朝餉を終え、支給された梅色の――お靜や菊野が着ていたのと同じ――着物に袖を通し、髪の毛をひとつに結い上げて、鏡台の前でおかしなところがないかを検めてから、千代はひとつ深呼吸をし、自室を出る。部屋のある東対から北対までは、主殿を通るか、中庭を抱く回廊を通るかの二通りがあるけれど、お靜曰く、回廊の方が幾分近いとのことで、今日も今日とて、千代は華やかに咲き誇る藤を横目に、清々しい朝の空気に背中を押されながら北対へと向かう。
しかし、北対と雑舎を繋ぐふたつ目の渡廊に来たところで、何やら人集りが出来ているのが目についた。お靜と菊野、それから屈強な身体をした見張り番の男がふたり。菊野の手には、幾つかの碗ののった木具膳が抱えられていた。夜彌や葛ノ葉のそれとは形も造りもまるで違うし、そもそも朝餉の刻はもう過ぎている。誰かが寝過ごして食べそこないでもしたのだろうか、と思ったが、けれど、一行のかんばせには一様に困り果てたような表情が浮かんでいた。
「どうかされたのですか?」
歩み寄りながら声をかけると、全員の肩がびくりと跳ね上がる。最初に振り向いたのは手前に立つお靜で、彼女は千代の姿を認めると、引き攣った表情を忽ち崩し、途方に暮れたように眉尻を下げた。
「ああ、何だい、千代か」
そう独り言ち、深々と溜息を吐き出して、お靜は腰に手を当てる。そんな彼女の態度を、菊野が鋭い視線で嗜めるも、無論お靜がそれを受け入れるはずもなく。挨拶とともに頭を下げた見張り番のふたりと菊野に千代もまた会釈を返し、そうして木具膳の上に置かれた碗へと目を向けた。とろりとするまでやわらかく炊かれた粥、甘くふくよかな匂いのする卵酒。花の形をした小皿には梅干しが一粒盛られ、その傍らには丁寧に折られた薬包紙が添えられている。内容からして、病に臥せっている者へ供する食事なのは明らかだった。
「実は、女中のひとり――寧々というのですけれど、彼女が熱枯病に罹っておりまして」
千代の視線に気付いたのだろう。肩を竦めながら、菊野は遣る瀬無さの滲んだ声で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
曰く、“熱枯病”はその名の通り発熱を主とする病で、適切な処置を施したとて、何日もの間、高熱に魘され続けるのだという。長きに亘る闘病の末、じわじわと体力を削られ、やがて生気どころか命までもが枯れ尽きてしまう――。それこそが、熱枯病が“最も恐ろしい病”のひとつに数えられる所以であるらしい。
「ですが、熱枯病が厄介なのは、それだけではないのです。感染の力がとても強く……これが本当に大変で。布で口元を覆っておりましても、容易く伝染ってしまうほどなのです……」
故に、誰も寧々には近付くことが許されず、食事も薬も常に舞良戸越しに差し入れるだけで、看病らしいことを何も出来ずにいるそうだ。
「初めの頃こそ、食事に手をつけてはいたのですが……体力が随分衰えてしまっているのでしょう。最近では、戸の前に膳を置いても、受け取った形跡がまるでないのです」
感染力が強い為に、誰も戸を開けることは出来ない。けれど、このままでは寧々は食事どころか薬を飲むことさえままならず、いっかな快方の兆しは見えず、最悪の場合、名の通りに“枯れ”てしまうことになる。
それだけはどうにかして避けねばと意見は一致しているものの、では誰が食事と薬を寧々の手元まで届けるのか――。舞良戸を開け、彼女と間近に接するということは、熱枯病に罹る覚悟がなければならない。あやかし達が最も恐れる病に、自ら――。
「他の者達に任せるわけにはゆきませんから、わたくしめが運ぶと言っているのですけれど」
「だからあ! さっきから何遍も、あたしが行くっつってんだろ! 年寄りのおばばを行かせるわけにはいかないし、見張り番はこいつらしかいないんだから、代えが利くのはあたしだけなんだよ!」
「しかし、体力はおばば様やお靜さんより、俺達の方がありますし」
「いくらお館様の結界があるからって、あんたらが寝込んじまったら誰が見張りするんだい!」
どうやら、誰かに押し付け合っているのではなく――寧ろその逆で、誰もが自分こそが行くのだと、言い争っているらしい。
己の持論を述べ、だから適任なのだと言い張って譲らない彼らの遣り取りを、千代は目を丸くしながら見つめる。意外だったのだ。押し付け合うのではなく、我こそはと率先して買って出ているのが。彼らを薄情だと思っていたからでは、決してない。ただ、普通であれば、恐ろしい病を前に竦むものだろう、と。――嘗て村で流行り病が広がった時、村人の誰もがそうであったように。
ひとりひとりの顔を順々に見遣り、それから千代は、ぱちりと大きく目を瞬かせた。耳の奥の方――否、頭の何処かから、微かに声が聞こえたような気がしたからだ。誰のものか分からない、けれど、何故か心落ち着くやさしい声が。
――安心しろ。あやかしの病は、
「私が行きます」
気付いた時には、言葉が口を衝いて出ていた。驚愕に見開かれた幾つもの目が、一斉に千代へと向けられる。しかし、彼らよりもその発言に驚いているのは、他でもない千代自身だった。
「な、何を仰いますか! 奥方様にそのようなこと、させられませぬ!」
びくりと肩を震わせ、菊野が忙しなく顔を左右に振る。そんな彼女の言葉に同意するように、お靜も見張り番の男たちも真剣な面持ちで頷いた。当たり前だ、と。馬鹿なことを言うな、と。そう言わんばかりの双眸に、けれど千代はやわらかく微笑んで小さく首を傾けた。
「あやかしの病は、人間には伝染らないのですよね?」
唇が、まるで他人のものみたいに、勝手に言葉を紡いでゆく。あやかしの病は、人間には伝染らない――そんなことなど、幽世に来たばかりの千代が知るはずもないというのに。しかしそれは、するりと滑らかに、声にのって口から出てきた。ずっと前から知っていた、当然の知識であるかのように。
どうして、そんなことを――。自分自身の口から出た言葉の意味に、刹那、思考が白く染まる。
「何故、あんたがそれを」
けれど、訝しげに目を眇めるお靜の声にはっと我に返った千代は、戸惑いを悟られぬようくすりと笑って、呆然と立ち尽くしている菊野の手から半ば無理矢理、木具膳を奪い取った。
「このお邸に、人間は私ひとりしかいませんから。それに、看病には慣れていますし」
現世にいた頃も、病に臥せった母の看病に追われる毎日だった。炊事や掃除、畑や針仕事の合間に。食事は滋養に良いものを拵え、汗をかけば襦袢を替え、湯浴みが出来ない時には濡らした布で身体を拭い。それらを面倒だと思ったことは、一度たりともなかった。唯一の肉親だったから、というのはあるのだろうけれど。しかしそれ以上に、誰かを助けたい、誰かを救いたいという確たる信念の方が強かったように思う。何故、と問われれば、それは分からないけれど。
「あんたって、意外に頑固なとこあんだね」
呆れたように肩を竦め、お靜はやれやれと言いたげに溜息をこぼす。だが、決して怒っているような、見放しているようなそれではなかった。どちらかといえば、心做しか感謝しているかのような。素直でない故の反応なのだろう、と思うと、なんだか少し微笑ましかった。
「それで、寧々さんのお部屋は、どちらにあるのでしょう……?」
ゆっくりとひとつ瞬き、千代は見張り番の男たちの奥に続く雑舎へと目を向ける。使用人に充てがわれている部屋は、厨と同じ雑舎にあるとは既に聞いていたが、しかし寧々のそれが何処であるのかまでは、分からない。
「あいつの部屋は、西側の一番奥だよ。舞良戸の横に木札が下げてあるから、すぐ分かるはずだ」
「西の一番奥、ですね」
確認も兼ねて復唱し、千代は膳に盛られた粥や卵酒をこぼさぬよう気を付けながら頭を下げ、そうして人垣を抜けるように、足早に菊野の脇を通り過ぎてその場を後にする。最近食事も薬も摂っていないのならば、なるべく早く寧々のもとへ届けてあげたかった。どんな時も、病の処置は一刻を争うものだ。
「千代」
そんな千代の背中に、お靜の声が届いた。足をとめ、肩越しに振り返れば、やわらかく笑んだ彼女と目が合った。
「――ありがとね」
しかし、北対と雑舎を繋ぐふたつ目の渡廊に来たところで、何やら人集りが出来ているのが目についた。お靜と菊野、それから屈強な身体をした見張り番の男がふたり。菊野の手には、幾つかの碗ののった木具膳が抱えられていた。夜彌や葛ノ葉のそれとは形も造りもまるで違うし、そもそも朝餉の刻はもう過ぎている。誰かが寝過ごして食べそこないでもしたのだろうか、と思ったが、けれど、一行のかんばせには一様に困り果てたような表情が浮かんでいた。
「どうかされたのですか?」
歩み寄りながら声をかけると、全員の肩がびくりと跳ね上がる。最初に振り向いたのは手前に立つお靜で、彼女は千代の姿を認めると、引き攣った表情を忽ち崩し、途方に暮れたように眉尻を下げた。
「ああ、何だい、千代か」
そう独り言ち、深々と溜息を吐き出して、お靜は腰に手を当てる。そんな彼女の態度を、菊野が鋭い視線で嗜めるも、無論お靜がそれを受け入れるはずもなく。挨拶とともに頭を下げた見張り番のふたりと菊野に千代もまた会釈を返し、そうして木具膳の上に置かれた碗へと目を向けた。とろりとするまでやわらかく炊かれた粥、甘くふくよかな匂いのする卵酒。花の形をした小皿には梅干しが一粒盛られ、その傍らには丁寧に折られた薬包紙が添えられている。内容からして、病に臥せっている者へ供する食事なのは明らかだった。
「実は、女中のひとり――寧々というのですけれど、彼女が熱枯病に罹っておりまして」
千代の視線に気付いたのだろう。肩を竦めながら、菊野は遣る瀬無さの滲んだ声で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
曰く、“熱枯病”はその名の通り発熱を主とする病で、適切な処置を施したとて、何日もの間、高熱に魘され続けるのだという。長きに亘る闘病の末、じわじわと体力を削られ、やがて生気どころか命までもが枯れ尽きてしまう――。それこそが、熱枯病が“最も恐ろしい病”のひとつに数えられる所以であるらしい。
「ですが、熱枯病が厄介なのは、それだけではないのです。感染の力がとても強く……これが本当に大変で。布で口元を覆っておりましても、容易く伝染ってしまうほどなのです……」
故に、誰も寧々には近付くことが許されず、食事も薬も常に舞良戸越しに差し入れるだけで、看病らしいことを何も出来ずにいるそうだ。
「初めの頃こそ、食事に手をつけてはいたのですが……体力が随分衰えてしまっているのでしょう。最近では、戸の前に膳を置いても、受け取った形跡がまるでないのです」
感染力が強い為に、誰も戸を開けることは出来ない。けれど、このままでは寧々は食事どころか薬を飲むことさえままならず、いっかな快方の兆しは見えず、最悪の場合、名の通りに“枯れ”てしまうことになる。
それだけはどうにかして避けねばと意見は一致しているものの、では誰が食事と薬を寧々の手元まで届けるのか――。舞良戸を開け、彼女と間近に接するということは、熱枯病に罹る覚悟がなければならない。あやかし達が最も恐れる病に、自ら――。
「他の者達に任せるわけにはゆきませんから、わたくしめが運ぶと言っているのですけれど」
「だからあ! さっきから何遍も、あたしが行くっつってんだろ! 年寄りのおばばを行かせるわけにはいかないし、見張り番はこいつらしかいないんだから、代えが利くのはあたしだけなんだよ!」
「しかし、体力はおばば様やお靜さんより、俺達の方がありますし」
「いくらお館様の結界があるからって、あんたらが寝込んじまったら誰が見張りするんだい!」
どうやら、誰かに押し付け合っているのではなく――寧ろその逆で、誰もが自分こそが行くのだと、言い争っているらしい。
己の持論を述べ、だから適任なのだと言い張って譲らない彼らの遣り取りを、千代は目を丸くしながら見つめる。意外だったのだ。押し付け合うのではなく、我こそはと率先して買って出ているのが。彼らを薄情だと思っていたからでは、決してない。ただ、普通であれば、恐ろしい病を前に竦むものだろう、と。――嘗て村で流行り病が広がった時、村人の誰もがそうであったように。
ひとりひとりの顔を順々に見遣り、それから千代は、ぱちりと大きく目を瞬かせた。耳の奥の方――否、頭の何処かから、微かに声が聞こえたような気がしたからだ。誰のものか分からない、けれど、何故か心落ち着くやさしい声が。
――安心しろ。あやかしの病は、
「私が行きます」
気付いた時には、言葉が口を衝いて出ていた。驚愕に見開かれた幾つもの目が、一斉に千代へと向けられる。しかし、彼らよりもその発言に驚いているのは、他でもない千代自身だった。
「な、何を仰いますか! 奥方様にそのようなこと、させられませぬ!」
びくりと肩を震わせ、菊野が忙しなく顔を左右に振る。そんな彼女の言葉に同意するように、お靜も見張り番の男たちも真剣な面持ちで頷いた。当たり前だ、と。馬鹿なことを言うな、と。そう言わんばかりの双眸に、けれど千代はやわらかく微笑んで小さく首を傾けた。
「あやかしの病は、人間には伝染らないのですよね?」
唇が、まるで他人のものみたいに、勝手に言葉を紡いでゆく。あやかしの病は、人間には伝染らない――そんなことなど、幽世に来たばかりの千代が知るはずもないというのに。しかしそれは、するりと滑らかに、声にのって口から出てきた。ずっと前から知っていた、当然の知識であるかのように。
どうして、そんなことを――。自分自身の口から出た言葉の意味に、刹那、思考が白く染まる。
「何故、あんたがそれを」
けれど、訝しげに目を眇めるお靜の声にはっと我に返った千代は、戸惑いを悟られぬようくすりと笑って、呆然と立ち尽くしている菊野の手から半ば無理矢理、木具膳を奪い取った。
「このお邸に、人間は私ひとりしかいませんから。それに、看病には慣れていますし」
現世にいた頃も、病に臥せった母の看病に追われる毎日だった。炊事や掃除、畑や針仕事の合間に。食事は滋養に良いものを拵え、汗をかけば襦袢を替え、湯浴みが出来ない時には濡らした布で身体を拭い。それらを面倒だと思ったことは、一度たりともなかった。唯一の肉親だったから、というのはあるのだろうけれど。しかしそれ以上に、誰かを助けたい、誰かを救いたいという確たる信念の方が強かったように思う。何故、と問われれば、それは分からないけれど。
「あんたって、意外に頑固なとこあんだね」
呆れたように肩を竦め、お靜はやれやれと言いたげに溜息をこぼす。だが、決して怒っているような、見放しているようなそれではなかった。どちらかといえば、心做しか感謝しているかのような。素直でない故の反応なのだろう、と思うと、なんだか少し微笑ましかった。
「それで、寧々さんのお部屋は、どちらにあるのでしょう……?」
ゆっくりとひとつ瞬き、千代は見張り番の男たちの奥に続く雑舎へと目を向ける。使用人に充てがわれている部屋は、厨と同じ雑舎にあるとは既に聞いていたが、しかし寧々のそれが何処であるのかまでは、分からない。
「あいつの部屋は、西側の一番奥だよ。舞良戸の横に木札が下げてあるから、すぐ分かるはずだ」
「西の一番奥、ですね」
確認も兼ねて復唱し、千代は膳に盛られた粥や卵酒をこぼさぬよう気を付けながら頭を下げ、そうして人垣を抜けるように、足早に菊野の脇を通り過ぎてその場を後にする。最近食事も薬も摂っていないのならば、なるべく早く寧々のもとへ届けてあげたかった。どんな時も、病の処置は一刻を争うものだ。
「千代」
そんな千代の背中に、お靜の声が届いた。足をとめ、肩越しに振り返れば、やわらかく笑んだ彼女と目が合った。
「――ありがとね」



