日盛りの陽光に照らされた漆塗りの高欄を、絹の布を使って、隅から隅まで丁寧に丁寧に拭ってゆく。所々取り付けられた、蓮の蕾のような青銅製の飾りまで、丹念に、やさしく。
忙しなく動かす手をぼんやりと見ながら、しかし千代の意識は、まるで此処になかった。僅かに開いた唇の間から、ひとりでに溜息がこぼれ落ちる。そうしたことさえ、自覚のないままに。
――俺が現世に大厄災を齎したのは、事実だ。
ふと気を緩めれば、夜彌の声がすぐさま耳の奥に蘇ってくる。まるで今まさに聞かされたかのような、生々しいほどの鮮明さで。そうなってしまうと、頭の中は忽ちその言葉で埋め尽くされ、心までもが呑み込まれてしまう。他のことが何も考えられないほど。底なしの沼の中に、ゆっくりと引き摺り込まれてゆくような感覚。
そうならない為に、せっせと掃除に励み、ただそれだけに意識を集中させようとするのだけれど、気付けば足を取られてしまっている。はっとした時には高欄を磨く手がとまってしまっていて、これでは何の為に掃除に勤しんでいるのか分かったものではない。かといって、部屋でじっとしていれば、どんどんと深みに嵌ってしまう――。
結局何をしていようが、足掻くことは出来ても、逃げることは出来ないのだ、と、千代は絹の布を折り返しながら思う。理解をするのではなく、気持ちの整理が出来なければずっとこのままなのだろう、とも。
あの日――夜彌の口からはっきりと“事実”であることを告げられたあの時、千代は何と言葉を返したのか、まるで覚えていなかった。「そうなのですね」と短く応えたのかもしれないし、或いは、「どうしてですか」と問うたのかもしれない。我に返った時には、自室の隅に座り込んでいた。まるで全てから逃げるように、抱えた膝に顔を埋めて。
混乱している、というのが、最も正しい表現なのだろう。考えも、気持ちも、うまく纏めることが出来ていない。ひとつひとつを噛み砕いて、或いは繋ぎ合わせて呑み込むことが、何も。故に、あの日からずっと、頭の中だけでなく、胸の中も常にぐちゃぐちゃだった。これまで見てきた夜彌の姿と、大厄災を齎した嘗ての夜彌。やさしく微笑む夜彌だけを知る“今の自分”と、多くの人々を苦しめたのだろう嘗ての夜彌へ対する“人間としての自分”。それらが、身体の中で暴れ回るようにせめぎ合っている。
「奥方様。こんな所にいらしたのですね」
ふいに声をかけられ、千代は蓮の蕾を撫でていた手をとめ、振り返る。そこには、お靜たちと同じ梅色の小袖に緋色の前掛けを身につけた寧々が立っていた。血色の戻った色白のかんばせに、やさしい笑みが浮かんでいる。手には水の入った桶と雑巾が握られており、どうやら廊下の掃除をするつもりでいるらしいことが見て取れた。
「寧々さん! もうお仕事をなさって大丈夫なのですか……?」
「ええ。もう体調も万全ですし、お館様からもおばば様からもお許しをいただきましたので」
そう言いながら彼女は回廊の隅に桶を置き、縁にかけていた雑巾を手に取って澄んだ水の中に浸す。穏やかな風が、藤の奥ゆかしい上品な薫りとともに回廊を吹き抜け、寧々の緩く編み込まれた鴇色の髪の毛が、左肩の上でふわりと揺れる。
おっとりとした雰囲気と、僅かに目尻の下がった二重の目元。竹を割ったような性格のお靜とは違い、彼女は、まるで淑やかさを絵に描いたような人柄をしている。何事にも落ち着いていて、しっとりと微笑んでいることが多い。
「何か考え事でもなさっていたのですか?」
そんな彼女に、濡らした雑巾をかたく絞りながらやわらかな声音で尋ねられ、千代はどきりとする。思わず肩を跳ねさせてしまい、それを視界の端で見ていたらしい寧々が、くすりと小さく笑った。
「私が近付いても、少しもお気付きになりませんでしたから」
いつから――。口を衝いて出そうになった言葉を既の所で呑み込み、千代は寧々の深い紅色の瞳から目を逸らし、磨きかけの蓮の飾りへ視線を落とす。
「すみません……どうしても、頭から離れないことがありまして、それで……」
なめらかな青銅製の蕾に添えたままだった絹の布を、千代は僅かに力を込めて握り締める。いつまでも堂々巡りをするくらいなら、いっそ夜彌と膝を突き合わせて話し合うのが、胸の底に沈む澱を拭い去る一番の近道なのだろうけれど。ただ、そうする勇気など、千代には微塵もなかった。
そういうところが自分の悪い癖だ、と、千代はたっぷりと房を垂らした藤の花を眺め遣りながら、静かに息を吐く。分かっている。分かっているけれど、どうにも出来ない。だから自分は情けないほど臆病でもあるのだ、と、つくづく思い知らされる。
「もしや、奥方様が悩まれているのは、仙右衛門様のことではございませんか」
相も変わらず落ち着いた声で、ぴたりと胸中を言い当てた寧々に、千代は驚きに目を瞠りながら振り返った。そんな千代に、彼女は目元を綻ばせてくすくすと笑う。よほど間抜けな顔をしていたのかもしれない。その自覚は、でも、ないわけではなかった。
「何故……」
「お靜が、大層腹を立てておりましたから。それはもう、凄まじい剣幕で愚痴を捲し立てられまして」
水気がないほどかたく絞った雑巾で床を拭きながら、寧々はちらりと、視線だけを千代へ向ける。
「お館様のことを、お聞きになったのでしょう?」
「ええ。……夜彌様も、仙右衛門様が語られたことは事実だ、と……」
それ以上言葉を続けることが出来ず、千代は力なく口を噤む。
正直なところ、何に一番悩み、恐れているのか、千代自身にも判然としていなかった。今の夜彌が見せるやさしさが偽りかもしれないことへか。それとも、大厄災を齎したという事実そのものへか。
本当に、何もかもがぐちゃぐちゃだ。あのまま何も知らずにいられたら、もっと純粋に夜彌と距離を縮めることが出来ていたのだろうか。けれど、もっと近くにいたいのなら、彼の過去を知らないままでいてはいけない、とも思う。それなのに――。
「“晴陽”という名前は、お館様が付けて下さったのです」
唐突に話題が変わり、千代はぱちりと目を瞬かせて、寧々の方へと顔を向ける。けれど、床を拭く手をとめ、凛と背筋を伸ばしてこちらを見上げる彼女の双眸を見つめていると、そうではないのだ、と千代は気が付いた。点を変えただけで、根底にある線は繋がっている。千代を真っ直ぐに見据える深い紅色の瞳は、朗らかでありながら、その実、内に秘めた意思の強さを滲ませるように、淡い光を帯びて見えた。
「露草色の瞳のように晴れやかで、燦々と輝く太陽のように多くの者を明るく照らす存在になってほしい、という願いが込められているのだと、お聞きしました」
そう言いながら、寧々はそっと、藤棚の方へと目を向ける。
「お館様に拾われた時、あの子はまだ産まれたての赤子でした。無論、生きてゆく術などありません。あの時の偶然の出会いがなければ……見つけて下さったのがお館様でなければ、あの子は野垂れ死んでいたことでしょう」
遠い日々を――或いは、晴陽と初めて会った日のことを――懐かしむかのように、寧々は僅かに目を細めた。そのやさしいかんばせは、正に母親のそれだ、と、千代は現世にひとり残してきた母の面影を重ねながら思う。顔の作りは全く違うけれど、何故だかよく似ているように感じる、とも。
「此処で働く者は、私や晴陽も含め、過去に何かしらの事情を抱えております。ですが、皆が此処にいるのは、お館様が“事情のある者”を集められたからではございません。行き場のなかった私たちに、お館様が手を差し伸べて下さったからなのです」
此処で働いてる奴の殆どは、“傷持ち”だ――。共に饅頭を食べたあの日、すっきりとした顔をしてお靜の告げた言葉が、脳裏に蘇る。寧々もお靜も見張り番の男たちも――もしかしたら、葛ノ葉や菊野も――、どういう事情を抱え、どういった経緯で夜彌と巡り合ったのかは、分からない。けれど、ひとつだけはっきりしているのは、皆、自ら望んで夜彌に仕えている、ということだ。ただ雇われたからではなく、感謝と敬意を抱いて。
「私のような者が、奥方様に助言を申し上げるなど、無礼かとは存じますが……」
ゆっくりと千代へ視線を戻した寧々の、長い睫毛に囲まれた双眸がふわりと和らぐ。まるで幼子を慈しむかのように。
「――誰かを信じる心は、他人に委ねるものではございません」
忙しなく動かす手をぼんやりと見ながら、しかし千代の意識は、まるで此処になかった。僅かに開いた唇の間から、ひとりでに溜息がこぼれ落ちる。そうしたことさえ、自覚のないままに。
――俺が現世に大厄災を齎したのは、事実だ。
ふと気を緩めれば、夜彌の声がすぐさま耳の奥に蘇ってくる。まるで今まさに聞かされたかのような、生々しいほどの鮮明さで。そうなってしまうと、頭の中は忽ちその言葉で埋め尽くされ、心までもが呑み込まれてしまう。他のことが何も考えられないほど。底なしの沼の中に、ゆっくりと引き摺り込まれてゆくような感覚。
そうならない為に、せっせと掃除に励み、ただそれだけに意識を集中させようとするのだけれど、気付けば足を取られてしまっている。はっとした時には高欄を磨く手がとまってしまっていて、これでは何の為に掃除に勤しんでいるのか分かったものではない。かといって、部屋でじっとしていれば、どんどんと深みに嵌ってしまう――。
結局何をしていようが、足掻くことは出来ても、逃げることは出来ないのだ、と、千代は絹の布を折り返しながら思う。理解をするのではなく、気持ちの整理が出来なければずっとこのままなのだろう、とも。
あの日――夜彌の口からはっきりと“事実”であることを告げられたあの時、千代は何と言葉を返したのか、まるで覚えていなかった。「そうなのですね」と短く応えたのかもしれないし、或いは、「どうしてですか」と問うたのかもしれない。我に返った時には、自室の隅に座り込んでいた。まるで全てから逃げるように、抱えた膝に顔を埋めて。
混乱している、というのが、最も正しい表現なのだろう。考えも、気持ちも、うまく纏めることが出来ていない。ひとつひとつを噛み砕いて、或いは繋ぎ合わせて呑み込むことが、何も。故に、あの日からずっと、頭の中だけでなく、胸の中も常にぐちゃぐちゃだった。これまで見てきた夜彌の姿と、大厄災を齎した嘗ての夜彌。やさしく微笑む夜彌だけを知る“今の自分”と、多くの人々を苦しめたのだろう嘗ての夜彌へ対する“人間としての自分”。それらが、身体の中で暴れ回るようにせめぎ合っている。
「奥方様。こんな所にいらしたのですね」
ふいに声をかけられ、千代は蓮の蕾を撫でていた手をとめ、振り返る。そこには、お靜たちと同じ梅色の小袖に緋色の前掛けを身につけた寧々が立っていた。血色の戻った色白のかんばせに、やさしい笑みが浮かんでいる。手には水の入った桶と雑巾が握られており、どうやら廊下の掃除をするつもりでいるらしいことが見て取れた。
「寧々さん! もうお仕事をなさって大丈夫なのですか……?」
「ええ。もう体調も万全ですし、お館様からもおばば様からもお許しをいただきましたので」
そう言いながら彼女は回廊の隅に桶を置き、縁にかけていた雑巾を手に取って澄んだ水の中に浸す。穏やかな風が、藤の奥ゆかしい上品な薫りとともに回廊を吹き抜け、寧々の緩く編み込まれた鴇色の髪の毛が、左肩の上でふわりと揺れる。
おっとりとした雰囲気と、僅かに目尻の下がった二重の目元。竹を割ったような性格のお靜とは違い、彼女は、まるで淑やかさを絵に描いたような人柄をしている。何事にも落ち着いていて、しっとりと微笑んでいることが多い。
「何か考え事でもなさっていたのですか?」
そんな彼女に、濡らした雑巾をかたく絞りながらやわらかな声音で尋ねられ、千代はどきりとする。思わず肩を跳ねさせてしまい、それを視界の端で見ていたらしい寧々が、くすりと小さく笑った。
「私が近付いても、少しもお気付きになりませんでしたから」
いつから――。口を衝いて出そうになった言葉を既の所で呑み込み、千代は寧々の深い紅色の瞳から目を逸らし、磨きかけの蓮の飾りへ視線を落とす。
「すみません……どうしても、頭から離れないことがありまして、それで……」
なめらかな青銅製の蕾に添えたままだった絹の布を、千代は僅かに力を込めて握り締める。いつまでも堂々巡りをするくらいなら、いっそ夜彌と膝を突き合わせて話し合うのが、胸の底に沈む澱を拭い去る一番の近道なのだろうけれど。ただ、そうする勇気など、千代には微塵もなかった。
そういうところが自分の悪い癖だ、と、千代はたっぷりと房を垂らした藤の花を眺め遣りながら、静かに息を吐く。分かっている。分かっているけれど、どうにも出来ない。だから自分は情けないほど臆病でもあるのだ、と、つくづく思い知らされる。
「もしや、奥方様が悩まれているのは、仙右衛門様のことではございませんか」
相も変わらず落ち着いた声で、ぴたりと胸中を言い当てた寧々に、千代は驚きに目を瞠りながら振り返った。そんな千代に、彼女は目元を綻ばせてくすくすと笑う。よほど間抜けな顔をしていたのかもしれない。その自覚は、でも、ないわけではなかった。
「何故……」
「お靜が、大層腹を立てておりましたから。それはもう、凄まじい剣幕で愚痴を捲し立てられまして」
水気がないほどかたく絞った雑巾で床を拭きながら、寧々はちらりと、視線だけを千代へ向ける。
「お館様のことを、お聞きになったのでしょう?」
「ええ。……夜彌様も、仙右衛門様が語られたことは事実だ、と……」
それ以上言葉を続けることが出来ず、千代は力なく口を噤む。
正直なところ、何に一番悩み、恐れているのか、千代自身にも判然としていなかった。今の夜彌が見せるやさしさが偽りかもしれないことへか。それとも、大厄災を齎したという事実そのものへか。
本当に、何もかもがぐちゃぐちゃだ。あのまま何も知らずにいられたら、もっと純粋に夜彌と距離を縮めることが出来ていたのだろうか。けれど、もっと近くにいたいのなら、彼の過去を知らないままでいてはいけない、とも思う。それなのに――。
「“晴陽”という名前は、お館様が付けて下さったのです」
唐突に話題が変わり、千代はぱちりと目を瞬かせて、寧々の方へと顔を向ける。けれど、床を拭く手をとめ、凛と背筋を伸ばしてこちらを見上げる彼女の双眸を見つめていると、そうではないのだ、と千代は気が付いた。点を変えただけで、根底にある線は繋がっている。千代を真っ直ぐに見据える深い紅色の瞳は、朗らかでありながら、その実、内に秘めた意思の強さを滲ませるように、淡い光を帯びて見えた。
「露草色の瞳のように晴れやかで、燦々と輝く太陽のように多くの者を明るく照らす存在になってほしい、という願いが込められているのだと、お聞きしました」
そう言いながら、寧々はそっと、藤棚の方へと目を向ける。
「お館様に拾われた時、あの子はまだ産まれたての赤子でした。無論、生きてゆく術などありません。あの時の偶然の出会いがなければ……見つけて下さったのがお館様でなければ、あの子は野垂れ死んでいたことでしょう」
遠い日々を――或いは、晴陽と初めて会った日のことを――懐かしむかのように、寧々は僅かに目を細めた。そのやさしいかんばせは、正に母親のそれだ、と、千代は現世にひとり残してきた母の面影を重ねながら思う。顔の作りは全く違うけれど、何故だかよく似ているように感じる、とも。
「此処で働く者は、私や晴陽も含め、過去に何かしらの事情を抱えております。ですが、皆が此処にいるのは、お館様が“事情のある者”を集められたからではございません。行き場のなかった私たちに、お館様が手を差し伸べて下さったからなのです」
此処で働いてる奴の殆どは、“傷持ち”だ――。共に饅頭を食べたあの日、すっきりとした顔をしてお靜の告げた言葉が、脳裏に蘇る。寧々もお靜も見張り番の男たちも――もしかしたら、葛ノ葉や菊野も――、どういう事情を抱え、どういった経緯で夜彌と巡り合ったのかは、分からない。けれど、ひとつだけはっきりしているのは、皆、自ら望んで夜彌に仕えている、ということだ。ただ雇われたからではなく、感謝と敬意を抱いて。
「私のような者が、奥方様に助言を申し上げるなど、無礼かとは存じますが……」
ゆっくりと千代へ視線を戻した寧々の、長い睫毛に囲まれた双眸がふわりと和らぐ。まるで幼子を慈しむかのように。
「――誰かを信じる心は、他人に委ねるものではございません」



