「――雑事の手伝い?」
書面に走らせていた筆をとめ、夜彌はどこか楽しそうにひょいと片眉を上げながら、肩越しに葛ノ葉を振り返った。すっかり定位置となった座布団の上に、彼は相も変わらず背筋を伸ばして、律儀に座っている。窓辺に据えられた文机の前に腰を下ろす夜彌を、真っ直ぐにじっと見つめたまま。その瞳に、不満というよりも物言いたげな色が滲んでいるように見て取れ、夜彌はくすりと口の端を上げる。
「千代の好きにさせて構わない」
「お言葉ですが、彼女は由緒正しい鵺の一族の奥方です。それを自覚し、相応の振る舞いをしてもらわねばなりません」
険のある口調に、夜彌は硯の縁に筆を擱き、文机の正面に設けられた窓の外へと目を向けた。蓮の形を模した花頭窓。その奥にはこの邸では珍しく、二重露地を模した庭が広がっている。杉皮屋根の竹簀戸、形の様々な飛び石、精巧な造りの美しい春日灯籠や雪見型灯籠、小ぶりな鹿威しの設けられた手水鉢。とはいえ、近くに茶室はない。数代前の当主が、風変わりな趣向を凝らして造り上げたものだ。
「彼女が何かをしたい、と自ら申し出たのは、これが初めてだろう?」
かぽん、と鹿威しの立てる小さな音を聞くともなく聞きながら、夜彌はそっと目を細める。萎縮し、よく謝る女だ、と思った。昔は――といっても、数百年も昔のことだけれど――そんなふうではなかったけれど。しかし、いきなり怪しげな猿面の男に井戸へ突き落とされ、目覚めた時には人の住まわぬ世界にいた――となれば、誰しもそうなるものだろう。お靜のような、よほど肝の据わった者でなければ。
そんな千代が、漸く自ら望みを口にしてくれた。もちろん、昨夜の灯りはそれとして、ではあるけれど。灯りを分けてほしいと言うのと、お靜を頼ってまで雑事に勤しみたいと言い出るのには、それなりの迷いと覚悟、それから勇気が要ったのは想像に難くない。あやかしばかりのこの場所で、彼女は誰に急かされるでもなく、自ずから一歩を踏み出そうとしていることが窺え、夜彌はそれが嬉しく、そして愛らしく思えた。
「甘やかし過ぎではありませんか」
呆れを含んだ溜息が漏れ、夜彌はくつくつと喉を鳴らし、肩越しにちらりと葛ノ葉へ目を戻す。
「甘やかして何が悪いというんだ?」
「新婚の浮かれ、というものでしょうか」
「お前の口から、そのような言葉が出ようとは思わなんだ」
戯けたように首を傾けつつも、真剣さを滲ませた口調に、無論葛ノ葉が気付かぬはずもなく。彼はやれやれと言いたげに肩を竦めると、肩に垂れた髪の毛を邪魔そうに片手で払い除けた。
「甘やかしたくもなる」
書き終えた書状を丁寧に折り畳み、夜彌は徐に腰を上げて、花頭窓の外へ何となしに目を向ける。開け放たれた窓から流れ込む、初夏の気配を含んだ健やかな匂い。内腰掛の傍に、梔子の花が群れを成して咲いている。無垢な白い花弁を開かせた、甘く濃厚な、それでいて上品な薫り。
今でも、ふとした瞬間に思い出す。気を緩めた時に、決まって。あの冷たく乾いた感触を、腕に抱いた時の儚い重さを。記憶だけではなく、皮膚や骨の髄にまで、兎も角身体のそこかしこに、それは残っているのだ。逃げようとしても、逃げられない。忘れようとしても、忘れられない。逃げたくない。忘れたくない。だから――。
「今度こそ」
そこで一度言葉を区切り、夜彌はひとつゆっくりと瞬いて、穏やかな風に揺れる梔子の花をじっと見つめた。
「幸せにしたいんだ」
そっと微笑みながら振り返ると、真剣な――どちらかといえば険しい――表情の葛ノ葉と目が合った。すっと僅かに細められた、胸の内を見透かすかのような、薄紫色の瞳。何事にもはいはいと頷かず、鵜呑みにもせず、必ず一歩立ち止まって、真意を探るようなところが、しかし夜彌は嫌いではなかった。寧ろだからこそ、彼を誰より一番信頼しているといっても過言ではない。
そんな葛ノ葉の相貌を真っ直ぐに見つめ、夜彌は微かに笑みを深めた。
「――俺はもう二度と、彼女を失いたくない」
▽
雑舎近くの井戸から汲み上げた水を手桶いっぱいに満たし、それをせっせと廊下まで運んで、真新しい雑巾を浸して力いっぱい絞る。お靜に聞いたところによれば、掃除の基本は現世でも幽世でも変わらないらしい。掃く、拭く、払う。先ずは障子や襖を開け放ち、新鮮な空気を取り入れてから、叩きで埃を落とす。それから茶殻を畳に撒いて箒で掃き、最後に板の間や廊下を雑巾がけする。
てっきり作法が違うのだろうと思っていたのだけれど、どうやらどれも身に染み付いた慣れた作業で、千代はほっと安堵する。これなら足手纏いにならなくて済みそうだ。
菊野の口添えにより、葛ノ葉から雑事の手伝いの許可が下りたのは、意外にもすぐのことだった。恐らくは葛ノ葉というより、夜彌の裁可によるものなのだろうけれど。狐火の件と併せて、葛ノ葉に礼を込めて頭を下げると、なんとも渋い顔をされてしまった。眉間に皺を深く寄せ、僅かに片眉を持ち上げて。やはり、どうやらまだ気を許してくれてはいないらしい。――誰より夜彌の近くにいる立場なのだから、何処の馬の骨とも分からぬ人間を怪しみ、警戒するのは尤もだろうけれど。
「千代ー! どっちが先に向こう側まで行けるか、競争しないかい!」
雑巾を握った手をぶんぶんと左右に振りながら声をかけてきたお靜に、千代は満面の笑みを浮かべながら顔を縦に振る。――理由も分からず、猿面の男に井戸の中へ突き落とされてから、早四日。葛ノ葉は兎も角、お靜や菊野とはとても上手く関係を築けていると思う。それが一方的な勘違いでなければ、良いのだけれど。
お靜の立っている渡廊の端まで歩み寄り、雑巾を握った両手を床について、四つん這いのような恰好で前のめりに身を低くする。葛ノ葉や菊野に見つかれば叱られそうな気がしたが、掃除を楽しくやるのも悪くはない。
渡廊の端に並び、お靜の合図と共に、一斉に駆け出す。もちろん、雑巾は床にしっかりと押し付けて、“拭く”という行為は疎かにしない。そのせいか時々躓きそうになり、先をゆくお靜に少しばかり遅れをとってしまった。常習犯なのか、彼女の身のこなしは、速さがあっても随分とこなれている。
結局、突き当りの終点に一番乗りで辿り着いたのは、お靜だった。腰を上げ、嬉しそうに片手を突き上げる彼女に、千代は肩を竦めながら、それでもくすりと笑う。可愛いな、と思った。あやかしなのだから、遥か長く生きているだろう彼女に対して、そう表現するのは如何なものだろうけれど。それでも、雑巾がけの競い合いで笑顔を弾けさせながら、素直に喜んでいるお靜はとても可愛い、と思う。
「さあて、次は何処を掃除すっかねえ」
手桶の中に汚れた雑巾を突っ込み、じゃばじゃばと水音を立てながら、冷たい水で汚れを落とす。もう既に渡廊を三本、主殿の廊下を一回り、それから広々とした池に住まう錦鯉にも餌をやったし、庭の掃き掃除も一部分とはいえ終えている。あとは何処を――と、そう思案を巡らせていると、ふいに、嗅ぎ慣れた匂いがふわりと鼻先を掠めた。まろやかな甘みを含んだ、上品な、あたたかみのある薫り。白檀――と気付いた刹那、それまで手荒に雑巾を洗っていたお靜の手が、ぴたりととまった。まるで呼吸までも呑み込んでしまったみたいに。
「――掃除は遊びではないぞ」
唐突に背後から飛んできた声に、千代までもびくりと身体を震わせる。恐る恐る振り返れば、そこには呆れ顔――のような、怒ってもいるような顔――の葛ノ葉が、両腕を組んで仁王立ちしていた。
「遊び半分でやってなきゃ、こんなだだっ広い邸の掃除なんか出来ませんよ」
相手が葛ノ葉だからだろうか。比較的――千代や菊野に比べて、だが――整った口調ではあるけれど、その声や言葉の端々に、明らかに刺々しいものが含まれているのを、千代は感じ取る。無論、それは葛ノ葉もまた、容易に察しているだろう。ほんの僅か、彼の片眉がひくりと反応をするのを、千代は見逃さなかった。
――仲が悪い、というわけではないのですよ。ただまあ、昔色々とありましてねえ。
立ち上がりざま振り向いたお靜と、そんな彼女を半ば睨め付けるように見据える葛ノ葉を交互に見遣りながら、千代は昨夜炊事の手伝いをしながら聞いた、菊野の言葉を思い出す。皺の刻まれた顔に、なんとも遣る瀬無さそうな苦笑が浮かんでいたのを見て、何があったのかを問うのは、流石に憚られたけれど。
「で、何か用ですか。こんな所までわざわざ出向いてくるなんて」
「べつに、お前に用はない」
「へいへい。そんなの百も承知ですとも」
雑巾を握っていない方の手をひらひらと振り、お靜は厭味ったらしく肩を竦めた。けれどそんな彼女の態度に一々反応を示すことなく、葛ノ葉は彼女の隣で身を固める千代へと目を向けた。冷淡でありながら美しい、薄紫色の瞳。吹き抜けた風に、彼の艷やかな白銀の髪の毛がふわりと揺れる。
「夜彌様より、千代様に妖都をご案内するよう言い付かっております」
「妖都を……でしょう、か?」
そういえば、まだ邸の中でしか過ごしたことはなく、妖都に出たことはなかった。夜彌が治める、広大なあやかしの都――。葛ノ葉とふたりというのは、少し怖く、不安ではあるけれど。人の世のそれとはまるで違うのかもしれない都の姿を見られると思うと、なんだか胸が躍った。
「あの……お忙しいところ、ありがとうございます!」
「……では、四半刻後に鳳凰門で」
素っ気なくそれだけ告げて踵を返す背中に、お靜がべえ、と舌を出す。その刹那、白銀の髪から覗く狐の耳がぴくりと動いた気がしたのは――きっと見間違いだろうと思いたかった。
書面に走らせていた筆をとめ、夜彌はどこか楽しそうにひょいと片眉を上げながら、肩越しに葛ノ葉を振り返った。すっかり定位置となった座布団の上に、彼は相も変わらず背筋を伸ばして、律儀に座っている。窓辺に据えられた文机の前に腰を下ろす夜彌を、真っ直ぐにじっと見つめたまま。その瞳に、不満というよりも物言いたげな色が滲んでいるように見て取れ、夜彌はくすりと口の端を上げる。
「千代の好きにさせて構わない」
「お言葉ですが、彼女は由緒正しい鵺の一族の奥方です。それを自覚し、相応の振る舞いをしてもらわねばなりません」
険のある口調に、夜彌は硯の縁に筆を擱き、文机の正面に設けられた窓の外へと目を向けた。蓮の形を模した花頭窓。その奥にはこの邸では珍しく、二重露地を模した庭が広がっている。杉皮屋根の竹簀戸、形の様々な飛び石、精巧な造りの美しい春日灯籠や雪見型灯籠、小ぶりな鹿威しの設けられた手水鉢。とはいえ、近くに茶室はない。数代前の当主が、風変わりな趣向を凝らして造り上げたものだ。
「彼女が何かをしたい、と自ら申し出たのは、これが初めてだろう?」
かぽん、と鹿威しの立てる小さな音を聞くともなく聞きながら、夜彌はそっと目を細める。萎縮し、よく謝る女だ、と思った。昔は――といっても、数百年も昔のことだけれど――そんなふうではなかったけれど。しかし、いきなり怪しげな猿面の男に井戸へ突き落とされ、目覚めた時には人の住まわぬ世界にいた――となれば、誰しもそうなるものだろう。お靜のような、よほど肝の据わった者でなければ。
そんな千代が、漸く自ら望みを口にしてくれた。もちろん、昨夜の灯りはそれとして、ではあるけれど。灯りを分けてほしいと言うのと、お靜を頼ってまで雑事に勤しみたいと言い出るのには、それなりの迷いと覚悟、それから勇気が要ったのは想像に難くない。あやかしばかりのこの場所で、彼女は誰に急かされるでもなく、自ずから一歩を踏み出そうとしていることが窺え、夜彌はそれが嬉しく、そして愛らしく思えた。
「甘やかし過ぎではありませんか」
呆れを含んだ溜息が漏れ、夜彌はくつくつと喉を鳴らし、肩越しにちらりと葛ノ葉へ目を戻す。
「甘やかして何が悪いというんだ?」
「新婚の浮かれ、というものでしょうか」
「お前の口から、そのような言葉が出ようとは思わなんだ」
戯けたように首を傾けつつも、真剣さを滲ませた口調に、無論葛ノ葉が気付かぬはずもなく。彼はやれやれと言いたげに肩を竦めると、肩に垂れた髪の毛を邪魔そうに片手で払い除けた。
「甘やかしたくもなる」
書き終えた書状を丁寧に折り畳み、夜彌は徐に腰を上げて、花頭窓の外へ何となしに目を向ける。開け放たれた窓から流れ込む、初夏の気配を含んだ健やかな匂い。内腰掛の傍に、梔子の花が群れを成して咲いている。無垢な白い花弁を開かせた、甘く濃厚な、それでいて上品な薫り。
今でも、ふとした瞬間に思い出す。気を緩めた時に、決まって。あの冷たく乾いた感触を、腕に抱いた時の儚い重さを。記憶だけではなく、皮膚や骨の髄にまで、兎も角身体のそこかしこに、それは残っているのだ。逃げようとしても、逃げられない。忘れようとしても、忘れられない。逃げたくない。忘れたくない。だから――。
「今度こそ」
そこで一度言葉を区切り、夜彌はひとつゆっくりと瞬いて、穏やかな風に揺れる梔子の花をじっと見つめた。
「幸せにしたいんだ」
そっと微笑みながら振り返ると、真剣な――どちらかといえば険しい――表情の葛ノ葉と目が合った。すっと僅かに細められた、胸の内を見透かすかのような、薄紫色の瞳。何事にもはいはいと頷かず、鵜呑みにもせず、必ず一歩立ち止まって、真意を探るようなところが、しかし夜彌は嫌いではなかった。寧ろだからこそ、彼を誰より一番信頼しているといっても過言ではない。
そんな葛ノ葉の相貌を真っ直ぐに見つめ、夜彌は微かに笑みを深めた。
「――俺はもう二度と、彼女を失いたくない」
▽
雑舎近くの井戸から汲み上げた水を手桶いっぱいに満たし、それをせっせと廊下まで運んで、真新しい雑巾を浸して力いっぱい絞る。お靜に聞いたところによれば、掃除の基本は現世でも幽世でも変わらないらしい。掃く、拭く、払う。先ずは障子や襖を開け放ち、新鮮な空気を取り入れてから、叩きで埃を落とす。それから茶殻を畳に撒いて箒で掃き、最後に板の間や廊下を雑巾がけする。
てっきり作法が違うのだろうと思っていたのだけれど、どうやらどれも身に染み付いた慣れた作業で、千代はほっと安堵する。これなら足手纏いにならなくて済みそうだ。
菊野の口添えにより、葛ノ葉から雑事の手伝いの許可が下りたのは、意外にもすぐのことだった。恐らくは葛ノ葉というより、夜彌の裁可によるものなのだろうけれど。狐火の件と併せて、葛ノ葉に礼を込めて頭を下げると、なんとも渋い顔をされてしまった。眉間に皺を深く寄せ、僅かに片眉を持ち上げて。やはり、どうやらまだ気を許してくれてはいないらしい。――誰より夜彌の近くにいる立場なのだから、何処の馬の骨とも分からぬ人間を怪しみ、警戒するのは尤もだろうけれど。
「千代ー! どっちが先に向こう側まで行けるか、競争しないかい!」
雑巾を握った手をぶんぶんと左右に振りながら声をかけてきたお靜に、千代は満面の笑みを浮かべながら顔を縦に振る。――理由も分からず、猿面の男に井戸の中へ突き落とされてから、早四日。葛ノ葉は兎も角、お靜や菊野とはとても上手く関係を築けていると思う。それが一方的な勘違いでなければ、良いのだけれど。
お靜の立っている渡廊の端まで歩み寄り、雑巾を握った両手を床について、四つん這いのような恰好で前のめりに身を低くする。葛ノ葉や菊野に見つかれば叱られそうな気がしたが、掃除を楽しくやるのも悪くはない。
渡廊の端に並び、お靜の合図と共に、一斉に駆け出す。もちろん、雑巾は床にしっかりと押し付けて、“拭く”という行為は疎かにしない。そのせいか時々躓きそうになり、先をゆくお靜に少しばかり遅れをとってしまった。常習犯なのか、彼女の身のこなしは、速さがあっても随分とこなれている。
結局、突き当りの終点に一番乗りで辿り着いたのは、お靜だった。腰を上げ、嬉しそうに片手を突き上げる彼女に、千代は肩を竦めながら、それでもくすりと笑う。可愛いな、と思った。あやかしなのだから、遥か長く生きているだろう彼女に対して、そう表現するのは如何なものだろうけれど。それでも、雑巾がけの競い合いで笑顔を弾けさせながら、素直に喜んでいるお靜はとても可愛い、と思う。
「さあて、次は何処を掃除すっかねえ」
手桶の中に汚れた雑巾を突っ込み、じゃばじゃばと水音を立てながら、冷たい水で汚れを落とす。もう既に渡廊を三本、主殿の廊下を一回り、それから広々とした池に住まう錦鯉にも餌をやったし、庭の掃き掃除も一部分とはいえ終えている。あとは何処を――と、そう思案を巡らせていると、ふいに、嗅ぎ慣れた匂いがふわりと鼻先を掠めた。まろやかな甘みを含んだ、上品な、あたたかみのある薫り。白檀――と気付いた刹那、それまで手荒に雑巾を洗っていたお靜の手が、ぴたりととまった。まるで呼吸までも呑み込んでしまったみたいに。
「――掃除は遊びではないぞ」
唐突に背後から飛んできた声に、千代までもびくりと身体を震わせる。恐る恐る振り返れば、そこには呆れ顔――のような、怒ってもいるような顔――の葛ノ葉が、両腕を組んで仁王立ちしていた。
「遊び半分でやってなきゃ、こんなだだっ広い邸の掃除なんか出来ませんよ」
相手が葛ノ葉だからだろうか。比較的――千代や菊野に比べて、だが――整った口調ではあるけれど、その声や言葉の端々に、明らかに刺々しいものが含まれているのを、千代は感じ取る。無論、それは葛ノ葉もまた、容易に察しているだろう。ほんの僅か、彼の片眉がひくりと反応をするのを、千代は見逃さなかった。
――仲が悪い、というわけではないのですよ。ただまあ、昔色々とありましてねえ。
立ち上がりざま振り向いたお靜と、そんな彼女を半ば睨め付けるように見据える葛ノ葉を交互に見遣りながら、千代は昨夜炊事の手伝いをしながら聞いた、菊野の言葉を思い出す。皺の刻まれた顔に、なんとも遣る瀬無さそうな苦笑が浮かんでいたのを見て、何があったのかを問うのは、流石に憚られたけれど。
「で、何か用ですか。こんな所までわざわざ出向いてくるなんて」
「べつに、お前に用はない」
「へいへい。そんなの百も承知ですとも」
雑巾を握っていない方の手をひらひらと振り、お靜は厭味ったらしく肩を竦めた。けれどそんな彼女の態度に一々反応を示すことなく、葛ノ葉は彼女の隣で身を固める千代へと目を向けた。冷淡でありながら美しい、薄紫色の瞳。吹き抜けた風に、彼の艷やかな白銀の髪の毛がふわりと揺れる。
「夜彌様より、千代様に妖都をご案内するよう言い付かっております」
「妖都を……でしょう、か?」
そういえば、まだ邸の中でしか過ごしたことはなく、妖都に出たことはなかった。夜彌が治める、広大なあやかしの都――。葛ノ葉とふたりというのは、少し怖く、不安ではあるけれど。人の世のそれとはまるで違うのかもしれない都の姿を見られると思うと、なんだか胸が躍った。
「あの……お忙しいところ、ありがとうございます!」
「……では、四半刻後に鳳凰門で」
素っ気なくそれだけ告げて踵を返す背中に、お靜がべえ、と舌を出す。その刹那、白銀の髪から覗く狐の耳がぴくりと動いた気がしたのは――きっと見間違いだろうと思いたかった。



