奴延鳥の一途婚 〜生贄として捨てられた花嫁は、最強のあやかし当主に『最愛の番』として溺愛される〜

 夢を見た。川岸に倒れていた傷だらけの男を助ける夢を。

 夢の中で千代は、その男を必死に運んでいた。水を含んだ衣はただでさえ重く、そうでなくとも、体格差からしてとても持ち上げられそうになかったが、しかし怪我人を引き摺るわけにもゆかず、どうにか肩に――というより、ほぼ背中に――負う形で、一歩、一歩ゆっくりと、間近にある小ぢんまりとした家へと運んだ。

 板の間に、共に倒れ込む形で彼を下ろすと、どちらの口からも呻き声があがった。ひどく疲弊していたけれど、どうにか彼を部屋の中央部へと再び運ぶと、急いで囲炉裏に火を点した。衣を脱がし、びっしょりと濡れた逞しい身体を布で拭い、血の滲んだ痛々しい傷口を手当し、布団の上に寝かせ――。それらを終えて座り込んだ時には、息をするのも苦しいほどだった。

 それでもどうにか後片付けをしようと立ち上がりかけた時、不意に、男の長く濃い睫毛が震えた。ゆっくりと、白い瞼が持ち上がる。それの下から現れたのは、美しい金色の瞳だった。意識が朦朧としているせいか、焦点の定まっていない目はぼんやりと天井を見つめ、やがてゆるりと千代の方へ――。



「千代!」

 唐突に声をかけられ、千代はびくりと肩を跳ねさせる。少しばかり遅れて戻ってきた意識が、手元の盥を――その中に浸された、たくさんの拭き布を――捉え、そういえば洗濯をしていたのだと思い出す。厨で米の研ぎ汁をもらい、それを井戸から汲み上げた水の中に入れ、暫く布を浸け置きし、汚れがゆるんできた頃合いを見計らって、一枚一枚手揉み洗いをしていた最中だったのだ。――ふと、今朝見た夢の記憶に引き摺り込まれるまでは。

「千代! 聞こえてんのかい!」

 もう一度名を呼ばれ、千代は慌てて立ち上がり、前掛けで手を拭いながら振り返る。背後に広がる渡殿の、庭へ降りる為に設けられた階段。その脇に、お靜がひとり立っていた。視線が合うや否や、彼女はにっこりと笑って、千代を手招く。そんな彼女の片手には、白い饅頭のふたつ載った皿が握られていた。

「どうかされたのですか?」

 駆け寄り、階段の下から見上げる形で、千代は首を傾げる。急ぎの用だろうかと思ったが、どうやらそうではないようで、お靜はどさりと階段に腰掛けると、饅頭の載った皿を軽く掲げて見せた。

「寧々の回復を祝って、一緒に食おうと思ってさ」

 中ぶりのふっくらとした白い饅頭と、屈託のないお靜の笑顔を、千代は戸惑いながら交互に見遣る。本当に良いのだろうか、と、一抹の不安が胸を過ったのは事実だ。何しろ、饅頭の上に飾りとして添えられた金粉から、かなり上等な菓子なのだろうことが容易に察せられたから。しかし、寧々の回復を祝って、と言われると、さすがに無下にすることはとても出来ない。

「もしかしてあんた、あたしが盗んできたとでも思ってんのかい?」
「い、いえ、そういうわけでは……」

 一応否定はしてみたものの、お靜はひょいと眉を持ち上げ、やれやれと言いたげな顔で肩を竦めた。正直なところ、彼女ならやりかねない、という疑いが、ほんの少し――本当に、ほんの少しだけ――擡げなかったわけではない。菊野から聞かされた彼女の悪事――というより悪戯――は、見事なほど多岐に亘るからだ。

「良いから食いなって。要らないならどっちもあたしが貰うよ」

 そう言いながら、お靜は皿を床に置き、左側の饅頭に手を付ける。それでもなお、千代は僅かに迷ったが、逡巡の末おずおずと彼女の隣に腰を下ろし、ひとつだけ残った饅頭へ指先を伸ばした。

 夜彌とふたりで酒を酌み交わしてから、早五日。寧々の熱枯病はすっかり癒え、医者からも完治の言葉と共に、部屋を出る許しが下りた。とはいえ、まだ元の体力を取り戻したわけではない為、今も療養は続けているものの、千代以外でも世話が出来るようになったことで、最近では晴陽が率先してそれを担っている。もちろん、彼に出来ること、出来ぬことはある為、分担してではあるけれど。

「いただきます」

 両手で掴んだそれを見下ろし、千代はひとつ深呼吸をしてから、ひと思いに齧り付く。しっとりとやわらかな皮と、きめ細かな漉し餡。忽ち口の中に広がる上品な甘さに、千代は顔を綻ばせる。

 饅頭を食べるのは、一体いつぶりだろう。現世では砂糖は高級品で、甘い味付けのものは、菓子も含め滅多なことでは手に入らなかった。もしかしたら、父がまだ生きていた頃に食べたのが、最後だったかもしれない。

「美味いな、これ」
「ええ、本当に」

 もうひと口齧ったところで、くつくつと喉を鳴らして笑いながら、お靜が肩に腕を回してきた。視界の端に、嫌に持ち上がった口角が映り込む。刹那、千代は饅頭に口をつけたまま、ひやりとしたものに背筋を撫でられた。もしや、という不安が込み上げてくる。そして、その通り、

「共犯だなあ、千代」

 と言って、彼女は意味ありげに笑みを深めた。不敵な、そして、不吉な笑みを。

「これ、客人用のなんだよ」
「えっ」
「これから来る、どえらいお客様のな」
「えっ……えっ!?」

 慌てて饅頭から口を離し、千代は青褪めた顔でお靜を振り向く。瞳孔の少し細い、鳶色の瞳。僅かに弧を描いたその目元を、両手を震わせながら見つめていると、唐突に、彼女はぶっと音を立てて吹き出した。そのままけたけたと、腹を抱えて笑う。ひどく愉快そうに、たっぷりと。

「冗談だ、冗談! おばばから貰ったんだよ。余ったから食え、ってな。信用ならないってんなら、今すぐおばばに訊いてきたって良いさ」

 一頻り笑い終え、目尻に涙を滲ませながら饅頭に齧り付くお靜を、千代はじとっとした目で睨め付ける。揶揄われたのだ、というのは、彼女の反応を見れば明らかで。真に受けて動転してしまった気恥ずかしさと、遊ばれたことへの悔しさで、つい唇が尖ってしまう。子どもじみた行動だと分かっていても。それが更にお靜の笑いを誘うことになると理解していても。

 さっさと食べてしまおう。そして念の為、菊野に確かめにも行こう。胸の内でひとり決意しながら、千代はひと口、ふた口と、饅頭を食べ進める。横顔に、お靜の視線を感じるが、敢えて無視をし、黙々と口を動かす。怒っているふうを装いながら。

 でも、不思議と嫌な気分ではなかった。昔から馴染みのある友人と戯れているような、そんな感覚。

「ところで、あんた」

 最後の欠片を飲み込んだところで、ぽん、と肩を叩かれた。横目で、千代は漸くお靜を見上げる。いつの間に食べ終わったのか、彼女の片手に握られていたはずの饅頭はすっかりなくなっていた。

「今日は働くな、っておばばに言われてたんじゃないかい」

 まさかの指摘に、千代は思わず息を呑む。饅頭を食べ終えていなければ、きっと喉に詰まらせていただろう。どくん、と跳ねた心臓を悟られないように平静を保とうとするが、お靜はそんな千代を呆れた顔で見つめながら、はああ、と大袈裟に溜息をついた。どうやら既に気取られているらしい。

「あんたねえ。最近働き詰めだったんだから、言われた通り休めば良いのに」
「休もうとは思ったのですけど……身体を動かしていないと、どうにも落ち着かなくて……」

 叱られた子どものような気分で、千代は口の中でもごもごと言い訳を並べる。語尾は濁り、声も弱く、とても本当のことを言っているようには聞こえないだろうが、しかし千代にとってそれは紛れもない事実だった。

「あたしさあ」

 肩に回していた腕を退け、お靜は僅かに眉根を寄せながら、腿に頬杖をつく。

「あんたって、単純に素直で真面目なだけだと思ってたんだけど……実際はそうじゃないって、よく分かった」

 言われた意味が分からず、千代はぱちりと目を瞬かせる。

「それは、どういう……」
「確かにあんたは、素直で真面目ではあるんだけどさ。何て言うかねえ……“此処に居る許しを得る為に誰かの役に立とうとしてる”ように見えるんだよなあ、あたしには」

 ぼんやりと庭を眺めながら、何気ない口ぶりで紡がれたそれは、しかし千代の言葉を奪うほどに鋭く、核心を突いた指摘だった。

 思い当たる節は、確かに幾つもある。そもそも、雑事をしたいと頼み込んだのは、“働かざる者食うべからず”と思ったからだったが、それも結局のところ根底にあるのは、“何かを得るには対価を払うべき”という考えだ。親切心の形をしただけの、ただの生存本能のようなもの。

 それに、夜彌の求婚を受け入れたのも、元はといえば――。

 狡い、と思う。誰かの役に立ちたい、誰かを助けたい。その想いに嘘偽りはなくとも、決して純粋なだけではない、幾つもの感情が混じり合った上に成り立っているからこそ、狡い、と。

「すみません……そんなつもりは、決して」
「べつに、責めてるわけじゃないさ。あんたが無自覚そうだったから言っただけで」

 両腕を頭上に突き上げ、ぐっと伸びをしながら、お靜は静かに笑う。

「安心しな。あんたが一日のんびりしてようが、誰も咎めやしないよ。何なら、ずっと働かなくたって、お館様があんたを捨てるこたないさ」
「そう、でしょうか……」
「当たり前だろ。ほんっと、お館様の花嫁選びは大変だったんだぞ! 何処の娘を連れてきても、てんで相手にしなくてさあ。あの狐野郎が、珍しく頭抱えてたくらいだ。それなのに、あんたが来た途端、ひと目で決めちまって。ありゃあ、本気だね。あんたは、今までのお館様を知らないから、分かんないだろうけど」

 楽しげな声音でそう言いながら、お靜は後ろに両手をついて、空を仰いだ。心做しか、すっきりと晴れやかな顔をして。

「そもそも、此処で働いてる奴の殆どは、“傷持ち”だ。だから、あんたがどんな事情を背負ってようが、それを嗤う奴なんざいないさ。此処に居たいなら居りゃいいし、その為に自分を削る必要もない」

 まあ、全てはお館様次第だけど。戯けた口調でそう付け加え、お靜は傾けた頭を千代の肩へ凭せ掛けながら、ははっと軽やかに笑った。そのほんのりとした重みとぬくもりを感じながら、千代はゆっくりとひとつ瞬く。

 本当に彼女の言う通りなのかは、分からない。ずっと――現世にいた頃からずっと、何かを得る為に“対価”は必ず必要だと、そう思い込んでいたから。自分自身の為にも、他の誰かの為にも。それがなければ人ひとり救うことさえ出来ないのだ、と。今もそれが間違っていたとは思わない。だから、彼女の言うことを全て呑み込むことが出来るわけでもない。

 それでも今は、肩に預けられたほのかな重みが、とてもあたたかかった。