お前にセーター編みたいんだけど!

「押すなよ! 押すなよ!」
 勢い良くカーテンの中に入ってきたのは、多賀谷圭斗だった。せっかくのルックスなんだから、御簾を上げて顔を見せる光源氏よろしく(きら)びやかに登場すれば良いのに、彼は転びそうな勢いでやってきて、ベッド柵にしがみついた。
「フルゴリラめ! 余計なことを! 転ぶかと思った……!」
 押すなよ、というのが、押してくれという漫才だと、彼は知らないらしい。
「大丈夫……?」
「それ、俺の台詞」
 彼はベッド柵を支えにして立ち上がり、リュックサックをパイプ椅子に置いた。今日のカーディガンは、モスグリーンの細い毛糸で棒針編みだ。裾と前腕に透かし編みが入っていて、葉っぱみたいだ。つい注視してしまうと、彼はその場でくるりと回った。カーディガンの裾が少しと広がり、透かし編みが後ろ身頃まで一周入っているのが見えた。
「袖の模様は我ながら綺麗だけど、余計だったんだよね。汚れないように、とか、ほつれないように、とか気になっちゃう」
 彼は、もうひとつのパイプ椅子に腰を下ろした。
「高校受験の前日に思い立って編み図描いて、ゲージ編んで、気がつくと徹夜してた。馬鹿だよね、俺。でも、受験に合格して良かった」
「どっちも、頑張ったんだね」
「うん、頑張った。頑張って、良かった」
 俺の手元に目線を落とした彼は、うわ、と小さく叫んだ。
「フルゴリラのやつ、在庫処分かよ。ユカワヤの『わたあめ』、一昨年(おととし)のカラーだよこれ」
「詳しいな」
「シーズンごとにチェックしてるから」
 やっぱり彼は、編む人だ。俺と同じ……じゃなくて、俺なんかと違って。俺は、頑張れなかった。
「かぎ針のセット、迷惑だった?」
「そんなこと、ないよ。びっくりしたけど」
 家に置いておくのがもったいなくて、学校に持ち込んでいた。入院するときに、通学リュックをそのまま持ってきてしまったので、今も手元にある。彼に貢がれたかぎ針セットの値段を調べたところ、高校生のバイト代では買えない金額だった。
「バイト代貯めて良かったー!」
 高校生がバイトで貯めたお金だった。
「でも、なんで俺なんかに」
「なんか、じゃないよ」
 彼の手が、俺の手に触れる。利き手である右手の指先を撫でられると、痛みがあった。親指の先は皮膚が硬く、人差し指の第二関節の側面の皮膚は、ペンだこほどではないが膨れている。かぎ針を持ったときに当たる部分だ。彼の指先もまた、同じように皮膚が硬く、ペンだこ未満に膨れている。
「この高校に合格できて、入学できて、良かった。今は、独りじゃないって、思ってるよ」
 ひとりじゃない。そんなこと、言われたら。
「ずっと、独りで編んでた。じいさんもばあさんも、親も、姉貴も、全然ハンドメイドに興味がない人で、俺は小学校の家庭科でリリアン編みみたいなマフラーを編んでから沼にはまって、独学で。後ろ指差されないどころか、見向きもされなくて、わざと学校に着てきたりしてる。静かに見てくれるのは、透くんだけ」
 触られていた指先は、指を絡められ、温められる。どんなに彼に手を伸ばしても届かないと思っていたのに、そんな風に触られたら。
「……俺は、全然。ウエアが編めるほど上手くないし、多賀谷くんみたいに堂々とできるわけじゃないし」
 目を合わせられなくて、顔を伏せてしまう。遠目から見ていることで自分を律してきたはずだった。おばあちゃんの世話で気持ちを忙しくさせて、彼のことは考えないようにしてきたはずだった。それなのに。
「俺の名前、認知されてない?」
 彼は椅子から立ち上がり、ベッドに乗って膝を詰めてくる。
「してるよ!」
 否定すれば良かった。否定して、彼を遠ざけて、また遠目から見るだけの学校生活に戻れば充分だったのに。遅かった。もう、近過ぎる。
「圭斗」
 毛糸玉がするする(ほど)けるように、自分の中で固めていたものが緩み始め、絡めた指を解かれる。
「透」
 近づく彼の顔に、自分の顔を近づけ、唇で唇に触れた。離れるとき、既に、自分の涙が口の中に入っていた。
「……昔から、おばあちゃんと一緒に色んなものを編んでて、多分他人から見るとびっくりするくらい『おばあちゃん子』で」
 うん、と彼が相槌を打つ。
「農協の売店に売る小物とか、一緒に編んで売ってもらって」
「うん」
「おばあちゃんは、俺の自慢だった。今も、自慢のおばあちゃん」
「うん」
「でも、俺のエゴだったみたい」
 あの夜、おばあちゃんが俺に話してくれた。おばあちゃんは俺に内緒で、介護施設の入所を決めて、申し込んでいたことを。
 おばあちゃんが大腿骨を骨折して車椅子生活になった原因は、一過性の虚血性心不全だった。デイサービスに通いながら、父さんと母さんが介護施設を探し、あの日入所の日にちが決まった。俺に心配かけたくなくて、虚血性心不全のことは内緒にしていたという。でも、デイサービスに通っている間も何度か症状を起こし、父さんか母さんが仕事を早退して病院に行っていた。
 おばあちゃんには、今まで通りのおばあちゃんでいてほしくて、おむつの世話になってほしくなくて、認知症になってほしくなくて、編み物が得意なおばあちゃんでいてほしくて、俺はできることを何でもやった。
 昔みたいには編めないことに、気づいていた。だから、編みぐるみの仕上げを手伝い、スマホケースを編んで、おばあちゃんの名義で農協の売店に出品してもらった。
 今まで通りトイレに行けてほしくて、夜中でも2時間に1回は声をかけてトイレに行ってもらった。
 自分の勉強も(おろそ)かにできなくて、睡眠時間を削る生活だった。
「俺、馬鹿だよね。理想のおばあちゃんでいてほしくて、手を尽くしたけど、結局無意味で、高校だって家から一番近いところを選んだのに、そんな必要もなくなって」
「うん」
「無理させてごめんね、って、おばあちゃんに謝られた。おばあちゃんに無理をさせたのは、俺なのに」
 彼は相槌を打ちながら、俺の話を聞いてくれた。ごめん、こんな話。止まらない涙を手で拭うと、彼に抱きしめられた。カーディガンが汚れるかもしれないのに。
 彼が何か、呟いた。健気(けなげ)だよ、と言った気がした。
 そんなこと、ない。そう言おうとして、気づいた。古郡先生からもらった「わたあめ」が、ない。
「多賀谷、拾ってやってくれー」
 カーテンの下から、ぽんと「わたあめ」が投げ出される。
「フルゴリラ、帰ったんじゃないのかよ!」
 彼はベッドから下り、「わたあめ」を拾ってくれた。
「盗み聞きフルゴリラを連れて帰るね。透、また明日」
 彼は、リュックサックを背負い、颯爽とカーテンの間から廊下に出ていく。
 また明日。確かに、彼はそう行った。