奴延鳥の一途婚 〜生贄として捨てられた花嫁は、最強のあやかし当主に『最愛の番』として溺愛される〜

 もちろん、という強い意志を込めて頷けば、お靜は呆れたように頭上を振り仰いだ。今にも溜息が漏れそうに開かれた唇は、けれどすぐに噤まれ、その代わり、彼女の眉間に刻まれた皺が一層濃くなる。

 それもそのはずだ、と思いながら、けれど千代は一歩も引かぬ態勢で、お靜の顔を一心に見つめ続けた。彼女の戸惑いは分かるし、もし立場が違えば、同じ様に途方に暮れただろう。しかし、それでも引き下がるわけにはいかなかった。此処で諦めるわけには、どうしても。何故なら、“働かざる者食うべからず”なのだから。

「まあ、此処は万年人手不足だからねえ。あんたが手伝ってくれるってんなら、あたしは助かるんだけど。おばばが何て言うか」
「おばば……?」
「女中頭の山姥だよ。邸の一切合切を取り仕切ってる、えらーい婆さんだ」

 そう言って、お靜は溜息とともに視線を千代へ戻した。庇に僅かばかり遮られた陽射しが、吹前髪で曝け出された白い額を半分照らしている。

「取り敢えず、おばばんとこに行くかね。あたしが勝手に決めるわけにはいかないし」

 盥を抱え直し、お靜は後についてくるようにと視線だけで告げると、そのまま颯爽と踵を返して、相も変わらず大股で歩き出した。ずんずんと渡廊を進んでゆく背中を、千代は慌てて小走りに追いかける。

 雑舎へ向かう道中も、梅の木や遣水、短く刈られた灌木と擦れ違うことこそあれど、使用人と思しきあやかしと出くわすことは、不思議なほどなかった。それどころか、何処を歩いても、誰の気配もしない。たんに千代が人間であるせいで、あやかしのそれを感じ取れないという可能性も否めはしないけれど。しかし、お靜もまた反応を見せることはなく、そしてそれがまるで“当然のこと”であるかのように、気にする素振りもない。

 まさか、此処にはほんの僅かな住人しかいないのだろうか。夜彌と葛ノ葉、お靜におばば、そして幾人かの門番たち――。邸は途方もなく――全貌が全く掴めないほど――広く大きいというのに。あまりに少なすぎではないだろうか。

「あの……こんなことをお訊きするのは、失礼かもしれないのですけど」

 小さな間を置いて、千代は辺りを見渡しながら言葉を探す。そんな千代を横目で一瞥し、何を言い淀んでいるのかを見て取ったのか、お靜は苦く笑いながら肩を竦めた。

「誰も見かけない、って言いたいんだろ? こんなだだっ広い邸なのに」
「え、ええ……」
「そもそも此処に住んでる奴は、両の指で足りるくらいしかいないんでね。雑舎以外は、殆ど閑散としたもんさ。まあ雑舎だって、炊事の時分以外は誰もいやしないけど」

 そんな会話をしながら渡廊をふたつほど通り過ぎ、漸く北対の奥に広がる雑舎に足を踏み入れる。造りこそ、東対や西対に比べて簡素であるものの、とはいえ古びた様子はまるでない。東西に伸びた廊下には、左右どちらの壁にも等間隔で部屋が並び、無垢材で出来た舞良戸が嵌め込まれている。

 何故、こんなにも大きな邸に――。そう疑問に思うけれど、問いかける暇はどうやらないようで、丁字路のすぐ傍にある部屋の前で足をとめたお靜は、抱えていた盥を床に置くと、雑な手つきで戸を開け放った。

「おばば! いるかい!」

 どうやらそこは厨であるらしく、舞良戸の先は広々とした板の間が広がり、その奥には大きな竈の設えられた土間がある。陶磁器で出来た大きな甕、幾つも重ねられた籐や竹編みの籠、何かを煮ているのか仄かに湯気をたてる鉄鍋。穏やかな陽射しの差し込む無双窓の手前には壁に沿うようにして流しが配され、そこに、襷掛けをした小さな背中があることに千代は気付く。団子状に結われた白鼠色の髪の毛、お靜と同じ梅色の着物、しかし彼女とは違って丁寧に太鼓結びにされた海松色の帯。

「おばば! 聞こえてんのか! 遂に耳が遠くなっちまったんじゃないだろうね!」
「お黙り! そんな叫ばずとも聞こえてるよ!」

 お靜に負けず劣らずの大きな怒鳴り声が厨全体に響き渡り、刹那、猛然と振り向いた老婆の姿に、千代はぎょっとする。まるで般若の面のように歪んだ相貌、睨め付けるだけで射殺せるのではないかと思うほどの鋭い眼光。そして何より、右手に握られた出刃庖丁。彼女の背後には僅かに、砥石の端が見える。

 山姥――。お靜の言葉が、ふと脳裏を過ってゆく。幼い頃に読んだ草子にも、似たような絵が描かれていなかっただろうか。家に泊めた旅人を、夜な夜な研いだ庖丁で捌いて食い殺すという伝承が――。

 千代がこくりと固唾を呑むのと、老婆の視線が千代を捉えたのは、殆ど同時だった。嫌に思い出してしまった伝承のせいも相俟って、どきりと心臓が跳ね上がり、千代は身を竦ませる。しかし、“おばば”と呼ばれた彼女はほんの僅か目を見開かせると、すぐに相好を崩して、「まあ!」と嬉しげな声を上げた。そのかんばせにはもう、あの般若の面影はまるでない。

「奥方様ではございませんか!」

 庖丁をまな板の上に置き、老婆は萌葱色の瞳を輝かせながら嬉々と歩み寄ってくる。その様子は、草子に描かれていた身の毛もよだつ人食い山姥のそれではなく、なんとも温厚そうな媼(おうな)のそれで、千代は思わず面食らう。先ほどの、あの般若のような形相は、果たして見間違いだったのだろうか。

 けれど、そう思いかけたのも束の間、老婆はきりりと目の端を吊り上げると、飛び上がりざまに、お靜の頭を容赦なくぴしゃりと叩いた。

「あんたは何やってんだい! こんなところに奥方様を連れてきたりして!」
「いってぇ! いきなり叩くこたあないだろ! あたしはただ頼まれただけだってえのに!」
「嘘をつくんじゃない!」
「あ、あのっ! 本当に、私がお靜さんに頼んだのです!」

 どうやらお靜が勝手に連れてきたと勘違いしているらしい。そう察した千代は慌てて口を挟み、お靜を庇うように、老婆の前に立ちはだかった。皺の刻まれた目元が忽ち驚愕を滲ませ、まん丸とした萌葱色の瞳が千代をじっと見上げる。本当なのか、と問いたげなその視線に、千代は苦笑をこぼしながらひとつ頷いた。僅かに垂れた瞼が、ぱちぱちと大きく瞬く。

「そりゃあ……一体どうなさったんです? 何かご不便でもございましたか? まさか、お靜がとんだご迷惑を……」
「なーんで、あたしなんだよ」
「あんたは日頃の行いを顧みるこったね!」

 これではまた言い合いが始まりそうだ、と、千代は眉尻を下げながら、胸の内でそっと溜息をこぼす。仲が悪いわけではないのだろうけれど。

 それにしても、此処はとても賑やかだ。充てがわれた部屋のある東対や、北対へ来る途中に通った幾つもの廊下や反渡殿とは、まるで違う。誰かがいるから、というより、このふたりだからだろうか。

 決して楽しく言い合っているわけではないのだけど。しかし、なんだか孫と祖母がじゃれ合っているように見え、千代は交互に飛び交う言葉を聞きながら、つい吹き出してしまった。そのまま堪えきれずにくすくすと笑えば、きょとんと目を瞬かせた老婆と視線が交わる。背後でも、お靜が間の抜けたような表情をしているだろうことが、気配で感じ取れた。恐らくは、解せない、と思っているだろうことも。

「すみません。とても賑やかだったもので」
「これはこれは、なんとお恥ずかしいところを……。ああ、そういえば、まだ名を申しておりませんでしたね。わたくしとしたことが、とんだご無礼を」

 恥じ入るように微笑みながら居住まいを正し、そうして老婆はしなやかな身のこなしで深々と頭を下げた。

「女中頭を務めております、菊野と申します。皆、“おばば”と呼んでおります故、奥方様も気兼ねなくそう呼んでいただけますと、嬉しゅうございます」
「ご丁寧に、ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えて……おばば様、実はお願い事がありまして、お靜さんに案内いただいたのです」
「お願い事、でございますか? はて、それはどのような」

 ひょいと柳眉を上げながら、菊野は小首を傾げる。そんな彼女の疑問に答えたのは、千代ではなくお靜だった。

「雑事を手伝いたいんだってさ」

 そう言いながら、彼女は千代の肩に腕を回し、くつりと笑う。しかし、そんなお靜の態度よりも、彼女の紡いだ言葉の方がよほど衝撃的だったのか、信じられないことを聞いた、とでもいうように菊野は目を白黒させ、それから大仰に身体を仰け反らせた。

「まあまあ、なんてことを! 奥方様にそんなことはさせられません!」
「向こうに居た頃は、日がな一日働き詰めで……身体を動かしていないと、どうにも落ち着かないのです。ですから、何かお役に立てることがあれば、と」
「そう仰られましても……わたくしめには判じかねることでございまして……。夜彌様か、葛ノ葉様にお伺いをしなければ、なんとも」
「あたしは嫌だよ。あの狐野郎んとこに行くのは」

 きっぱりとそう言い放ち、お靜は肩に回した手を、そのままひょいひょいと払うように動かす。どうやら本当に嫌っているらしい。確かに、冷静沈着で神経質そうな葛ノ葉と、快活で大雑把なところのあるお靜とでは相性が悪いだろうことは、分からなくもなかった。

「兎も角、わたしめが責任を持って葛ノ葉様にお伺いしてきます故、少しの間お待ちいただけますでしょうか」