朝陽を透かす障子を開け、千代はゆっくりと肘掛窓の前に腰を下ろす。空には一面、澄んだ青色が広がっている。燦々と降り注ぐ眩い光、葉擦れの音と共に流れてくる瑞々しい朝の匂い。
――二十余年という長きに亘る厄災で人々を苦しめただけでなく、時の帝さえも殺そうとした、人間にとっては憎き大妖怪ですぞ。
仙右衛門の衝撃的な発言を聞いて以降、雑舎へ向かう前に、窓辺でひとり物思いに耽るのが、いつの間にか日課になってしまっていた。いくら自問を繰り返したところで、答えが返ってくるわけでも、それが見つかるわけでもないと分かっていながら。無駄なことだ、と、頭では理解していても、それでも気付けば考え込んでしまっている。囚われている、と言った方が正しいのだろうか。ふとそう思い、千代は窓枠に頬杖をつきながら深々と溜息を吐き出した。
どれだけ思案したところで、なにひとつ蟠りは消えない。それは同時に、自分は夜彌のことについて未だ何も知らないのだ、という事実を突きつける。“花嫁”として迎えられても、同じ邸の中で暮らすようになっても、談笑をしたり酒を酌み交わすことがあっても。彼が今までどのようにして生きてきたのか、本当はどういう性格をして、どういう物の考え方をするのか――或いは、食べ物の好き嫌いや得手不得手に至るまで、何ひとつ知らない。知らないまま、周りから“奥方様”と呼ばれてしまっている。彼ら彼女たちの方が、夜彌のことをもっと色々と知っているだろうに。
考え込んだところで、結局のところどうしようもないのだ。そもそも夜彌自身についての知識が、千代にはてんで乏しいのだから。お靜のように、きっぱりと否定を言い切れるだけの自信もなければ、そう出来るだけの確証そのものもない。――本当に、ないないだらけだ、と、千代は自嘲を滲ませながら目を伏せる。神力といった特別な能力を持たないばかりか、妻でありながら夫のことさえろくに知らないだなんて。
どうすれば、夜彌のことを深く知ることが出来るのだろう。でも、そうした先にある真実が、もし仙右衛門の言葉通りのものだったとしたら――。
「……堂々巡りね」
小さく苦笑をこぼし、胸に湧く一抹の不安を意識の外へと追い遣りながら、千代は徐に腰を上げた。冴えた空気を身体いっぱいに吸い込んで、細く長くゆったりと吐き出す。そうして気持ちを入れ替え、千代は障子を閉めて襖へと足を向けた。梅色の小袖を身に纏い、格子柄の前掛けを腰に結って。いつものお仕着せ姿で、今日も一日頑張るぞ、と意気込みながら襖を開けた千代は――そこではたと、動きを止めた。
眼の前に、大きな影が立っている。ふわりと動く尻尾、それと同じ白銀をした長い髪の毛。あまりにも突然のことに驚いて、思わず心臓が飛び跳ねる。恐る恐る、ぎこちのない動きで顔を上げれば、高い位置からこちらを見下ろす目と視線が交わった。相も変わらず何の感情も読み取ることの出来ない、淡々とした――だからこそ冷たいとも感じる――薄紫色の瞳。
「あ、あの……」
咄嗟に言葉が浮かばず、千代はどぎまぎする。ただ普通に朝の挨拶をすれば良いだけなのだと気付くまでに、少しだけ時間が要った。けれどそう気付いても、口に出来るかといえば、それはまた別の問題で。
呆然と立ち尽くす千代をじっと見つめていた葛ノ葉は、暫しの沈黙を挟んだ後、呆れを含んだような吐息を、そっとこぼした。
「本日は、奥方としての務めを果たしていただきます故、ご同行願います」
「務め……?」
何のことだか分からず戸惑うが、しかしそれ以上説明をする気はないのか、葛ノ葉は千代の納得を待つことなく早々に歩き始めた。慌てて襖を閉め、千代はその大きな背中を小走りで追いかける。“奥方としての務め”というのが、どんなものであるのかはさっぱり分からないけれど。ついて来いと言われれば、今の千代には彼についてゆく他なかった。
▽
連れてゆかれたのは、西対にあるひと部屋だった。
この邸には数多の部屋がある。使われているものもあれば、使われていないものも含めて。全てを覚えるとなると果てしなく、故に必要最低限の場所しか記憶する余裕のなかった千代には、その部屋がどんなところであるのか――何の目的の為の部屋であるのか――は皆目見当もつかなかった。
「千代様をお連れしました」
室内へ声をかけ、葛ノ葉は返事が聞こえてくるより先に引手に指先をかけて静かに襖を開ける。そうして彼は一歩、脇へ身体を退けた。忽ち、目の前を埋め尽くしていた逞しい背中が消え、その代わり、色とりどりの反物の並べられた景色と、その只中で律儀に座礼をするひとりの女が視界に映り込む。ふと視線を奥へ遣ると、床の間の脇に設けられた窓の傍に、夜彌が腰掛けていた。窓枠に頬杖をつき、ふわりと目元を綻ばせたやさしい面持ちで千代を見つめながら。
――穏やかにしておっても、あやかしの性分とは変わらぬもの。根っこは、あの頃のままでしょうなあ。
仙右衛門の声が耳の奥に蘇り、千代は慌てて意識を逸らす。あの一件の後、夜彌と顔を合わせるのはこれが初めてだ。既に彼の耳には話が入っているだろうし、だからこそ、どう接すれば良いのか分からない。いつも通りを心がける以外にはないのだけれど。それでも、何も知らなかった頃のようにはどうしてもゆかない、と思う。避けたいだとか、怖いだとか、そういうわけではない。ただ、胸の奥に淀んだ重たい痼が、微笑もうとする頬さえ強張らせてしまうのだ。
「お会い出来て嬉しゅうございます、奥方様」
うだうだと思考の渦に呑まれかけていた千代を、凛とした女の声が引き戻す。ぱちり、とひとつ瞬いて窓辺から目を離し、千代は部屋の中央に姿勢正しく座る女へと視線を移した。緩くひとつに結わえ、右肩に流された藍鉄色の髪の毛。凹凸のくっきりとしたかんばせに、涼やかな切れ長の目元。山吹色をした質の良い着物には、黒繻子の帯が合わせられている。
「わたくしは、須磨と申します。以後、お見知りおき下さいませ」
「“笹久茂”という呉服屋の女将だ」
にこりと微笑んだ須磨の肩越しに、夜彌の声が届いた。あたふたと膝をついて一礼した千代に、須磨はふっとやわらかに笑みを深めながら、紅の引かれた唇を開いた。
「今日は奥方様に似合う一反を、じっくりと、心を込めてお見立てさせていただきますね」
「似合う、一反……?」
ぽつりと小声でこぼしながら、千代は小首を傾げる。その様子に、須磨は「まあ」と驚いた声をあげながら目を見開き、そうして窓辺に座る夜彌を振り返った。傍らから、葛ノ葉のものと思しき溜息が聞こえてくる。当の夜彌はといえば、窓枠に頬杖をついたまま、愉快そうにくすりと笑った。
「今度、“桜花の宴”というものが開かれる。五十年に一度催される、少し風変わりな宴でな」
曰く、桜花の宴が開かれる会場には、一本の大桜が植わっているのだという。その桜は春が来ても花を開かせるどころか蕾をつけることさえなく、常に枝だけが伸びているという状態で、故に妖都では“眠り桜”と呼ばれているそうだ。
その桜を眠りから覚まし、美しい花を開かせる為に、五十年に一度、我こそはという者たちが舞を披露する。桜を目覚めさせることが出来れば、妖都には数十年にも及ぶ幸福がもたらされるとされ、見事その大役を果たした者には、幽世の主より褒賞が与えられるという。
「だが、桜を眠りから覚ました者は、ここ数百年の間ひとりもいない。……まあ、今年も同様だろう」
そう言って、夜彌は呆れたように眉尻を下げながら肩を竦めた。
「その宴に、君には俺の伴侶として出てもらいたいんだ。無論、舞う必要はない。俺の隣で観ているだけで十分だ」
――二十余年という長きに亘る厄災で人々を苦しめただけでなく、時の帝さえも殺そうとした、人間にとっては憎き大妖怪ですぞ。
仙右衛門の衝撃的な発言を聞いて以降、雑舎へ向かう前に、窓辺でひとり物思いに耽るのが、いつの間にか日課になってしまっていた。いくら自問を繰り返したところで、答えが返ってくるわけでも、それが見つかるわけでもないと分かっていながら。無駄なことだ、と、頭では理解していても、それでも気付けば考え込んでしまっている。囚われている、と言った方が正しいのだろうか。ふとそう思い、千代は窓枠に頬杖をつきながら深々と溜息を吐き出した。
どれだけ思案したところで、なにひとつ蟠りは消えない。それは同時に、自分は夜彌のことについて未だ何も知らないのだ、という事実を突きつける。“花嫁”として迎えられても、同じ邸の中で暮らすようになっても、談笑をしたり酒を酌み交わすことがあっても。彼が今までどのようにして生きてきたのか、本当はどういう性格をして、どういう物の考え方をするのか――或いは、食べ物の好き嫌いや得手不得手に至るまで、何ひとつ知らない。知らないまま、周りから“奥方様”と呼ばれてしまっている。彼ら彼女たちの方が、夜彌のことをもっと色々と知っているだろうに。
考え込んだところで、結局のところどうしようもないのだ。そもそも夜彌自身についての知識が、千代にはてんで乏しいのだから。お靜のように、きっぱりと否定を言い切れるだけの自信もなければ、そう出来るだけの確証そのものもない。――本当に、ないないだらけだ、と、千代は自嘲を滲ませながら目を伏せる。神力といった特別な能力を持たないばかりか、妻でありながら夫のことさえろくに知らないだなんて。
どうすれば、夜彌のことを深く知ることが出来るのだろう。でも、そうした先にある真実が、もし仙右衛門の言葉通りのものだったとしたら――。
「……堂々巡りね」
小さく苦笑をこぼし、胸に湧く一抹の不安を意識の外へと追い遣りながら、千代は徐に腰を上げた。冴えた空気を身体いっぱいに吸い込んで、細く長くゆったりと吐き出す。そうして気持ちを入れ替え、千代は障子を閉めて襖へと足を向けた。梅色の小袖を身に纏い、格子柄の前掛けを腰に結って。いつものお仕着せ姿で、今日も一日頑張るぞ、と意気込みながら襖を開けた千代は――そこではたと、動きを止めた。
眼の前に、大きな影が立っている。ふわりと動く尻尾、それと同じ白銀をした長い髪の毛。あまりにも突然のことに驚いて、思わず心臓が飛び跳ねる。恐る恐る、ぎこちのない動きで顔を上げれば、高い位置からこちらを見下ろす目と視線が交わった。相も変わらず何の感情も読み取ることの出来ない、淡々とした――だからこそ冷たいとも感じる――薄紫色の瞳。
「あ、あの……」
咄嗟に言葉が浮かばず、千代はどぎまぎする。ただ普通に朝の挨拶をすれば良いだけなのだと気付くまでに、少しだけ時間が要った。けれどそう気付いても、口に出来るかといえば、それはまた別の問題で。
呆然と立ち尽くす千代をじっと見つめていた葛ノ葉は、暫しの沈黙を挟んだ後、呆れを含んだような吐息を、そっとこぼした。
「本日は、奥方としての務めを果たしていただきます故、ご同行願います」
「務め……?」
何のことだか分からず戸惑うが、しかしそれ以上説明をする気はないのか、葛ノ葉は千代の納得を待つことなく早々に歩き始めた。慌てて襖を閉め、千代はその大きな背中を小走りで追いかける。“奥方としての務め”というのが、どんなものであるのかはさっぱり分からないけれど。ついて来いと言われれば、今の千代には彼についてゆく他なかった。
▽
連れてゆかれたのは、西対にあるひと部屋だった。
この邸には数多の部屋がある。使われているものもあれば、使われていないものも含めて。全てを覚えるとなると果てしなく、故に必要最低限の場所しか記憶する余裕のなかった千代には、その部屋がどんなところであるのか――何の目的の為の部屋であるのか――は皆目見当もつかなかった。
「千代様をお連れしました」
室内へ声をかけ、葛ノ葉は返事が聞こえてくるより先に引手に指先をかけて静かに襖を開ける。そうして彼は一歩、脇へ身体を退けた。忽ち、目の前を埋め尽くしていた逞しい背中が消え、その代わり、色とりどりの反物の並べられた景色と、その只中で律儀に座礼をするひとりの女が視界に映り込む。ふと視線を奥へ遣ると、床の間の脇に設けられた窓の傍に、夜彌が腰掛けていた。窓枠に頬杖をつき、ふわりと目元を綻ばせたやさしい面持ちで千代を見つめながら。
――穏やかにしておっても、あやかしの性分とは変わらぬもの。根っこは、あの頃のままでしょうなあ。
仙右衛門の声が耳の奥に蘇り、千代は慌てて意識を逸らす。あの一件の後、夜彌と顔を合わせるのはこれが初めてだ。既に彼の耳には話が入っているだろうし、だからこそ、どう接すれば良いのか分からない。いつも通りを心がける以外にはないのだけれど。それでも、何も知らなかった頃のようにはどうしてもゆかない、と思う。避けたいだとか、怖いだとか、そういうわけではない。ただ、胸の奥に淀んだ重たい痼が、微笑もうとする頬さえ強張らせてしまうのだ。
「お会い出来て嬉しゅうございます、奥方様」
うだうだと思考の渦に呑まれかけていた千代を、凛とした女の声が引き戻す。ぱちり、とひとつ瞬いて窓辺から目を離し、千代は部屋の中央に姿勢正しく座る女へと視線を移した。緩くひとつに結わえ、右肩に流された藍鉄色の髪の毛。凹凸のくっきりとしたかんばせに、涼やかな切れ長の目元。山吹色をした質の良い着物には、黒繻子の帯が合わせられている。
「わたくしは、須磨と申します。以後、お見知りおき下さいませ」
「“笹久茂”という呉服屋の女将だ」
にこりと微笑んだ須磨の肩越しに、夜彌の声が届いた。あたふたと膝をついて一礼した千代に、須磨はふっとやわらかに笑みを深めながら、紅の引かれた唇を開いた。
「今日は奥方様に似合う一反を、じっくりと、心を込めてお見立てさせていただきますね」
「似合う、一反……?」
ぽつりと小声でこぼしながら、千代は小首を傾げる。その様子に、須磨は「まあ」と驚いた声をあげながら目を見開き、そうして窓辺に座る夜彌を振り返った。傍らから、葛ノ葉のものと思しき溜息が聞こえてくる。当の夜彌はといえば、窓枠に頬杖をついたまま、愉快そうにくすりと笑った。
「今度、“桜花の宴”というものが開かれる。五十年に一度催される、少し風変わりな宴でな」
曰く、桜花の宴が開かれる会場には、一本の大桜が植わっているのだという。その桜は春が来ても花を開かせるどころか蕾をつけることさえなく、常に枝だけが伸びているという状態で、故に妖都では“眠り桜”と呼ばれているそうだ。
その桜を眠りから覚まし、美しい花を開かせる為に、五十年に一度、我こそはという者たちが舞を披露する。桜を目覚めさせることが出来れば、妖都には数十年にも及ぶ幸福がもたらされるとされ、見事その大役を果たした者には、幽世の主より褒賞が与えられるという。
「だが、桜を眠りから覚ました者は、ここ数百年の間ひとりもいない。……まあ、今年も同様だろう」
そう言って、夜彌は呆れたように眉尻を下げながら肩を竦めた。
「その宴に、君には俺の伴侶として出てもらいたいんだ。無論、舞う必要はない。俺の隣で観ているだけで十分だ」



