奴延鳥の一途婚 〜生贄として捨てられた花嫁は、最強のあやかし当主に『最愛の番』として溺愛される〜

 皿と盥を戻しに雑舎へ戻ると、案の定菊野に見つかった。はじめ目を大きく見開かせ、束の間固まったように見えた彼女は、しかし次には「まあまあまあ!」と同じ言葉を何度も繰り返しながら千代に駆け寄り、今日は休んでいて構わない、と諄々と語るものだから、なんだか悪さをして叱られる子どものようだ、と、つい苦笑をこぼしてしまった。

 お靜からは「ほらな」と言わんばかりの一瞥を向けられたが、結局菊野に事情を説明し、渋々受け入れてもらった。簡単な仕事なら、と。でも、今日はいつもより早めに切り上げて下さいね、とも言われはしたけれど。

「しっかし、あんたも頑固だねえ。折れりゃあ良いものを」

 そうして千代は今、雑巾と桶を片手に西対へ通じる渡廊を歩きながら、お靜に呆れられている。あれだけ休むよう説得してきた菊野を、更に上回る勢いで説得し返した千代の、あまりの強情さに。

 頑固――。現世に居た頃、幼馴染だった女の子にも、同じ様に言われたことがあるのを、千代は澄んだ水音を立てて流れる遣水を横目に眺めながら、懐かしく思い出す。あの村で、唯一親しかった、同じ歳の女の子。生贄になることを受け入れた時、母以外で涙を流してくれたのは、彼女だけだった。どうして、どうして、と幾度も繰り返しながら、縋り付いて咽び泣いていた姿を、涙にしとどに濡れた彼女の愛らしいかんばせを、今でも憶えている。

 今頃元気にしているだろうか。彼女はとても美しい顔貌をしていたし、器量良しでもあったから、誰か素敵な殿方に見初められ、幸せに過ごしているかもしれない。そう考えながら、千代はほろ苦く笑みをこぼし、渡廊の先へと目を戻した――その時だった。見知らぬ老爺が、まるで行く手を阻むように立っているのが見えたのは。

 先に足を止めたのは、隣を歩んでいたお靜だった。彼女の纏う空気が、忽ち張り詰めるのを、ひしひしと肌に感じる。葛ノ葉や夜彌へ対するのともまるで違う、それは畏敬や対抗心というより、嫌悪を滲ませた警戒心のようなものだった。一歩遅れて足をとめた千代は、そんな彼女を肩越しに一瞥し、そうして再び正面に佇む老爺へと視線を戻した。

 後ろへ長く伸び、なめらかに剃り上げられた瓢箪形の頭。たっぷりと蓄えられた白鼠色の髭に、同じ色をした長い眉毛。皺の刻まれた瞼は垂れ下がり、如何にも好々爺然とした笑みを湛えているように見えるが、しかし、細く開いたそれの間から覗く墨色の瞳は妖しげな光を滲ませ、胸の奥深くまで見透かすかのような、底の知れない不気味さを感じさせる。

「これはこれは。まさかこんなところで、奥方殿にお会い出来るとは」

 さも嬉しそうに、嗄れた声でそう言う老爺の視線は、しかし、まるで値踏みでもするように、じっと千代を見据えていた。そのせいだろうか。冷たいものが背筋を這う感覚がして、ぞくりと、身体の内側に震えが走る。漠然とした、恐怖。何がそんなに、と問われても、どう表現すれば良いのか分からないけれど、彼の視界に晒されていればいるほど、指の先から何かに蝕まれてゆくような気がする。一見穏やかでありながら、その裏に隠れる圧倒的な威圧感と、掴みどころのなさ――。

 恐らくお靜の言っていた“どえらいお客様”とは、この老爺のことなのだろう。身を包む着物と長羽織は、色柄こそ地味だが、上等な反物が用いられているのだとひと目で分かる。

「……気ぃつけな。ぬらりひょんの爺だ」

 潜めた声でそっと、お靜が耳元で囁く。ぬらりひょん――。いつだったか、百鬼夜行というものを絵草子で見たことがあるが、そこに描かれていた頭の長いあやかしもまた、同じような名ではなかっただろうか。絵巻物でその存在を確かめることは出来るが、しかし、その詳細は殆ど不明と記されていた、謎多きあやかし。或いは、嘘の正体こそ、とも――。

「お初にお目にかかります。千代と申します」
「千代殿か。良い名じゃのう」

 くつくつと喉を鳴らすように笑って、老爺は右手で豊かな髭を撫でた。

「儂は、仙右衛門(せんえもん)と申す。鵺のご当主殿とは、長い付き合いでな」

 背中で両手を組みながら、仙右衛門と名乗った老爺は皺の寄ったかんばせに柔和な笑みを浮かべる。老獪、というのだろうか。千代へ真っ直ぐ向けられる双眸は、にこやかでありながら、その実、相も変わらず感情は読み取れない。底の見えない昏さが、おどろおどろしくさえある。

「それにしても、人間の娘を娶ったと確かに聞いておったが……こりゃあ、驚いた」

 神力も何もないただの“人間の娘”如きが――と、言いたいのだろう。幽世を統べる主の妻に相応しい存在ではない、と。恐らくはお靜もそう思ったのか、ぽん、とやさしく背中を叩かれた。気にするな、と、そう言う代わりのように。無論、彼女からもらった言葉を、忘れてはいない。いないけれど、だからといって、神力のない、ないないばかりの人間であることに変わりはない、と、千代は胸の内で小さく溜息をこぼす。

 きっと今後も、誰かしらに会う度に揶揄されるのだろう。葛ノ葉に連れ出され、妖都を見て回ったあの日。まだ序の口なのかもしれない、と胸を過った時のことを、千代は思い出す。“夜彌の妻”として表に出るようになれば、尚の事――。

 しかし、ゆっくりとひとつ瞬いた仙右衛門の発した言葉は、千代やお靜の想像していたものとは、まるで違った。

「奥方殿は人間でありながら、よくもまあ、よりによって“鵺”をお選びになったもんだ」

 よりによって、“鵺”を――。明らかに含みをもたせたその物言いに、千代は僅かに眉根を寄せる。果たしてそれは、どういう意味なのだろう。鵺と他では、何が違うというのか。鵺もぬらりひょんも産女も、人間からすれば、総じて“あやかし”だというのに。

「……何が仰りたいのでしょう」

 千代は出来るだけ表情を和らげ、小さく首を傾げる。すると、仙右衛門は落ち窪んだ目を大きく見開き、芝居がかったふうに驚いた表情を浮かべた。

「おやおや、何も知らぬのですな。まあ、もう何百年も昔の話。現世では疾うに忘れ去られてしまったのでしょうなあ。――ご当主殿が嘗て、現世に大厄災を齎したことなど」

 くつりと喉の奥で笑う仙右衛門の、にやりと持ち上がった口角を凝視したまま、千代は息を詰める。――現世、大厄災。彼の乾いた唇が発した言葉を、ひとつひとつ噛み砕こうとするけれど、まるで理解することを拒んででもいるかのように、それらはぐるぐると頭の中を駆け回るだけで、いっかな呑み込めない。

 愕然と目を瞠る千代を、仙右衛門はひどく愉しげに眺めていた。品定め、というより、正に反応そのものを面白がっている、という目で。

「今はああして、優男を装っておりますがなあ。七年にも及ぶ大疫病、更に七年の大飢饉、そして七年続いた大兵乱――二十余年という長きに亘る厄災で人々を苦しめただけでなく、時の帝さえも殺そうとした、人間にとっては憎き大妖怪ですぞ」

 吹き抜ける風に衣を揺らしながら、仙右衛門はすっと目を細める。困惑を、それどころか、胸の奥の、触れてほしくないところまで見透かされているような気がして、千代は逃げるように、彼から目を逸らした。

 これでは思う壺だ、もっと毅然としていなければ、と分かっているけれど。それでも、どうしようもなかった。脳裏に浮かぶやさしい笑みを湛えた夜彌と、仙右衛門の告げた“大妖怪”である夜彌とが、あまりにも重ならない。まるで全く別人の話を聞いているようだ、と思う。それくらいふたつの影は懸隔していて、千代の思考を、胸を、ひどく掻き乱す。

 一体、どちらが正しいのだろう。正しいというより、どちらの“夜彌”が本当の彼なのだろう――。

「穏やかにしておっても、あやかしの性分とは変わらぬもの。根っこは、あの頃のままでしょうなあ。血も涙もない、狡猾で極悪非道な――」
「お館様がそんな冷血漢なわけないだろ!」

 仙右衛門の言葉を遮るようにして、お靜が啖呵を切る。

「お館様がそんな奴なら、あたしらは此処にいない!」
「しかし、事実は事実じゃろう。それになあ、この邸におるのは、殆どが脛に疵持つ奴ではないか」

 刹那、お靜が息を呑む。言い返す言葉を、見失ったのだろう。彼の言い放った、“脛に疵持つ奴”という、そのひと言によって。けれどすぐに、お靜は憤怒も露わに身を乗り出した。千代を片手で押し退けるようにして、今にも仙右衛門へ飛びかからんばかりの勢いで。

 はっとし、千代は俯けていた顔を上げ、慌ててお靜へ手を伸ばす。しかしそうするよりも先に、

「――仙右衛門様」

 辺りに響き渡った静かな声によって、彼女はぴくりと動きを止めた。お靜の喉から、ひゅっ、と風を切るような音が微かに漏れる。仙右衛門はもう、お靜にも、千代にも、目をくれてはいなかった。分厚い瞼の下に覗く墨色の瞳は、ふたりを通り越し、背後からゆっくりと歩み寄るもうひとつの気配へ、真っ直ぐに向けられている。半ば睨め付けるようにして。それでも、皺の寄った顔には、先程までと変わらぬ飄々とした笑みが滲んでいた。

「おや、久しいのう、葛ノ葉」

 悠然と歩み寄ってきた葛ノ葉は、お靜の傍を通り越して前に立つと、仙右衛門に対し恭しく一礼した。肩越しに見えるその横顔に、感情は微塵も浮かんでいない。それでも、彼の意識が相対している老爺ではなく、背後にいるお靜へ向けられていることに、千代は気付く。何故かと問われても、何となく、としか応えられないものではあるけれど。しかし、現に彼は千代の前ではなく、お靜の前に佇んでいる。まるで彼女を背に隠すようにして。

「夜彌様がお待ちです」
「そうかそうか。それはいかんな。少し油を売りすぎた。儂はもう行くとしよう」

 ほっほっ、と、老人めいた笑い声をわざとらしくあげながら、仙右衛門は千代たちを一瞥することなく、主殿へ繋がる渡廊の方へと去って行った。思わず呆気に取られるほど、随分すんなりと。

 何も口に出来ぬまま、半ば呆然と老爺の背中を見つめていた千代は、彼の後ろ姿が物陰に隠れて漸く、深く息を吐き出した。強張っていた身体から、幾分か力が抜ける。嵐の過ぎ去った後のような、しんとした沈黙。緑の匂いを孕んだ風が一際強く吹き、透かし彫りの簪で留められたお靜の黒髪を大きく揺らす。

「すぐに食って掛かるなと、何度言えば分かる」

 葛ノ葉の冷淡な声が、静まり返っていた空気を切り裂く。それをきっかけに、石のように固まっていたお靜が、漸く身動いだ。

「……あんた、聞いてたんだろ」

 振り返り、お靜を見据えた葛ノ葉の顔は、ひどく冷ややかだった。傍らで見ているだけの千代ですら、ぞっとと身が竦みそうになるほど。しかし、お靜はほんの須臾の間唇を噛み締めただけで、すぐに目の端を吊り上げた。

「お館様のこと悪様に言われたんだぞ!」
「だから何だ」
「そんな平然としてられんのが、あたしには分かんないね!」
「私はお前ほど短気ではない。だいたいお前は、そうやって昔から後先を考えぬから――」

 そこではたと言葉を切ると、続きを呑み込むように、葛ノ葉は僅かに目を伏せた。そうして彼は、ひとつ間を置いてから、深い溜息と共にゆっくりと瞼を持ち上げる。その下から現れた薄紫の瞳は、けれどお靜へ向けられることはなく、まるで何事もなかったかのように静かに彼女の横を通り過ぎ、来た道を戻っ行った。

 そのまま振り返ることなく去って行く大きな背中から目を離し、千代は傍らに立ち尽くすお靜のかんばせを見遣る。形の良い唇が、微かに震えていた。怒りか、それとも――。

「最後まで言えば良いだろ。……だからお前は捨てられたんだ、って」

 ぼそりと呟かれたその独り言は、千代の耳にだけ届き、吹き抜けた風の中へ溶けるように消えていった。