働かざる者食うべからず、という諺がある。
千代は襖の前を行ったり来たりしながら、その言葉を胸の内で幾度も繰り返す。いち文字いち文字を、意識の指先でなぞるように。働かざる者、食うべからず。それは浮かんでは消え、浮かんでは消える度、少しずつ輪郭を描くように、朝餉の様子を頭の中にありありと蘇らせる。
所々に螺鈿の施された、朱漆塗りの美しい御台盤。その上に並べられた、形も大きさも異なるたくさんの皿や椀や鉢。魚も肉も野菜も均しく使われた料理はどれも逸品で――けれど、どんな味だったのかまでは、はっきりと憶えてはいなかった。何しろひどく緊張していたせいで。
鏡台の前で足をとめ、曇りひとつなく磨き上げられたそれに映る自身の姿を、千代は食い入るようにじっと見つめる。淡い藤色の布地に、繊細な桔梗の絵柄が染め付けられた、上質な着物。やわらかな白色の帯には、まるで帯留めの位置で羽休めをするかのように、銀糸の蝶が刺繍されている。
いつも着ていた質素な着物――着古したせいで布地は薄くなり、袖も丈も短く、継ぎ接ぎだらけだった――とは、反物から仕立てまで、何もかもが明らかに違う。そのことに改めて恐々としながら暫しの間矯めつ眇めつし、やがて千代は深々と溜息を吐き出して、ゆっくりと天井を仰いだ。
恵まれすぎている、と思う。丁重に扱われすぎている、とも。それに申し訳なさや気まずさを感じるのは、そういった生活に、たんに慣れていないせいなのだろうか。粟や稗、芋で嵩増しのされていない米や、箸を入れればすぐに身が解れるほどふっくらとした魚や、正絹で仕立てられたなめらかな肌触りの着物や、綿のたっぷりと詰め込まれた清潔な匂いのする布団や。そういったものが、いつかは“当たり前”になるのだろうか。人の世にいた頃とは、全く真逆の暮らしに――。
それは果たしてどうなのだろう。鏡台の前を離れ、肘掛窓を開けて日盛りの庭を眺めながら、千代は思う。何の取り柄もこなせることもなく、ただ邸の主が選んだ“花嫁”というだけで、かくも過分な厚遇を享受するだけというのは、如何なものだろう。することもなく、ただぼうっと庭を見ているだけの人間より、今この時も働き回っている女中たちや、門前に詰める見張り番の者たちの方が、よほど夜彌の為に役立っている。そうだというのに、こんなに良い着物を与えられ、豪華な食事を供されるのは、やはりどうしても後ろめたくてたまらない。
それに――。澄んだ蒼穹を見上げ、天高いところから燦々と陽射しを降らせる日輪に、千代はそっと目を細める。それに、どうもそわそわとして、身体も心も落ち着かない。向こうにいた頃は、朝から晩まで働き詰めだった。母の看病、洗濯や炊事や掃除、更には針仕事から畑仕事まで。休みというものを、まともにとった憶えが殆どない。だからだろうか。“何もしない”というのが、どうにもしっくりこない。
働かざる者、食うべからず――。
ぱんっ、と両手で頬を叩き、千代は開いたばかりの障子を閉め、決然とした足取りで部屋を出た。真昼だというのに廊下には誰の姿もなく、気配に乏しい。時折、何処からともなく小鳥の囀りが聞こえてくる程度の静謐な廊下を、千代は渡殿の方へ向かって進んでゆく。昨日、葛ノ葉に邸の見取り図を教えてもらいはしたけれど、あまりに広すぎて、北対の奥に厨と厠、それから使用人たちの住まいや詰所があることしか憶えていない。
とはいえ、雑舎に行けば、誰かしらに会えるだろう。幾つかの渡廊を過ぎ、せせらぎの響く反渡殿を通り、本能的な方向感覚だけを頼りに広々とした邸を右へ左へと歩む。吹き抜けの回廊に囲まれた中庭には、小ぶりの藤棚があった。此処は本当に様々な草花たちが豊かに茂っている、と、垂れ下がる紫色の花房を横目に歩きながら、千代は感心する。野放図というわけではなく、きちんと手入れの行き届いた、活き活きとした植物たち。
北対へと繋がる渡廊に差し掛かったところで漸く、千代は見覚えのある後ろ姿に出くわした。梅色をした木綿の小袖、白い元結紙で結われた長い黒髪。輪の形にまとめられた毛先には、透かし彫りの簪が結び目を留めるように挿されている。
「あの!」
勇気を振り絞って声をかけると、大股で歩いていた彼女ははたと立ち止まり、訝しげな顔をして振り向いた。袖口から伸びる白い腕には、拭き布がこんもりと積まれた大きな盥が抱えられている。
「あっ! あんた!」
千代のかんばせを見るなり、女――お靜は頓狂な声を上げて目を大きく見開いた。その瞳孔は、瞠ってもなお細長く、それは昼間の猫というより、どちらかといえば蛇の瞳によく似ている。思えば、簪に施された透かし彫りも、蛇の形を模していた。
「やばっ……あー、えっと。何か御用でしょうか、奥方様」
昨日はあんなにも大胆で、怒っているようにも聞こえる――実際苛立ってはいたのだろうけれど――砕けた物言いをしていたというのに。夜彌が“花嫁”と宣言――しかも彼女の目の前で――したからだろうか。お靜は急に態度を改めると、化粧っ気のない瓜実顔に澄ました表情を浮かべ、恭しく頭を下げた。そんな彼女に、千代は慌てて口を開く。
「や、やめてください! そのように畏まられては、困ります……!」
「なにを仰いますか。貴方様は、お館様の奥方でしょうに」
奥方――。はっきりと告げられたそのひと言が、耳の中に何度もこだまする。聞き慣れない、馴染みのない言葉として。抵抗を感じるというより、呑み込めないのだ。自分事ではない、と、一夜明けた今でも――昨夜あんなふうにやさしく触れられた後でさえ――思ってしまう。
困り果てた千代は、少し高い位置にある鳶色の瞳をそろりと上目で見つめながら、小さく苦笑をこぼす。
「昨日と同じ様に接して頂けると、とても嬉しいのですけど……。私のことを奥方だと思ってくださるのでしたら、どうかその願いを、聞いてはいただけませんでしょうか」
立場を利用するのは、あまり好きではないけれど。しかし、へんに恭敬されるよりかはよほど良い。傅かれるほど偉い立場にあるわけでもなければ、何か特別な力があるわけでもないのだから。ただの居候、或いは使用人のひとりと扱われる方が、ずっと気が楽だ。
お靜は眉根を寄せ、険しい面持ちで暫く考え込んでいたものの、やがて腹の底からたっぷりと息を吐き出し、千代の肩をぽん、と軽く叩いた。さっぱりとして明るい、屈託のない笑みを顔いっぱいに浮かべて。
「まあ、あんたがそう言うんなら、お言葉に甘えるとしようかねえ」
更にもう一度、ぽんぽん、と肩を叩かれ、千代はその快活さに毒気を抜かれ、思わずたじろぐ。
「しっかし、あんたのおかげで助かったよ。あんたがお館様の“花嫁”に選ばれたおかげで、叱られずに済んだからさあ」
曰く、お靜が本来案内する予定だった“花嫁候補”は、土壇場になって邸を抜け出したらしい。恐らくは、恋仲だった男と駆け落ちをしたのだろう、というのがお靜の見解で、兎も角そんなことが起こってしまった以上、監督不行き届きとして咎めを受けるところだったという。
「まあ、あの狐野郎に小言をもらっちまったけど、お館様が取り成して下さったもんでね。いやあ、本当に助かったよ、千代」
明らかにこの邸で、夜彌に次ぐ立ち位置にあるのであろう葛ノ葉を、“狐野郎”と言ってのける彼女の豪胆さに呆気に取られつつ、でも、彼女のそういう裏表のなさそうな、竹を割ったような性格は嫌いではない、と思った。不思議と親しみを感じる、とも。偶然とはいえ、この邸で最初に出会ったのがお靜だったのは幸運だったのかもしれない。
「それにしても、こんな所で何してんだい?」
突然首を傾げられ、千代はぱちりと目を瞬かせる。束の間、忘れてしまっていたのだ。何故意を決して部屋を出てきたのかを。思い出した刹那、千代はにっこりと満面の笑みを湛え、そうして勢いよくお靜の方へと身を乗り出した。胸の前で両手を握り締め、鳶色の瞳をじっと見つめて。
「何か私に、お手伝い出来ることはありませんでしょうか?」
縋り付くように更に距離を縮めると、まるで気圧されたように表情を引き攣らせ、お靜は身を仰け反らせた。
「て、手伝い……?」
「はい! 掃除でも洗濯でも、畑仕事でも、何でも構いません!」
兎も角、真剣さが大事だ。本心でそう願っていることを伝える為に。だから、声も瞳も真っ直ぐに、出来うる限りの切実さを滲ませながらそう訴えると、お靜は間の抜けたように目を丸くし、それから大仰に眉を上げて、ひっくり返った声で叫んだ。
「はあ!? あんた正気かい!?」
千代は襖の前を行ったり来たりしながら、その言葉を胸の内で幾度も繰り返す。いち文字いち文字を、意識の指先でなぞるように。働かざる者、食うべからず。それは浮かんでは消え、浮かんでは消える度、少しずつ輪郭を描くように、朝餉の様子を頭の中にありありと蘇らせる。
所々に螺鈿の施された、朱漆塗りの美しい御台盤。その上に並べられた、形も大きさも異なるたくさんの皿や椀や鉢。魚も肉も野菜も均しく使われた料理はどれも逸品で――けれど、どんな味だったのかまでは、はっきりと憶えてはいなかった。何しろひどく緊張していたせいで。
鏡台の前で足をとめ、曇りひとつなく磨き上げられたそれに映る自身の姿を、千代は食い入るようにじっと見つめる。淡い藤色の布地に、繊細な桔梗の絵柄が染め付けられた、上質な着物。やわらかな白色の帯には、まるで帯留めの位置で羽休めをするかのように、銀糸の蝶が刺繍されている。
いつも着ていた質素な着物――着古したせいで布地は薄くなり、袖も丈も短く、継ぎ接ぎだらけだった――とは、反物から仕立てまで、何もかもが明らかに違う。そのことに改めて恐々としながら暫しの間矯めつ眇めつし、やがて千代は深々と溜息を吐き出して、ゆっくりと天井を仰いだ。
恵まれすぎている、と思う。丁重に扱われすぎている、とも。それに申し訳なさや気まずさを感じるのは、そういった生活に、たんに慣れていないせいなのだろうか。粟や稗、芋で嵩増しのされていない米や、箸を入れればすぐに身が解れるほどふっくらとした魚や、正絹で仕立てられたなめらかな肌触りの着物や、綿のたっぷりと詰め込まれた清潔な匂いのする布団や。そういったものが、いつかは“当たり前”になるのだろうか。人の世にいた頃とは、全く真逆の暮らしに――。
それは果たしてどうなのだろう。鏡台の前を離れ、肘掛窓を開けて日盛りの庭を眺めながら、千代は思う。何の取り柄もこなせることもなく、ただ邸の主が選んだ“花嫁”というだけで、かくも過分な厚遇を享受するだけというのは、如何なものだろう。することもなく、ただぼうっと庭を見ているだけの人間より、今この時も働き回っている女中たちや、門前に詰める見張り番の者たちの方が、よほど夜彌の為に役立っている。そうだというのに、こんなに良い着物を与えられ、豪華な食事を供されるのは、やはりどうしても後ろめたくてたまらない。
それに――。澄んだ蒼穹を見上げ、天高いところから燦々と陽射しを降らせる日輪に、千代はそっと目を細める。それに、どうもそわそわとして、身体も心も落ち着かない。向こうにいた頃は、朝から晩まで働き詰めだった。母の看病、洗濯や炊事や掃除、更には針仕事から畑仕事まで。休みというものを、まともにとった憶えが殆どない。だからだろうか。“何もしない”というのが、どうにもしっくりこない。
働かざる者、食うべからず――。
ぱんっ、と両手で頬を叩き、千代は開いたばかりの障子を閉め、決然とした足取りで部屋を出た。真昼だというのに廊下には誰の姿もなく、気配に乏しい。時折、何処からともなく小鳥の囀りが聞こえてくる程度の静謐な廊下を、千代は渡殿の方へ向かって進んでゆく。昨日、葛ノ葉に邸の見取り図を教えてもらいはしたけれど、あまりに広すぎて、北対の奥に厨と厠、それから使用人たちの住まいや詰所があることしか憶えていない。
とはいえ、雑舎に行けば、誰かしらに会えるだろう。幾つかの渡廊を過ぎ、せせらぎの響く反渡殿を通り、本能的な方向感覚だけを頼りに広々とした邸を右へ左へと歩む。吹き抜けの回廊に囲まれた中庭には、小ぶりの藤棚があった。此処は本当に様々な草花たちが豊かに茂っている、と、垂れ下がる紫色の花房を横目に歩きながら、千代は感心する。野放図というわけではなく、きちんと手入れの行き届いた、活き活きとした植物たち。
北対へと繋がる渡廊に差し掛かったところで漸く、千代は見覚えのある後ろ姿に出くわした。梅色をした木綿の小袖、白い元結紙で結われた長い黒髪。輪の形にまとめられた毛先には、透かし彫りの簪が結び目を留めるように挿されている。
「あの!」
勇気を振り絞って声をかけると、大股で歩いていた彼女ははたと立ち止まり、訝しげな顔をして振り向いた。袖口から伸びる白い腕には、拭き布がこんもりと積まれた大きな盥が抱えられている。
「あっ! あんた!」
千代のかんばせを見るなり、女――お靜は頓狂な声を上げて目を大きく見開いた。その瞳孔は、瞠ってもなお細長く、それは昼間の猫というより、どちらかといえば蛇の瞳によく似ている。思えば、簪に施された透かし彫りも、蛇の形を模していた。
「やばっ……あー、えっと。何か御用でしょうか、奥方様」
昨日はあんなにも大胆で、怒っているようにも聞こえる――実際苛立ってはいたのだろうけれど――砕けた物言いをしていたというのに。夜彌が“花嫁”と宣言――しかも彼女の目の前で――したからだろうか。お靜は急に態度を改めると、化粧っ気のない瓜実顔に澄ました表情を浮かべ、恭しく頭を下げた。そんな彼女に、千代は慌てて口を開く。
「や、やめてください! そのように畏まられては、困ります……!」
「なにを仰いますか。貴方様は、お館様の奥方でしょうに」
奥方――。はっきりと告げられたそのひと言が、耳の中に何度もこだまする。聞き慣れない、馴染みのない言葉として。抵抗を感じるというより、呑み込めないのだ。自分事ではない、と、一夜明けた今でも――昨夜あんなふうにやさしく触れられた後でさえ――思ってしまう。
困り果てた千代は、少し高い位置にある鳶色の瞳をそろりと上目で見つめながら、小さく苦笑をこぼす。
「昨日と同じ様に接して頂けると、とても嬉しいのですけど……。私のことを奥方だと思ってくださるのでしたら、どうかその願いを、聞いてはいただけませんでしょうか」
立場を利用するのは、あまり好きではないけれど。しかし、へんに恭敬されるよりかはよほど良い。傅かれるほど偉い立場にあるわけでもなければ、何か特別な力があるわけでもないのだから。ただの居候、或いは使用人のひとりと扱われる方が、ずっと気が楽だ。
お靜は眉根を寄せ、険しい面持ちで暫く考え込んでいたものの、やがて腹の底からたっぷりと息を吐き出し、千代の肩をぽん、と軽く叩いた。さっぱりとして明るい、屈託のない笑みを顔いっぱいに浮かべて。
「まあ、あんたがそう言うんなら、お言葉に甘えるとしようかねえ」
更にもう一度、ぽんぽん、と肩を叩かれ、千代はその快活さに毒気を抜かれ、思わずたじろぐ。
「しっかし、あんたのおかげで助かったよ。あんたがお館様の“花嫁”に選ばれたおかげで、叱られずに済んだからさあ」
曰く、お靜が本来案内する予定だった“花嫁候補”は、土壇場になって邸を抜け出したらしい。恐らくは、恋仲だった男と駆け落ちをしたのだろう、というのがお靜の見解で、兎も角そんなことが起こってしまった以上、監督不行き届きとして咎めを受けるところだったという。
「まあ、あの狐野郎に小言をもらっちまったけど、お館様が取り成して下さったもんでね。いやあ、本当に助かったよ、千代」
明らかにこの邸で、夜彌に次ぐ立ち位置にあるのであろう葛ノ葉を、“狐野郎”と言ってのける彼女の豪胆さに呆気に取られつつ、でも、彼女のそういう裏表のなさそうな、竹を割ったような性格は嫌いではない、と思った。不思議と親しみを感じる、とも。偶然とはいえ、この邸で最初に出会ったのがお靜だったのは幸運だったのかもしれない。
「それにしても、こんな所で何してんだい?」
突然首を傾げられ、千代はぱちりと目を瞬かせる。束の間、忘れてしまっていたのだ。何故意を決して部屋を出てきたのかを。思い出した刹那、千代はにっこりと満面の笑みを湛え、そうして勢いよくお靜の方へと身を乗り出した。胸の前で両手を握り締め、鳶色の瞳をじっと見つめて。
「何か私に、お手伝い出来ることはありませんでしょうか?」
縋り付くように更に距離を縮めると、まるで気圧されたように表情を引き攣らせ、お靜は身を仰け反らせた。
「て、手伝い……?」
「はい! 掃除でも洗濯でも、畑仕事でも、何でも構いません!」
兎も角、真剣さが大事だ。本心でそう願っていることを伝える為に。だから、声も瞳も真っ直ぐに、出来うる限りの切実さを滲ませながらそう訴えると、お靜は間の抜けたように目を丸くし、それから大仰に眉を上げて、ひっくり返った声で叫んだ。
「はあ!? あんた正気かい!?」



