奴延鳥の一途婚 〜生贄として捨てられた花嫁は、最強のあやかし当主に『最愛の番』として溺愛される〜

 夜彌の私室は同じ東対にあるが、その事実は知っていても、実際に訪ねるのは、もちろんこれが初めてのことだった。

 襖が開けられ、すっかり鼻に馴染んだ白檀のふくよかな薫りが、ふわりと流れてくる。先を歩む夜彌に、どうぞ、と視線で促されたものの、しかし敷居を跨ぐのには、ひどく勇気が要った。自分が此処にいるのは場違いのように思え、気後れして、なかなか足が踏み出せない。

 そんな千代の機微を察したのか、夜彌は壁に丸く刳られた窓の前で立ち止まり、にこやかに手招いた。遠慮する必要はない、と、そう言うみたいに目元を綻ばせて。

 躊躇いながらも敷居を越し、千代は静かに襖を閉める。行灯から漏れる青白い光と、夜彌の開け放った窓から差し込む月明かりにほんのりと照らされた室内は、対面所のような華やかさはまるでなく、飾り気のない、静謐な趣のある造りをしていた。

 壁に沿うようにして設えられた桐箪笥、硯箱の置かれた文机。床の間には鵺の描かれた掛け軸が飾られ、その前には、花瓶に活けられた青紫色の杜若と、陶磁器で出来た香炉が飾られている。

 夜彌の立場を考えれば、あまりにも簡素に思えるが、しかし、寧ろこの閑雅さの方が彼らしい、とも思った。屏風や衝立といった遮るものが何もなく、その上、調度品の数も少ないからだろうか。全体的にとても広々と、そして清々しく見える。

 円窓の手前には、既に懸盤が置かれていた。黒漆の塗られた、主に貴人が使用する艷やかな膳。その上には白磁の猪口がふたつと、呉須で竹笹文の描かれた徳利が並んでいる。道すがら、狐火の時と同じ様に式神を飛ばしていたので、お靜か菊野のどちらかが追加でひとり分、用意してくれたのかもしれない。

 襖の前に突っ立ったままでいると、先に腰を下ろした夜彌が、苦笑をこぼしながら隣を叩いた。そこに座れ、ということだろう。そうされなければきっと、少し離れたところを選んでいたに違いない、と思いながら、千代はおずおずと彼の傍へ歩み寄る。多分、膳を挟みもしていたはずだ。真隣に座るだなんて、そもそも頭に浮かびもしていなかったのだから。

 落ち着いて会話が出来るかどうか自信はないし、酒の味を感じられるかどうかも分からない。それでも、夜彌からそう乞われたことに、胸の奥がくすぐったくなった。嬉しい、と思う。素直に。近くにいることを許してもらえたことが、とても。

「今夜の月は、やけに白いな」

 窓の外から視線を戻し、夜彌は隣に腰を下ろした千代を見つめて、ふっと顔を綻ばせる。取り留めのない話題を、わざと選んでくれたのだろう。緊張を解そうとしてくれているのが、そのやわらかな口調から伝わり、千代は少しだけ気恥ずかしくなった。心の奥底まで見透かされてしまっているような、そんな気がして。

「え、ええ……。本当に、とても綺麗です」

 それを――今更遅いかもしれないけれど――誤魔化すように徳利を手に取り、千代は夜彌の猪口にとくとくと中身を注いだ。いかにも冷たそうな、仄かに甘い香りのする、透き通った液体。窓から差し込む月明かりを浴び、微かに揺れる水面に小さな光の粒が、まるで星のように浮かんでいる。

 手酌をしようとしたが、すぐさま夜彌に引き止められ、片手から徳利を奪い取られてしまった。仕方なく、両手に握った猪口をまごつきながら持ち上げる。そんな千代に彼はくすりと朗らかに笑いながら、捧げられた猪口へ静かに徳利を傾けた。

 奥方様、と呼ばれてはいるけれど――。注がれた酒を見下ろし、それから今まさに猪口へ唇をつけようとしている夜彌へと目を移して、千代はひそりと思う。奥方様と、呼ばれはしているけれど、まだ祝言を挙げたわけではない。もちろん、三々九度を交わすことも。故に、これが本当に夜彌と初めて酌み交わす酒なのだ、と思うと、ただの晩酌であるはずなのに、手中のそれが、なんだか特別な一杯であるように感じられた。

「そういえば」

 飲みかけの猪口を片手で弄びながら、夜彌はゆっくりとひとつ瞬く。

「寧々の容態は、だいぶ落ち着いたそうだな」
「はい。先日診て下さったお医者様も、順調に快方へ向かっている、と仰っていました」

 舐めるように酒をひと口飲み、肌に血色の戻った寧々のかんばせや、新しく飾る花を選ぶ晴陽の横顔を、千代はふっと表情を緩めながら思い返す。胸の辺りがほのかな温もりに包まれているのは、ふたりがもとの穏やかさを取り戻したことに、安堵しているからだろうか。それとも、喉を滑り落ちていった、やさしい甘みを湛えた酒のせいだろうか。

「寧々が良くなったのは、君の懸命な看病のおかげだ。礼を言う」

 千代の双眸を真っ直ぐに見つめながら、夜彌はそう言った。心からの想いであるのが伝わる、真摯な、それでいてやわらかくもある声で。暫し言葉を失い、けれどすぐに千代ははっとして、慌てて首を横に振った。両手まで動かしそうになってしまったけれど、どうにか堪えて、きゅっと身を竦ませる。邸の主から直々に感謝を述べられるなど、あまりにも恐れ多い、と思った。たとえ彼が、立場上“夫”なのだとしても。

「い、いえ……! 寧々さんが良くなっておられるのは、寧々さんご自身が頑張られたからで、私のおかげではございません」
「しかし、君がいなければ、寧々は食事もままならない状態だったのだろう? 皆、感謝している。俺達にはどうにも出来ぬことを、君がやってくれた。それは紛れもない事実だ」

 言葉にされればされるほど、なんだか面映ゆくなってくる。確かにこの邸で、熱枯病の伝染らない唯一の存在ではあったけれど。だからといって、特別なことをしたというつもりは、千代には微塵もなかった。

「大変ではなかったか」

 尋ねられ、千代は手元の猪口を見下ろしながら、怒涛のように過ぎていった日々を振り返る。寧々の食事や服薬の世話はもちろん、彼女に会う度、自らの身体を拭い、衣を替え、日に三度も湯浴みをする時さえあった。その合間には、普段と変わらぬ雑事――掃除や洗濯、炊事の手伝い――をこなすことも。けれどそんな毎日を、大変だとも、苦しいとも、辛いとも、感じたことは一度もなかった。頭に浮かんだことさえ、本当に一度も。

「いいえ、少しも」

 そっと微笑み、千代は徐に夜彌のかんばせを見上げる。眩い太陽のような、或いは、とろりとした蜜のような、黄金の瞳。僅かに熱のこもったその眼差しに、千代はふと、“生きている”と思った。彼は確かに此処にいて、ちゃんと生きている、と――。でもそれは、“思った”というより“知った”と言った方が正しいような気がした。今漸くそれを身を以て知れた、と。だからもう、あの得体の知れない孤独感や恐怖感は、どこにもない。瞼を閉じても、その裏の暗闇に、繃帯の巻かれた男の腕が浮かび上がることも。

「母の看病をしていましたから、そういうことには慣れているのです。それに――」

 言葉を切り、千代はゆるりと窓の外へ目を向ける。一面に広がる池、眠るように花びらを閉ざした薄桃色の睡蓮、さわさわとした涼やかな水音、水鏡に映る白銀の弓張月。

「誰かのお役に立てるのなら、それは私にとって、“大変”なことではありませんから」


▽


 懐かしい言葉を聞いた。殆ど同じ言葉を、同じ声で、同じ様にはにかみながら。

 まさかそんな時がこようなどとは、思ってもいなかった。“あの男”との約束を忘れられずにいながら。それに何百年も縋り付いていながら。しかし心の何処かでは、本当の意味で信じてはいなかったのだろう。土の中から、白く朽ち果てた骸を抱き上げた――それが、それだけがずっと、夜彌にとっての“現実”だったのだから。

 小さく息を吐き、猪口に残っていた甘い酒を一気に飲み下す。ふと、夜空を眺めていた視線を室内へ戻すと、うつらうつらと船を漕ぐ千代の姿が目に留まった。そんな彼女に苦笑をこぼし、夜彌は空になった猪口を膳の上に置いて、千代の身体をやさしく抱き寄せた。両腕の中にすっぽりと収まる、小さくてやわらかな、あたたかい身体。

 大変ではない、と彼女は言っていたけれど。寧々の世話だけでなく、隙あらば日常の雑事まで手を出そうとする、と菊野が困り果てていたのを思い出しながら、夜彌はそっと、千代を抱く腕に力をこめる。大変ではなくとも。いくら慣れていようとも。華奢なこの身体に、疲労が溜まっていないはずがない。“頑張る”ことが骨の髄にまで沁みついてしまっているせいで、単に自覚がないだけなのだろう。――昔から、そうだった。布団の傍らで、夜通し針仕事をしている姿を、幾度目にしたことか。

 ――誰かのお役に立てるのなら。誰かを救うことが出来るのなら。私は幾らでも頑張ることが出来ます。

 彼女は、とてもやさしい。それは事実だ。けれど、誰かの為に何かをしたい、という彼女の想いは、単純な“やさしさ”だけからくるものではないのかもしれない。恐らくその裏にあるのは、失うことへの“恐怖”と、何かをしなければならないという“義務感”、或いは“贖罪”に似た何か。そんなことに囚われる必要などない、と思うけれど。しかし、彼女のこれまでを顧みれば、無理からぬことなのだろう、とも思う。

「――千代」

 ほっそりとした肩に軽く顔を埋めながら、夜彌は吐息のような微かな声で囁く。腕の中にある小さな身体は、酒も相俟って、とてもあたたかい。生きている人間の、確かなぬくもり。――土で汚れた両手で抱いた、あの冷たさはもう何処にもない。ないのに、それでも、数百年前のそれは、今もなお肌のそこここに、生々しく残っている。千代を抱き締めている、この時でさえ。

「君は、ただ生きてさえいてくれれば、それで良い。生きて、笑って、俺の傍にいてくれれば、それで――」