連れてゆかれたのは、対面所と思しき大きな建物だった。
対面所の襖は、その奥に控える主の威厳を現すかのように、豪華で格式高い造りをしていた。金箔や砂子を施した地紙、繊細な筆遣いで描かれた、今にも飛び出してきそうなほど生気の感じられる松や蓮や孔雀。縁には艷やかな黒漆が塗られ、同じ色をした引手には花のような浮彫がされている。
襖の両隣には、槍を携えた見張りの男がふたり、険しい顔をして立っていた。女の後ろをおどおどと歩く千代を、ふたりは半ば睨め付けるような視線でじろりと見下ろしたものの、口を開くこともなければ、槍を持つ無骨な手を動かすこともなかった。それでも、一挙手一投足を“監視されている”という感覚がべっとりと身体に纏わりつき、緊張を否応なく煽られる。
「こちらへどうぞ、花嫁様」
先程までとは違う落ち着いた声音でそう告げると、女はすっと動かした手で、隣に並び立つよう指し示す。先程までの大胆さとはまるで違う、奥ゆかしさの感じられる仕草で。
そのあまりの変わりように呆気に取られつつも、千代はそろりと足を動かして、指示された通りに彼女の隣へ並ぶ。それを視界の端で確かめた女は、しなやかな所作で礼儀正しく床に両膝をつくと、またもや横目で千代を一瞥し、同じようにと目だけで促した。
「お館様。最後の“花嫁候補”に御座います」
千代が座ったのを確かめると、女は凛としたよく通る声で、襖の向こうに控える“誰か”へ向けてそう告げた。刹那、いずこからともなく鈴の音が鳴り響く。星が瞬くような、或いは、氷片が触れ合うような、澄んだ音色。
再び訪れた、静寂。まるでそれが合図でもあるかのように、女は上品な身のこなしで床に両手をつくと、深々と頭を下げて座礼した。千代もまたそれに倣い、深く、そして静かに頭を垂れる。そんなふたりの頭の先で、誰かが床を踏み締める気配がした。微かに床板の軋む音が聞こえる。それから、衣擦れの小さな音も。
それを聞くともなく聞きながら、千代はこくりと唾を呑んだ。
「――おや、“人間”ではありませんか」
頭上から降ってきた声に、千代は床についた指先を小さく震わせる。低く落ち着いたその声は、穏やかでありながら、その実、ひどく訝しんでもいた。警戒を孕み、何故、という疑問を含んだ鋭い視線が後頭部に突き刺さるのを、ひしひしと感じる。
それにしても、一体どうして“人間”というだけで、誰も彼も驚くのだろう。そんなにも奇っ怪な見目をしているのだろうか。それとも或いは、“人間”という存在自体が珍しいのだろうか。此処が現世ではなく、死した者のゆく常世、或いは、神々の住まう高天原だから――。
「まあ、今回は特別に良しとしましょう」
呆れたような溜息が漏れるのと同時に、襖の開き切る音がした。
「夜彌様。お靜の連れてきた“花嫁”で最後になります」
「……まだいたのか」
夜彌――と呼ばれた男が、ひどくうんざりとした声で呟く。冷淡な目を向けられているのだろうことは、顔を上げて確かめずとも、ひりついた空気から否応なく察せられる。
早く終わらせてしまいたい、という気怠げな態度から滲む無言の圧力にたじろぎながら、でも、千代の胸には何故か、あたたかな風が吹いていた。穏やかで、とろりと甘美なやわらかさもあるそれは、まるで春陽に照らされた草花を揺らすように、千代の心を――その奥にしまわれた何かを――やさしく震わせる。
どうしてだろう、と思った。此処に来たのも、“夜彌”という男と相見えるのも、これが初めてだというのに。どうしてこんなにも、懐かしさだけが次から次へと溢れ出してくるのだろう、と。胸の奥深く、決して届かないはずの場所から。まるで――ずっと昔からその名を、知っていたかのように。
それは、不思議な感覚だった。とても“本当のこと”とは思えないような。理由も分からず、漠然とした懐かしさを堰き止める術もなく、千代はただ呆然と杢目を見つめる。
「本当に最後なんだろうな」
「ええ。申し出のあった人数と、彼女でちょうど合致しますので」
疲労とも呆れともつかない溜息を聞きながら、そういえば“最後の花嫁”と言っていたのを、千代はふと思い出す。辟易とした態度を露わにするほど、たくさんの“花嫁”が此処に座ったのだろうか。夜彌という、この邸を統べる男の前に。果たしてその数は、如何ほどのものだったのだろう。これほど大きな邸の主人の結婚相手となれば、さぞ立派な家柄の娘たちが集められたに違いない。
「……顔を上げて構わん」
鼓膜に触れた夜彌の声に、千代ははたと我に返った。抑揚の少ない、凪いだ水面のように落ち着いた、それでいて、どこかほんのりとぬくもりを感じられるような、低い声。それは、澄んだ静けさで心ごとやわらかく包み込んでくれるような、不思議な響きを持っていた。
千代は言われるまま、ゆっくりと顔を上げる。目の前には無論、廊下とを隔てるあの豪奢な襖はもうなかった。
代わりに、三十帖は優に超えるであろう大きな広間が、堂々たる威容を放ちながら、視界を埋め尽くす。金箔地に、活き活きとした筆遣いで松や梅の描かれた障壁画。龍の精緻な透かし彫りが施された欄間。黒漆の塗られた格縁と、唐草や唐花で華やかに彩られた格間を組んだ折上格天井。たっぷりとした大輪の牡丹が飾られた違い棚。
しかし、そのどれよりも千代の目を惹いたのは、上段の間に据えられた厚畳に座るひとりの青年だった。
烏の濡れ羽色をした艷やかな髪の毛、抜けるように白いなめらかな肌、筋の通った高い鼻梁、形の整った薄い唇。組んだ足に頬杖をついた彼は、なんとも気怠げな雰囲気を纏っているというのに、見ているだけで思わず背筋を正してしまうような、圧倒的な気品と威厳が隠しようもなく滲み出ていて。
そんな彼の背後には、奇妙な姿の動物が描かれた、壮麗な押板が聳え立っている。顔は猿だというのに、胴体は狸のような茶褐色をし、太い四肢には黒い縞模様が浮かび、更に尾は妖しく弧を描く蛇――という、実にちぐはぐで不可思議な、そもそも動物かすらも判然としない“何か”。それが、今にも襲いかかってきそうな迫力で、大胆に描き出されている。
まるで御伽噺に出てくる"あやかし"のようだ、と、場違いにもそんなことを思いながら青年へと目を戻した――刹那、大きく見開かれた男の双眸と、視線が絡んだ。長く濃い睫毛に縁取られた、涼やかな切れ長の目。その真ん中で一等美しく輝く、黄金の瞳。
「君……名は」
そう問いかける声は、心做しか微かに震えていた。あんなにも億劫そうに歪んでいた端正なかんばせには、茫然とした色が浮かんでいる。信じ難いものを見るような、それでいて縋るようでもある、真っ直ぐな眼差し。その豹変ぶりに、千代は訳が分からず戸惑う。どうしてそんな顔をするのだろう、と。彼の驚きが、張り詰めた空気を通して、痛いほどひしひしと伝わってくるようだった。
「千代……許斐千代、と、申します」
しどろもどろになりながらもどうにか名乗り、千代は再び深く頭を垂れる。何か気に障るようなことをしてしまったのだろうか。或いは、此処では禁忌とされているようなことを。思い当たる節は――哀しいほどありすぎて、寧ろひとつに絞ることの方が難しい。
衣擦れの音がして、千代はこくりと息を呑む。今まで平然と座っていた隣の女――確か“お靜”という名だったろうか――だけでなく、槍を携えた屈強な見張りの男たちまでもが、その微かな音に身を強張らせる気配がして、千代は今すぐ逃げ出したい衝動に駆られた。噛み締めた唇が、無意識にわななく。鼓動が、耳のすぐ傍で鳴っているのではないかと思うほど、煩くてたまらない。
素直に謝れば、許してくれるだろうか。そんなことを、ぐちゃぐちゃの頭で必死に考えながら、ゆっくりとひとつ瞬いた――その時だった。頭のすぐ上で、白檀の匂いが一際強く、ふわりと薫ったのは。
「――漸く、見つけた」
対面所の襖は、その奥に控える主の威厳を現すかのように、豪華で格式高い造りをしていた。金箔や砂子を施した地紙、繊細な筆遣いで描かれた、今にも飛び出してきそうなほど生気の感じられる松や蓮や孔雀。縁には艷やかな黒漆が塗られ、同じ色をした引手には花のような浮彫がされている。
襖の両隣には、槍を携えた見張りの男がふたり、険しい顔をして立っていた。女の後ろをおどおどと歩く千代を、ふたりは半ば睨め付けるような視線でじろりと見下ろしたものの、口を開くこともなければ、槍を持つ無骨な手を動かすこともなかった。それでも、一挙手一投足を“監視されている”という感覚がべっとりと身体に纏わりつき、緊張を否応なく煽られる。
「こちらへどうぞ、花嫁様」
先程までとは違う落ち着いた声音でそう告げると、女はすっと動かした手で、隣に並び立つよう指し示す。先程までの大胆さとはまるで違う、奥ゆかしさの感じられる仕草で。
そのあまりの変わりように呆気に取られつつも、千代はそろりと足を動かして、指示された通りに彼女の隣へ並ぶ。それを視界の端で確かめた女は、しなやかな所作で礼儀正しく床に両膝をつくと、またもや横目で千代を一瞥し、同じようにと目だけで促した。
「お館様。最後の“花嫁候補”に御座います」
千代が座ったのを確かめると、女は凛としたよく通る声で、襖の向こうに控える“誰か”へ向けてそう告げた。刹那、いずこからともなく鈴の音が鳴り響く。星が瞬くような、或いは、氷片が触れ合うような、澄んだ音色。
再び訪れた、静寂。まるでそれが合図でもあるかのように、女は上品な身のこなしで床に両手をつくと、深々と頭を下げて座礼した。千代もまたそれに倣い、深く、そして静かに頭を垂れる。そんなふたりの頭の先で、誰かが床を踏み締める気配がした。微かに床板の軋む音が聞こえる。それから、衣擦れの小さな音も。
それを聞くともなく聞きながら、千代はこくりと唾を呑んだ。
「――おや、“人間”ではありませんか」
頭上から降ってきた声に、千代は床についた指先を小さく震わせる。低く落ち着いたその声は、穏やかでありながら、その実、ひどく訝しんでもいた。警戒を孕み、何故、という疑問を含んだ鋭い視線が後頭部に突き刺さるのを、ひしひしと感じる。
それにしても、一体どうして“人間”というだけで、誰も彼も驚くのだろう。そんなにも奇っ怪な見目をしているのだろうか。それとも或いは、“人間”という存在自体が珍しいのだろうか。此処が現世ではなく、死した者のゆく常世、或いは、神々の住まう高天原だから――。
「まあ、今回は特別に良しとしましょう」
呆れたような溜息が漏れるのと同時に、襖の開き切る音がした。
「夜彌様。お靜の連れてきた“花嫁”で最後になります」
「……まだいたのか」
夜彌――と呼ばれた男が、ひどくうんざりとした声で呟く。冷淡な目を向けられているのだろうことは、顔を上げて確かめずとも、ひりついた空気から否応なく察せられる。
早く終わらせてしまいたい、という気怠げな態度から滲む無言の圧力にたじろぎながら、でも、千代の胸には何故か、あたたかな風が吹いていた。穏やかで、とろりと甘美なやわらかさもあるそれは、まるで春陽に照らされた草花を揺らすように、千代の心を――その奥にしまわれた何かを――やさしく震わせる。
どうしてだろう、と思った。此処に来たのも、“夜彌”という男と相見えるのも、これが初めてだというのに。どうしてこんなにも、懐かしさだけが次から次へと溢れ出してくるのだろう、と。胸の奥深く、決して届かないはずの場所から。まるで――ずっと昔からその名を、知っていたかのように。
それは、不思議な感覚だった。とても“本当のこと”とは思えないような。理由も分からず、漠然とした懐かしさを堰き止める術もなく、千代はただ呆然と杢目を見つめる。
「本当に最後なんだろうな」
「ええ。申し出のあった人数と、彼女でちょうど合致しますので」
疲労とも呆れともつかない溜息を聞きながら、そういえば“最後の花嫁”と言っていたのを、千代はふと思い出す。辟易とした態度を露わにするほど、たくさんの“花嫁”が此処に座ったのだろうか。夜彌という、この邸を統べる男の前に。果たしてその数は、如何ほどのものだったのだろう。これほど大きな邸の主人の結婚相手となれば、さぞ立派な家柄の娘たちが集められたに違いない。
「……顔を上げて構わん」
鼓膜に触れた夜彌の声に、千代ははたと我に返った。抑揚の少ない、凪いだ水面のように落ち着いた、それでいて、どこかほんのりとぬくもりを感じられるような、低い声。それは、澄んだ静けさで心ごとやわらかく包み込んでくれるような、不思議な響きを持っていた。
千代は言われるまま、ゆっくりと顔を上げる。目の前には無論、廊下とを隔てるあの豪奢な襖はもうなかった。
代わりに、三十帖は優に超えるであろう大きな広間が、堂々たる威容を放ちながら、視界を埋め尽くす。金箔地に、活き活きとした筆遣いで松や梅の描かれた障壁画。龍の精緻な透かし彫りが施された欄間。黒漆の塗られた格縁と、唐草や唐花で華やかに彩られた格間を組んだ折上格天井。たっぷりとした大輪の牡丹が飾られた違い棚。
しかし、そのどれよりも千代の目を惹いたのは、上段の間に据えられた厚畳に座るひとりの青年だった。
烏の濡れ羽色をした艷やかな髪の毛、抜けるように白いなめらかな肌、筋の通った高い鼻梁、形の整った薄い唇。組んだ足に頬杖をついた彼は、なんとも気怠げな雰囲気を纏っているというのに、見ているだけで思わず背筋を正してしまうような、圧倒的な気品と威厳が隠しようもなく滲み出ていて。
そんな彼の背後には、奇妙な姿の動物が描かれた、壮麗な押板が聳え立っている。顔は猿だというのに、胴体は狸のような茶褐色をし、太い四肢には黒い縞模様が浮かび、更に尾は妖しく弧を描く蛇――という、実にちぐはぐで不可思議な、そもそも動物かすらも判然としない“何か”。それが、今にも襲いかかってきそうな迫力で、大胆に描き出されている。
まるで御伽噺に出てくる"あやかし"のようだ、と、場違いにもそんなことを思いながら青年へと目を戻した――刹那、大きく見開かれた男の双眸と、視線が絡んだ。長く濃い睫毛に縁取られた、涼やかな切れ長の目。その真ん中で一等美しく輝く、黄金の瞳。
「君……名は」
そう問いかける声は、心做しか微かに震えていた。あんなにも億劫そうに歪んでいた端正なかんばせには、茫然とした色が浮かんでいる。信じ難いものを見るような、それでいて縋るようでもある、真っ直ぐな眼差し。その豹変ぶりに、千代は訳が分からず戸惑う。どうしてそんな顔をするのだろう、と。彼の驚きが、張り詰めた空気を通して、痛いほどひしひしと伝わってくるようだった。
「千代……許斐千代、と、申します」
しどろもどろになりながらもどうにか名乗り、千代は再び深く頭を垂れる。何か気に障るようなことをしてしまったのだろうか。或いは、此処では禁忌とされているようなことを。思い当たる節は――哀しいほどありすぎて、寧ろひとつに絞ることの方が難しい。
衣擦れの音がして、千代はこくりと息を呑む。今まで平然と座っていた隣の女――確か“お靜”という名だったろうか――だけでなく、槍を携えた屈強な見張りの男たちまでもが、その微かな音に身を強張らせる気配がして、千代は今すぐ逃げ出したい衝動に駆られた。噛み締めた唇が、無意識にわななく。鼓動が、耳のすぐ傍で鳴っているのではないかと思うほど、煩くてたまらない。
素直に謝れば、許してくれるだろうか。そんなことを、ぐちゃぐちゃの頭で必死に考えながら、ゆっくりとひとつ瞬いた――その時だった。頭のすぐ上で、白檀の匂いが一際強く、ふわりと薫ったのは。
「――漸く、見つけた」



