辺境島の花嫁

 翌朝には熱も下がり、昼を過ぎるころには、寝ているのにも飽きてしまった。

 おばあちゃんからは今日一日くらい大人しくしていなさいと言われていたけれど、起き上がってみても身体の重さはほとんど残っていない。昨日から使っていた部屋の布団を整え、窓を少し開けて空気を入れ替えてから、私は雑巾を一枚借りて廊下へ出た。

 おばあちゃんの家に泊まって、熱が下がったあとは、こうして廊下を磨くことにしている。

 この家の廊下は長い。古い木造のお屋敷なので、私の家のようにどこも同じ床材で整えられているわけではなく、部屋と部屋をつなぐ廊下には、年月のせいで少し色の濃くなった板が並んでいる。

 雑巾を両手で押さえて廊下の端から拭いていくと、木目に沿って薄く残っていた埃が取れ、進んだ分だけ床がすっきりしていく。昨日まで寝ていたぶん身体を動かせるのも嬉しくて、最初は一往復だけのつもりだったのに、気づけば廊下の端まできれいに磨いていた。

 使った雑巾を洗ってきれいに絞り、決められた場所へ戻す。

 まだ病み上がりなのだから、今日はこのくらいにしておいたほうがいい。

 手を洗ってから、おばあちゃんの部屋へ向かった。

 廊下のいちばん奥にある部屋の前まで行くと、襖が少しだけ開いている。中を覗くと、おばあちゃんは窓際の椅子に座り、膝の上に布を広げていた。

「おばあちゃん、入ってもいい?」

「ええ。いらっしゃい」

 返事を聞いて中へ入る。

 おばあちゃんの手元には、淡い色の布と何本かの糸が置かれていた。今日は刺繍をしているらしく、細い針を布へ通しては、裏側から糸を引き出している。

 おばあちゃんは編み物も縫い物も好きで、昔から何かしら手を動かしていた。私が幼いころにも、ここへ来ると毛糸の玉や刺繍糸が籠の中に入っていて、触って絡ませないように気をつけなさいと言われた覚えがある。

 そのおばあちゃんの肩のあたりに、今日もぽわぽわとしたものが浮かんでいた。

 色があるようにも見えるし、ないようにも見える。煙ほどはっきりしているわけでもなく、光と言うにはぼんやりしていて、おばあちゃんのまわりをゆっくり漂っている。

 私には昔から、それが見えていた。

 何なのかは分からない。

 おばあちゃんに聞いたこともあったけれど、そのたびに少し笑うだけで、きちんとした名前を教えてくれたことはなかった。

 だから今では、おばあちゃんのそばにあるのが当たり前になっている。

 もしかしたら、優しい人に見える温かいオーラなのかもしれない。

「小鳩?」

「あ……ううん。なんでもない」

 見つめすぎていたらしい。

 おばあちゃんは不思議そうに私を見ると、手にしていた針を布へ刺したまま止めた。

「それよりあなた、ちゃんと寝ていたの?」

「寝てたよ。熱ももうないし」

「そう。ならいいけれど」

 そう言いながら、おばあちゃんの視線が私の手へ落ちた。

「……小鳩。また、廊下を磨いたのね?」

「熱も下がったし、少しだけだよ」

「ちゃんと綺麗になった?」

「うん。ぴかぴか」

「そう。それならよかった」

 おばあちゃんは頷くと、膝の上の布へ視線を戻した。

「でも、今日はもうおしまいにしておきなさい。熱が下がったばかりなんだから」

「うん」

「暇なら、こっちにいらっしゃい。ちょうど迷っていたところなの」

 おばあちゃんが隣の椅子を示したので、私はそこへ座って手元を覗き込んだ。

 白い布には、小さな花がいくつも刺繍されていた。丸い花びらのものや細長い葉をつけたものが並んでいて、その端に、まだ何も縫われていない花が一つ残っている。

「この花、何色にしようかと思って」

 おばあちゃんは傍らの籠から二本の刺繍糸を取り出した。薄い青と、少しくすんだ藤色だった。

「小鳩はどちらが好き?」

「私は……こっちかな」

 藤色の糸を指すと、おばあちゃんはその糸を手に取った。

「じゃあ、これにしましょう」

「いいの?」

「小鳩が選んだんでしょう?」

 それだけ言って、おばあちゃんは針に藤色の糸を通した。

 白い布の上に針が落ち、一針ずつ花びらの形ができていく。私はその隣で、さっき自分が選んだ色が少しずつ花になっていくのを眺めていた。

 藤色の花が少しずつできていくのを眺めているうちに、昨日、綾香さんに聞いたことを思い出した。

「ねえ、おばあちゃん」

「なあに?」

「おばあちゃんは、おじいちゃんとどうやって結婚したの?」

 おばあちゃんは針を動かす手を止めて、少しだけ考えた。

「そうねえ。私は、おじいちゃんにずいぶん好かれていたのよ」

「おばあちゃんは?」

「私は、どうだったかしらね……。でも、あの人が私を大切にしてくれていることは分かったから、この人の気持ちを受け取ってみようと思ったの」

「それで結婚したの?」

「ええ。好きになったのは、そのあとだったかもしれないわね」

 そう言って、おばあちゃんはまた針を動かし始めた。

 私は出来上がりかけの藤色の花を見ながら、そんな結婚の仕方もあるんだ、と思った。