「今のは……」
形代の消えていった夜空を唖然と見つめながら、千代はぽつりと、言葉をこぼす。都には陰陽師や大巫女といった、呪術や神力を操って普通の人間には成し得ぬこと――呪いを祓ったり、神の加護を賜ったり――を生業とする者たちがいるけれど。辺鄙なところにある小さな村で生まれ育った千代は、もちろんそんな彼等とは無縁だった。会ったこともなければ、彼等の得手とする術を目の当たりにしたこともない。
故に、形代が――確かにそこに存在したはずのものが――ひとりでに消えてしまうという、なんとも不可思議な光景には、慣れていなかった。もしあの村で今と同じようなことが起これば、ちょっとした騒ぎになるだろう。それくらい、馴染みがないのだ。都に住まわぬ――正しく言うならば、ある程度の地位にある者たち以外――にとっては。
「式神だ。形代に妖力を与えることで、自在に使役することが出来る」
初めて“本物”を見た、と、目を丸くする千代の隣で、夜彌は愉しげにくつくつと笑った。彼にとっては、式神に驚くその反応の方が、よほど珍しかったのかもしれない。此処には、人ならざるものしか棲んでいないのだから。式神は、人の世――現世――でのそれより、日常生活の些細なことにすら用いられるほど、ありふれた存在なのだろう。
「葛ノ葉に、灯りを用意するよう伝えた。直に、あいつが狐火を持って行くだろう」
まるでなんでもないことのようにそう言って、夜彌は吐息のような笑みをこぼしたけれど。しかし、千代は彼の紡いだ名――葛ノ葉、というそのひと言に、思わず身を竦めた。人と殆ど変わらぬ姿をしていながら、しかし、人にはないもの――狐と同じ耳と尾――を持った、白銀の麗しい男。対面所で向けられた冷ややかな薄紫色の瞳を、まるで突き刺すようなその鋭さを、今もまだ鮮明に――身体の震えや、背筋をつたい落ちた嫌な汗の感触まで――思い出すことが出来る。
――異論はないな、葛ノ葉。
夜彌の明確な意思を孕んだその言葉――というより、もはや命令――に、あの時彼は明らかに呆れた顔をして、やれやれと溜息をつきながら肩を竦めていた。主がそう言うのならば仕方がない、という、ただそれだけの反応。故に、葛ノ葉自身が全く逆のことを思っているのだろうことは、容易に見て取れた。そして事実、まだ疑われているのだということは、部屋へ案内される最中に見せた彼の、冷淡すぎるほどの素っ気ない態度から、否が応でも認めざるを得なかった。夜彌に逆らうつもりはないが、しかしだからといって受け入れるつもりはない、という彼自身の引いた明確な一線を、ひしひしと。
誰も彼もが夜彌のようではないのだ。何せ此処は、人の住む“現世”ではなく、あやかしの棲まう“幽世”なのだから――。
「狐火は、そもそも火というより、妖力の塊のようなものだ。故に、油や蝋を使う必要もなく、朝になれば自然と消える」
葛ノ葉のことは一旦頭の端に寄せ、千代は夜彌の語る言葉だけをひとつひとつ丁寧に拾い上げながら、隣に腰掛ける彼の横顔を静かに見上げる。
現世では、蝋燭は富貴の者たちだけが与れる高級品だった。その為、平民の殆どは油を用いて灯りを点していたのだけれど、実際のところ菜種や胡麻といった植物油でさえ高価で、千代のような貧しい暮らしを強いられている者たちにはなかなか手の届くものではなかった。
それに引き換え狐火は、高価な蝋燭も油も必要ないという。それだけでも、なんて便利なのだろう、と思うのに、その上、たとえ行灯を倒しても襖や調度品に燃え移ることはない、と更に言い添えられては、思わず感嘆の息が漏れてしまう。
「現世と幽世では、色々と違うのですね……」
「まあ、誰しもが狐火を操れるわけではないがな。……これで、今夜は安心して眠ることは出来そうか?」
「はい。お気遣いいただき、ありがとうございます」
横目で見つめられ、その眼差しをしっかりと受け止めながら、千代はふわりと顔を綻ばせる。純粋に、嬉しかった。灯りを手配してくれたのはもちろん、それ以上に、“暗闇が怖い”という子どもじみた我儘を嗤うことも一蹴することもなく、真摯に応じてくれたことが、何よりありがたかった。
こんな時に、何か返せるものがあれば良いのだけれど――。胸の内でひそりと苦笑をこぼし、千代は己の無力さを改めて痛感する。
“神力も何もないただの人間の娘”と、葛ノ葉は言っていた。無論、千代自身にも、そんな特別な力があるとは露ほども思ってはいない。だから彼の言葉は正しく、それ故に、どうしても不安が頭を擡げてしまうのだった。本当に、こんな“ないないばかりの人間”が、夜彌の花嫁として傍に居ても良いのだろうか、と。受け入れてしまった以上、今更といえば、確かにそうだけれど。それでも、理解と感情を切り離すのは、今の千代にとって難しいことだった。
叩頭したところで、彼は喜びなどしないだろう。礼を告げる以外に、他に何か出来ることはあるのだろうか。月明かりに照らされて、抜けるように白く見える夜彌のかんばせをじっと見つめながら思案を巡らせていると、ふいに、夜彌が困ったように眉尻を下げた。艷やかな黒髪の下に覗く、綺麗に形の整えられた細い――けれど何故か男らしくもある――眉。
「眉間に皺が寄っている」
そう指摘され、千代は慌てて右手を眉根に押し当てた。そこにある皺を、隠すように。全く以て意識はしていなかったのだけれど、自覚してしまえばもう、そこにくっきりと線が入っているのが、無視出来ないほどにまざまざと感じ取れた。
「何か気に障ることでも言ったか?」
「い、いえ! ただ……我儘を聞いて下さったのに、私にはお礼をお伝えすることしか出来ないのが、なんだか不甲斐なく……」
額を抑えたまま、千代は込み上げてくる羞恥をどうにか堪えながら、ぽつり、ぽつりと打ち明ける。何も出来ない、というのは、とても歯痒いことだ。もし鬼の娘だったなら。河童の娘だったなら。或いは、天狗の娘たちだったならば――。そんなことを考え出せばきりがないのは分かっているけれど。彼女たちが今、彼の隣にいたならば。どんなふうに、夜彌へ感謝を伝えるのだろう。言葉以外の、どんなことで。
「灯りなど、些末なことだろう。気にする必要はない」
やさしい口調で夜彌はそう言ってくれたけれど、心はそわそわとしたままで、その落ち着かなさが身体にまで伝播したみたに、千代はゆっくりと手を下ろしながら視線を彷徨わせる。しっとりとした夜風に靡く黒髪、月光の粒を小さく弾く金細工の耳飾り、凹凸の影が落ちる喉仏、長く濃い睫毛に囲まれた金色の瞳。
「私に……何か出来ることは、ございますか」
このまま幾ら考えたところで、それで自答が導けるのなら疾うに浮かんでいる。堂々巡りにしかならないのならば、いっそ訊いてしまう方が手っ取り早い。そう思い、千代はそろりと上目で夜彌を見据えながら、おずおずと問いかけた。刹那、彼は意表を突かれたように目を瞠らせ、息を呑む。けれどもそれは、本当に僅かばかりのことだった。瞬く間の、まるで泡末のような。
やがて夜彌は、ふっと身体から力を抜き、そのまま静かに千代の双眸を見つめた。戸惑いに似た揺らめきの翳る瞳で。何かを言おうとして、けれど言葉を探し倦ねているかのような、暫しの沈黙。
「――君に」
どれくらいそうしていただろう。夜彌は苦笑とも自嘲ともつかない笑みを浮かべると、戯けた子どものように首を傾けた。
「君に、少し触れさせてはくれないだろうか」
形代の消えていった夜空を唖然と見つめながら、千代はぽつりと、言葉をこぼす。都には陰陽師や大巫女といった、呪術や神力を操って普通の人間には成し得ぬこと――呪いを祓ったり、神の加護を賜ったり――を生業とする者たちがいるけれど。辺鄙なところにある小さな村で生まれ育った千代は、もちろんそんな彼等とは無縁だった。会ったこともなければ、彼等の得手とする術を目の当たりにしたこともない。
故に、形代が――確かにそこに存在したはずのものが――ひとりでに消えてしまうという、なんとも不可思議な光景には、慣れていなかった。もしあの村で今と同じようなことが起これば、ちょっとした騒ぎになるだろう。それくらい、馴染みがないのだ。都に住まわぬ――正しく言うならば、ある程度の地位にある者たち以外――にとっては。
「式神だ。形代に妖力を与えることで、自在に使役することが出来る」
初めて“本物”を見た、と、目を丸くする千代の隣で、夜彌は愉しげにくつくつと笑った。彼にとっては、式神に驚くその反応の方が、よほど珍しかったのかもしれない。此処には、人ならざるものしか棲んでいないのだから。式神は、人の世――現世――でのそれより、日常生活の些細なことにすら用いられるほど、ありふれた存在なのだろう。
「葛ノ葉に、灯りを用意するよう伝えた。直に、あいつが狐火を持って行くだろう」
まるでなんでもないことのようにそう言って、夜彌は吐息のような笑みをこぼしたけれど。しかし、千代は彼の紡いだ名――葛ノ葉、というそのひと言に、思わず身を竦めた。人と殆ど変わらぬ姿をしていながら、しかし、人にはないもの――狐と同じ耳と尾――を持った、白銀の麗しい男。対面所で向けられた冷ややかな薄紫色の瞳を、まるで突き刺すようなその鋭さを、今もまだ鮮明に――身体の震えや、背筋をつたい落ちた嫌な汗の感触まで――思い出すことが出来る。
――異論はないな、葛ノ葉。
夜彌の明確な意思を孕んだその言葉――というより、もはや命令――に、あの時彼は明らかに呆れた顔をして、やれやれと溜息をつきながら肩を竦めていた。主がそう言うのならば仕方がない、という、ただそれだけの反応。故に、葛ノ葉自身が全く逆のことを思っているのだろうことは、容易に見て取れた。そして事実、まだ疑われているのだということは、部屋へ案内される最中に見せた彼の、冷淡すぎるほどの素っ気ない態度から、否が応でも認めざるを得なかった。夜彌に逆らうつもりはないが、しかしだからといって受け入れるつもりはない、という彼自身の引いた明確な一線を、ひしひしと。
誰も彼もが夜彌のようではないのだ。何せ此処は、人の住む“現世”ではなく、あやかしの棲まう“幽世”なのだから――。
「狐火は、そもそも火というより、妖力の塊のようなものだ。故に、油や蝋を使う必要もなく、朝になれば自然と消える」
葛ノ葉のことは一旦頭の端に寄せ、千代は夜彌の語る言葉だけをひとつひとつ丁寧に拾い上げながら、隣に腰掛ける彼の横顔を静かに見上げる。
現世では、蝋燭は富貴の者たちだけが与れる高級品だった。その為、平民の殆どは油を用いて灯りを点していたのだけれど、実際のところ菜種や胡麻といった植物油でさえ高価で、千代のような貧しい暮らしを強いられている者たちにはなかなか手の届くものではなかった。
それに引き換え狐火は、高価な蝋燭も油も必要ないという。それだけでも、なんて便利なのだろう、と思うのに、その上、たとえ行灯を倒しても襖や調度品に燃え移ることはない、と更に言い添えられては、思わず感嘆の息が漏れてしまう。
「現世と幽世では、色々と違うのですね……」
「まあ、誰しもが狐火を操れるわけではないがな。……これで、今夜は安心して眠ることは出来そうか?」
「はい。お気遣いいただき、ありがとうございます」
横目で見つめられ、その眼差しをしっかりと受け止めながら、千代はふわりと顔を綻ばせる。純粋に、嬉しかった。灯りを手配してくれたのはもちろん、それ以上に、“暗闇が怖い”という子どもじみた我儘を嗤うことも一蹴することもなく、真摯に応じてくれたことが、何よりありがたかった。
こんな時に、何か返せるものがあれば良いのだけれど――。胸の内でひそりと苦笑をこぼし、千代は己の無力さを改めて痛感する。
“神力も何もないただの人間の娘”と、葛ノ葉は言っていた。無論、千代自身にも、そんな特別な力があるとは露ほども思ってはいない。だから彼の言葉は正しく、それ故に、どうしても不安が頭を擡げてしまうのだった。本当に、こんな“ないないばかりの人間”が、夜彌の花嫁として傍に居ても良いのだろうか、と。受け入れてしまった以上、今更といえば、確かにそうだけれど。それでも、理解と感情を切り離すのは、今の千代にとって難しいことだった。
叩頭したところで、彼は喜びなどしないだろう。礼を告げる以外に、他に何か出来ることはあるのだろうか。月明かりに照らされて、抜けるように白く見える夜彌のかんばせをじっと見つめながら思案を巡らせていると、ふいに、夜彌が困ったように眉尻を下げた。艷やかな黒髪の下に覗く、綺麗に形の整えられた細い――けれど何故か男らしくもある――眉。
「眉間に皺が寄っている」
そう指摘され、千代は慌てて右手を眉根に押し当てた。そこにある皺を、隠すように。全く以て意識はしていなかったのだけれど、自覚してしまえばもう、そこにくっきりと線が入っているのが、無視出来ないほどにまざまざと感じ取れた。
「何か気に障ることでも言ったか?」
「い、いえ! ただ……我儘を聞いて下さったのに、私にはお礼をお伝えすることしか出来ないのが、なんだか不甲斐なく……」
額を抑えたまま、千代は込み上げてくる羞恥をどうにか堪えながら、ぽつり、ぽつりと打ち明ける。何も出来ない、というのは、とても歯痒いことだ。もし鬼の娘だったなら。河童の娘だったなら。或いは、天狗の娘たちだったならば――。そんなことを考え出せばきりがないのは分かっているけれど。彼女たちが今、彼の隣にいたならば。どんなふうに、夜彌へ感謝を伝えるのだろう。言葉以外の、どんなことで。
「灯りなど、些末なことだろう。気にする必要はない」
やさしい口調で夜彌はそう言ってくれたけれど、心はそわそわとしたままで、その落ち着かなさが身体にまで伝播したみたに、千代はゆっくりと手を下ろしながら視線を彷徨わせる。しっとりとした夜風に靡く黒髪、月光の粒を小さく弾く金細工の耳飾り、凹凸の影が落ちる喉仏、長く濃い睫毛に囲まれた金色の瞳。
「私に……何か出来ることは、ございますか」
このまま幾ら考えたところで、それで自答が導けるのなら疾うに浮かんでいる。堂々巡りにしかならないのならば、いっそ訊いてしまう方が手っ取り早い。そう思い、千代はそろりと上目で夜彌を見据えながら、おずおずと問いかけた。刹那、彼は意表を突かれたように目を瞠らせ、息を呑む。けれどもそれは、本当に僅かばかりのことだった。瞬く間の、まるで泡末のような。
やがて夜彌は、ふっと身体から力を抜き、そのまま静かに千代の双眸を見つめた。戸惑いに似た揺らめきの翳る瞳で。何かを言おうとして、けれど言葉を探し倦ねているかのような、暫しの沈黙。
「――君に」
どれくらいそうしていただろう。夜彌は苦笑とも自嘲ともつかない笑みを浮かべると、戯けた子どものように首を傾けた。
「君に、少し触れさせてはくれないだろうか」



