朱音の舞は、指先の僅かな動きに至るまで緻密に磨き抜かれた、雅致に富む完璧無比なものだった。
身体をどう傾ければ、扇子をどのように揺らめかせれば、足をどの位置にまで運べば、その全てが意味するところを、観る者に正しく、或いはそれ以上の含みを持たせて伝えることが出来るか。徹底的に考え、隅々にまで心を配り、そうして組み立てられた典雅な舞。
場を呑み込むとは正にこのことだろう、と、千代は彼女の流れるような風姿を見つめながら思う。皆、緋毛氈の中央で楚々と舞う朱音に、静かに魅入っている。息をすることも、瞬きをすることも忘れたかのように、じっと。それは千代もまた、同じことだった。胸はひどくざわついているというのに、婉然たる彼女から目を逸らすことが出来ない。まるで視線を縫い留められてしまったかのように。
朱音の表情は、踊り始めた時から自負に満ちていたが、曲が進むにつれ、その笑みはどんどんと艶を深めてゆく。一挙手一投足はより冴えを増し、惜しみなく放たれる、圧倒的な、比類のない存在感。翻る裾や靡く袂の描く線すら巧緻で、目を瞠るほどに美しい。
流石は妖都一と謳われる舞手。これほどの舞を前にすれば、頑なな"眠り桜"とて目覚めずにはおられまい、と、この場にいる誰もが、そう確信しているに違いない。彼女ならばこの桜を咲かせることが出来る、と。彼女でさえ叶わぬならば、一体他に誰が成し得るというのだろう、とも。
何処からともなく讃嘆が漏れる度、胸の内で、黒々とした焦燥が少しずつ膨らんでゆく。朱音へ向けられる感心と期待。そして、彼女自身から溢れ出す気迫。それが肌を刺すようにひしひしと伝わってきて、息が詰まるほど苦しい。けれどそれ以上に、きつく締め付けられた心が、痛くて痛くてたまらなかった。
――“眠り桜”を咲かせた者には褒賞がある……というのは、ご存知かしら。
あの時の、夜彌へ向けられた恍惚とした眼差しが脳裏に蘇り、千代は静かに唇を噛み締める。もし彼女が、“眠り桜”を見事目覚めさせることが出来たら。もし夜彌が、褒賞として彼女の望みを聞き入れたら。もし、もし、もし――。考えてもきりがないと分かっていても、自問がやめられない。そうしていないと、落ち着かないのだ。多分、少しでも安心したいのだろう。その為の材料を、必死になって探している。無駄だと知りながら、それでも。
曲は大詰めを迎え、三味線の音色が勢いづき、激しさを増す。それに合わせ、朱音の舞も一層大胆なものへと変じてゆく。扇子が華麗に翻り、蘇芳色の髪が流水の如くうねり、大きく広げられた両手がしなやかに空を撫でる。神々しいまでのその舞姿に、場は陶酔に似た昂りに包まれていた。誰もが桜のことなど忘れ果て、朱音だけを一心に見つめている。
最後の一音が朗々と鳴り響き、朱音は軽く膝を折って、扇子を胸に抱くようにしながら、たおやかに身体を傾けた。伏せられた目元に落ちる睫毛の影にまで、抜かりなく色気と情緒を滲ませた、有終の美。三味線の音が、風の中に溶けるように消え去っても、拍手が巻き起こることはなかった。そうしたくないのではなく、そう出来ないのだ。目も心も、彼女の披露した圧巻の舞に奪われて。しんとした静けさこそが、朱音の見事さを何より雄弁に物語っていた。
彼女もまた、それを分かっているのだろう。ゆっくりと瞼を持ち上げ、艶冶な微笑を浮かべながら、夜彌を真っ直ぐに見据える。それからすぐに、彼女の翡翠の瞳は勝ち誇ったように、桜を見上げた。美しい満開の景色がそこに広がっているのを、確信しているかのように。
刹那、昂然としていた彼女のかんばせに浮かんだのは、しかし誇らしげな笑みではなかった。肌は青褪め、紅のひかれた唇はわななき、くっきりとした目は、驚愕に見開かれている。
力の抜けた白い手から、開いたままの扇子がぽとりと落ちた。その微かな音を皮切りに、そこここでひそひそと声が漏れ始める。そのざわめきは、まるで波紋のように、会場全体に広がってゆく。けれども朱音の耳には、少しも届いてはいないようだった。ただ茫然と立ち尽くし、焦りと恐怖の滲んだ瞳で、“眠り桜”だけを凝視している。
「これは、一体……」
「こんなのは、今まで一度たりとも観たことないぞ」
夜彌も場に広がる不穏な空気を察したのか、頬杖をついていた手から顔を離し、徐に桜を見上げた。それに続いて、千代もまた頭上を仰ぐ。そこに伸びる枝々を。もしかすると、やわらかな色の花をつけているかもしれない枝々を。
しかし、千代の目に映ったのは、美しい桜の花でも蕾でもなく、黒ずんだ枝だった。朱音が舞う前は確かに、赤みを帯びた褐色をしていたというのに。眠っていながらも、生きていることを示すように、しなやかな張りを保っていたというのに。けれども今のそれからは生気が失せ、枝先が萎れているようにも見える。
「まさか、朱音姫の舞で」
「物騒なことを言うな。朱天殿の愛娘、しかも妖都一の舞手だぞ」
「しかしだなあ、さっきまで、あんなふうではなかっただろう」
どうして、こんなことに――。目を瞠りながら、千代はどよめきの渦中に立つ朱音へと視線を転じる。方々からは、今や潜めることなく、混乱と不安を孕んだ声が無遠慮に飛び交っていた。それでも、朱音を責めるような言葉を誰も口にしないのは、鬼の一族を率いる朱天の前だからだろう。
だが、彼女は全身を震わせていた。顔を俯け、手をかたく握り締めながら。僅かに見える唇には、今にも薄い皮膚が切れてしまいそうなほど、きつく歯が食い込んでいる。泣いているのか、怒っているのか、分からない。しかし、彼女自身も動揺しているのは明らかで。
「――ほほう、これは面白い」
場に満ちた困惑を唐突に破ったのは、聞き覚えのある嗄れた声だった。千代ははっとして、左手に並ぶ畳の、一番手前に座る老爺に目を移す。そこには、両の袖に手を入れたまま涼しい顔をして座る仙右衛門の姿があった。歳を重ねた者だからこそ持ち得る落ち着き、というのだろうか。彼は周囲をゆったりと見回し、そうして黒ずんだ枝を、泰然と仰いだ。
「奥方殿の頭上にある枝だけ、黒ずんでおられますなあ」
分厚い瞼の下で、妖しい笑みを湛えた目がすっと細まる。責めるのではなく、ただただ愉しんでいるのが手に取るように分かる視線。千代は息を呑み、慌てて頭上を振り仰いだ。まさか、そんな、と胸の内で繰り返しながら。けれども仙右衛門の言葉通り、黒ずんだ枝は、確かに千代の頭上にだけ広がっていた。同じ一本の木であるはずなのに、夜彌の方に伸びる枝も、天へと向かう枝も、何の変哲もなく、先程までと変わらぬ色と張りを保っている。
「おいおい、こりゃあまさか」
「朱音姫の舞ではなく、奥方殿の……」
矛先が、朱音から自分へ移り変わったのが、ひりつくような空気感とともに、痛いほど伝わってくる。否応なく浴びせられる刺々しい視線に、肌が粟立つ。桜に何かをした覚えは、まるでない。ただ朱音の舞を観ていただけで、それ以外には何もしていないというのに。そもそも妖力も神力もないのだ。どうやって幽世に生きる桜を枯らすことが出来るというのだろう。
「――そうですわ」
不意に、鈴のような声が聞こえた。千代は着物の袖をぎゅっと握り締めながら、ゆるゆると視線を下ろして、緋毛氈の只中に佇む朱音を見据える。刹那、彼女の翡翠色の瞳とかち合った。そこにはもう、愕然とした翳りはどこにもない。喧騒が、波が引くように、すうっと遠ざかってゆく。
「桜はきっと、わたくしの舞をご覧になって、お目覚めになられたのですわ。こうして確かな反応を示したのですもの」
そう告げる朱音のかんばせには、不敵な笑みが浮かんでいた。
「だがのう、反応したとはいえ、桜が咲いたわけではない。しかも、黒ずんでおるぞ。あれは枯れておるのではないか」
仙右衛門の指摘に、朱音は赤い唇を薄く歪めて、くすりと笑いをこぼす。舞う前も、舞った後も、夜彌だけを見つめていた彼女の瞳には今、彼ではなく、千代だけが映っている。その妖しげな翡翠に、千代は、ああ――と胸の内で呟く。彼女がこれから何を言おうとしているのかを、察してしまったが故に。
「目を覚まされたからこそ、桜はお気付きになったのです。――此処に、“現世の者”が紛れ込んでいることに。この枯れ枝こそ……」
そこで言葉を区切り、朱音は黒ずんだ桜の枝へ、ゆっくりと視線を移した。
「この枯れ枝こそ、桜の示す拒絶の、何よりの証左ですわ」
身体をどう傾ければ、扇子をどのように揺らめかせれば、足をどの位置にまで運べば、その全てが意味するところを、観る者に正しく、或いはそれ以上の含みを持たせて伝えることが出来るか。徹底的に考え、隅々にまで心を配り、そうして組み立てられた典雅な舞。
場を呑み込むとは正にこのことだろう、と、千代は彼女の流れるような風姿を見つめながら思う。皆、緋毛氈の中央で楚々と舞う朱音に、静かに魅入っている。息をすることも、瞬きをすることも忘れたかのように、じっと。それは千代もまた、同じことだった。胸はひどくざわついているというのに、婉然たる彼女から目を逸らすことが出来ない。まるで視線を縫い留められてしまったかのように。
朱音の表情は、踊り始めた時から自負に満ちていたが、曲が進むにつれ、その笑みはどんどんと艶を深めてゆく。一挙手一投足はより冴えを増し、惜しみなく放たれる、圧倒的な、比類のない存在感。翻る裾や靡く袂の描く線すら巧緻で、目を瞠るほどに美しい。
流石は妖都一と謳われる舞手。これほどの舞を前にすれば、頑なな"眠り桜"とて目覚めずにはおられまい、と、この場にいる誰もが、そう確信しているに違いない。彼女ならばこの桜を咲かせることが出来る、と。彼女でさえ叶わぬならば、一体他に誰が成し得るというのだろう、とも。
何処からともなく讃嘆が漏れる度、胸の内で、黒々とした焦燥が少しずつ膨らんでゆく。朱音へ向けられる感心と期待。そして、彼女自身から溢れ出す気迫。それが肌を刺すようにひしひしと伝わってきて、息が詰まるほど苦しい。けれどそれ以上に、きつく締め付けられた心が、痛くて痛くてたまらなかった。
――“眠り桜”を咲かせた者には褒賞がある……というのは、ご存知かしら。
あの時の、夜彌へ向けられた恍惚とした眼差しが脳裏に蘇り、千代は静かに唇を噛み締める。もし彼女が、“眠り桜”を見事目覚めさせることが出来たら。もし夜彌が、褒賞として彼女の望みを聞き入れたら。もし、もし、もし――。考えてもきりがないと分かっていても、自問がやめられない。そうしていないと、落ち着かないのだ。多分、少しでも安心したいのだろう。その為の材料を、必死になって探している。無駄だと知りながら、それでも。
曲は大詰めを迎え、三味線の音色が勢いづき、激しさを増す。それに合わせ、朱音の舞も一層大胆なものへと変じてゆく。扇子が華麗に翻り、蘇芳色の髪が流水の如くうねり、大きく広げられた両手がしなやかに空を撫でる。神々しいまでのその舞姿に、場は陶酔に似た昂りに包まれていた。誰もが桜のことなど忘れ果て、朱音だけを一心に見つめている。
最後の一音が朗々と鳴り響き、朱音は軽く膝を折って、扇子を胸に抱くようにしながら、たおやかに身体を傾けた。伏せられた目元に落ちる睫毛の影にまで、抜かりなく色気と情緒を滲ませた、有終の美。三味線の音が、風の中に溶けるように消え去っても、拍手が巻き起こることはなかった。そうしたくないのではなく、そう出来ないのだ。目も心も、彼女の披露した圧巻の舞に奪われて。しんとした静けさこそが、朱音の見事さを何より雄弁に物語っていた。
彼女もまた、それを分かっているのだろう。ゆっくりと瞼を持ち上げ、艶冶な微笑を浮かべながら、夜彌を真っ直ぐに見据える。それからすぐに、彼女の翡翠の瞳は勝ち誇ったように、桜を見上げた。美しい満開の景色がそこに広がっているのを、確信しているかのように。
刹那、昂然としていた彼女のかんばせに浮かんだのは、しかし誇らしげな笑みではなかった。肌は青褪め、紅のひかれた唇はわななき、くっきりとした目は、驚愕に見開かれている。
力の抜けた白い手から、開いたままの扇子がぽとりと落ちた。その微かな音を皮切りに、そこここでひそひそと声が漏れ始める。そのざわめきは、まるで波紋のように、会場全体に広がってゆく。けれども朱音の耳には、少しも届いてはいないようだった。ただ茫然と立ち尽くし、焦りと恐怖の滲んだ瞳で、“眠り桜”だけを凝視している。
「これは、一体……」
「こんなのは、今まで一度たりとも観たことないぞ」
夜彌も場に広がる不穏な空気を察したのか、頬杖をついていた手から顔を離し、徐に桜を見上げた。それに続いて、千代もまた頭上を仰ぐ。そこに伸びる枝々を。もしかすると、やわらかな色の花をつけているかもしれない枝々を。
しかし、千代の目に映ったのは、美しい桜の花でも蕾でもなく、黒ずんだ枝だった。朱音が舞う前は確かに、赤みを帯びた褐色をしていたというのに。眠っていながらも、生きていることを示すように、しなやかな張りを保っていたというのに。けれども今のそれからは生気が失せ、枝先が萎れているようにも見える。
「まさか、朱音姫の舞で」
「物騒なことを言うな。朱天殿の愛娘、しかも妖都一の舞手だぞ」
「しかしだなあ、さっきまで、あんなふうではなかっただろう」
どうして、こんなことに――。目を瞠りながら、千代はどよめきの渦中に立つ朱音へと視線を転じる。方々からは、今や潜めることなく、混乱と不安を孕んだ声が無遠慮に飛び交っていた。それでも、朱音を責めるような言葉を誰も口にしないのは、鬼の一族を率いる朱天の前だからだろう。
だが、彼女は全身を震わせていた。顔を俯け、手をかたく握り締めながら。僅かに見える唇には、今にも薄い皮膚が切れてしまいそうなほど、きつく歯が食い込んでいる。泣いているのか、怒っているのか、分からない。しかし、彼女自身も動揺しているのは明らかで。
「――ほほう、これは面白い」
場に満ちた困惑を唐突に破ったのは、聞き覚えのある嗄れた声だった。千代ははっとして、左手に並ぶ畳の、一番手前に座る老爺に目を移す。そこには、両の袖に手を入れたまま涼しい顔をして座る仙右衛門の姿があった。歳を重ねた者だからこそ持ち得る落ち着き、というのだろうか。彼は周囲をゆったりと見回し、そうして黒ずんだ枝を、泰然と仰いだ。
「奥方殿の頭上にある枝だけ、黒ずんでおられますなあ」
分厚い瞼の下で、妖しい笑みを湛えた目がすっと細まる。責めるのではなく、ただただ愉しんでいるのが手に取るように分かる視線。千代は息を呑み、慌てて頭上を振り仰いだ。まさか、そんな、と胸の内で繰り返しながら。けれども仙右衛門の言葉通り、黒ずんだ枝は、確かに千代の頭上にだけ広がっていた。同じ一本の木であるはずなのに、夜彌の方に伸びる枝も、天へと向かう枝も、何の変哲もなく、先程までと変わらぬ色と張りを保っている。
「おいおい、こりゃあまさか」
「朱音姫の舞ではなく、奥方殿の……」
矛先が、朱音から自分へ移り変わったのが、ひりつくような空気感とともに、痛いほど伝わってくる。否応なく浴びせられる刺々しい視線に、肌が粟立つ。桜に何かをした覚えは、まるでない。ただ朱音の舞を観ていただけで、それ以外には何もしていないというのに。そもそも妖力も神力もないのだ。どうやって幽世に生きる桜を枯らすことが出来るというのだろう。
「――そうですわ」
不意に、鈴のような声が聞こえた。千代は着物の袖をぎゅっと握り締めながら、ゆるゆると視線を下ろして、緋毛氈の只中に佇む朱音を見据える。刹那、彼女の翡翠色の瞳とかち合った。そこにはもう、愕然とした翳りはどこにもない。喧騒が、波が引くように、すうっと遠ざかってゆく。
「桜はきっと、わたくしの舞をご覧になって、お目覚めになられたのですわ。こうして確かな反応を示したのですもの」
そう告げる朱音のかんばせには、不敵な笑みが浮かんでいた。
「だがのう、反応したとはいえ、桜が咲いたわけではない。しかも、黒ずんでおるぞ。あれは枯れておるのではないか」
仙右衛門の指摘に、朱音は赤い唇を薄く歪めて、くすりと笑いをこぼす。舞う前も、舞った後も、夜彌だけを見つめていた彼女の瞳には今、彼ではなく、千代だけが映っている。その妖しげな翡翠に、千代は、ああ――と胸の内で呟く。彼女がこれから何を言おうとしているのかを、察してしまったが故に。
「目を覚まされたからこそ、桜はお気付きになったのです。――此処に、“現世の者”が紛れ込んでいることに。この枯れ枝こそ……」
そこで言葉を区切り、朱音は黒ずんだ桜の枝へ、ゆっくりと視線を移した。
「この枯れ枝こそ、桜の示す拒絶の、何よりの証左ですわ」



