丁字路を西側に真っ直ぐ進むと、最奥に、確かに寧々の部屋と思しき舞良戸があった。厨や、雑舎にある他のどの部屋とも同じ、簡素だけれどもしっかりとした造りの、綺麗に手入れをされた戸。
柱に下げられた木札に、“寧々”という文字が漸く見て取れるほどにまで近付いたところで、ふと、視界の端を何かが横切った。茶色く、ふわふわとした、尾のような何か。それは、あっ、と思う間もなく脱兎のように消え去り、舞良戸の前に辿り着いた時にはもう、それを確かめる術は残っていなかった。
千代は小首を傾げ、尾のような何かが消えて行っただろう方向を、呆然と眺める。葛ノ葉のものにしては色が違っていたし、何より狐のそれよりもう少し丸みがあったように思う。それから、先端が微かに黒っぽく色付いていたようにも。
狸、だろうか。そう考えながら腰を屈めて膝をつき、膳を床に置いた――その時だった。舞良戸の真ん前に、やわらかな桃色の花が置かれているのが目に留まったのは。細い茎の先に、ふっくらとした小鈴のような花を垂らした風鈴草。摘んだばかりなのだろうか、切り口はまだ瑞々しく、甘やかなやさしい匂いも仄かに薫っている。
そっと手に取り、矯めつ眇めつしてみるが、それはやはり普通の風鈴草に過ぎず、おかしなところは何もない。何故こんなところに――と不思議に思うけれど、しかし此処に置きっぱなしにしておくわけにもゆかず、千代は取り敢えず風鈴草を木具膳の横に置き、舞良戸の方へ向かって声をかけた。
「寧々さん、千代と申します。お食事とお薬をお持ちいたしました」
だが幾ら待てど、部屋の中から返事は聞こえてこない。それどころか、物音や衣擦れの音さえ、少しも。戸の向こう側に寧々がいるのは確かなのだろうけれど、しかしそれにしては、あまりにも“誰かがいる”という気配が感じられなかった。異様なほど静か過ぎるせいだろうか。それとも、生気が枯れてゆく、という熱枯病の特徴故だろうか――。
まさか、という不安が胸を過ぎり、千代は慌ててそれを追い払うように、首を横に振った。嫌なことを考えてはいけない。迫り上がってくる焦燥感に、思考が支配されてしまいそうになるけれど、きっと大丈夫だ、絶対に大丈夫だ、と言い聞かせることで、なんとか落ち着きを取り戻す。食事をちゃんと摂って体力をつけ、そして薬をしっかりと飲めば。そうすれば寧々は、また元気を取り戻せるはずなのだから、と。
「失礼いたします」
意を決し、千代は引手に指先をかけて、ゆっくりと戸を開いた。刹那、鼻先を掠めた臭いに、思わず眉根を寄せる。瘴気、というのだろうか。馴染みのあるそれは、臥せった母の部屋に充満していたものと、よく似ていた。病に罹った者特有の、澱んだ臭い――。
陽光を透かした障子、窓辺に置かれた文机、溶けかけの蝋のささった燭台、年季の入った飴色の箪笥、松の描かれた鏡台、着物の架けられた衣桁。必要最低限のものしか置かれてはいないが、殺風景というより片付けの行き届いている、という印象のある部屋の真ん中に、一組の布団が敷かれていた。
唐草柄の掛け布団が、小さく膨れている。枕元に視線を移した千代は、そこに横たわる女の、まるで魂を抜かれた後のような青白さに、思わず息を呑んだ。胸元が微かに上下していなければ、呼吸をしているのかさえ分からなかっただろう。意識があるようには、とても見えない。千代の存在どころか、舞良戸が開いたことにさえ気付いてはいないだろう。
「寧々さん、千代です。聞こえますでしょうか?」
傍らまで膳を運び、千代は聞き取りやすいようにはっきりとした口調で声をかけながら腰を下ろす。覗き込んだ顔は、やはり生気が薄い。元々色白なのだろうが、更に血の気の乏しい肌には、しかし玉のような汗がびっしりと浮かんでいた。呼吸は荒く、僅かに開いた唇の合間から息が吐き出される度、ひゅう、ひゅう、と喉の鳴る音が微かに聞こえる。敷布団の上に広がった鴇色の髪の毛は乱れ、小さな頭は今にも枕からこぼれ落ちそうだ。
この様子では、歩くなり這いつくばるなりして戸へ近寄り、そこから粥や薬ののった木具膳を手に取るなど、とても出来はしなかっただろう。そもそも、ひとりで身を起こすことすら難しいに違いない。
「寧々さん」
もう一度名を呼ぶと、薄い瞼が微かに震え、ゆっくりと持ち上がった。深い紅色をした、虚ろな瞳。ゆらりと動いたそれはどうにか千代を捉えたが、しかし姿形をはっきりと認識出来ているのかは定かでなかった。
「お、くがた、さま……」
掠れた息の絡んだ弱々しい声が、辛うじて言葉を紡ぐ。一音口にするだけでもひどく苦しげで、かさついて罅割れた唇がなんとも痛々しい。
寧々と顔を合わせるのは――そもそも、そういう名の女中がいることを知ったのさえ――今日が初めてであるけれど、恐らくは彼女の方は既に、食事を運んできたお靜か菊野かのどちらかに、舞良戸越しに事情を聞いていたのだろう。驚いたふうはなかったが、そうするだけの体力すら、彼女には疾うにないのかもしれない。
「こんな、姿で、申し訳……」
「どうかお気になさらないでください。お声を出すだけでも、きっとお辛いでしょうから、頷くか、首を振っていただくだけで構いません」
そう言ってやさしく微笑み、千代はさっと、掛け布団の隙間から見える彼女の衣を一瞥する。汗を吸って濡れたそれは、寧々のほっそりとした首や肩に張り付き、どう見ても良い状態とは思えない。先ずは食事と薬を摂らせ、その後に濡らした布を用意して身体を拭い、新しい寝巻きに着替えさせる必要があるだろう。
「おばば様が、お粥と卵酒を作って下さったのですが、食べられそうでしょうか?」
なるべくゆっくりとした口調で問いかけると、彼女はひとつ間を置いて、力なく顔を横に振った。食べなければ、というのは理解しているのだろうけれど。しかし、今の身体には、とても受け付けられそうにないのだろう。暫く食事を断っていたのなら、なおのこと。
「では、お粥を少しだけでも」
思案の末に重ねて問うと、寧々はまたひとつ間を置いてから、今度は小さく頷いた。その反応に千代はほっと胸を撫で下ろし、ふわりと目元を綻ばす。ほんの少しずつでも物を食べられるようになれば。そうすればきっと、病に打ち勝てるだけの体力が、彼女の身体に戻ってくれるだろう。
「少しだけ、身体を起こしますね」
そっと声をかけてから、千代は寧々の背中に腕を回し、上体をゆっくりと持ち上げる。力が入らないせいか、されるがままに動くその身体は、汗で湿った衣越しにも伝わるほど熱く、そして驚くほど軽かった。
ぐったりと腕に凭れるその感触に、千代はふと、現世にひとり置いてきてしまった母を思い出す。食事は摂れているだろうか。薬は飲めているだろうか。都で最も腕の良いという医者を呼んでくれると、村長は約束してくれた。それと引き換えに、生贄になることを決めたのだから。きっと母は今頃、医者の治療のおかげで元気になっているに違いない。だから、大丈夫。大丈夫だ、と――そう、信じたい。
柱に下げられた木札に、“寧々”という文字が漸く見て取れるほどにまで近付いたところで、ふと、視界の端を何かが横切った。茶色く、ふわふわとした、尾のような何か。それは、あっ、と思う間もなく脱兎のように消え去り、舞良戸の前に辿り着いた時にはもう、それを確かめる術は残っていなかった。
千代は小首を傾げ、尾のような何かが消えて行っただろう方向を、呆然と眺める。葛ノ葉のものにしては色が違っていたし、何より狐のそれよりもう少し丸みがあったように思う。それから、先端が微かに黒っぽく色付いていたようにも。
狸、だろうか。そう考えながら腰を屈めて膝をつき、膳を床に置いた――その時だった。舞良戸の真ん前に、やわらかな桃色の花が置かれているのが目に留まったのは。細い茎の先に、ふっくらとした小鈴のような花を垂らした風鈴草。摘んだばかりなのだろうか、切り口はまだ瑞々しく、甘やかなやさしい匂いも仄かに薫っている。
そっと手に取り、矯めつ眇めつしてみるが、それはやはり普通の風鈴草に過ぎず、おかしなところは何もない。何故こんなところに――と不思議に思うけれど、しかし此処に置きっぱなしにしておくわけにもゆかず、千代は取り敢えず風鈴草を木具膳の横に置き、舞良戸の方へ向かって声をかけた。
「寧々さん、千代と申します。お食事とお薬をお持ちいたしました」
だが幾ら待てど、部屋の中から返事は聞こえてこない。それどころか、物音や衣擦れの音さえ、少しも。戸の向こう側に寧々がいるのは確かなのだろうけれど、しかしそれにしては、あまりにも“誰かがいる”という気配が感じられなかった。異様なほど静か過ぎるせいだろうか。それとも、生気が枯れてゆく、という熱枯病の特徴故だろうか――。
まさか、という不安が胸を過ぎり、千代は慌ててそれを追い払うように、首を横に振った。嫌なことを考えてはいけない。迫り上がってくる焦燥感に、思考が支配されてしまいそうになるけれど、きっと大丈夫だ、絶対に大丈夫だ、と言い聞かせることで、なんとか落ち着きを取り戻す。食事をちゃんと摂って体力をつけ、そして薬をしっかりと飲めば。そうすれば寧々は、また元気を取り戻せるはずなのだから、と。
「失礼いたします」
意を決し、千代は引手に指先をかけて、ゆっくりと戸を開いた。刹那、鼻先を掠めた臭いに、思わず眉根を寄せる。瘴気、というのだろうか。馴染みのあるそれは、臥せった母の部屋に充満していたものと、よく似ていた。病に罹った者特有の、澱んだ臭い――。
陽光を透かした障子、窓辺に置かれた文机、溶けかけの蝋のささった燭台、年季の入った飴色の箪笥、松の描かれた鏡台、着物の架けられた衣桁。必要最低限のものしか置かれてはいないが、殺風景というより片付けの行き届いている、という印象のある部屋の真ん中に、一組の布団が敷かれていた。
唐草柄の掛け布団が、小さく膨れている。枕元に視線を移した千代は、そこに横たわる女の、まるで魂を抜かれた後のような青白さに、思わず息を呑んだ。胸元が微かに上下していなければ、呼吸をしているのかさえ分からなかっただろう。意識があるようには、とても見えない。千代の存在どころか、舞良戸が開いたことにさえ気付いてはいないだろう。
「寧々さん、千代です。聞こえますでしょうか?」
傍らまで膳を運び、千代は聞き取りやすいようにはっきりとした口調で声をかけながら腰を下ろす。覗き込んだ顔は、やはり生気が薄い。元々色白なのだろうが、更に血の気の乏しい肌には、しかし玉のような汗がびっしりと浮かんでいた。呼吸は荒く、僅かに開いた唇の合間から息が吐き出される度、ひゅう、ひゅう、と喉の鳴る音が微かに聞こえる。敷布団の上に広がった鴇色の髪の毛は乱れ、小さな頭は今にも枕からこぼれ落ちそうだ。
この様子では、歩くなり這いつくばるなりして戸へ近寄り、そこから粥や薬ののった木具膳を手に取るなど、とても出来はしなかっただろう。そもそも、ひとりで身を起こすことすら難しいに違いない。
「寧々さん」
もう一度名を呼ぶと、薄い瞼が微かに震え、ゆっくりと持ち上がった。深い紅色をした、虚ろな瞳。ゆらりと動いたそれはどうにか千代を捉えたが、しかし姿形をはっきりと認識出来ているのかは定かでなかった。
「お、くがた、さま……」
掠れた息の絡んだ弱々しい声が、辛うじて言葉を紡ぐ。一音口にするだけでもひどく苦しげで、かさついて罅割れた唇がなんとも痛々しい。
寧々と顔を合わせるのは――そもそも、そういう名の女中がいることを知ったのさえ――今日が初めてであるけれど、恐らくは彼女の方は既に、食事を運んできたお靜か菊野かのどちらかに、舞良戸越しに事情を聞いていたのだろう。驚いたふうはなかったが、そうするだけの体力すら、彼女には疾うにないのかもしれない。
「こんな、姿で、申し訳……」
「どうかお気になさらないでください。お声を出すだけでも、きっとお辛いでしょうから、頷くか、首を振っていただくだけで構いません」
そう言ってやさしく微笑み、千代はさっと、掛け布団の隙間から見える彼女の衣を一瞥する。汗を吸って濡れたそれは、寧々のほっそりとした首や肩に張り付き、どう見ても良い状態とは思えない。先ずは食事と薬を摂らせ、その後に濡らした布を用意して身体を拭い、新しい寝巻きに着替えさせる必要があるだろう。
「おばば様が、お粥と卵酒を作って下さったのですが、食べられそうでしょうか?」
なるべくゆっくりとした口調で問いかけると、彼女はひとつ間を置いて、力なく顔を横に振った。食べなければ、というのは理解しているのだろうけれど。しかし、今の身体には、とても受け付けられそうにないのだろう。暫く食事を断っていたのなら、なおのこと。
「では、お粥を少しだけでも」
思案の末に重ねて問うと、寧々はまたひとつ間を置いてから、今度は小さく頷いた。その反応に千代はほっと胸を撫で下ろし、ふわりと目元を綻ばす。ほんの少しずつでも物を食べられるようになれば。そうすればきっと、病に打ち勝てるだけの体力が、彼女の身体に戻ってくれるだろう。
「少しだけ、身体を起こしますね」
そっと声をかけてから、千代は寧々の背中に腕を回し、上体をゆっくりと持ち上げる。力が入らないせいか、されるがままに動くその身体は、汗で湿った衣越しにも伝わるほど熱く、そして驚くほど軽かった。
ぐったりと腕に凭れるその感触に、千代はふと、現世にひとり置いてきてしまった母を思い出す。食事は摂れているだろうか。薬は飲めているだろうか。都で最も腕の良いという医者を呼んでくれると、村長は約束してくれた。それと引き換えに、生贄になることを決めたのだから。きっと母は今頃、医者の治療のおかげで元気になっているに違いない。だから、大丈夫。大丈夫だ、と――そう、信じたい。



