寧々の部屋を辞した後、千代は念の為に身体を拭い、着物を替えてから、食べかけの粥と卵酒の残った膳を厨へと運んだ。
戸を開けるや否や、すぐにお靜が気付き、菊野とふたりで足早に歩み寄ってくる。その顔には不安と、焦燥が滲んでいた。寧々の状態を自身の目で確かめられないもどかしさと、何もしてやれないという遣る瀬無さ。仕方のないことだと分かっていても、だからこそ、余計に辛く、苦しいのかもしれない。
「寧々はどうだった?」
「とても辛そうなご様子でした。おひとりでは、起き上がることすら難しいほどで……。それでも、お粥を少しだけ召し上がって下さいましたし、お薬もきちんと飲まれて、今は眠っていらっしゃいます」
ふたりの視線が、千代の抱えた木具膳に落ちる。碗の中には確かに粥が残っているが、しかし、たったそれだけでも食べてくれたという事実に、彼女たちが安堵するのが伝わってきた。皺の刻まれた菊野のかんばせはやわらかく綻び、お靜はやれやれと肩を竦めたが、けれど喜んでいるのは明らかで、血色の良い唇が薄っすらと弧を描いている。
「ところで千代、あんたそれ、何持ってんだい?」
唐突に尋ねられ、千代は何のことだかすぐに理解出来ず、ぱちりと目を瞬かせた。きょとん、とする彼女に、お靜は「それだよ、それ」と言って、碗の横に置かれた風鈴草を指さす。
「あ、これは、その……寧々さんのお部屋の前に置かれていたのです」
「寧々の部屋の前に?」
鸚鵡返しにそう言いながら、お靜はひょいと片眉を上げる。しかしすぐに思い当たる節でもあったのか、そっと溜息をこぼすと、困ったような、呆れたような、それでいてどこかやさしくもある面持ちで頬を掻いた。
「そりゃあ、晴陽だね」
「晴陽……?」
「妖狸の子どもだよ。親のいない子でね、お館様が拾ってきてからずっと、寧々が母親代わりに育ててたんだ」
「伝染るといけないので、近付かぬよう言っていたのですがねえ……」
苦笑を漏らしながら風鈴草へ目を向ける菊野に続いて、千代もまたその愛らしい花へ視線を落としながら、須臾の間見た茶色い尾を脳裏に浮かべる。確かにあれは、狐というより、狸のそれに近かった。丸みがあり、毛先の方が少しだけ黒く色付いた、小さな尾――。
会うことも、力になることも出来ない代わりに、花を届けることで元気づけようとしていたのだろうか。母親の代わりとなって育ててくれた存在ならば、さぞ懐いているのだろうし、故に病に臥せる彼女が心配でたまらないだろう。お靜や菊野でさえ、何もしてやれないことに焦燥を抱いていたのだ。幼心ならなおのこと、心細さを抱えているに違いない。――幼い頃、父が亡くなり、母が病に苦しむ傍らで、千代自身もまた、そうであったように。
▽
“晴陽”という名の妖狸と再び出会ったのは、あの風鈴草を見つけてから三日後のことだった。
どうにか粥を一杯食べられるようになった寧々の為に、今日もまた朝餉を運びに向かおうと、雑舎へ足を向けている道すがら、偶然見つけたのだ。中庭を抱いた回廊の、朱色に塗られた高欄に、ちょこんと座っている小さな後ろ姿を。
朝独特の、ひんやりと澄み切った匂いに包まれた風が吹き抜け、茶色い毛に覆われた尻尾がふわりと揺れる。丸みを帯びた、やや小ぶりなふたつの耳。齢七つくらいだろうか。浅緑色の広袖の着物に、芥子色のやわらかな三尺帯。その小さな背中には、子どもらしからぬ憂いを帯びた雰囲気が漂っていた。細い肩は縮こまり、丸い頭は力なく項垂れている。
――おかあさんは、どこにもいかないよね。
ふいに、遥か遠い昔の声が、耳の奥に響き渡る。父の葬儀を終え、仏壇の前に座ってじっと位牌を見つめていた母の、小枝のように細い腕にしがみつきながら恐々とこぼした、心許ない声。怖かったのだ。当時から既に母は病弱で、寝込むことがよくあった。何日も、時には何ヶ月も。その姿を嫌というほど傍で見ていたからこそ、母までいなくなってしまうのではないかと、独りぼっちになってしまうのではないかと、恐ろしくて恐ろしくてしかたなかった。大切な人がみんないなくなるのは嫌だ、と――。
「晴陽君」
暫し逡巡し、頭の中から懐かしい思い出を遠ざけながら、千代は淋しげに丸まった背中へやさしく声をかけた。刹那、ぴくりと耳が震え、弾かれたように小作りな顔が振り返る。耳と同じ色をした短い髪の毛、ぱっちりとした大きな目、その真中で揺れる露草色の瞳。
「え、えっと……おくがた、様」
「千代、と呼んで頂けると、嬉しいのですけど」
ふっと頬を綻ばせながら、千代はゆっくりと足を動かして、彼の隣に並ぶ。見上げてくる瞳は、まるでよく晴れた日の真昼に広がる蒼穹のようだ、と思った。晴陽、という名を体現したかのような。
そんな彼の、ふっくらとした幼い手には、赤色の石竹――撫子の一種――が数本握られていた。どうやら今日は、風鈴草ではなく、それを届けるつもりだったらしい。そっと中庭を見遣れば、藤の華やかさに気を取られてこれまで気付かずにいたけれど、そこには確かに、色とりどりの石竹が植わっていた。短く刈られた灌木の周りに寄り添うように、控え目に。
「寧々さんへの贈り物ですか?」
問いかけると、彼はこくりとひとつ頷いた。けれどその横顔にあどけなさはなく、思い詰めたように、暗く沈んでいる。握り締めた石竹を切なげに細めた目で見つめ、ゆらゆらと揺らしては、悲哀に濡れた吐息を静かにこぼす。
――近寄らない、ようにと……言ったはず、なのですが……。
風鈴草を陶磁の花瓶に活けて部屋へ運ぶと、寧々はすぐに察したようで、青白い顔に苦笑を浮かべながらそう呟いた。困ったような口ぶりではあったが、しかし、僅かに綻んだ目元に、“母親”としての思い遣りややさしさ、そして何より、晴陽の健気な心遣いへの嬉しさが滲んでいたように思う。
寧々は“産女”というあやかしだ、と、お靜は言っていた。人の世では、お産で命を落とした女が化けたものだと語られているけれど、幽世の産女は生まれながらに、己の子を持つことの叶わぬ性を負っているのだという。
故に、どんなに望んだとて我が子を抱くことの出来ない彼女にとって、血の繋がりもなければ種も違えど、晴陽は唯一無二の“我が子”なのだろう。とても大切な、何としても護り抜きたい尊い存在――。
「風鈴草をお届けしたら、寧々さん、とても喜んでいましたよ」
「本当に……?」
縋るように見上げてくる青空のような瞳に、千代はふっと微笑み、そうしてゆっくりと頷いた。
「ええ、本当です。眠りにつかれるまで、ずっと見つめていましたよ」
少しばかり呆れていたことは敢えて伏せ、それでも事実であることに変わりない彼女の様子を、千代は穏やかな声音で語る。風鈴草を挿した花瓶は、いつどんな時でも寧々の視界に映りやすいように、布団の傍らに文机を移して、その上に飾った。彼女にとってあの花は今、愛おしい我が子を身近に感じられる唯一のものだろうから。
「寧々は……おいらの、おっかあなんだ。だから、だから……」
震えた、それでも強い想いの込められた声でそう言いながら、晴陽はくしゃりと表情を歪めた。今にも泣き出してしまいそうなその切ないかんばせに、千代はきつく胸を締め付けられる。刹那、彼の姿に、昔の自分の姿が重なって見えたような、そんな気がした。大切な人を亡くしてしまう恐怖と、それなのに己には何も出来ないという無力さに打ち拉がれた、あの時の姿に。
「実は私の母も、重い病に罹っていたのです」
「千代のおっかあも……?」
「はい。ですが、都で一番のお医者様に診ていただけることになりましたので、今頃はきっと、元気になっていると思うのです。お薬をしっかり飲んで、食事をきちんと摂れば、必ず良くなります。寧々さんも、最近はお粥を残さず召し上がれるようになりましたし、お薬も毎日きちんと飲んでいらっしゃいますよ」
丸まった背中にそっと手を添え、千代はゆっくりとひとつ瞬いた。今も床に臥している寧々と、そんな彼女を心配する晴陽と、そして――現世にいる母を想いながら。
「ですから、大丈夫です。寧々さんは、絶対に元気になりますから」
戸を開けるや否や、すぐにお靜が気付き、菊野とふたりで足早に歩み寄ってくる。その顔には不安と、焦燥が滲んでいた。寧々の状態を自身の目で確かめられないもどかしさと、何もしてやれないという遣る瀬無さ。仕方のないことだと分かっていても、だからこそ、余計に辛く、苦しいのかもしれない。
「寧々はどうだった?」
「とても辛そうなご様子でした。おひとりでは、起き上がることすら難しいほどで……。それでも、お粥を少しだけ召し上がって下さいましたし、お薬もきちんと飲まれて、今は眠っていらっしゃいます」
ふたりの視線が、千代の抱えた木具膳に落ちる。碗の中には確かに粥が残っているが、しかし、たったそれだけでも食べてくれたという事実に、彼女たちが安堵するのが伝わってきた。皺の刻まれた菊野のかんばせはやわらかく綻び、お靜はやれやれと肩を竦めたが、けれど喜んでいるのは明らかで、血色の良い唇が薄っすらと弧を描いている。
「ところで千代、あんたそれ、何持ってんだい?」
唐突に尋ねられ、千代は何のことだかすぐに理解出来ず、ぱちりと目を瞬かせた。きょとん、とする彼女に、お靜は「それだよ、それ」と言って、碗の横に置かれた風鈴草を指さす。
「あ、これは、その……寧々さんのお部屋の前に置かれていたのです」
「寧々の部屋の前に?」
鸚鵡返しにそう言いながら、お靜はひょいと片眉を上げる。しかしすぐに思い当たる節でもあったのか、そっと溜息をこぼすと、困ったような、呆れたような、それでいてどこかやさしくもある面持ちで頬を掻いた。
「そりゃあ、晴陽だね」
「晴陽……?」
「妖狸の子どもだよ。親のいない子でね、お館様が拾ってきてからずっと、寧々が母親代わりに育ててたんだ」
「伝染るといけないので、近付かぬよう言っていたのですがねえ……」
苦笑を漏らしながら風鈴草へ目を向ける菊野に続いて、千代もまたその愛らしい花へ視線を落としながら、須臾の間見た茶色い尾を脳裏に浮かべる。確かにあれは、狐というより、狸のそれに近かった。丸みがあり、毛先の方が少しだけ黒く色付いた、小さな尾――。
会うことも、力になることも出来ない代わりに、花を届けることで元気づけようとしていたのだろうか。母親の代わりとなって育ててくれた存在ならば、さぞ懐いているのだろうし、故に病に臥せる彼女が心配でたまらないだろう。お靜や菊野でさえ、何もしてやれないことに焦燥を抱いていたのだ。幼心ならなおのこと、心細さを抱えているに違いない。――幼い頃、父が亡くなり、母が病に苦しむ傍らで、千代自身もまた、そうであったように。
▽
“晴陽”という名の妖狸と再び出会ったのは、あの風鈴草を見つけてから三日後のことだった。
どうにか粥を一杯食べられるようになった寧々の為に、今日もまた朝餉を運びに向かおうと、雑舎へ足を向けている道すがら、偶然見つけたのだ。中庭を抱いた回廊の、朱色に塗られた高欄に、ちょこんと座っている小さな後ろ姿を。
朝独特の、ひんやりと澄み切った匂いに包まれた風が吹き抜け、茶色い毛に覆われた尻尾がふわりと揺れる。丸みを帯びた、やや小ぶりなふたつの耳。齢七つくらいだろうか。浅緑色の広袖の着物に、芥子色のやわらかな三尺帯。その小さな背中には、子どもらしからぬ憂いを帯びた雰囲気が漂っていた。細い肩は縮こまり、丸い頭は力なく項垂れている。
――おかあさんは、どこにもいかないよね。
ふいに、遥か遠い昔の声が、耳の奥に響き渡る。父の葬儀を終え、仏壇の前に座ってじっと位牌を見つめていた母の、小枝のように細い腕にしがみつきながら恐々とこぼした、心許ない声。怖かったのだ。当時から既に母は病弱で、寝込むことがよくあった。何日も、時には何ヶ月も。その姿を嫌というほど傍で見ていたからこそ、母までいなくなってしまうのではないかと、独りぼっちになってしまうのではないかと、恐ろしくて恐ろしくてしかたなかった。大切な人がみんないなくなるのは嫌だ、と――。
「晴陽君」
暫し逡巡し、頭の中から懐かしい思い出を遠ざけながら、千代は淋しげに丸まった背中へやさしく声をかけた。刹那、ぴくりと耳が震え、弾かれたように小作りな顔が振り返る。耳と同じ色をした短い髪の毛、ぱっちりとした大きな目、その真中で揺れる露草色の瞳。
「え、えっと……おくがた、様」
「千代、と呼んで頂けると、嬉しいのですけど」
ふっと頬を綻ばせながら、千代はゆっくりと足を動かして、彼の隣に並ぶ。見上げてくる瞳は、まるでよく晴れた日の真昼に広がる蒼穹のようだ、と思った。晴陽、という名を体現したかのような。
そんな彼の、ふっくらとした幼い手には、赤色の石竹――撫子の一種――が数本握られていた。どうやら今日は、風鈴草ではなく、それを届けるつもりだったらしい。そっと中庭を見遣れば、藤の華やかさに気を取られてこれまで気付かずにいたけれど、そこには確かに、色とりどりの石竹が植わっていた。短く刈られた灌木の周りに寄り添うように、控え目に。
「寧々さんへの贈り物ですか?」
問いかけると、彼はこくりとひとつ頷いた。けれどその横顔にあどけなさはなく、思い詰めたように、暗く沈んでいる。握り締めた石竹を切なげに細めた目で見つめ、ゆらゆらと揺らしては、悲哀に濡れた吐息を静かにこぼす。
――近寄らない、ようにと……言ったはず、なのですが……。
風鈴草を陶磁の花瓶に活けて部屋へ運ぶと、寧々はすぐに察したようで、青白い顔に苦笑を浮かべながらそう呟いた。困ったような口ぶりではあったが、しかし、僅かに綻んだ目元に、“母親”としての思い遣りややさしさ、そして何より、晴陽の健気な心遣いへの嬉しさが滲んでいたように思う。
寧々は“産女”というあやかしだ、と、お靜は言っていた。人の世では、お産で命を落とした女が化けたものだと語られているけれど、幽世の産女は生まれながらに、己の子を持つことの叶わぬ性を負っているのだという。
故に、どんなに望んだとて我が子を抱くことの出来ない彼女にとって、血の繋がりもなければ種も違えど、晴陽は唯一無二の“我が子”なのだろう。とても大切な、何としても護り抜きたい尊い存在――。
「風鈴草をお届けしたら、寧々さん、とても喜んでいましたよ」
「本当に……?」
縋るように見上げてくる青空のような瞳に、千代はふっと微笑み、そうしてゆっくりと頷いた。
「ええ、本当です。眠りにつかれるまで、ずっと見つめていましたよ」
少しばかり呆れていたことは敢えて伏せ、それでも事実であることに変わりない彼女の様子を、千代は穏やかな声音で語る。風鈴草を挿した花瓶は、いつどんな時でも寧々の視界に映りやすいように、布団の傍らに文机を移して、その上に飾った。彼女にとってあの花は今、愛おしい我が子を身近に感じられる唯一のものだろうから。
「寧々は……おいらの、おっかあなんだ。だから、だから……」
震えた、それでも強い想いの込められた声でそう言いながら、晴陽はくしゃりと表情を歪めた。今にも泣き出してしまいそうなその切ないかんばせに、千代はきつく胸を締め付けられる。刹那、彼の姿に、昔の自分の姿が重なって見えたような、そんな気がした。大切な人を亡くしてしまう恐怖と、それなのに己には何も出来ないという無力さに打ち拉がれた、あの時の姿に。
「実は私の母も、重い病に罹っていたのです」
「千代のおっかあも……?」
「はい。ですが、都で一番のお医者様に診ていただけることになりましたので、今頃はきっと、元気になっていると思うのです。お薬をしっかり飲んで、食事をきちんと摂れば、必ず良くなります。寧々さんも、最近はお粥を残さず召し上がれるようになりましたし、お薬も毎日きちんと飲んでいらっしゃいますよ」
丸まった背中にそっと手を添え、千代はゆっくりとひとつ瞬いた。今も床に臥している寧々と、そんな彼女を心配する晴陽と、そして――現世にいる母を想いながら。
「ですから、大丈夫です。寧々さんは、絶対に元気になりますから」



