昼休み、弁当を食べる元気もなく机に伏して寝ていると、女子の会話が聞こえた。
「うわ。この辺の農協がトレンドに入ってる」
「それって、農協の売店のこと? 近所のおばあちゃん達も、最近よく話してるよ。最近、可愛い編み物を出す人がいるって。これ、うちのおばあちゃんが撮った写真なんだけど、同じじゃない?」
「ほんとだ。農協って、こんなに可愛いの売ってるの? 偏見持ってたわ」
「隅っこのあみぐるみ、気になるんだけど。放課後行ってみようかな」
半分寝ながら、まずいことになったと思ってしまった。迂闊に農協に行けないじゃん。
「その写真、見せて」
女子の会話に、多賀谷が入り込んだ。
「ありがと」
多賀谷は、すぐに女子達から離れてしまった。
多賀谷の自由で堂々とした姿は、中学生までの何も知らない俺のようだ。誤解なきように補足するが、多賀谷が何も知らない子どものようだと非難しているのではない。むしろ、羨ましくて手を伸ばしたくなる。俺なんか手が届かないと、わかっているのに。
多賀谷と俺は、挨拶を交わす程度で、ほとんど喋ったことがない。俺の苗字である「安野」は周辺の市も含めて多過ぎる苗字だからだ。このクラスだけでも安野姓が6人いる。物心ついたときから、安野姓の子は下の名前で呼ばれるようになっていた。
だから多賀谷も、そんな理由で俺を親しげに呼んでくれるのだ。多分。
指先の痛みで目が覚め、気がつくと、俺は薄暗い教室で寝ていた。いつの間にか放課後になっていたようだ。やばい。午後の授業こそ、全く聞いていない。
突っ伏した机から顔を上げると、綺麗な顔が目の前にあった。多賀谷だ。
「透くん」
「やべえっ!」
一気に眠気が吹き飛んだ。今何時? そうね、だいたい17時。もう家に着いていないといけない時間だ。
俺は急いで校舎を出て、駐輪場に向かった。自転車にまたがって、高校の敷地を出ると、周りは田んぼだらけ。ほぼまっすぐの道を10分ほど走ると、家に着く。
帰宅後のルーティンを脳内シュミレーションしていると、後ろから声をかけられた。
「とおるーっ!!」
見えてないけど、自転車がすごいスピードで近づいてくる音が聞こえる。
「貢がせろーっ!!」
多賀谷だ。なんか怖いのと、構っている暇がないのとで、俺は振り向かずに全力で自転車を漕ぐ。赤信号に引っかかってしまい、振り返ると、ドルマンカーディガンをモモンガのようにはためかせて自転車に乗る多賀谷が距離を詰めている。
俺は人生で初めて、信号機の押しボタンを連打した。そんなことをしている間に、多賀谷に追いつかれた。多賀谷は自転車を止め、肩で荒い呼吸を繰り返す。
「こ、れ……透くんに」
多賀谷は、自転車の前かごに入れたリュックサックから、紙袋を出した。震える手で落としそうな紙袋を、俺は反射的に受け取ってしまった。
「……じゃあ、また明日、学校で」
多賀谷は、にっこり笑い、片手を上げる。左手だった。
信号が青に変わり、俺は自転車で横断歩道を渡った。
家に着くと、玄関前にハイエースが止まっていた。
「お世話になります、ひだまりデイサービスです。貴美子さんをお送りしました。急遽、他の利用者さんも一緒に送迎することになってしまい、予定より遅くなって申し訳ありませんでした」
いつもの人が、ハイエースから車椅子を降ろす。
「おかえり、おばあちゃん」
一応間に合ったことと、大好きなおばあちゃんの帰宅に、俺は安堵した。
俺が17時に帰宅しないといけなかったのは、デイサービスに通うおばあちゃんを出迎えて家に入れるためだ。
おばあちゃんは昨年、転んで大腿骨を骨折してしまい、骨の脆さと体力から手術はできないと医者に判断され、車椅子生活になった。
おじいちゃんは既に亡くなって、両親は共働きなので、平日の昼間はデイサービスに行ってもらい、俺は学校が終わるとおばあちゃんが帰宅する前に家の鍵を開けなくてはならない。
おばあちゃんは自分で車椅子を乗り降りできないので、俺が手伝っている。頭ははっきりしているし、食事も普通に食べられる。お風呂はデイサービスで入ってもらっているので、あまり手はかからない。
「おばあちゃん、トイレ大丈夫?」
「大丈夫よぉ」
おばあちゃんは、小柄で目が大きくて、リスみたいだ。俺は昔から、おばあちゃんに似ていると言われてきた。この歳になっても、おばあちゃんにとっての俺は「可愛い透ちゃん」なのだ。
「おばあちゃん、夕飯、何食べる?」
「お父さんが帰りに何か買ってくるって、言ってたわよ」
父さんは公務員で、司書の資格を生かして図書館で働いている。今年度から館長になったが、定時で帰るようにしてくれている。図書館の開館に合わせた勤務時間のため、朝はおばあちゃんをデイサービスに送り出してから出勤している。
「じゃあ、おばあちゃん」
「透ちゃんは本当に、他人のことばっかり。おばあちゃんのことは、もういいから、自分のことをやりなさい」
おばあちゃんは、デイサービスのバッグから、手仕事用の巾着を出した。
「でも、少しだけ手伝ってもらおうかしら」
「喜んで!」
おばあちゃんがテーブルに出したのは、編みぐるみのパーツだ。昔から編み物が好きで農協の工芸コーナーに出品しているおばあちゃんは、デイサービスでも何かしら編んでいる。ポーチだったり、コースターだったり……特に、編みぐるみは、おばあちゃんの得意分野だ。でも、おばあちゃんは昔のように作業できなくなってきている。
俺は、編みぐるみに綿を入れながら、おばあちゃんの話に耳を傾ける。昼食のメニューや、面白い職員のこと、歌を歌ったこと。俺の話も訊かれたが、俺は特に話すことが、ない。でも。
「何か、もらっちゃった」
多賀谷に渡された紙袋を開けると、かぎ針のセットと専用のケースが入っていた。ユカワヤ限定の販売で、持ち手の部分がパステルカラーで、かぎ針の太さによって持ち手の色が違う。俺が欲しかった商品だ。
「おばあちゃん、使う?」
「透ちゃんは、天然ねぇ。透ちゃんのことが好きだから、くれたんじゃないの? 透ちゃんが、使いなさいな」
おばあちゃんが使っているかぎ針は、昔ながらの、金属製だ。長時間使っていると指が痛くなる。多賀谷がくれたかぎ針なら、おばあちゃんも苦労せずに使えると思ったのだけど。
多賀谷は、俺のことが好き? まさか。いつもみんなの中心にいる、明るくてルックスの良い多賀谷が。ぼっちの俺なんかにも声をかけてくれる、気さくな多賀谷が。貢がせろ、と自転車で俺を追いかけ回す、多賀谷が。俺なんかが手を伸ばしても届くはずのない、多賀谷圭斗。
最大の疑問は、なぜ多賀谷は、俺も編み物をすると知っているのか、ということだ。知られた? どこで? 学校では編み物を持ち込まないし、話をする相手もいないのに。俺と同じ中学の人か? その人達も知らないはずだ。
編みぐるみに綿を詰め、パーツを綴じ合わせ、可愛いクマ達が完成しても、疑問は解消しなかった。
父さんがスーパーのお惣菜を買ってきて、今朝の味噌汁の残りと白ご飯で夕食にした。一般企業で経理の仕事をしている母さんは、残業だと連絡があり、三人での夕食だ。
「透、おばあちゃんなんだけどな」
父さんが話し始めて、おばあちゃんが止めた。
「自分から話したいの。おばあちゃん、自分で決めたから」
おばあちゃんが決めたことというのは、俺が受け入れるには時間のかかる話だった。
「うわ。この辺の農協がトレンドに入ってる」
「それって、農協の売店のこと? 近所のおばあちゃん達も、最近よく話してるよ。最近、可愛い編み物を出す人がいるって。これ、うちのおばあちゃんが撮った写真なんだけど、同じじゃない?」
「ほんとだ。農協って、こんなに可愛いの売ってるの? 偏見持ってたわ」
「隅っこのあみぐるみ、気になるんだけど。放課後行ってみようかな」
半分寝ながら、まずいことになったと思ってしまった。迂闊に農協に行けないじゃん。
「その写真、見せて」
女子の会話に、多賀谷が入り込んだ。
「ありがと」
多賀谷は、すぐに女子達から離れてしまった。
多賀谷の自由で堂々とした姿は、中学生までの何も知らない俺のようだ。誤解なきように補足するが、多賀谷が何も知らない子どものようだと非難しているのではない。むしろ、羨ましくて手を伸ばしたくなる。俺なんか手が届かないと、わかっているのに。
多賀谷と俺は、挨拶を交わす程度で、ほとんど喋ったことがない。俺の苗字である「安野」は周辺の市も含めて多過ぎる苗字だからだ。このクラスだけでも安野姓が6人いる。物心ついたときから、安野姓の子は下の名前で呼ばれるようになっていた。
だから多賀谷も、そんな理由で俺を親しげに呼んでくれるのだ。多分。
指先の痛みで目が覚め、気がつくと、俺は薄暗い教室で寝ていた。いつの間にか放課後になっていたようだ。やばい。午後の授業こそ、全く聞いていない。
突っ伏した机から顔を上げると、綺麗な顔が目の前にあった。多賀谷だ。
「透くん」
「やべえっ!」
一気に眠気が吹き飛んだ。今何時? そうね、だいたい17時。もう家に着いていないといけない時間だ。
俺は急いで校舎を出て、駐輪場に向かった。自転車にまたがって、高校の敷地を出ると、周りは田んぼだらけ。ほぼまっすぐの道を10分ほど走ると、家に着く。
帰宅後のルーティンを脳内シュミレーションしていると、後ろから声をかけられた。
「とおるーっ!!」
見えてないけど、自転車がすごいスピードで近づいてくる音が聞こえる。
「貢がせろーっ!!」
多賀谷だ。なんか怖いのと、構っている暇がないのとで、俺は振り向かずに全力で自転車を漕ぐ。赤信号に引っかかってしまい、振り返ると、ドルマンカーディガンをモモンガのようにはためかせて自転車に乗る多賀谷が距離を詰めている。
俺は人生で初めて、信号機の押しボタンを連打した。そんなことをしている間に、多賀谷に追いつかれた。多賀谷は自転車を止め、肩で荒い呼吸を繰り返す。
「こ、れ……透くんに」
多賀谷は、自転車の前かごに入れたリュックサックから、紙袋を出した。震える手で落としそうな紙袋を、俺は反射的に受け取ってしまった。
「……じゃあ、また明日、学校で」
多賀谷は、にっこり笑い、片手を上げる。左手だった。
信号が青に変わり、俺は自転車で横断歩道を渡った。
家に着くと、玄関前にハイエースが止まっていた。
「お世話になります、ひだまりデイサービスです。貴美子さんをお送りしました。急遽、他の利用者さんも一緒に送迎することになってしまい、予定より遅くなって申し訳ありませんでした」
いつもの人が、ハイエースから車椅子を降ろす。
「おかえり、おばあちゃん」
一応間に合ったことと、大好きなおばあちゃんの帰宅に、俺は安堵した。
俺が17時に帰宅しないといけなかったのは、デイサービスに通うおばあちゃんを出迎えて家に入れるためだ。
おばあちゃんは昨年、転んで大腿骨を骨折してしまい、骨の脆さと体力から手術はできないと医者に判断され、車椅子生活になった。
おじいちゃんは既に亡くなって、両親は共働きなので、平日の昼間はデイサービスに行ってもらい、俺は学校が終わるとおばあちゃんが帰宅する前に家の鍵を開けなくてはならない。
おばあちゃんは自分で車椅子を乗り降りできないので、俺が手伝っている。頭ははっきりしているし、食事も普通に食べられる。お風呂はデイサービスで入ってもらっているので、あまり手はかからない。
「おばあちゃん、トイレ大丈夫?」
「大丈夫よぉ」
おばあちゃんは、小柄で目が大きくて、リスみたいだ。俺は昔から、おばあちゃんに似ていると言われてきた。この歳になっても、おばあちゃんにとっての俺は「可愛い透ちゃん」なのだ。
「おばあちゃん、夕飯、何食べる?」
「お父さんが帰りに何か買ってくるって、言ってたわよ」
父さんは公務員で、司書の資格を生かして図書館で働いている。今年度から館長になったが、定時で帰るようにしてくれている。図書館の開館に合わせた勤務時間のため、朝はおばあちゃんをデイサービスに送り出してから出勤している。
「じゃあ、おばあちゃん」
「透ちゃんは本当に、他人のことばっかり。おばあちゃんのことは、もういいから、自分のことをやりなさい」
おばあちゃんは、デイサービスのバッグから、手仕事用の巾着を出した。
「でも、少しだけ手伝ってもらおうかしら」
「喜んで!」
おばあちゃんがテーブルに出したのは、編みぐるみのパーツだ。昔から編み物が好きで農協の工芸コーナーに出品しているおばあちゃんは、デイサービスでも何かしら編んでいる。ポーチだったり、コースターだったり……特に、編みぐるみは、おばあちゃんの得意分野だ。でも、おばあちゃんは昔のように作業できなくなってきている。
俺は、編みぐるみに綿を入れながら、おばあちゃんの話に耳を傾ける。昼食のメニューや、面白い職員のこと、歌を歌ったこと。俺の話も訊かれたが、俺は特に話すことが、ない。でも。
「何か、もらっちゃった」
多賀谷に渡された紙袋を開けると、かぎ針のセットと専用のケースが入っていた。ユカワヤ限定の販売で、持ち手の部分がパステルカラーで、かぎ針の太さによって持ち手の色が違う。俺が欲しかった商品だ。
「おばあちゃん、使う?」
「透ちゃんは、天然ねぇ。透ちゃんのことが好きだから、くれたんじゃないの? 透ちゃんが、使いなさいな」
おばあちゃんが使っているかぎ針は、昔ながらの、金属製だ。長時間使っていると指が痛くなる。多賀谷がくれたかぎ針なら、おばあちゃんも苦労せずに使えると思ったのだけど。
多賀谷は、俺のことが好き? まさか。いつもみんなの中心にいる、明るくてルックスの良い多賀谷が。ぼっちの俺なんかにも声をかけてくれる、気さくな多賀谷が。貢がせろ、と自転車で俺を追いかけ回す、多賀谷が。俺なんかが手を伸ばしても届くはずのない、多賀谷圭斗。
最大の疑問は、なぜ多賀谷は、俺も編み物をすると知っているのか、ということだ。知られた? どこで? 学校では編み物を持ち込まないし、話をする相手もいないのに。俺と同じ中学の人か? その人達も知らないはずだ。
編みぐるみに綿を詰め、パーツを綴じ合わせ、可愛いクマ達が完成しても、疑問は解消しなかった。
父さんがスーパーのお惣菜を買ってきて、今朝の味噌汁の残りと白ご飯で夕食にした。一般企業で経理の仕事をしている母さんは、残業だと連絡があり、三人での夕食だ。
「透、おばあちゃんなんだけどな」
父さんが話し始めて、おばあちゃんが止めた。
「自分から話したいの。おばあちゃん、自分で決めたから」
おばあちゃんが決めたことというのは、俺が受け入れるには時間のかかる話だった。



