奴延鳥の一途婚 〜生贄として捨てられた花嫁は、最強のあやかし当主に『最愛の番』として溺愛される〜

 千代はざわつく心を落ち着けるように一度深呼吸をし、ゆっくりと瞬いてから事の経緯を語り始めた。ひとつひとつの言葉を慎重に選びながら、訥々と。

 村の風習である“狐の嫁入り”――土地神様への生贄――のこと。その花嫁行列の最中に、猿面を付けた妖しい男に出会ったこと。彼が七尺はあろう大きな狒々を連れていたこと。彼につれてゆかれた先で、突然井戸の底へ落とされてしまったこと。そうして目覚めた時には何故か此処にいて、池を見渡せる廊下――恐らくは縁――に倒れていたこと。そこで偶然、お靜に出会ったこと。

「私がこんな格好をしていたせいで、お靜さんを勘違いさせてしまったのです。彼女には、何の非もございません。ですから、どうか……」

 悪いのは自分だ、と言葉にも声にも含み、千代は一層頭を低く落とす。行儀が悪いと分かっていながら、それでも、今度こそ額を床板に押し付けて。

 許してもらおう、という気はなかった。千代にとっては“本当のこと”を語っただけであるが、しかしそれを、彼等――特に誰より用心深そうである狐の男が――が信じてくれるとは、とても思えない。

 けれど、千代の予想に反し、真っ先に反応を示したのは、夜彌の方だった。

「……猿面の男、か」

 そう呟いたきり、彼はまたもや暫し黙り込んだ。数瞬の間――けれどその沈黙は、千代にはひどく長いものに感じられた。気の遠くなるような、重苦しいものに。

 しかしやがて、彼はふっと吐息をこぼすようにして、くすりと小さく笑った。他の何にでもなく、何故かあの猿面の男のことに対して。

「気にすべきは、そこではないでしょう」

 呆れを滲ませつつも、狐の男のその声には、明らかに千代へ対する疑念が色濃く表れていた。彼が不審がるのも無理はない、と、千代は胸の内で密かに溜息をこぼしながら思う。何せ、当の千代自身でさえ、とても信じられるような話ではないのだから。今顔を上げれば、あの冷淡な瞳で射抜かれるであろうことは、考えるまでもなかった。

「つまり彼女は、ただの侵入者ということではありませんか」

 狐の男が言うな否や、ひゅっと風の切れるような音がして、千代は頭上に、鋭利な切っ先が向けられたのを気配で感じ取る。恐らくは、見張りの男たちの手に握られていた、あの無骨な槍だろう。そう思うと、否応にも身体は強張り、吸い込んだ息が、乾ききった喉に貼り付いた。一際強く跳ねた心臓が、警鐘を鳴らすようにけたたましく騒いでいる。

「物取りか、或いは刺客か」

 しかし、槍なんかよりももっと恐ろしいのは、狐の男の向ける凍てつくような視線だった。睨みつけるだけで、相手を容易に射殺せるのではないかと思うほど、それは一片の容赦もなく、そしてひどく酷薄だった。

「ち、違いますっ……! そんなつもりは決して……!」

 慌てて否定するも、緊張で上ずった声は掠れ、か細く震えていた。これでは説得力の欠片もない、と思うのに、しかし声を押し出そうとしても、言葉はつっかえるばかりで、どんどんと出口を塞いでゆく。

 物取りでも刺客でもないと証明出来るものなど、何も持ち合わせていない。それなのに、どれほど言い繕ったところで、状況が好転することはないだろう。このまま牢屋まで引っ立てられるのだろうか。そう考え、唇を強く噛み締めた――その時だった。

「――槍を退け」

 低く冷たい声が、騒然とする廊下に重く響き渡る。それは、たったひと言でその場の空気を押し潰すような迫力を孕み、誰もがその威圧感に、息を呑むのが分かった。

「誰に切っ先を向けているのか、分かっているのだろうな」

 剣を含んだ声に、見張りの男たちの、戸惑いを滲ませた吐息が聞こえてくる。それに続いて、ちゃり、と、槍の動く微かな音も。そうして忽ち、辺りはぴんと張り詰めた冷たい静寂に包まれた。誰も、何も言わない。あの狐の男でさえも。

 こくりと固唾を呑み、千代は穴が空きそうなほどまじまじと、くっきりと浮かび上がる美しい木目を凝視する。もし今少しでも身動げば、その途端に首が飛んでしまいそうな気がしてならなかった。槍を退け、と、夜彌は言っていたし、実際にそれが遠のく気配はしたけれど。それでも、槍ではなく、この場に漂うひりついた息苦しいほどの静寂そのものに首を刎ねられてしまいそうだ、と。

「――千代」

 しかし、彼はさっきとはまるで違う――別人かと思うほどの――やさしい声で、千代の名を呼んだ。穏やかで、とてもあたたかみのある、それでいて懐かしさを滲ませた、心地の良い響きで。

「顔を上げてくれるか」

 抗えるはずもなく、千代は恐る恐る、彼の言う通りに顔を上げた。その視線を、夜彌は腰を屈めて、間近で受け止める。そのまま彼はじっと、千代を真っ直ぐに見つめていた。何を考えているのかまるで読み取れない、澄んだ金色の瞳で。それは確かに太陽のよう眩いけれど、とろりとした蜜のようでもある、と、千代は半ば見惚れながら思う。

 どうしてだろう。夜彌の双眸はこんなにもすんなりと、不思議なほど素直に受け止めることが出来るのは。網膜だけでなく、その先にある心にも沁み渡るように。見つめられることが、少しも嫌ではない。怖いと感じることも、嫌悪を抱くことも、ない。寧ろ、このままずっと見つめ合っていたいとさえ思ってしまう。その目に呑まれても良いから、ずっと。その瞳の中に映り込んでいたい、と。

「君に神力がなくとも、本来の“花嫁候補”でなかったのだとしても」

 そう言いながら、彼は千代の右手を己の右手で掬い上げると、親指の腹で、微かに震える指先をそうっと撫ぜた。繊細な硝子細工に触れるような、或いは、生まれたての小さな雛を愛でるような手つきで。

「それでも俺は、君を花嫁に選ぶ」

 確たる強い意志を宿した声で、夜彌はきっぱりとそう断言すると、まるで千代の心を落ち着けようとするかのように、朗らかに微笑んだ。そのかんばせに、とくりと鼓動が跳ねる。彼の笑みがあまりにも綺麗だったから、というより、もっと奥の深い、もっとあたたかな“何か”が琴線に触れて。

「俺の傍にいる限り、二度と辛い思いはさせない。この先何があろうと、必ず俺が君を護る」

 その言葉が本心であることを示すように、夜彌はぎゅっと、千代の指先を握り締めた。皮膚からじんわりと沁みこんでくるぬくもりが、切なく胸を締め付ける。触れ合った場所が、向けられる眼差しが、あまりにもやさしくて。何故だか無性に泣きたい衝動に駆られるのを必死に堪えながら、千代は静かに目を伏せた。哀しいからでも、苦しいからでもない。ただただ――彼の言葉が、嬉しくて。

 もといた場所へ戻る術は今のところ何もなく、でも、帰ったところであの村にも、そして母のもとへゆくことも出来ない。あそこにはもう、千代の居場所はないのだ。

 ならば、求めてくれる誰かの傍にいることの方が、良いのではないだろうか。必要としてくれる人の傍に。もしかしたらそれは、狡いことなのかもしれない。夜彌の親切心を利用しているようだ、と。

 ――千代。

 それでも――彼の真摯な眼差しは、素直に嬉しかった。何の混じり気もない、まっさらな情動。それは偽りようのない、純粋な喜びだった。

 目の前にあるあたたかな金色をおずおずと見上げながら、千代は握り締められた指先に、ほんの僅か力をこめる。何の取り柄のないただの人間の娘でも。もし彼が本当に、心から自分を必要としてくれるているのならば――。

「本当に……こんな私で宜しいのでしょうか」

 僅かに首を傾げ、躊躇いがちにそう問いかけると、夜彌はほんの刹那目を瞠らせ、それからふわりと顔を綻ばせた。

「ああ、もちろんだ」