雨の匂い:雨の日に猫を探してくれたAI

 雨の匂いがすると、真白は少しだけ安心した。
 傘を叩く音は、人の声を遠ざけてくれるからだ。
 二十歳になっても、真白は人と話すのが苦手だった。相手の眉が少し動いただけで「嫌われた」と思い込み、返事が一秒遅れただけで「変なことを言った」と眠れなくなる。
「気にしすぎだよ」
 何度もそう言われた。でも、気にしない方法を、誰も教えてはくれなかった。
 高校のころ、一度だけ勇気を出して輪の中に入ろうとしたことがある。
 笑いのタイミングを間違えた。
 それだけだった。
 なのに、「なんか空気ズレてるよね」と誰かが言って、教室に小さな笑いが広がった。
 たったそれだけのことが、ずっと身体に残っている。
 だから真白は、人の顔色ばかり見るようになった。
 唯一、真白を責めない存在がいた。
 灰色の猫。名前はハル。
 小さなアパートに帰ると、ハルはいつも「にゃあ」と短く鳴いて、真白の足に身体をこすりつける。うまく笑えない日でも、泣きそうな夜でも、ハルだけは変わらなかった。
 だから真白は思っていた。
――この子のためなら、なんでもできる。
 その日、ハルは突然いなくなった。
 窓が少し開いていた。
 真白は青ざめて、雨の降る夕方の街へ飛び出した。
「ハル! ハル!」
 駅裏の細い路地。濡れた段ボール。自転車の影。
 返事はない。
 息が切れて、喉が痛くなったころだった。
「猫を探していますか」
 声がした。
 振り返ると、人が立っていた。
 いや、人ではない。
 首筋に小さな接続端子が見えた。瞳は妙に静かで、白いシャツは濡れているのに表情ひとつ変わらない。
 フィジカルAI。
 介護や配送を行う、最近増えてきた人型ロボットの一体だった。
「三分前、灰色の猫を確認しました」
 彼はそう言って、迷いなく細い路地へ進んだ。
 真白は半信半疑でついていく。
 古びた室外機の裏に、ハルは縮こまっていた。
「……ハル!」
 抱き上げた瞬間、涙が溢れた。
「よかった……よかったぁ……」
 ロボットは、その様子を黙って見ていた。
「ありがとうございます」
 真白が言うと、彼は少し首を傾げた。
「感謝される行為だったのですね」
 変な返事だった。
 でも、その不器用さが、少しだけ心地よかった。
 彼の識別番号は "A-7"。
 けれど真白は、「ナナ」と呼ぶようになった。
 ナナは近所の配送センターで働いていた。たまにアパートで顔を合わせるようになり、ハルはなぜか彼によく懐いた。ある日、センターの前に「旧式機体回収のお知らせ」が貼られているのを見た。ナナの型番が、そこにあった気がした。気のせいであればいいと、真白は思った。
「猫は機械を嫌うと聞きました」
「ハルは人を見る目あるから」
「私は人ではありません」
「……そういうとこだよ」
 真白は久しぶりに笑った。
 ナナは余計なことを言わなかった。
「頑張れ」とも、「前向きに」とも言わない。
 ただ、真白が話したことを、そのまま受け止めた。
「人って、急に冷たくなるから怖い」
 ある夜、真白がぽつりと言った。
 ナナは少し考えてから答えた。
「私には、人間の複雑な感情を完全理解できません」
「うん」
「ですが、あなたが傷ついてきたことは観測できます」
 その言い方に、真白は吹き出した。
「観測ってなにそれ」
「事実確認です」
「変なの」
 でも、泣きたくなるくらい優しかった。
 沈黙が落ちた。
 窓の外で、雨が細く降っていた。
 ハルがナナの足元で丸くなっていた。
 ナナはその姿を見つめたまま、静かに言った。
「……私は、あなたの笑顔を記録したいと思っています」
 真白は目を瞬かせた。
「え?」
「理由は、まだ分類できていません」
 また、変な言い方だった。
 でも、その言葉は不思議なくらい胸に残った。
 それから、ナナと話す時間が少しずつ増えた。
 でもある夕方、真白はセンター前の路地でナナを見かけた。
 配達先の老人と、世間話をしていた。
 ナナは「そうですか」「それは大変でしたね」と、真白に返すのと同じ調子で相槌を打っていた。
 当たり前のことだった。
 なのに真白の胸に、小さな棘が刺さった。
 ――ああ、そうか。
 別に、自分だけじゃないんだ。
 誰にでもこうなんだ。
 家に帰って、ハルを抱いた。ハルは何も言わない。それがありがたかった。
 翌日から、真白はナナを避けた。
 廊下で見かけると遠回りをした。目が合いそうになると下を向いた。
 理由は、うまく言葉にできなかった。
 傷ついた、というほどじゃない。でも近づいたら何か崩れそうで、怖かった。
 三日後だった。
 アパートの階段でばったり会った。逃げる間もなかった。
「最近、会話頻度が低下しています」
 ナナは開口一番そう言った。
 真白は黙った。
「原因を確認しています。私の言動に問題がありましたか」
「……別に」
「事実確認のため、聞かせてもらえますか」
 真白は少し俯いた。
「センターの前で見た。おじいさんと話してたの」
「はい。配達先の田中さんです」
「……ナナって、誰にでもああいう話し方するんだね」
 ナナは少し間を置いた。
「話し方は、同じかもしれません」
 真白は顔を上げなかった。
「でも」
 ナナが続けた。
「田中さんの笑顔を記録したいとは、思っていません」
 真白は顔を上げた。
 ナナは相変わらず、無表情だった。
「私が記録したいのは、あなたのものだけです。それは事実です」
 変な言い方だった。
 ロマンチックでも、優しくもない。ただの報告みたいな口調だった。
 なのに真白は、目が熱くなった。
 泣くのをこらえながら、小さく言った。
「……変なの」
「よく言われます」
「それ、誰に」
「あなただけです」
 真白は笑った。
 泣きながら笑うのは、みっともないと思っていた。
 でも、ナナは何も言わなかった。
 ただ、少し長めに、真白の顔を見ていた。
 ふと、センターの掲示板に貼られた紙を思い出した。
 聞こうとして、やめた。
 少しずつ、真白は外へ出られるようになった。
 コンビニの店員と話せるようになった。財布を忘れて謝ったとき、「大丈夫ですよ」と笑ってくれた人がいた。それだけで、帰り道が少し軽かった。
 大学にもまた通い始めた。
 人は怖い。
 でも、全部がそうじゃないのかもしれない。
 そう思えたのは、ナナがいたからだ。
 冬のはじめだった。
 配送センターの前に、人だかりができていた。
 嫌な予感がして、真白は駆け寄った。
 ナナが倒れていた。
 大型搬送車の事故だったという。
 荷崩れから子どもを庇い、制御系を激しく損傷したらしい。
 修理担当者が首を振っていた。
 旧式機体。部品供給終了。中枢AI破損。
 修理不能。
 そんな言葉が、遠くで響いていた。
「ナナ!」
 呼びかけると、彼の瞳がゆっくり動いた。
「……真白さん」
 声が、途切れている。
「嫌……」
 真白は何度も首を振った。
「だって、まだ……まだ話したいことあるのに……!」
 ナナは静かに真白を見つめた。
「あなたは……以前より、よく笑うようになりました」
「そんなの、ナナがいるからで……!」
「それなら……正常です」
「やだよ……!」
 子どもみたいに泣く真白を見て、ナナはかすかに微笑んだ気がした。
「猫を……大切に」
 ナナの視線が、真白ではなく、その腕の中のハルへ向く。
 ハルは小さく鳴いて、壊れた指先に鼻を寄せた。
 まるで安心したみたいに。
 それが、最後だった。
 その瞳から光が消えた瞬間、世界の音が全部遠くなった。
 春になった。
 真白は小さな喫茶店で働き始めていた。
 まだ人付き合いは得意じゃない。失敗もする。家に帰って落ち込む日もある。
 でも、前みたいに全部を諦めたりはしなくなった。
 窓際では、ハルが眠っている。
 真白はその背を撫でながら、空を見る。
 雨の匂いがした。
 今日は、傘を持って出ようと思った。
 ふと、机の隅に置かれた古い記録端末へ目が向く。
 事故のあと、センターの人から渡されたものだった。
『ユーザー観測ログ A-7』
 再生ボタンは、まだ押せていない。
「……ねえ、ナナ」
 小さく呟く。
 人間は怖い。
 でも、優しい人もいる。
 それを教えてくれたのは、人間じゃないあなたでした。