桜花の宴の当日は、早朝、何の前触れもないまま勢いよく開け放たれた襖の、弾けるような音で千代は目を覚ますこととなった。
「千代! あんたいつまで寝てんだい! さっさと支度始めるよ!」
寝ぼけ眼のまま布団から半ば無理矢理引き摺り出され、曙に染まる空を横目に、覚束無い足取りで連れてゆかれた湯殿で、千代は抗う間もなく寝巻きを脱がされる。そのまま手を引かれ、白い湯気の満ちる浴槽に浸からされると、米糠の甘い匂いに包まれながら、お靜の手で念入りに髪の毛を洗われた。昨夜も沐浴はしたのだけれど、と思うものの、出掛け――特に今日のような催しもの――の前には、必ず身を清めるのが習わしであるらしい。
「あの……髪も身体も、自分で……」
「駄目に決まってんだろ! あんたは大人しく、されるがままになってれば良いんだよ!」
分かりつつも、一応言ってみたのだが、お靜の返事はもちろんにべもない。仕方なく千代は苦笑を浮かべ、程よく温かい、たっぷり張られた湯の中で両手足を伸ばしながら、ゆっくりと息を吐き出した。
どうやら大人しくしている他ないらしい。恐らくこの後には、着付け、化粧、髪結い――と、気の遠くなるほど幾つもの工程が待っているのだろう。そう思うと辟易しそうになるが、単に慣れていないせいだろう、と今にも怯みそうな心に言い聞かせる。夜彌の隣に立つのなら、それくらいしておかなければ釣り合わない、とも。
案の定、湯殿から出た後は、息つく暇もないほど目まぐるしかった。想像していた通りの順を辿って、お靜や寧々、菊野だけでなく、須磨までもが混じって、四人掛かりでてきぱきと身支度が整えられてゆく。化粧は薄めに施し、結い上げた髪の毛には、桜を模した金細工と小さな玉のあしらわれた歩揺簪。
着物は今朝納品されたばかりで、たとう紙に包まれたそれが開かれた時には、意識が漫然としていた千代も、思わず胸が躍った。一斤染の布地に、肩から胸元にかけて広がる雲取り、裾にはゆるやかな流水柄が描かれている。何より目を引くのは、右腰から左裾の方へ鏤められた繊細な桜の花と、大きく翼を広げた二匹の美しい虎鶫――。
鱗紋の帯を締め、その中に、白檀の木くずを詰めた香袋を挟んで漸く、長い長い身支度は終わりを告げた。最後に鏡でおかしなところがないかを検め、念の為、千代も合せ鏡で結い髪の様子を確かめる。そうして柔光が障子を透かす頃には、誰も彼もが一仕事を終えた充実感と満足感に笑みを浮かべながら、畳の上に座り込んでいた。まだ“桜花の宴”は始まりすらしていないというのに。
出立の時刻が間近に迫り、菊野に付き添われながら鳳凰門へ向かう道すがら、千代はそわそわと、落ち着かない心地で幾度も着物を見下ろす。
「その、今更ですけど……本当に大丈夫でしょうか……」
「大丈夫ですとも。どうぞご安心下さいませ」
その度に菊野に励まされ、褒められながら門へ辿り着くと、そこには既に正装――黒紋付の着物と羽織に、縞袴――をした夜彌が、葛ノ葉と何事かを話しながら立っていた。吹き抜けた清澄な空気が羽織の裾をふわりと靡かせ、内側に縫い付けられた淡い鱗文の布地が僅かにのぞく。金糸で編まれた羽織紐が、眩い陽光を浴びて仄かに輝いている。左耳にはいつもの、丸い金細工の先に黒い房の垂れ下がった耳飾り。
「お待たせいたしました」
菊野が声をかけると、夜彌は話の途中で言葉を止め、やわらかな微笑を湛えながらこちらを振り返った。刹那、彼はまるで意表を突かれたように眉を跳ねさせ、呆けたような表情を滲ませながら、目を大きく見開かせる。口を半開きにした、夜彌にしては珍しい、間の抜けた顔。その様子に、何かおかしなところがあったのだろうか、と、或いは、着物が似合わなかったのだろうか、と、忽ち不安が押し寄せてくる。もしかしたら、着物の絵柄が気に食わなかったのだろうか――。
「虎鶫とは、珍しいものですね」
代わりに葛ノ葉が淡白な声でそう口にし――彼なりの、一応の感想であるらしい――、横目でちらりと、傍らに立つ主を見遣る。けれどいっかな瞬くことも何かを喋ろうともしない夜彌に、葛ノ葉は肩を竦めながら溜息をこぼした。
「そろそろご出立のお時間かと」
「ん? あ、ああ……そうだな」
漸く我に返ったらしい夜彌が、扉の閉ざされた鳳凰門へと目を向け、その一瞥で見張り番の男たちに開門を合図する。閂が抜かれ、ゆっくりと開かれたその先には一輌の立派な唐庇車――牛車――が停まっていた。分厚い車輪、黒漆の塗られた轅。大きな屋形の上部は弓形の曲線を描き、前後や物見には朱色に縁取られた簾が垂れている。
一度だけ、村の近くを通りかかった貴族の牛車を見かけたことがある。あれも、平民の千代からすれば十分に立派なものだったけれど、しかし今目の前に堂々と停まっている唐庇車ほど豪奢なものではなかった。
今度は千代が呆気に取られ、目を瞬かせながら立ち尽くしていると、ふいに、手を差し出された。手首を、腕を辿って視線を上げれば、眩い太陽のような金の瞳と重なる。そこにはもう、あの驚きに囚われたような色は何処にもない。
「そろそろ行こうか」
節の張った大きな掌と、穏やかに笑む夜彌のかんばせを交互に見遣り、千代はこくりとひとつ頷いて、差し出された手に、おずおずと己のそれを重ねた。
▽
桜花の宴の会場となる“眠り桜”は、左京の外れに佇む離宮の、その広々とした敷地の真ん中に、荘厳な雰囲気を湛えながら植わっていた。
小高い森に三方を抱かれ、残りの一方に面した回廊には、朱色の柱に檜皮葺の屋根をした楼門が堂々と聳え立っている。それを潜った先には、桜の植わる中島を浮かべた大きな池が広がり、北の奥の方には、玉垣で囲われた小さな拝殿のようなものも見受けられた。
あの拝殿は桜の精を祀っているものだ、と、隣を歩む夜彌に教えてもらいながら、千代は興味深げに辺りを見回し、中島に架かる反橋を渡る。敷地の所々に桜と思しき木々が植わっているが、どれも蕾を付けている気配はない。時期が違う、と言えば、確かにそうなのだけれど。しかし、此処では春になってもそれが普通のことなのだろうか、と疑問に思う。眠り桜以外も、全ての桜が等しく。
中島の中央に植わる、この宴の主役となる“眠り桜”の太い幹には、尊い木であることを示すように注連縄が巻かれ、白い紙垂が下がっていた。方々に伸びた枝は蒼穹を覆い尽くさんばかりだというのに、そこにはやはり、蕾もなければ花もない。その名の通り、ただ静かに眠っているだけの、大きな桜の木。
そんな“眠り桜”の手前には緋毛氈が敷かれ、その縁を囲うように置かれた畳には、既に多くのあやかしたちの姿があった。立っている者、座っている者、桜を眺めている者。中には、笛や三味線といった楽器を抱えた者達もいる。
夜彌が桜へ近付くや否や、四方八方から、様々な視線が飛んできた。畏敬の含まれたものもあれば、冷ややかなもの、或いは、憧憬を滲ませたような恍惚としたもの。しかし、彼の傍らに立つ千代へは一様に、誰もが刺々しい視線を突きつける。嘲笑、軽蔑、値踏み、はたまた、興味はないと言いたげな素っ気ない一瞥。
こんなにも大勢のあやかしの視界に晒されるのは初めてで、その無言の威圧感に、足が竦みそうになる。それを察したのか、夜彌が背中にやさしく手を添えた。強張った顔のまま見上げれば、彼は横目で千代を見つめながら穏やかに微笑んだ。背中に触れる大きな掌も、真っ直ぐに向けられる眼差しも、蜜のような金の瞳も。何もかもがあたたかく、まるで彼そのものに抱かれているような、そんな安心感がじんわりと胸の内を満たしてゆく。
「おや、夜彌殿ではございませんか」
快活な声が響き、目を向けると、見上げるほども高さのある大男が、強面になんとも気さくな笑みを浮かべ、大股で歩いてくるのが見えた。毛先の跳ねた赤銅色の髪、日に灼けた肌、翡翠色の瞳をした三白眼、額に生えた二本の角。着物に包まれていてもなお、その屈強さが窺い知れるほどの大男は、夜彌の前で足を止めると、隣に佇む千代へ視線を移し、そうして恭しく頭を下げた。
「これはこれは。お初にお目にかかる、奥方殿。某は鬼の一族の当主を務める、朱天と申す。以後お見知り置きを」
「千代と申します。こちらこそ、お目にかかれて光栄です」
千代もまた弾かれたように背筋を伸ばし、慌てて一礼する。奥方――。その呼ばれ方には、すっかり慣れたと思っていたのだけれど。邸の者以外から口にされるのは、仙右衛門を除けば初めてであるからか、なんだかこそばゆいものを感じる。
朱天はすぐに夜彌へと視線を転じると、どこどこの誰それが来ている、と言って、畳に囲われた一角を指さした。ふたりがそちらを向くのに合わせ、千代もまた何気なく――というより、他にどうしようもなく――後を追おうとした刹那、ふと視界の端に、こちらを見つめる女の姿が映り込んでいることに気付いた。ゆっくりと、彼女の立つ方へ顔を向ければ、朱天と全く同じ翡翠色の瞳と、視線が交わる。真っ直ぐに伸びた蘇芳色の長い髪の毛、抜けるように白い肌、額に生えた一本の角。
彼女はふわりと艶やかに微笑むと、悠然とした歩みで千代へと近付いた。
「まあ、とても素敵なお召し物ですこと」
すっと細められた双眸に、肌が粟立つ。美しいかんばせには、何処からどう見ても、誰もが見惚れそうなほどの婉然とした笑みが浮かんでいるけれど、長く濃い睫毛に囲まれた翡翠色の瞳には、明らかな敵意が滲んでいた。隠す気など微塵もないのは明白で、寧ろ、侮蔑を孕んだそれを見せつけているようでさえある、と感じる。
「雲取りに流水、それに虎鶫まで」
すうっと、しとやかな仕草で千代へ顔を寄せ、彼女は鮮やかな紅をさした唇で弧を描きながら、ふふっ、と軽やかに嗤った。
「――そんなにご自分が、夜彌様に選ばれた“花嫁”だと誇示なさりたいのかしら」
隣に立つ夜彌や朱天には届かぬよう潜められながらも、嘲笑をありありと含んだ口調に、千代は忽ち身体中が熱くなる。それが羞恥によるものなのか、それとも憤りによるものなのか、はたまたどちらでもあるのか、分からない。けれども、頭の中が須臾の間真っ白になり、微かに震えた吐息だけが、薄く開いた唇の間からこぼれ落ちた。
「まあそれも……今日まででしょうけれど」
鈴を転がすような声で意味深な言葉を囁き、彼女は笑みを深める。悪意などなさそうに。けれどその実、仮面の下に冷たい刃を忍ばせて。
「千代! あんたいつまで寝てんだい! さっさと支度始めるよ!」
寝ぼけ眼のまま布団から半ば無理矢理引き摺り出され、曙に染まる空を横目に、覚束無い足取りで連れてゆかれた湯殿で、千代は抗う間もなく寝巻きを脱がされる。そのまま手を引かれ、白い湯気の満ちる浴槽に浸からされると、米糠の甘い匂いに包まれながら、お靜の手で念入りに髪の毛を洗われた。昨夜も沐浴はしたのだけれど、と思うものの、出掛け――特に今日のような催しもの――の前には、必ず身を清めるのが習わしであるらしい。
「あの……髪も身体も、自分で……」
「駄目に決まってんだろ! あんたは大人しく、されるがままになってれば良いんだよ!」
分かりつつも、一応言ってみたのだが、お靜の返事はもちろんにべもない。仕方なく千代は苦笑を浮かべ、程よく温かい、たっぷり張られた湯の中で両手足を伸ばしながら、ゆっくりと息を吐き出した。
どうやら大人しくしている他ないらしい。恐らくこの後には、着付け、化粧、髪結い――と、気の遠くなるほど幾つもの工程が待っているのだろう。そう思うと辟易しそうになるが、単に慣れていないせいだろう、と今にも怯みそうな心に言い聞かせる。夜彌の隣に立つのなら、それくらいしておかなければ釣り合わない、とも。
案の定、湯殿から出た後は、息つく暇もないほど目まぐるしかった。想像していた通りの順を辿って、お靜や寧々、菊野だけでなく、須磨までもが混じって、四人掛かりでてきぱきと身支度が整えられてゆく。化粧は薄めに施し、結い上げた髪の毛には、桜を模した金細工と小さな玉のあしらわれた歩揺簪。
着物は今朝納品されたばかりで、たとう紙に包まれたそれが開かれた時には、意識が漫然としていた千代も、思わず胸が躍った。一斤染の布地に、肩から胸元にかけて広がる雲取り、裾にはゆるやかな流水柄が描かれている。何より目を引くのは、右腰から左裾の方へ鏤められた繊細な桜の花と、大きく翼を広げた二匹の美しい虎鶫――。
鱗紋の帯を締め、その中に、白檀の木くずを詰めた香袋を挟んで漸く、長い長い身支度は終わりを告げた。最後に鏡でおかしなところがないかを検め、念の為、千代も合せ鏡で結い髪の様子を確かめる。そうして柔光が障子を透かす頃には、誰も彼もが一仕事を終えた充実感と満足感に笑みを浮かべながら、畳の上に座り込んでいた。まだ“桜花の宴”は始まりすらしていないというのに。
出立の時刻が間近に迫り、菊野に付き添われながら鳳凰門へ向かう道すがら、千代はそわそわと、落ち着かない心地で幾度も着物を見下ろす。
「その、今更ですけど……本当に大丈夫でしょうか……」
「大丈夫ですとも。どうぞご安心下さいませ」
その度に菊野に励まされ、褒められながら門へ辿り着くと、そこには既に正装――黒紋付の着物と羽織に、縞袴――をした夜彌が、葛ノ葉と何事かを話しながら立っていた。吹き抜けた清澄な空気が羽織の裾をふわりと靡かせ、内側に縫い付けられた淡い鱗文の布地が僅かにのぞく。金糸で編まれた羽織紐が、眩い陽光を浴びて仄かに輝いている。左耳にはいつもの、丸い金細工の先に黒い房の垂れ下がった耳飾り。
「お待たせいたしました」
菊野が声をかけると、夜彌は話の途中で言葉を止め、やわらかな微笑を湛えながらこちらを振り返った。刹那、彼はまるで意表を突かれたように眉を跳ねさせ、呆けたような表情を滲ませながら、目を大きく見開かせる。口を半開きにした、夜彌にしては珍しい、間の抜けた顔。その様子に、何かおかしなところがあったのだろうか、と、或いは、着物が似合わなかったのだろうか、と、忽ち不安が押し寄せてくる。もしかしたら、着物の絵柄が気に食わなかったのだろうか――。
「虎鶫とは、珍しいものですね」
代わりに葛ノ葉が淡白な声でそう口にし――彼なりの、一応の感想であるらしい――、横目でちらりと、傍らに立つ主を見遣る。けれどいっかな瞬くことも何かを喋ろうともしない夜彌に、葛ノ葉は肩を竦めながら溜息をこぼした。
「そろそろご出立のお時間かと」
「ん? あ、ああ……そうだな」
漸く我に返ったらしい夜彌が、扉の閉ざされた鳳凰門へと目を向け、その一瞥で見張り番の男たちに開門を合図する。閂が抜かれ、ゆっくりと開かれたその先には一輌の立派な唐庇車――牛車――が停まっていた。分厚い車輪、黒漆の塗られた轅。大きな屋形の上部は弓形の曲線を描き、前後や物見には朱色に縁取られた簾が垂れている。
一度だけ、村の近くを通りかかった貴族の牛車を見かけたことがある。あれも、平民の千代からすれば十分に立派なものだったけれど、しかし今目の前に堂々と停まっている唐庇車ほど豪奢なものではなかった。
今度は千代が呆気に取られ、目を瞬かせながら立ち尽くしていると、ふいに、手を差し出された。手首を、腕を辿って視線を上げれば、眩い太陽のような金の瞳と重なる。そこにはもう、あの驚きに囚われたような色は何処にもない。
「そろそろ行こうか」
節の張った大きな掌と、穏やかに笑む夜彌のかんばせを交互に見遣り、千代はこくりとひとつ頷いて、差し出された手に、おずおずと己のそれを重ねた。
▽
桜花の宴の会場となる“眠り桜”は、左京の外れに佇む離宮の、その広々とした敷地の真ん中に、荘厳な雰囲気を湛えながら植わっていた。
小高い森に三方を抱かれ、残りの一方に面した回廊には、朱色の柱に檜皮葺の屋根をした楼門が堂々と聳え立っている。それを潜った先には、桜の植わる中島を浮かべた大きな池が広がり、北の奥の方には、玉垣で囲われた小さな拝殿のようなものも見受けられた。
あの拝殿は桜の精を祀っているものだ、と、隣を歩む夜彌に教えてもらいながら、千代は興味深げに辺りを見回し、中島に架かる反橋を渡る。敷地の所々に桜と思しき木々が植わっているが、どれも蕾を付けている気配はない。時期が違う、と言えば、確かにそうなのだけれど。しかし、此処では春になってもそれが普通のことなのだろうか、と疑問に思う。眠り桜以外も、全ての桜が等しく。
中島の中央に植わる、この宴の主役となる“眠り桜”の太い幹には、尊い木であることを示すように注連縄が巻かれ、白い紙垂が下がっていた。方々に伸びた枝は蒼穹を覆い尽くさんばかりだというのに、そこにはやはり、蕾もなければ花もない。その名の通り、ただ静かに眠っているだけの、大きな桜の木。
そんな“眠り桜”の手前には緋毛氈が敷かれ、その縁を囲うように置かれた畳には、既に多くのあやかしたちの姿があった。立っている者、座っている者、桜を眺めている者。中には、笛や三味線といった楽器を抱えた者達もいる。
夜彌が桜へ近付くや否や、四方八方から、様々な視線が飛んできた。畏敬の含まれたものもあれば、冷ややかなもの、或いは、憧憬を滲ませたような恍惚としたもの。しかし、彼の傍らに立つ千代へは一様に、誰もが刺々しい視線を突きつける。嘲笑、軽蔑、値踏み、はたまた、興味はないと言いたげな素っ気ない一瞥。
こんなにも大勢のあやかしの視界に晒されるのは初めてで、その無言の威圧感に、足が竦みそうになる。それを察したのか、夜彌が背中にやさしく手を添えた。強張った顔のまま見上げれば、彼は横目で千代を見つめながら穏やかに微笑んだ。背中に触れる大きな掌も、真っ直ぐに向けられる眼差しも、蜜のような金の瞳も。何もかもがあたたかく、まるで彼そのものに抱かれているような、そんな安心感がじんわりと胸の内を満たしてゆく。
「おや、夜彌殿ではございませんか」
快活な声が響き、目を向けると、見上げるほども高さのある大男が、強面になんとも気さくな笑みを浮かべ、大股で歩いてくるのが見えた。毛先の跳ねた赤銅色の髪、日に灼けた肌、翡翠色の瞳をした三白眼、額に生えた二本の角。着物に包まれていてもなお、その屈強さが窺い知れるほどの大男は、夜彌の前で足を止めると、隣に佇む千代へ視線を移し、そうして恭しく頭を下げた。
「これはこれは。お初にお目にかかる、奥方殿。某は鬼の一族の当主を務める、朱天と申す。以後お見知り置きを」
「千代と申します。こちらこそ、お目にかかれて光栄です」
千代もまた弾かれたように背筋を伸ばし、慌てて一礼する。奥方――。その呼ばれ方には、すっかり慣れたと思っていたのだけれど。邸の者以外から口にされるのは、仙右衛門を除けば初めてであるからか、なんだかこそばゆいものを感じる。
朱天はすぐに夜彌へと視線を転じると、どこどこの誰それが来ている、と言って、畳に囲われた一角を指さした。ふたりがそちらを向くのに合わせ、千代もまた何気なく――というより、他にどうしようもなく――後を追おうとした刹那、ふと視界の端に、こちらを見つめる女の姿が映り込んでいることに気付いた。ゆっくりと、彼女の立つ方へ顔を向ければ、朱天と全く同じ翡翠色の瞳と、視線が交わる。真っ直ぐに伸びた蘇芳色の長い髪の毛、抜けるように白い肌、額に生えた一本の角。
彼女はふわりと艶やかに微笑むと、悠然とした歩みで千代へと近付いた。
「まあ、とても素敵なお召し物ですこと」
すっと細められた双眸に、肌が粟立つ。美しいかんばせには、何処からどう見ても、誰もが見惚れそうなほどの婉然とした笑みが浮かんでいるけれど、長く濃い睫毛に囲まれた翡翠色の瞳には、明らかな敵意が滲んでいた。隠す気など微塵もないのは明白で、寧ろ、侮蔑を孕んだそれを見せつけているようでさえある、と感じる。
「雲取りに流水、それに虎鶫まで」
すうっと、しとやかな仕草で千代へ顔を寄せ、彼女は鮮やかな紅をさした唇で弧を描きながら、ふふっ、と軽やかに嗤った。
「――そんなにご自分が、夜彌様に選ばれた“花嫁”だと誇示なさりたいのかしら」
隣に立つ夜彌や朱天には届かぬよう潜められながらも、嘲笑をありありと含んだ口調に、千代は忽ち身体中が熱くなる。それが羞恥によるものなのか、それとも憤りによるものなのか、はたまたどちらでもあるのか、分からない。けれども、頭の中が須臾の間真っ白になり、微かに震えた吐息だけが、薄く開いた唇の間からこぼれ落ちた。
「まあそれも……今日まででしょうけれど」
鈴を転がすような声で意味深な言葉を囁き、彼女は笑みを深める。悪意などなさそうに。けれどその実、仮面の下に冷たい刃を忍ばせて。



