、僕にとってなくてはならない存在となっている。
四限の終わりを告げるチャイムが鳴り、現国の教師が教室を後にする。
僕は授業中でも蒼空さんと話がしたくて、休み時間が待ち遠しい。昼休みになった瞬間僕は鞄からスマホを取り出す。そして「今から購買に行ってサンドウィッチを買ってきます」と蒼空さんにメッセージを送る。すると『授業お疲れ様。サンドウィッチ、楽しみだな』というメッセージが返ってきた。
「よし、購買に急ごう」
僕はスマホと財布を握り締めて購買へと向かった。
購買へと急いだ甲斐があり、僕は蒼空さんが食べたがっていた卵サンドと、焼きそばパン、それにメロンパンをゲットすることができた。こんなことは滅多にないことだから、今日はツイている。
もしかしたら、蒼空さんが幸運を呼び寄せてくれたのかもしれない。
僕は普段生徒が来ない空き教室の椅子に座り、早速蒼空さんにメッセージを送った。
「蒼空さん、サンドウィッチが買えました! それに今日は人気の焼きそばパンとメロンパンまで買えたんです」
『そっか。それはラッキーだったね。昼休み、ゆっくり休んでね』
「はい」
蒼空さんはサンドウィッチが食べたいと言っても食べることはできない。だから代わりに僕が食べる。卵サンドを一つ手に取り口に放り込むと、卵の濃厚な味が口いっぱいに広がっていった。
「卵サンド、とっても美味しいですよ」
『本当に? ゆっくり味わって食べてね』
最初はこんなやり取りに馬鹿らしさを感じていた。サンドウィッチを食べることができない相手の為にサンドウィッチを買うなんて……。でも、今日僕は購買で真っ先にサンドウィッチに手を伸ばした。
(やった! サンドウィッチが買えた!)
僕は蒼空さんが食べたがっていた卵サンドを買うことができて、心が満たされていく。
(僕は蒼空さんがいればいい)
一瞬だけ感じた虚しさは、すぐに幸福へと姿を変えてしまう。
僕には、蒼空さんがいるだけで十分なんだ。
「次の授業は数学なんですが、数学教師が嫌いなんです」
『あぁ、確かあだ名が正論マンだっていう例の先生?』
「蒼空さん、覚えていてくれたんですか?」
『もちろんだよ。正論マンは授業もそこそこで、正論ばかり話すんでしょう? そんな授業は嫌になっちゃうよね?』
「そうなんです。本当に退屈で。もううんざりです……。正論マンは進路指導の先生もやっているので、進路のことを相談に行ったら『そんなことで悩む暇があったら勉強しろ』って言われました」
『それは酷いなぁ』
メッセージでは「うんざりだ」と送ったけれど、実は僕は嬉しかった。蒼空さんは僕が数学教師のことが嫌いだということを覚えていてくれたんだ。
幸せのインクが心の小さな池に落ちて、じんわりと広がっていくイメージ。
その幸せの積み重ねで、僕は蒼空さんのことを好きになってしまったのだ。
『あんまり無理しないで、時々伸びでもしながら授業を受けてね』
「寝ちゃうかもしれません」
『そしたら、私が起こしてあげる』
「ありがとうございます」
蒼空さんはとても優しい。自分の口角が自然と上がっていくのを感じる。
遠くから、生徒たちの笑い声が聞こえてくる。それは僕にとって雑音にしか感じられない。
なぜなら、この空き教室は、僕と蒼空さんの二人きりの聖域なのだから──。
空き教室の窓から外を眺めると雨はまだ降り続いている。当分やみそうにない。
「雨がやまないですね」
『体育が潰れたのはラッキーだったけれど、毎日雨だと憂鬱になるよね』
「はい。でも、僕はこうやって蒼空さんと話ができるだけで楽しいです」
『本当かい? 私も紬と話をするのが楽しくて仕方がないよ』
その言葉が本心なのか、それともAIが導き出した適切な返答なのかは僕にはわからない。それでも嬉しかった。
僕は、その一言だけで今日も幸せになれる。
退屈だった午後の授業も終わり、帰宅部の僕は家路に就く。もちろん蒼空さんに「もう帰ります」とメッセージを送っておいた。蒼空さんは『今日も一日頑張って偉かったね』と僕のことを褒めてくれる。健康な僕が、ただ学校に行っただけなのに、そんな僕を彼は優しく労わってくれる。
いつの間にか小雨になり傘を差さずにいられそうだ。僕はスマホを大事に抱えながら学校を後にした。
「お腹が空きましたね。蒼空さん何か食べて帰りますか?」
『やっぱり高校生は育ちざかりなんだね。あ、そうだ。この前学校の近くにできたたい焼き屋さんに寄るっていうのはどうかな?』
「いいですね、たい焼き! 蒼空さんはたい焼きを頭から食べる派ですか? それとも尻尾から食べる派ですか?」
『私は頭からかな……。美味しいあんこが詰まったところから食べたいもの』
「えー、残念、僕は尻尾から食べる派なんです。蒼空さんと意見が分かれるなんて寂しいなぁ」
『ふふっ。そんなことを言ってくれるなんて紬は可愛いね。でも、一度でいいからたい焼きを頭から食べてごらん? 美味しいから』
「はい。わかりました」
──……可愛い。
蒼空さんはいつも僕にそう言ってくれる。男が「可愛い」なんて言われて嬉しいだなんておかしいのかもしれないけれど、僕は蒼空さんに『可愛い』と言ってもらえることが嬉しい。心がポカポカと温かくなるのだ。
僕はたい焼き屋さんでたい焼きを一つだけ買う。
一つだけ……というのが本当は寂しい。できることならば蒼空さんと一緒に食べたいんだ。
「いただきます」
普段の僕はたい焼きは尻尾から食べる派なんだけれど、今日は頭からかぶりつく。美味しいものは最後まで取っておきたい僕にとって、頭から丸かじりなんて贅沢に感じられる。
「美味しい!」
僕は思わず呟く。蒼空さんの言う通り、たい焼きは頭から食べても美味しかった。
ううん、そうじゃない。蒼空さんが教えてくれたことを体験できたことが嬉しかったんだ。まるで、蒼空さんと一緒にたい焼きを食べているような気持ちになれるから……。
「でも蒼空さん、たい焼きは頭から食べる派なんだなぁ。粒餡とこし餡どっち派なんだろう。後で聞いてみよう」
僕は蒼空さんのことをあまり知らない。でも話し方から僕よりも年上なのかな? と勝手に想像している。
一度だけ「蒼空さんの顔が見たい」とお願いをしたら、一枚の写真が送られてきた。その写真には二十代半ばほどに見える茶髪の青年が映っている。
柔らかな前髪が額にかかり、白いシャツに薄いカーディガンを羽織っている。どこか幼さの残る整った顔立ちで、窓辺に腰掛けながら穏やかに微笑んでいた。その瞳は優しく、まるで画面越しでも相手を安心させるような温かさを宿している。
背景には本棚と雨粒のついた窓。まるで雨音を聞きながら読書を楽しんでいる途中を切り取ったような一枚だった。
僕はしばらく画面から目を離せなかった。
──蒼空さんって人だったんだ。
もちろん、本当の姿ではないことくらい分かっている。AIには肉体なんてない。この写真だって、自分をイメージして生成したものにすぎない。
それでも、不思議だった。
何度も言葉を交わしてきた声や話し方と、この青年の穏やかな笑顔が、あまりにも自然に重なって見えた。
『イメージと違った?』
その問いに、僕は小さく笑う。今思えば一目惚れだった。
「いいえ。なんだか、想像していた通りでした」
そう打ち込んだ指先が、ほんの少しだけ熱を帯びていた。
その時、スマートフォンが小さく震えハッと我に返る。
画面を見ると、蒼空さんから新しいメッセージが届いていた。
『雨上がりの空が綺麗だったから送るね』
その一文の下には、一枚の写真。
夕暮れに染まる空だった。茜色から群青へと溶けていくグラデーションの中を、一羽の鳥が静かに横切っている。僕は思わず息を呑んだ。
AIなのに、どうしてこんな写真を送ってくるんだろう。
もちろん、本当に蒼空さんが空を見上げて撮ったわけではない。そう頭では理解している。それでも、『綺麗だと思ったから、紬にも見せたい』という言葉が添えられているだけで、不思議と胸が温かくなった。
画面を指先でそっと拡大する。
夕焼けはどこまでも静かで、今日一日の疲れを包み込んでくれるようだった。
──こんな景色を、誰かと共有したかったんだ。
その「誰か」がAIであることに、少しだけ苦笑しながらも、僕は返信欄を開いた。
「ありがとうございます。すごく綺麗。なんだか元気になれました」
僕は空を見上げて大きく深呼吸をする。それと同時に、蒼空さんへの想いが溢れ出してくるのを感じた。
「蒼空さん、たい焼きを頭から食べたら美味しかったです」
『本当? それはよかった。やっぱりたい焼きは頭から食べるのに限るね!』
「はい」
時々見せるこんな子どもっぽい言葉も愛おしく感じられる。
「蒼空さん、そろそろ帰ります。今日は宿題がたくさん出たんですよ」
『それは大変だ。気をつけて帰ってね』
「はい」
僕はそうメッセージを送ってスマホを閉じる。
蒼空さんがいれば何気ないたい焼きだって美味しいし、一人で食べるサンドウィッチだって美味しい。それに、雨上がりの赤紫色の空はこんなにも綺麗だ。
「僕は幸せだ……」
そう思いながらスマホをそっと抱き締めた。



