奴延鳥の一途婚 〜生贄として捨てられた花嫁は、最強のあやかし当主に『最愛の番』として溺愛される〜

 たとえば、身の回りの世話だとか、洗濯や掃除だとか、そういうことを――つまりは、“ただの人間”にも出来ることを――言われるかもしれない、と思っていた。或いは、今すぐ部屋へ戻って寝るように、と、やさしい彼なら言うかもしれない、とも。

 だから、“触れさせてほしい”という頼みはまるで想像だにしていなく、須臾の間、千代は理解に遅れて、きょとんと目を瞬かせた。何処からともなく、鳥の鳴き声が聞こえる。近くを流れる遣水か、それとも池の方で小さな飛沫の立つ音も。それらは、ふたりの間に流れる沈黙をより際立たせ、千代の頭の中からあぶくのような言葉たちを奪ってゆく。

 何か出来ることはあるか、と問うたのは、自分の方であるはずなのに。二の句が継げず、口を噤んでしまったことに、内心焦りのような、不安のようなものが浮かんでくる。嫌なわけでは、決してない。自分自身でも驚いてしまうほど、彼に触れられるのは不快なことではなかった。寧ろ――。そこまで考え、千代はどきりとする。恥ずかしい、というより、それは――。

「すまない。困らせるつもりはなかった」

 気まずい静寂を、どうやら困惑や拒絶と受け取ったらしい。夜彌は罰の悪そうな顔でそう告げると、腿の上に置いた横笛にそうっと触れた。その指先に、心做しかうら淋しさのような、憂いのようなものが滲んでいるように感じられ、千代ははっと我に返る。礼を伝える以外に出来ることはないか、と、そう思ったくせに。なにを躊躇っているのだろう。

「いえ、困っているわけではないのです! 少し、その……意外でしたので、驚いてしまって」

 慌てて首を横に振り、ついでに両手も胸の前で忙しなく振る。その必死さが可笑しかったのか、夜彌はくすりと笑い、安堵のような吐息を小さくこぼした。

「何処に触れていただいても、私は大丈夫です」

 貴方になら――。そんな言葉がふと浮かび、千代は慌ててそれを呑み込むと、誤魔化すように大きく両手を広げてみせた。まるで身諸共、全てを差し出すかのように。そんな彼女に、夜彌は僅かに目を見開かせたものの、今度はははっと、愉快そうに声をあげて笑った。

「相変わらずのようだな」
「ずっと思っていたのですけれど……」

 言葉に迷うように小さな間をひとつ置き、千代は躊躇いがちに言葉を継ぐ。

「何処かでお会いしたことが、その……あるのでしょうか」
「さあ、どうだろう」

 飄々とした口調でやんわりとはぐらかし、夜彌はやわらかな微笑を湛えたまま、千代の頬へそっと右手を伸ばす。色の白い、ほっそりとしていながらも骨の張った、男らしい指。肌に触れる刹那、彼は逡巡するように手をとめたけれど、しかしすぐに、大きな掌で千代の頬をやさしく包み込んだ。

 触れ合った場所から、穏やかなぬくもりがじんわりと伝わってくる。それはとても心地の良いものだった。身も心もふわりと緩むような、或いは、とろりと蕩けてしまうような。母でも父でもない、全くの他人のぬくもりが、こんなにも肌に馴染むというのは不思議なものだ、と、千代はゆるゆると両腕を下ろしながら、うっとりと感慨に耽る。もっと触れていたい、と思う。少しの隙間もないほど、ぴったりと。思わず頬擦りをしてしまいそうになるのを堪えるのは、だからひどく苦しいものだった。離れてほしくない。出来ることなら、ずっとこのままでいてほしい。

「――本当に、生きているんだな」

 けれど、そんな切なくも恍惚とした心地は、ぽつりとこぼされた彼の呟きによって、瞬く間に弾け散った。

 安心したような、でも、悲哀に濡れてもいるような。言葉ではとても言い表すことの出来ない複雑なその響きは、千代の胸を冷たく締め付ける。そろりと見上げた美しいかんばせは、さっきまでと変わらず、やわらかく綻んだままだというのに。磨き上げられた玉のような金の瞳は、千代を見ていながら、しかし全く違う何かを見ているようだった。此処ではない何処かを。或いは――此処にはいない“誰か”を。


▽


 今でもはっきりと憶えている。指先に触れた、つるりと冷たい――残酷なほど凍てついた――感触を。剥き出しの硬さを。腕の中に抱き上げたそれは、あまりにも軽かった。脆く、儚く。故に縋りつきたくとも、そうすることは出来なかった。そうしてしまえば最後、唯一の“証”さえ失ってしまいそうで。

 死んだ者は、生き返らない。

 だからこそ命は尊いのだと、有徳の者たちほどしたり顔でそうのたまうけれど。彼等にとってそれは、単なる建前に過ぎない。やれ天災だの、やれ神の怒りだのと言っては、鎮める為に人身御供――最上級の捧げ物――が必要だともっともらしく嘯くのは、往々にしてそういった者たちなのだから。

 ――人間は、時に冷淡なほど惨くもなれる。

 ひどく懐かしい声を鼓膜の裏側に響かせながら、夜彌はゆっくりと瞼を持ち上げる。頬を撫でるしっとりとした夜風のやわらかさが、心地良い。丸く刳られた窓から垂らした指先に、床下を流れる水の、ひんやりとした気配を感じる。小さな光の粒の揺蕩う水面、さらさらとした涼やかな音色、水鏡に映る青白い月。

 凭れ掛かった窓枠に頬杖をつき、深く吸い込んだ息を細く長く吐き出す。そうして、垂らしていた腕を徐に引き戻し、開いた掌をじっと見つめる。――あたたかかった、と思いながら。心から、しみじみと。彼女の肌はとてもあたたかく、そして真綿のようにやわらかかった、と。そこに、あの時の冷たさや硬さ、そして儚いほどの軽さは微塵もなかった。

 彼女は、生きている――。そう思い、なんて馬鹿なことを考えているのだろう、と、夜彌は小さく自嘲をこぼす。人は死ぬ。死した者は、何をどうしようとも、二度と生き返ることはない。“彼女”は、疾うに死んだのだ。何年、何十年、何百年経とうともその事実が変わることはなく――そう、その事実を、あの時まざまざと突きつけられたのではなかったか。それなのに、今もまだ一縷の望みに、情けなくもしがみつこうとしてしまう。“彼女”はもうこの世の何処にもいないというのに。けれど、彼女は確かに生きて――。

「……馬鹿馬鹿しい」

 苦々しく独り言ち、しっとりとした夜気の中に重たい溜息を吐いて、静かに瞼を伏せた。忽ち視界を覆う暗闇の中に、最期に見た“彼女”の明るい笑顔が、まるで昨日のことのように鮮明に浮かび上がる。殆どそこに焼き付いていると言っても、過言ではない。忘れることなんて、出来なかった。出来るわけがない。幾星霜過ぎようとも。あんなにも恋い焦がれた存在など、他にはいないのだから。

 ――人間だろうとあやかしだろうと、関係ありません。

 意思の強い女だった。けれど、ひどく淋しがりな女でもあった。生真面目で、律儀で、しとやかだけれども潑剌としていて。

 ――夜彌様、見て下さい!

 屈託のない笑みも、含羞を滲ませた笑みも、拗ねたような子どもじみた顔も、悲しみを堪えた顔も。何もかも、“彼女”の全てが愛おしかった。心の底から。“彼女”だけは、幸せになってほしかった。――幸せに、したかった。

「猿面の男、か」

 脳裏に、ひとつに結わえられた長い髪の毛が、ゆらりと過ぎる。夜彌は微かに口角を上げ、そうして、少しずつ薄れゆくぬくもりを惜しむように、そっと掌を握り締めた。

 ――約束しよう。男に二言はない。