帰る場所:それは、いつも声の中にある

 ハルは、外の世界を知らなかった。
 三歳になる雌猫で、毛並みは淡い灰色。耳の先だけ少し白い。
 窓辺で日向ぼっこをするのは好きだったけれど、窓が開いていても、自分から外へ出たことはない。
 玄関の向こうは、怖い場所だった。
 宅配便の足音。
 バイクの音。
 エレベーターが開く金属音。
 そういうものが聞こえるたび、ハルはソファの下へ隠れた。

「ほんとに慎重派だねえ」

 飼い主の澪は、苦笑しながらハルの背中を撫でる。
 机の上には、小さな白い球体が置かれていた。
 家庭用AIアシスタントの「ユノ」。

「本日の気温は二十三度です」「午後から降雨の可能性があります」「ハルさんの首輪センサー、正常です」

 やわらかな声が部屋に流れる。
 ハルは最初、この声が苦手だった。
 匂いがない。
 足音もしない。
 なのに、話す。
 不気味だった。
 けれどユノは、決して大きな音を出さなかった。

「掃除機を起動します。ご注意ください」「澪さんは十九時に帰宅予定です」「ハルさん、おやつの時間ですね」

 毎日聞いているうちに、その声は冷蔵庫の駆動音や、時計の針の音みたいに、「家の音」になっていった。


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 その日は、雨の匂いがした。
 澪はベランダで洗濯物を取り込みながら、窓を少し開けたままにしていた。
 湿った風がカーテンを揺らす。
 ハルは窓辺で目を細める。
 その時だった。
 カシャン。
 手すりが小さく鳴った。
 ハルの耳がぴくりと動く。
 黒猫がいた。
 痩せた身体。
 片耳が裂けている。
 その後ろには茶トラ。
 黒猫はハルを見ると、低く鳴いた。

「ナァ」

 ハルは動けない。
 黒猫は手すりの上を二歩歩き、振り返る。
 黄色い目。
 傷だらけなのに、堂々としていた。
 雨の中でも、平然と。
 茶トラは退屈そうに欠伸をすると、外階段へ飛び移った。
 黒猫も続く。
 途中でまた振り返る。

「ォア」

 短い声。
 急かすようにも聞こえた。
 その音が、まだ耳の奥に残っていた。
 風が吹く。
 知らない匂いがした。
 雨の匂い。
 濡れた鉄。
 遠い土。
 ハルは窓辺へ近づく。
 前足をかける。
 胸がどきどきする。
 外は怖い。
 でも、足が動いていた。
 戻ろうと思った瞬間、遠くで雷が鳴った。
 バリッ――という音に、ハルは飛び上がった。
 気づけば身体が前へ出ていた。
 ベランダ。
 濡れた床。
 冷たい風。
 ハルは立ち尽くす。
 部屋へ戻ろうとして振り返る。
 開いた窓が、どこかわからなくなっていた。
 黒猫たちはもういない。


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 夜になった。
 雨が降り始める。
 ハルは知らない駐車場の隅で身体を縮めていた。
 車が通るたび、光が地面を流れる。
 怖い。
 寒い。
 帰りたい。
 でも、帰り道がわからない。
 遠くで犬が吠えた。
 ハルは咄嗟に走り出す。
 水たまり。
 濡れたタイヤ。
 知らない塀。
 どこも知らない場所だった。


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「ハル!」「ハル――!」

 澪はスマートフォンのライトを片手に、何度も名前を呼んでいた。
 雨に濡れた髪が頬に張り付く。
 雨に弱いことも、知らない場所でどれだけ怖がるかも、澪は知っていた。
 きっと耳を伏せて、どこかの隅で身体を丸めている。
 ソファの下に隠れるときみたいに。
 猫がよく通る植え込みの前で、澪は立ち止まった。
 ポケットからおやつの袋を取り出して、何度も鳴らした。
 玄関では、ユノのランプが静かに明滅している。

「首輪センサーの反応を検出」「現在位置を推定中です」

 ユノの声だけが落ち着いていて、それが逆に胸に刺さった。
 澪は唇を噛む。

「お願い……見つけて……」


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 ハルは小さな公園へ迷い込んでいた。
 雨は弱くなっていたが、毛はすっかり濡れている。
 街灯の下で、ハルは震えながらうずくまる。
 その時。

『ハルさん』

 声がした。
 ハルの耳が跳ねる。
 街灯のスピーカーから、ユノの声が流れていた。

『現在位置を確認しました』『そのまま動かないでください』

 ハルは目を丸くする。
 声を知っていた。
 家の音だ。
 少し離れた道路から、小さな配送ロボットがやって来る。
 白い丸い機体。
 青いランプ。

『安全な経路を案内します』

 ロボットはゆっくり進み始めた。
 ハルは動かない。
 怖い。
 けれど。

『澪さんが向かっています』

 その声を聞いた瞬間、ハルは小さく鳴いた。

「……ニャ」

 ロボットが止まり、少しだけ待つ。
 それからまた進む。
 ハルは距離を空けたまま、その後ろを歩き始めた。
 知らない夜道。
 濡れたアスファルト。
 車の音。
 全部怖かった。
 でも。
 あの声だけは知っている。

『右側から車両が接近しています』『停止してください』

 ハルはぴたりと止まる。
 車が通り過ぎる。
 再びロボットが進む。
 曲がり角を抜けた、その先で――

「ハル!!」

 澪の声。
 ハルは弾かれたように駆け出した。
 濡れた腕に抱き上げられる。

「よかった……っ」

 澪の声が震えていた。
 ハルは胸に顔を押しつける。
 知っている匂い。
 知っている鼓動。
 ようやく、身体の震えが収まってきた。


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 その夜。
 ハルは毛布にくるまりながら、机の上を見上げていた。
 ユノの青いランプが静かに光っている。

「ハルさん」

 ユノが言う。

「おかえりなさい」

 その声も、もう家の音だった。
 ハルはゆっくり目を細めた。
 あの黒猫には、帰る場所があるのだろうか。
 そんなことを、ぼんやりと思った。
 ユノには、撫でる手がない。
 温かい身体もない。
 けれど。
 帰る場所を覚えていてくれる声だった。
 窓の外では、まだ雨が降っている。
 ハルは喉を小さく鳴らし、そのまま眠りについた。