一日三度の食事と、適度な給水、そして服薬。晴陽との邂逅以降、それらを毎日きっちり――少しずつではあったものの――こなして更に四日ほどが経つと、寧々の高熱は漸く落ち着きを見せた。
熱枯病は、熱さえ引けばもう伝染ることはないのだという。これまでは病を恐れて近付くこともままならず、薬を処方するのが精一杯だった医者も、今では寧々の傍らで診察を行えるようになり、順調に快方へ向かっている、とお墨付きをくれた。
初めはとろとろになるまで炊いた粥だったものが、やがて米粒の輪郭が残る程度のものになり、更には卵酒や生姜湯だけでなく、ちょっとしたやわらかい煮物であれば食べられるようにもなっている。
何より、自ら身体を起こして箸を掴めるまでに体力も戻ってきている。その姿を目の当たりにした時には、つい目が潤んでしまいそうだった――と、千代は自室の窓辺で夜空を眺めながら、感慨深く思い返す。最初に会った日の、あの青白い肌や、痩せ細ってぐったりとした身体の弱々しさを、そして、高欄に座って哀しげに顔を歪めていた晴陽の姿を今でもはっきりと憶えているからこそ、彼女の回復はとても嬉しいことだった。
けれど一方で、言い様のないひどい淋しさに襲われることが、度々あった。お靜や菊野とは毎日顔を合わせていたし、晴陽と一緒に新しい花を摘んだりもしていたというのに。胸を蝕むそれは、ひとりになった時に限って、何もかもを呑み込まんばかりの途方もない大きさで、忽ち押し寄せてくるのだ。――今こうして、ひとり外を眺めている時も。虚しさのような、孤独感のような。抉られたところにぽっかりと空いた虚を、冷たい風が吹き抜けゆくような心地がする。
寧々と晴陽に、嘗ての母と自分を重ねたせいかもしれない、と、初めのうちはそう思っていた。ふたりの気持ちが分かるからこそ、尚の事。けれど、次第にそれだけではないのだと、気付かざるを得なくなった。寧々が回復しても、晴陽に笑顔が戻っても、その淋しさが薄れることは少しもなかったから。
人恋しい、というのだろうか――。筆で刷いたような雲の隙間から覗く、白銀の弓張月を見るともなく見ながら、千代は静かに溜息をこぼす。おかしな話だけれど、誰かと共にいるはずなのに、自分だけが、何処か遠くに取り残されているような、そんな感覚がするのだ。父に会いたいのだろうか、母に会いたいのだろうか、それとも――。
一体、誰を恋しく思っているのだろう。
そっと吐息を漏らし、千代はゆっくりと目を閉じる。何もない、真っ暗闇の、瞼の裏。けれどそこに、ふと、布団に横たわる影が浮かび上がった。ぼんやりと霞んでいたそれは、やがて少しずつ鮮明になってゆき、継ぎ接ぎだらけの質素な掛け布団と、そこから伸びる白い腕が、はっきりと像を結んでゆく。女のものより太く逞しい、繃帯が巻かれた男の腕。しかし、それが誰のものなのか、分からない。顔が、どうしても見えないのだ。墨を流したような黒い靄に覆われて。
けれど、不思議とその男が誰なのかを、知っているような気がした。どんな面立ちをしているのか定かでないというのに。それでも、とても大切な存在であるような気が。
――千代。
どくり、と、何故だか心臓が飛び跳ね、千代は咄嗟に瞼を持ち上げた。星々が煌々と輝く夜空、圧倒的な存在感を放つ白く冴えた月。ぼんやりとそれを眺めながら、千代はじわりじわりと目を見開いてゆく。無性に――どうしようもなく無性に、夜彌に会いたい、と思った。あのやさしい笑顔を見たい、と。低く落ち着いた声を聞きたい、と。金色の美しい瞳に見つめられたい、と。またあの笛の音に酔い痴れたい、と。
その、胸が締め付けられるほどの衝動は、まるで“生きていることを確かめたい”と、渇望しているかのようだった。彼は生きている、と知っているはずなのに。寧々の看病をし始めてから、万一のことを考えて、顔を合わせないようにしていたけれど。でも、それでも、夜彌は間違いなく生きている。そう分かっているはずなのに、どうして――。
暫く我慢しようと努めてみたものの、結局それは徒労に終わり、居ても立ってもいられないと訴える身体に肩掛けを羽織り、千代はゆっくりと襖を開けて、誰もいないことを確かめてから廊下に歩み出た。
まだ見張り番が灯りを消す前であるのか、壁に等間隔に取り付けられた燭台には橙色の炎が灯り、床にあたたかな光を落としている。ぼんやりと照らされた廊下を、千代は渡廊の方へ向かって静かに進む。夜彌の吹く笛の音を初めて聞いた、あの渡廊へ。そこへ行けば、なんとなく彼に会えるような気がしたのだ。
そう思えば思うほど、廊下を進む足は自然と早くなる。急かされている、と感じる。“会いたい”と、ひと言に言ってしまえば簡単だけれど。しかしその実、千代自身にも判然としない、複雑に絡み合った名状し難い感情によって。
足早に渡廊へ辿り着くと、けれどそこに、夜彌の姿はなかった。右を見ても、左を見ても、何処にも。影ひとつ見当たらない。そうと頭が認めた途端、息苦しいほどに胸が痛んだ。ぎゅうっと、まるで目に見えない大きな手に鷲掴みにされでもしているみたいに。
執務も夕餉も疾うに終えている時刻だ。ならば今頃はもう、自室にいるのかもしれない。とはいえ、彼の部屋を訪ねる勇気など、千代にはまだない。この邸へ来てもう随分経つけれど、夜彌の部屋へ足を運んだことは、一度もなかった。誘われたこともなければ、自ら行くことも。
一応は夫婦といえど、こんな宵の口に訪ねても良いものだろうか――。ふと頭を擡げた考えを、千代はすぐに追い払う。身勝手な事情だけで会いにゆくなど、迷惑以外の何物でもない。もしかしたら彼はそれを許してくれるかもしれないけれど。しかし――。
「千代?」
ふいに背後から声をかけられ、千代は驚きのあまり飛び上がりそうになる。どうにか既の所で抑え込み、恐る恐る振り返ってみれば、そこにはなんと、着流し姿の夜彌がきょとんとした顔で立っていた。湯浴みを終えた後なのか、夜風にゆるく靡く黒髪は、しっとりとしている。それに、いつもの白檀とは違うやわらかな匂いも。
「こんなところで、何をしているんだ」
「あ、その……」
彼に会いたい、と、その衝動に駆り立てられて此処へ来たはずだというのに。まさか本当に会えるとは――恐らく心のどこかでは――思っておらず、いざ当人を目の前にすると、千代はたじろいでしまう。唇はうまく言葉を紡いでくれないし、視線は意味もなくきょろきょろと辺りを彷徨う。夜彌から見れば、明らかに不自然だろう。挙動不審だと訝られても、仕方がない。事実そうなのだから。
「灯りか? それなら、葛ノ葉に――」
「いえ! 灯りではございません! そうではなく、ただ……」
口の中でもごもごと言葉を濁しながら、千代は顔を俯け、足先に視線を落とす。“会いたかった”だなんて、あまりにも恥ずかしくて、とても言えるわけがない。“生きているのを確かめたかった”なんて、そんな失礼なことは、尚更。
かといって、代わりになる言葉も見つからない。口を噤み、あれこれと悩んでいるうちに、なんとも居た堪れない沈黙に包まれてしまった。じっと見つめられているのは、額の辺りに感じる視線で気付いているけれど。しかし、顔を上げて目を合わせるというただそれだけのことに、どうしても踏ん切りがつかない。
湿り気を帯びた夜風がふたりの間を吹き抜け、左肩に流していた髪の毛がふわりと揺れた。乱れた一房をそっと耳にかけながら、夜空を眺めていただけだ、と言えばおかしくないだろうか、と千代は考える。或いは、夜風にあたりに来ただけだ、と。
「――千代」
沈黙をやさしく破るように、夜彌が穏やかな声音で名を呼んだ。びくり、と心臓が震えそうになるものの、それを気取られぬように、千代は「は、はい」と返事をする。しかし、妙に上擦ってしまったせいで、夜彌にくすりと笑われてしまった。どうにも彼の前では、何もかもがうまく出来ない。
「君、酒は呑めるか?」
「お酒、でしょうか……? 少しだけでしたら……」
漸く意を決し、それでもおどおどとした動きで顔を上げると、真っ直ぐに向けられた夜彌の、太陽のように眩い金の瞳と視線が重なった。刹那、身体からすうっと力が抜けてゆくのを、千代は感じる。四肢の端々から、まるで夜気の中に溶けるようにして。あんなにもざわめいていた胸までもが、今ではとても軽い。軽く、そして、静かな水面のように凪いでいる、とも。ただ見つめ合っただけだというのに。どうして、こんなにも――。
「ならば、晩酌に少し付き合ってくれないだろうか」
「晩、酌……?」
「ああ。それに、久しく会えてもいなかったからな。君と、話もしたい」
微かに首を傾け、朗らかに微笑まれながらそう頼まれると、無論、千代に断ることなど出来るはずもなかった。
熱枯病は、熱さえ引けばもう伝染ることはないのだという。これまでは病を恐れて近付くこともままならず、薬を処方するのが精一杯だった医者も、今では寧々の傍らで診察を行えるようになり、順調に快方へ向かっている、とお墨付きをくれた。
初めはとろとろになるまで炊いた粥だったものが、やがて米粒の輪郭が残る程度のものになり、更には卵酒や生姜湯だけでなく、ちょっとしたやわらかい煮物であれば食べられるようにもなっている。
何より、自ら身体を起こして箸を掴めるまでに体力も戻ってきている。その姿を目の当たりにした時には、つい目が潤んでしまいそうだった――と、千代は自室の窓辺で夜空を眺めながら、感慨深く思い返す。最初に会った日の、あの青白い肌や、痩せ細ってぐったりとした身体の弱々しさを、そして、高欄に座って哀しげに顔を歪めていた晴陽の姿を今でもはっきりと憶えているからこそ、彼女の回復はとても嬉しいことだった。
けれど一方で、言い様のないひどい淋しさに襲われることが、度々あった。お靜や菊野とは毎日顔を合わせていたし、晴陽と一緒に新しい花を摘んだりもしていたというのに。胸を蝕むそれは、ひとりになった時に限って、何もかもを呑み込まんばかりの途方もない大きさで、忽ち押し寄せてくるのだ。――今こうして、ひとり外を眺めている時も。虚しさのような、孤独感のような。抉られたところにぽっかりと空いた虚を、冷たい風が吹き抜けゆくような心地がする。
寧々と晴陽に、嘗ての母と自分を重ねたせいかもしれない、と、初めのうちはそう思っていた。ふたりの気持ちが分かるからこそ、尚の事。けれど、次第にそれだけではないのだと、気付かざるを得なくなった。寧々が回復しても、晴陽に笑顔が戻っても、その淋しさが薄れることは少しもなかったから。
人恋しい、というのだろうか――。筆で刷いたような雲の隙間から覗く、白銀の弓張月を見るともなく見ながら、千代は静かに溜息をこぼす。おかしな話だけれど、誰かと共にいるはずなのに、自分だけが、何処か遠くに取り残されているような、そんな感覚がするのだ。父に会いたいのだろうか、母に会いたいのだろうか、それとも――。
一体、誰を恋しく思っているのだろう。
そっと吐息を漏らし、千代はゆっくりと目を閉じる。何もない、真っ暗闇の、瞼の裏。けれどそこに、ふと、布団に横たわる影が浮かび上がった。ぼんやりと霞んでいたそれは、やがて少しずつ鮮明になってゆき、継ぎ接ぎだらけの質素な掛け布団と、そこから伸びる白い腕が、はっきりと像を結んでゆく。女のものより太く逞しい、繃帯が巻かれた男の腕。しかし、それが誰のものなのか、分からない。顔が、どうしても見えないのだ。墨を流したような黒い靄に覆われて。
けれど、不思議とその男が誰なのかを、知っているような気がした。どんな面立ちをしているのか定かでないというのに。それでも、とても大切な存在であるような気が。
――千代。
どくり、と、何故だか心臓が飛び跳ね、千代は咄嗟に瞼を持ち上げた。星々が煌々と輝く夜空、圧倒的な存在感を放つ白く冴えた月。ぼんやりとそれを眺めながら、千代はじわりじわりと目を見開いてゆく。無性に――どうしようもなく無性に、夜彌に会いたい、と思った。あのやさしい笑顔を見たい、と。低く落ち着いた声を聞きたい、と。金色の美しい瞳に見つめられたい、と。またあの笛の音に酔い痴れたい、と。
その、胸が締め付けられるほどの衝動は、まるで“生きていることを確かめたい”と、渇望しているかのようだった。彼は生きている、と知っているはずなのに。寧々の看病をし始めてから、万一のことを考えて、顔を合わせないようにしていたけれど。でも、それでも、夜彌は間違いなく生きている。そう分かっているはずなのに、どうして――。
暫く我慢しようと努めてみたものの、結局それは徒労に終わり、居ても立ってもいられないと訴える身体に肩掛けを羽織り、千代はゆっくりと襖を開けて、誰もいないことを確かめてから廊下に歩み出た。
まだ見張り番が灯りを消す前であるのか、壁に等間隔に取り付けられた燭台には橙色の炎が灯り、床にあたたかな光を落としている。ぼんやりと照らされた廊下を、千代は渡廊の方へ向かって静かに進む。夜彌の吹く笛の音を初めて聞いた、あの渡廊へ。そこへ行けば、なんとなく彼に会えるような気がしたのだ。
そう思えば思うほど、廊下を進む足は自然と早くなる。急かされている、と感じる。“会いたい”と、ひと言に言ってしまえば簡単だけれど。しかしその実、千代自身にも判然としない、複雑に絡み合った名状し難い感情によって。
足早に渡廊へ辿り着くと、けれどそこに、夜彌の姿はなかった。右を見ても、左を見ても、何処にも。影ひとつ見当たらない。そうと頭が認めた途端、息苦しいほどに胸が痛んだ。ぎゅうっと、まるで目に見えない大きな手に鷲掴みにされでもしているみたいに。
執務も夕餉も疾うに終えている時刻だ。ならば今頃はもう、自室にいるのかもしれない。とはいえ、彼の部屋を訪ねる勇気など、千代にはまだない。この邸へ来てもう随分経つけれど、夜彌の部屋へ足を運んだことは、一度もなかった。誘われたこともなければ、自ら行くことも。
一応は夫婦といえど、こんな宵の口に訪ねても良いものだろうか――。ふと頭を擡げた考えを、千代はすぐに追い払う。身勝手な事情だけで会いにゆくなど、迷惑以外の何物でもない。もしかしたら彼はそれを許してくれるかもしれないけれど。しかし――。
「千代?」
ふいに背後から声をかけられ、千代は驚きのあまり飛び上がりそうになる。どうにか既の所で抑え込み、恐る恐る振り返ってみれば、そこにはなんと、着流し姿の夜彌がきょとんとした顔で立っていた。湯浴みを終えた後なのか、夜風にゆるく靡く黒髪は、しっとりとしている。それに、いつもの白檀とは違うやわらかな匂いも。
「こんなところで、何をしているんだ」
「あ、その……」
彼に会いたい、と、その衝動に駆り立てられて此処へ来たはずだというのに。まさか本当に会えるとは――恐らく心のどこかでは――思っておらず、いざ当人を目の前にすると、千代はたじろいでしまう。唇はうまく言葉を紡いでくれないし、視線は意味もなくきょろきょろと辺りを彷徨う。夜彌から見れば、明らかに不自然だろう。挙動不審だと訝られても、仕方がない。事実そうなのだから。
「灯りか? それなら、葛ノ葉に――」
「いえ! 灯りではございません! そうではなく、ただ……」
口の中でもごもごと言葉を濁しながら、千代は顔を俯け、足先に視線を落とす。“会いたかった”だなんて、あまりにも恥ずかしくて、とても言えるわけがない。“生きているのを確かめたかった”なんて、そんな失礼なことは、尚更。
かといって、代わりになる言葉も見つからない。口を噤み、あれこれと悩んでいるうちに、なんとも居た堪れない沈黙に包まれてしまった。じっと見つめられているのは、額の辺りに感じる視線で気付いているけれど。しかし、顔を上げて目を合わせるというただそれだけのことに、どうしても踏ん切りがつかない。
湿り気を帯びた夜風がふたりの間を吹き抜け、左肩に流していた髪の毛がふわりと揺れた。乱れた一房をそっと耳にかけながら、夜空を眺めていただけだ、と言えばおかしくないだろうか、と千代は考える。或いは、夜風にあたりに来ただけだ、と。
「――千代」
沈黙をやさしく破るように、夜彌が穏やかな声音で名を呼んだ。びくり、と心臓が震えそうになるものの、それを気取られぬように、千代は「は、はい」と返事をする。しかし、妙に上擦ってしまったせいで、夜彌にくすりと笑われてしまった。どうにも彼の前では、何もかもがうまく出来ない。
「君、酒は呑めるか?」
「お酒、でしょうか……? 少しだけでしたら……」
漸く意を決し、それでもおどおどとした動きで顔を上げると、真っ直ぐに向けられた夜彌の、太陽のように眩い金の瞳と視線が重なった。刹那、身体からすうっと力が抜けてゆくのを、千代は感じる。四肢の端々から、まるで夜気の中に溶けるようにして。あんなにもざわめいていた胸までもが、今ではとても軽い。軽く、そして、静かな水面のように凪いでいる、とも。ただ見つめ合っただけだというのに。どうして、こんなにも――。
「ならば、晩酌に少し付き合ってくれないだろうか」
「晩、酌……?」
「ああ。それに、久しく会えてもいなかったからな。君と、話もしたい」
微かに首を傾け、朗らかに微笑まれながらそう頼まれると、無論、千代に断ることなど出来るはずもなかった。



