水槽からウニが急に飛び出してきたもんだから、潮(うしお)は後ろにころがって、そのまま失禁してしまった。自分の意思とは関係なくジョロジョロと流れる尿の感覚に慌てて、この状態をどう収束させようか考えたが、頭が真っ白になってしまって何も思い浮かばない。
ここから三キロメートルも離れている祖母の家まで走って帰るとしても、股の部分が濡れたズボンでは絶対に走りたくない。そんなことしたらこの街の笑いものである。しょんべん漏らし小走り小僧、みたいなヘンテコな名前を付けられて、行く先々で指をさされるのだろう。最悪な妄想をしていたら、後ろから声をかけられた。
「あの…、君大丈夫…?」
振り向くと、そこには泊海洋館の制服を着た男が立っていた。
「だ、大丈夫です!」
この状況で声をかけられるなんて本当に最悪だ。大丈夫と虚勢をはったものの、腰を抜かしたのかうまく立ち上がれない。
「いや、手伝うよ。って、あ…」
男はこちらの濡れたズボンを一瞥すると、何も言わずに潮の腕をとり、自分の肩に巻きつけた。
「立てる?バックヤードに着替えあるから、そこまで頑張って歩いて」
男に言われるがままに立ち上がり、潮は自分のパーカーの裾で濡れたズボンができるだけ見えないよう隠しながら歩いた。
潮が泊島に来たのは昨日のことだった。夏の間だけ、祖母の家に居候させてもらうことになった。ちょっとしたことがきっかけで不登校気味になってしまった自分を両親が心配して、夏の間だけでもリフレッシュしてきたらと、泊島に送り出したのだ。
東京にいる時もそうだが、泊島に行ったところでどうせ一人なのだから、場所を変えても何も変わらないだろう。そう半分不貞腐れながら準備をした。正直フェリーに乗っている時も、周りは旅客が多く、彼らの浮き足立ったような会話や雰囲気に耐えられずデッキに出た。その時、頬に強く当たる海風が思ったよりも心地よく、そうか確かに、たまには外に出てみるのも良いかもしれないと気持ちを切り替えた。
港に着くと祖母が待っていて「よくきたね、車、向こうに停めてるからちょっと歩くよ」と、潮の手を引いて車に案内した。祖母にとっての潮は、永遠に小さい孫なのだ。祖母より身長が頭一つ抜けた今でも、祖母は車通りの多い場所を通る時に手を握ってくれる。
祖母は今年で八十二歳。危ないから、八十歳までに早く免許を返納しなさいと父が説得を試みたが、東京に住んでいるあんたにはわからない、田舎では車がないとどこにもいけない、年寄り婆さんを孤独死させる気か。と祖母は聞かなかった。それどころか「そろそろ免許返納しようと思ってたところにソウが来たもんだから、また返納できなくなったねえ」と、潮の来島を言い訳に免許返納を先送りにするつもりである。
祖母の運転する車の助手席に乗りながら、久々に訪れる島の変わりようを窓から見ていた。
「ファミリーマートができたんだよ。開店初日はすんごい行列で。今も駐車場パンパン。ほれ、あそこ」
ファミリーマート、サイゼリヤ、スターバックス。数年前に来島した時はなかったチェーン店が街にちらほらある。自分が現実逃避のために来た泊島が、知り尽くした都会に侵食されているようで嫌な気分になった。
「なんか、嫌な感じ。泊島じゃないみたい」
ぽろっと潮がこぼすと、それは泊島に住んでいない人の意見だねえと祖母が言った。たしかに、今まで本土にしかなかったものが手軽に手に入るようになった当事者は、この島が栄えていくことをありがたく思うものだ。自分の知っているその環境が変わらないでいて欲しいと願うのは、当事者ではなくいつも部外者らしい。
街から少し離れたところにある祖母の家は、ちょうど海と山に挟まれた道路を車で走らせて辿り着く。海沿いの道路を通る時、海面が青く輝いていて、反射的に目を細めた。
「わあ」
「ああ、よかった、一週間前は土砂降りだったんだよ。一昨日からすごい晴れて。今日もいい天気で海が綺麗でしょう」
「うん、すごい綺麗」
海の横をしばらく走っていると、真っ白い屋根の、家にしては大きい、駐車場の広い建物が見えた。見たことがあるようなないような、思い出そうとしたがよく覚えていない。
「あれってなんだっけ」
「ああ、海洋館だよ。泊島海洋館。ソウが小さい頃にみんなで行ったでしょう。亀の餌やり体験したの、覚えてない?ソウがものすんごい泣いて。亀に手を食べられて、ふんぎゃあああああって海洋館全体に響き渡る声でさあ。あはは、思い出したら面白い。海洋館のスタッフが全員集まってきちゃって。その時の写真とか、見たことない?ソウが三歳くらいの時かなあ」
「覚えてない」
「明日行ってみるといいさ、自転車か、歩いてもいけるよ」
そう祖母に唆されて、早速、翌日から観光客のような浮かれ方をしていたら、ウニが飛んできて驚いて失禁してしまったというわけである。
「本当にすみません…。ウニが飛んできて…」
「ウニが飛んできて?」
「はい…。苦手なんです、ウニ…」
「それは申し訳ない、うちの生物たち、元気でよく脱走するから…。しょんべんも漏らすよな…。あ、ここバックヤード。入って」
バックヤードには物が散乱していたが人の気配はなく、潮はほっと一息ついた。「これ、着替えていいよ」と差し出されたのは泊島海洋館と書かれたジャージ一式だった。
「これ前のスタッフのだけど…。そこの着替えスペースで着替えて。俺、ここで見張ってるから」
「うわ…、本当にすみません…。必ずすぐに洗って返します」
「予備みたいなものだから急がなくていいよ。ほら、早く着替えな、不快でしょ、しょんべん」
しょんべんってあんまり言わないで欲しいなと思いつつ、親切ではあるので、すみません…と小声で謝り、着替えのために用意された間仕切りの向こうでジャージに着替えた。間仕切りの向こうから声が聞こえる。
「サイズどう?」
「ピッタリです。ありがとうございます」
「よかった。あ、そういえば君、泊島の人?には見えないけど…、観光客にも見えないなあ…。観光できた感じだった?」
「あ、いや、うーん。夏休みの間だけ、泊島に住んでる祖母の家に居候してて」
「へえ、夏休み…ってことは、あれ、高校生とか?」
高校生…だけど最近高校には行っておらず…。そんなことは言わなくていいので言わない。今は夏休みなので、堂々と身分を明らかにできるなと潮は胸を撫で下ろした。
「はい、一応高二です」
「まじか、俺も一応高二。めっちゃ年下だと思った、わり」
「え、お兄さんはもっと年上かと思ってました」
「ここの制服着てたらわからないよな。俺も夏休みの間だけ、バイトしてんの」
正直この男は…その横柄な態度から二十歳前後なのではないかと思っていたが、同い年と言われれば確かに、そのように見えなくもない。
「おばさんがパートしててさあ、誘われたっていうか」
潮は着替えを終えカーテンを開けると、そこには私服姿の男がいた。
「え、上下着たの」
「あ…、一式もらったから…」
「はは、面白いね」
「こんなことに付き合わせてしまって、本当にすみません。ジャージは必ず洗って返しますので…」
「やめてよ、敬語。同い年なんだし。ところでまだ名前聞いてなかったけど」
失禁したところを見られた上に本名まで知られてしまいそうだ。仮名を教えるべきだろうか。いや、助けてくれた相手にそれは失礼。
「…。潮…」
「うしお?」
「はい」
「潮ね。俺のことは佐野って呼んでいいよ、ここの人はみんなそう呼んでるし」
「いや…佐野さん、ありがとう」
「さん、いらない。佐野でいいから」
今日会った、しかも助けられた恩人のことを呼び捨てできるわけはなく、じゃあ佐野君でお願いしますと頼むと、まあいいけどと面倒そうに佐野が言った。
「せっかくだからさ、ちょっと館内見てく?俺もう上がりの時間だし」
「でもこの格好だとまずいんじゃ…」
「誰かに見られたら、汚したから予備の制服貸したって言うよ」
館内を歩きながら亀の水槽、サンゴの展示、タコのいるコーナーと、佐野は順々に説明した。
「ウニの展示には行かないでおくよ、またしょんべんされたら困るから」
「あの…さっきからしょんべんしょんべんって、あまり言わないでもらえますか」
「はは、冗談だって。ていうか、なんでウニ嫌いなの?」
ウニが嫌い、それは咄嗟に出てしまった言葉であり、真実ではない。びっくりして失禁してしまい、咄嗟にでた言い訳である。
「うーん、苦手なんです。色々思い出しちゃって…」
「そうかあ。でもウニってすごくて。棘があるから怖くて強いイメージがあるけど、すっごい繊細な生き物でもあってさ。水質の影響で元気になったり、元気がなくなったり。水質がとてもいいところだと、すごく綺麗に発色する。それをね、見てたら癒されるんだ。いつかわかってほしいなあ」
水槽を見る佐野の目にヒトデが反射し、星のように光っている。
「へえ」
「へえって」
「そんなに好きなんだ?」
「まあね、女子見てるよりも全然いい」
佐野の横顔を見ると、確かにそのように思ってそうだ。憧れのアイドルを見るように、うっとりと水槽を見ている人間が目の前にいた。
「ふうん」
「ふうんって。なんか突っ込んでよ」
「いや、別にそういう人もいるかなって」
「そうか…。あ、ちょっと…」
佐野はそう言うと、わ、とだけ言い咄嗟に潮の目を後から抑えた。
「え!ちょっと、何?」
「わり、うっかりウニのコーナー来ちゃった」
「あ…」
「でもなあ、本当にウニってすごいんだよ。いつかわかってくれるといいな」
「うーん、ちょっと先になるかな…」
「僕が絶対好きにさせる」
「え」
そう言うと佐野は潮の体の向きをくるっと変え、肩をぽんっと叩いた。
「まあ、また時間ある時にでもきて。今度は一緒にウニに餌をあげてみよう」
そう言いのこした彼は、じゃあねと潮を海洋館から送り出した。
佐野にジャージを借りてから約一週間。いまだに潮はジャージを返しに行けていなかった。いつかは返しにいけるだろうと常に持ち歩いているものの、嫌な妄想をしてしまってなかなか海洋館に返しにいけない。自分に親切にしてくれた佐野という男は顔が広そうで、海洋館の中でも誰彼かまわずペラペラ話しまくるタイプであろう。きっと今頃、潮の顔に【しょんべん小僧】と書かれた紙が海洋館の至る所に貼られているに違いない。そんな自分が海洋館に行ったらどうなるだろうか。きっとクスクスどころか、館内大爆笑だ。館内放送で「しょんべん小僧が来館したぞ〜」と放送があってもおかしくはない。いや流石にそれはおかしいか。そんなことを海辺で考えていると、背後から大きな声が聞こえた。
「おーい!もしかしてしょんべんの人ー?」
その下品な声掛けが自分に向けられたものではないと願いつつ、ただこの小さい島で【しょんべんの人】と言えば、今は潮しか該当者がいないのである。嫌いや振り返ってみると、防波堤の向こう側に佐野がいた。
「もうそれ言うのやめてー!」
はは、と笑いながら佐野は自転車を降り、公道から海辺に降りてきた。
「バイト終わりにたまたまここ通ってて。潮、この近くに住んでるの?」
「うん、すぐそこにおばあちゃん家がある」
「へえ…ってそれ…もしかしてうちのジャージ?」
「あ…」
「うわーよかった、パクられたかもってちょっと心配したんだよ」
急に声をかけられたことに驚いていた潮は、海洋館に行かなくてもジャージを返せる絶好の機会をのがすまいと、ジャージが入った袋を差し出した。
「あの…ごめんなさい…。これ…恥ずかしくてなかなか行けなくて…。館内全員に笑われたら僕…生きていけないので…」
「はっはっ、確かに、俺って口軽そうだもんな。今頃館内に潮の写真と【しょんべん小僧】って書いたチラシを貼りまくって、館内放送で潮がしょんべん漏らした話しててもおかしくないか」
自分が妄想していた最悪のケースが、佐野の行動の選択肢に入っていたことに絶望をしていると、佐野がジャージを押し返した。
「え…」
「今日会えたのはラッキー。だけど、また明日海洋館来れる?俺荷物持つの嫌だからさ、今渡されも困るんだよね」
結局海洋館に行かないといけないのか…と多少うんざりしてしまったが、元凶を作ったのは自分なのである。これは快諾せざるを得ない。さっさと明日返してしまって、残りの時間を平穏にすごそう。それで終わりだ。
「ああ、そうだよね。ごめん。明日持っていく…」
「大丈夫、館内の人にしょんべんの事、言ってないから」
「はあ…」
「あ、スマホ持ってる?ライン交換しよう」
確かに、連絡先を交換していれば、海洋館に入らずとも佐野に直接ジャージを渡せる。スマホを出そうとパーカーに手を入れるとそこにはスマホがなかった。
「ごめん、スマホ家に置いてきちゃった。電話番号でいい?」
「まあいいけど、そこからライン追加できるし」
佐野のスマホに自分の番号を登録し、佐野にスマホを返すと、早速自分の名前が【しょんべん小僧】と登録されていた。
「じゃ、また明日!海洋館来る時電話でもラインでもして!」
そう言うと佐野は公道に戻り、自転車を走らせて行った。
無常にも、明日は二四時間後にやってくる。忙しなく居間と自室と洗面台を行き来している自分に、祖母が「そんなにソワソワしてうるさいね、デートでもいくのかい?」と冷やかしてくる。いいえ、あなたの孫は海洋館で失禁して館内中の笑い者で、いまからその現場に向かうんですよ、と心の中で呟きながら、どんな服装で、どんな表情で、海洋館に現れれば一番笑われないかだけを考えていた。
先ほどスマホを見ると、一件留守電が入っていた。『あ、潮。今日ちょっと亀の掃除してるからさ、受付の女の人に声かけて呼び出してもらって。じゃああとで!』
じゃああとで、じゃないんです。受付の人に声かけないといけないじゃないですか。何のための連絡先交換なんだよとイライラする。
むしゃくしゃしながら海洋館に行くと、受付には見知らぬ女性が座っていて、潮の顔を見るなり「あっ」という顔をした。ジャージの入った袋を握る手に力がはいり、潮は目を細めながら佐野さんはいますかと尋ねる。受付の女性は潮の顔から目を逸らさずに、内線らしきものを取った。
「う…うしおさんですね?少々お待ちください」
なぜ僕の名前を知っているんだろう。あらかじめ佐野から聞いていたのだろうか。しょんべん小僧、という不名誉なニックネーム込みで伝わっていないといいけれど、と潮は祈るような気持ちだった。数分後、私服の佐野が通用口から顔を出し「おー、来た来た」と小走りで向かってきた。
「あの、これ。ありがとうございました…。本当に助かりました」
潮が袋を両手で差し出すと、それを受け取った佐野は、はいはい、と気の抜けた返事をする。中身をちらっと見て、潮が入れたレモン味のスポーツドリンクを取り出した。
「これ何」
「ああ、佐野君の好きなものがわからなかったんだけど、レモン味のスポーツドリンク。ほら、今暑いし…。祖母が、人からものを借りた時はお礼をつけなさいって、うるさくて」
「真面目だな」
お礼なんて何を用意すれば良いかわからず、行きしろのコンビニで期間限定のドリンクを買った。買った後にお礼にスポーツドリンクはいかがなものかと少し後悔していた。佐野はペットボトルをカチッと開け、ごくごくと喉を鳴らしながらそれを飲んだ。
「お礼にスポーツドリンクってちょっと変だよな…。僕こういうのあんまり慣れてなくて」
「変。かなり。だけど俺これちょー好き。サンキュ」
ジャージは無事返却できて、お礼も渡せた。これでこの男との貸し借りの関係は終わりだろうと潮は胸を撫でおろした。
「じゃあこれで。本当にありがとうございました」
そのまま帰ろうとした潮の肩を、佐野がぽんと叩いた。まだなにかあるのだろうか。
「ちょっと待って。せっかく来たんだし、館長に会っていきなよ」
「は、なんで、帰ります」
「なんでって…まあ、いや、いいから。こっち」
佐野に腕を引かれ、潮はバックヤードの奥へと連れて行かれた。ジャージを汚したことで謝罪をしないといけないのだろうか。怒られる?ジャージ代を弁償しろとか?恐る恐るスタッフ室に入るとそこには日に焼けた初老の男性がパソコンを前に唸っていた。
「館長、この子、この前ウニで転んでしょんべ…」
「佐野君!」
潮が思わず声を荒げると、館長がこちらを見てぶはっと吹き出した。
「ああ、佐野君から聞いてるよ。災難だったね。うちのウニ子がすまなかった」
館長は人の良さそうな笑顔を潮に向け、こちらの全身をじろじろと眺めた。値踏みされているようで居心地が悪い。佐野にも言われたが、都会っぽくもなければ島の人にも見えない潮はこの街では異質なようだ。
「ごめん、君、名前は?」
「潮です」
「そう、潮君は夏の間だけこっちにいるんだって?」
「あ、はい。祖母の家に」
「暇してる…って聞いたけど、短期バイトとか興味ない?」
あまりにも唐突な質問に、潮は言葉に詰まった。暇してるって聞いたけどってなんだ?佐野が勝手に言ったのか。なんて勝手な…。ただ、暇か暇でないかで言えば、絶望的に暇だ。友達もいない、観光しにきたわけでもない、不登校の高校生が夏休みを充実させられるわけがない。でも正直に「暇です」と答えるのも情けなくて、口ごもっていると佐野がにやにやしながら口を挟んだ。
「いやー、実はさ、夏の繁忙期でバイトが一人足りてなくなっちゃったんですよねぇ、館長?」
「そうそう、ちょうど夏休みの間だけでも館内清掃で入ってくれる人を募集していて」
「え…」
「潮君さえよければ、うちで働いてみない?ほら、お小遣い稼ぎにさ」
「時給は安いけどね」
「ちょっと佐野君〜、まあ事実だなあ。でも、毎日入館料無料!」
バイトなんだから当たり前でしょと佐野に突っ込まれている館長を横目に、潮は頭をフル回転させていた。断りたい。できるはずがない。こんな明るい人しかいないような職場で、自分みたいな根暗が働けるわけがない。まず人と話せない。人が何を考えているのか全くわからない。ここでバイトするような高校生はちゃんと学校に行けている、しかも一部の明るい人間だと思う。そう、佐野のような人間のことだ。自分もここで働けるくらいなら今すぐ学校に行ける。すなわち、不登校の自分には無理。QED。
心の中で海洋館で働けない理由を高速で羅列する。ただ、目の前の二人の中では自分がここで働くことが決まっているような雰囲気で、すこぶる断りにくい。
「僕、バイト経験ないです、人見知りだったりしますし…、それに…」
「ああ、ウニ以外を担当させるから大丈夫。ウニはな、佐野君がやりたいっていうから」
館長はニヤリと笑いながらそう言った。潮は隣の佐野をキッと見た。佐野は、「ね、一ヶ月くらい一緒に働こうよ」と何もわかっていない様子で説得してきている。この流れは絶対に佐野が事前に館長へ話を通していたに違いない。佐野を恨めしく思いつつ、ちょうど良い断り文句もなければ、先に迷惑をかけているのは自分という絶望的に不利な状況。もう考えるのも面倒になってきた。一ヶ月弱は確かに暇なので、お小遣い稼ぎにはなるか…と考えを改めつつある。
「あの、僕でいいんでしょうか」
「いいも何も、猫の手も借りたいくらいなんだから」
祖母の家にいても、することはない。テレビを見て、庭の草をむしって、あとは自分の内側にこもって余計なことばかり考える。泊島にくる前と何も変わらないまま、東京に帰る。そんな夏を過ごすくらいなら少しでも何かに挑戦したという事実がほしい。もしダメだったらその時また考えよう。
「あの…じゃあお願いします。働きます」
働きますと口では言ったものの、全身の細胞が「働きたくないです」と叫んでいる。館長(と佐野)は満足げに顔を見合わせ、明日から来られるかと事務的な話を始めた。潮がぺこぺこと頭を下げながら書類らしきものに個人情報を記入していると、佐野が小さく笑う声が聞こえた。
「なに?」
「いや別に。思ったよりもあっさり働くことを決めてくれたなって」
「佐野君が…佐野君が仕組んだんでしょ」
「さあね、なんのこと」
しらばっくれる佐野の横顔を見ながら、潮はふと、ここから始まる新しい日常を考えて期待のような感情を持っている自分に気づいた。とは言っても日数を数えると三週間くらいなのだが。海洋館の匂い、潮の匂いと、少し生臭い水槽の匂いが混ざった空気を吸い込みながら、潮は久しぶりに心を昂らせた。
館長室を出たところで、佐野が思い出したように振り返る。
「あ、そうだ。明日は開館前にここに来て。朝九時集合ね」
「九時、分かった」
「あと」
「なに」
「ウニの水槽、俺が担当だから。潮は【絶対に】近づかなくていいから、な?」
心遣いだと分かってはいたが、その気遣いの中に、また少しだけしょんべんの気配を感じ取ってしまい、潮は無言で佐野の背中を睨みつけた。佐野は振り返らないまま、肩を揺らして笑っていた。
朝九時前に海洋館の通用口に到着すると、佐野はすでに長靴を履いてホースを引きずっていた。
「遅い」
「ごめん、僕クビ?」
「嘘、早いよ。おはよう。クビになんかさせるかよ」
「よかった、一日目からクビかと思って」
へへへと笑い、佐野は潮に長靴とゴム手袋、それから水色のポロシャツを潮に渡した。この前のジャージは館内の人用で、渡されたのはどうやら清掃用の制服らしい。動きやすく吸湿性のあるポロシャツは触り心地がまだ新しく、太陽に当たると布が光って見えた。胸のところに、泊島海洋館のロゴが刺繍されている。「潮(うしお)」とサインペンで書かれたネームプレートはさっき書かれたのだろうか、プレートと擦れて字がびょーんと伸びていた。
「これ、佐野君が作ったの」
「まあ、書いただけだけど」
「びょーんて伸びてる、字」
「はい、先輩の努力をバカにしたからクビね」
確かに字はびょーんと伸びていたが、佐野が書いた字を見て妙な気持ちだった。佐野は大抵はふざけている。だが最初の失禁事件の時もそうだが、基本的に優しいやつなのかもしれない。思い返してみると、一人でいるところに声をかけてきたり、このバイトに誘ってくれたのももしかしたら優しさなのか…いや、それは買い被りすぎ。思い返せばこのバイトだって、騙されるようにして始まったじゃないか。
あまりにも久しぶりに人と関わっているから、相手に期待してしまうのかもしれない。期待して裏切られるのは散々だ。潮はそんなことを考えながら、佐野が館内着に着替えるところを見ていた。
「あのさ、そんなに見ないでくれる?」
「ああ、ごめん」
見ないでと言われても目に入ってしまう。佐野は少し汚れた肌着の上から館内着を羽織り、腕の部分を丁寧にまくった。想像していたよりも細くて綺麗な腕が見えて、潮は目を咄嗟にそらす。
「なに見てんだよ」
佐野が急に顔を覗き込んできたから、潮は驚いて体をのけぞらせてしまった。
「あ…、いや…。見てない」
「見てたじゃん、そんなに気になるならもっと見ればいいのに」
そう言うと佐野は潮の顎を持ち上げ、ほら、と自分の顔に近づけた。なんだ、この状況は。
「あのっ、み、見ないでください…」
「ふうん」
一瞬口角をあげた佐野は、潮の顎に置いていた手を離した。息をするのを忘れていた潮は溜まっていた空気をふうっと吐き出して呼吸を整えた。
「ほら。もう行かないと」
こんな気持ちにさせておいて働けるかと内心憤りながら、はい、とだけ言い狭いロッカールームをあとにした。
初日の仕事は単純なもので助かった。魚の餌やりができたのはラッキーで、そのほかは水槽のガラス拭き、開館前の玄関清掃、一日二度のトイレ清掃、開館中の館内清掃だった。
「そこの階段、滑るから走らないで」
「まだ歩いてもいないけどね」
「一日目のくせに口答えしないでください」
こんな調子で、佐野にいちいち口を出されるのは正直鬱陶しかったが、世話を焼かれていること自体は悪い気はしない。最近両親は潮のことを腫れ物のように扱っていたし、学校の教師たちも、腫れ物ですらなく、ただ存在しないもののように潮を無視した。そのうち自分が腫れ物であることに慣れてしまった。そんなことを知らない佐野に、デリカシーのないことを言われたり、軽口をたたかれたり、世話を焼かれたりしている。
休憩時間、バックヤードの裏口にあるベンチに並んで座る。館長が買いすぎたからとコンビニのおにぎりを六つ潮と佐野にくれた。ランチを用意するのを完全に忘れていたのでありがたい。
「たまにおにぎりくれるんだよね、館長。なんかお腹空いてる時に十個くらい買って、四個でお腹いっぱいになっちゃうらしい。でも毎回十個買うようにしてるんだって。それじゃないとお腹がいっぱいにならないらしい」
佐野は館長のよくわからない満腹中枢の仕組みの話をしている。この館の人たちは本当にどうかしている。変な人ばかりだ。だが自分も他人のことは言えないな…と肩を落としているうちに、佐野は鮭を先に食べ終え、続いてシーチキンのおにぎりを開封した。
「さっきまでお魚さんたちのお世話してたのに、人間様って残酷だよなあ」
残酷残酷、と言いながら佐野はシーチキンおにぎりをむしゃむしゃと食べる。
「まあ、そう言われてみれば…。おにぎりって海の幸が多いよね」
「たしかに。鮭もシーチキンも、昆布もおかかもか」
「梅干しくらいじゃないかなあ、海の幸じゃない具って」
「いやもっと他にあるって、ネギチャーシューとか、高菜マヨネーズとか」
二人きりで話すのは割と心地よい。佐野はいつだって自然体だった。さっきのロッカールームでの出来事も、彼なりのコミュニケーションなんだろう。世の中には一定数、ああいう体の距離感がバグってる奴がいる。ドキドキするだけ無駄である。
「潮ってさ、学校行ってるんだっけ」
不意打ちの質問に、手が止まる。なぜ?なぜそんなことを聞く?なにか不登校がバレるようなことを言っただろうか。そんなはずはない。それか全身から不登校オーラが出ている?最悪だ…。
ここで嘘をつくべきか、正直に答えるべきか。判断がつかないまま、結局あいまいな返事をした。
「夏休みだから、行ってない」
「そういう意味じゃなくて。多分だけど、行ってないんでしょ、普段も」
さらに驚いて、潮は佐野の横顔をパッと見た。佐野はシーチキンのおにぎりを食べ終え、梅干しのおにぎりを開封していた。
「え…なんで分かるの」
「なんとなく。夏休みの間ずっとこっちにいるとか、あんまりしないでしょ、普通の高校生は」
たしかに普通の高校生は…夏休みに離島で、しかも一人で過ごさない。盲点だった。同級生と海に行ったり、受験勉強をしたり、部活をしていたり、祭りに行ったり。そういうのが普通の高校生なのである。自分が普通ではないから気づかなかった。
「中学の頃は普通に学校行ってたし、友達もそこそこいたんだよ。でも中学の友達がみんな別の高校行っちゃったり、友達つくるのもそんなに得意じゃないって気づいて。喋れるやつはいるけど、そいつも僕と話すのすごい気を遣ってくれてるんじゃないかなとか考えちゃったり、みんなが僕の事ちょっとバカにしているって感じることもあったり…まあなんて言うか、自意識過剰」
気づけば、聞かれてもいないことをぼそぼそと話していた。
「そもそも高校って、グループがすでにあったみたいに初日からみんな楽しそうで。どのグループに入る?って言われてもどこも違うというか…僕は誰にも呼ばれていない気がして。高校二年の五月までは、一回も休まないようにしてた。皆勤賞だよ。多分だけど、休んだら負け的な感じで考えていたんだと思う。でもゴールデンウィーク明け、インフルエンザになっちゃって、一週間くらい学校休んじゃった。そうしたらさ、なんかすごく、学校行きずらいって思っちゃって。だって、二週間弱学校行かなかったインキャが急に登校して、変な感じにならない?死んだのかと思ったとか、くすくす笑われたらどうしようって思ったり…つまりその…」
「自意識過剰、ね」
二週間休んだのはきっかけにすぎない。学校に行かないという選択をしているのは自分である。本当にしょうもない理由だとは思う。いつからこんな自意識を肥大化させてしまったのだろう。そして佐野にそれをぶつけてしまったことをすでに後悔している。話しやすいからと言って、初対面も同然の相手にこんな話をする必要はなかったのに。ほら、やっぱり困ってる。佐野はしばらく黙った後「あっそう」と放り投げた。
「そう、そう、自意識過剰なんだ、僕、きっと…」
「重症だ。今すぐ捨てなよその自意識。ほら、廃品回収の車だ」
「ご家庭に不要になったパソコンや〜」という廃品回収の車のアナウンスが鳴っている。僕の中に不要になった自意識があります、そう心で叫んだが廃品回収者は海洋館を通り過ぎた。
「ああ、行っちゃった。回収失敗」
軽口に紛れさせたその言葉の中に、佐野なりの気遣いがあることに気づいて、潮はふっと思わず笑ってしまった。佐野が驚いたようにこちらを見た。
「なに、笑うところあった?」
「いや、なんていうか、自分は自意識過剰って思ってて、結構それって重大な欠陥なんじゃないかって思ってたけど、佐野君がそう茶化してくれると軽くなっていいなって」
「俺、めちゃくちゃ真面目に聞いてたのに」
不服そうな佐野の顔がおかしくて、潮はごめんごめんと笑った。
午後の仕事を終え、海に夕日が落ちるころ、潮は自転車を押しながら海沿いの道を歩いた。佐野とは一緒に退勤し、隣を歩いている。
「明日も九時ね」
「うん」
「遅刻しても怒らないから、絶対来てよ」
「行くよ、明日も」
「うん」
それだけ言うと、佐野は自転車に跨り、じゃあね、と手を振って去っていった。潮はしばらくその後ろ姿を見送ってから、祖母の家への道を歩き出した。
働き始めて数日、潮はようやく水槽のガラス拭きのコツをつかみ始めていた。円を描くように拭くと跡が残る。上から下に一方向に拭くんだよ、と館長に教わったその方法を実践していると、後ろから覗き込む気配がした。
「お、上手くなったじゃん」
「何度もやれば誰でも上手くなるよ」
「そう?俺、いまだに館長に呼び出しされるくらい拭き方汚い」
「やばいよそれ、やる気の問題」
「館長〜潮君が俺のことバカにしてきます〜」
佐野が館長に泣きつくと、やれやれという顔をした館長はそれを無視して亀を磨き続けた。佐野や館内の人は潮を腫れ物扱いしない。高校生としての潮はここにいないから当然なのだが。
バイト初日から、佐野は世話を焼いてくるし、周りもそれを微笑ましく見守ってくれているようだった。自分も新入りとして必死にものを覚えようとしていたし、東京の高校生としての自分を思い出す暇が全くなかったのも良かった。
佐野が清掃した水槽に戻した亀が気持ち良さそうに伸びをしているのを見て、潮もぐっと背骨を伸ばした。
休憩時間、ベンチに座ってペットボトルのお茶を飲みながらくつろいでいると佐野も遅れてやってきた。佐野はいつもコンビニ弁当か、おにぎりだった。高校二年生、育ち盛り。そりゃたくさん食べるが、なんでこんなに細いんだ。
「佐野君って、部活なに?運動部?」
「え、なんで」
「いや、気になっただけ」
「陸上部」
「練習とか大変なの?」
「まあね、そこそこ」
佐野は勢いよくお弁当をかきこんでいる。稲刈り機。彼の食べっぷりを見てそう命名した。潮のお弁当は祖母がおにぎりを三つと、そしてプラスチック容器におかずがたんまりと入っている。潮はそれをちびちび食べる。元々少食だが、育ち盛りだから食えと持たせてくれる祖母の親切を無碍にしたくない気持ちで、昼休憩の時間を最大限使って食べていた。
「ねぇ佐野君、僕のおにぎりとおかずちょっと食べない?」
「え、いいの」
「本当に多すぎていつも食べきれない。少食なんだけど、おばあちゃんが張り切って作ってくれるから食べ切りたくて…これ中身は梅らしいけど、はい」
「ありがとう」
さっきまで貪っていたお弁当を横に置き、佐野はラップで包まれたおにぎりをがぶっと食べた。すごい、三分の一が無くなった…。
「うま」
もう全部あげたい。こんなに美味しそうにご飯を食べる人ははじめて見たし、美味しそうにご飯を食べる人って見ていてすごく気持ちがいい。
「今度うちに来てみたら?おばあちゃんも僕の友達を連れてきたら喜ぶし。きっと料理も張り切ってくれると思う。ほら、バイト終わったらとか、夜ご飯の時間よければ」
「まじか、行く!」
「あ、じゃあ部活ない日とかで、いつでも」
「明日か明後日は?今日はちょっと、ちゃんとした服とか着てないし、お土産とかも何も買ってないから…」
「おばあちゃんに聞いてみる、明日はいきなりすぎるから難しいかもしれないけど…。お土産はいらないよ。お菓子とか有り余ってるから、うち」
「すごいな」
【稲刈り機(佐野号)】の食べっぷりがあまりにも素晴らしいものだから、思わず誘ってしまった。祖母に友達がご飯を食べに来ると伝えると想像以上に喜んでいるようだった。明日は市場に行ってくる、と、すごい張り切りようである。
約束の日、佐野は白シャツとジーンズで海洋館に出勤した。彼なりの正装なのだろうか。いつものだるだるの、プリントが色褪せたバンドTシャツではなく、一応白シャツを着てきたんだなと潮は思った。
「白シャツ…」
「一応、ね」
やはり佐野なりの正装だ。バカだなあ、そんなの必要ないのにと内心では佐野を冷やかし、潮はははと笑った。
「いらっしゃい。よく来たね、あがって」
祖母が張り切りすぎているのは今朝からわかっていたが、手巻き寿司とカツレツ、餃子と春巻き、野菜のディップなど、クリスマスパーティーを開催できそうなメニューに佐野も面食らっている。「お会計一万円です、とか言われたらどうしよう…」と青ざめる佐野をまあまあと座らせ、潮は取り皿に醤油をさした。
「佐野君っていうの、お名前は?」
「翔です。飛ぶやつ、翔。しょうです」
「翔くん、来てくれてどうもね、ほんとにいっぱい作ったから、遠慮なく食べて。ご飯のおかわりもあるから、それは自分でよそって」
祖母は十合炊きの炊飯器をどんっとテーブルにおき、しゃもじをその上に載せた。
「そういえば、佐野君の名前、翔って言うんだ」
「うん、みんな佐野って呼ぶし、あんまり名前言う機会ないな、最近。あ、そういえば潮って苗字なんだね。表札を見てびっくりした。潮って名前なのかと思ってた。名前は?」
「颯太(そうた)」
「へえ、なんか変な感じ。颯太って感じあんまりしないね。潮って感じだ。潮ってこれからも呼ぶと思う」
「うん」
その後も繰り出される祖母の「これも食べな」攻撃をうけ、潮は早々にリタイアした。一方佐野は、さすが稲刈り機である。全ての料理に手をつけ、うまいうまいと食うものだから、祖母も気をよくして次から次へと料理を持ってきた。明らかに昨日の残り物だという酢の物を持ってきて、一瞬それはないよ…と思ったものの、佐野はそれすらも残さずに平らげた。
「ほんとすごいよ佐野君…」
「うまかった、ご馳走様でした。一週間分くらいもちそー」
「もう二十時だけど、親とか心配しない?」
「大丈夫、今日俺の母ちゃん帰ってこないから。俺、母子家庭で母ちゃんずっと仕事してるから」
「そうなんだ」
お腹が満たされて満足そうに座椅子にのけぞる佐野の顔が一瞬硬くなったのを感じ、親のことは聞かなければよかったかなと後悔した。
「じゃあ今日泊まっていけば」
キッチンで洗い物をしていた祖母が顔を出した。
「あ、洗い物させてすみません!」
佐野が慌てて立ち上がろうとした時、机にあった醤油瓶を倒して佐野のジーンズを汚した。
「ああ、すみません」
慌ててテーブルをティッシュで拭く佐野に大丈夫大丈夫と祖母が言い、台拭きをよこした。
「お客さんなんだから、ゆっくりして行きな。ソウ、着替えとバスタオル持ってきてあげて」
「あ、佐野君は泊まっていいの?大丈夫?」
「はい、嬉しいです。ありがとうございます」
じゃあきまりね、と祖母が言う。潮は佐野を脱衣所に案内し、お湯の出し方やシャンプーリンスの色の違いを説明した。
「このプラスチックのかごにバスタオルと着替え一式入れておくから。下着だけ…、ごめんだけど自分の使って。シャワー入ってる間に着替えとかは入れておくよ」
「ありがとう」
自室に敷布団を広げ、佐野がそこに満足そうに寝転がっている。お泊まり会なんて幼稚園以来のように感じる。やはり自分が持っているパーカーは佐野の体には小さくて、袖の先から細くて綺麗な腕と脚が出ていた。
「ごめん、僕の服サイズ小さくて」
「いや、きつくないから大丈夫。この服めっちゃ潮の匂いするね」
佐野がシャツの首元を鼻に近づけて深呼吸している。臭いんだろうか。いや洗ったばっかりだから大丈夫。自分の服を着て敷布団で横になる佐野は、もともとここに居ましたよ、という様子でくつろいでいる。祖母の家なので、潮の持ち物は少なく、唯一その部屋を潮の部屋たらしめているものといえば東京から持ってきた文庫本と、少ない洋服だった。佐野は文庫本をパラパラとめくり「本とか久しぶりに触ったわ」とか言っている。この光景に既視感があるとすれば、この前びっくり仰天動画というテレビ番組で見た野良猫だろう。急に家に入ってきた野良猫が、『もともとここに居ましたよ』といった面持ちでくつろいでいる様子だ。その野良猫は先住猫たちを統制し、餌も一丁前に食べ、日当たりの良い窓際でお腹を広げて寝ていた。【稲刈り機】に加え、【野良猫】というあだ名をつけられたことを知らない佐野は大きなあくびをした。
「佐野君がくつろいでいるところ、見るの好きかも。なんか、街ででかい顔をしてる野良猫を手懐けた気分」
「よくわかんないけど、俺くつろぎすぎってことかな」
「いや…野良猫みたいだなって思っただけ」
「俺犬派だけど…」
「もういいよこの話やめよう」
今は犬派猫派で議論をする必要がないので、潮は返事はしなかった。もしも佐野が東京にいて、同じ高校のクラスにいたら仲良くなっていただろうか。佐野は明るくて無頓着で、どこかアホだけど優しいやつだ。そう考えると、友達なんて入学式よりも前に作っているに違いない。自分とここまで仲良くなれたのは海洋館という小さな箱で出会ったからだ。もし佐野が高校という大きな箱の中で潮を見つけていたとしたら…いや、見つけさえしないかもしれない。見つけていたとしても、その辺にいるなにか人間らしきもの、くらいの存在感しか出せない。そう思うと、佐野とお泊まりをしているこの状況はかなり奇跡的なものに思える。
「ねえ佐野君、佐野君ってさ、高校でどんな人と仲良いの」
「なにその質問、どうして?」
どうしてと言われても…よく考えたら、佐野のような人間が自分とつるむメリットがない。ただのバイト仲間といえばそれまでだが。高校のクラスで友達と談笑する佐野をイメージすると、ますます自分と関わることが奇妙に思えてきた。部活の友達はどんな人?どんな遊びをするんだろう。彼女はいるのだろうか。
「いや、単純にちょっと知りたくなっただけ。どんな人と遊んでるんだろうとか、彼女はいるのかなとか…」
「いない、彼女いない。彼氏もいない。潮は彼女とか、いるの?」
からかっているのだろうか。いるわけないじゃんとため息混じりに吐き捨てると、佐野はいやわからないだろと言いながら体を立てた。
「潮はどんなやつが好きなの、付き合いたいとか、思ったりするの」
どんなやつが好きなのかと言われたら、美形で優しい人が好きである。でもこれは嘘だ。考えたことがないからわからない、が正直なところだ。よく「好きなタイプは?」と聞かれて「好きになった人がタイプです」と答える俳優やアイドルのインタビューを見たことがあるが、その回答は「くだらない質問をするな」という回答の丁寧語だと思う。具体的にこれがこうで、こんな場面でこうする人です、と答えられる人は大体、好きな【個人】のことを思い浮かべながら話しているか、好きなタイプはどんな人かと聞かれた時のために答えを用意している奇人である。
そもそも、自分みたいな人間が「好きなタイプ」を考えて口に出したところで「童貞の妄想乙ww」と揶揄われるだけである。すなわち「かわいい人」「優しい人」「誰に対しても丁寧な人」など、汎用的でみんなが好きな属性ほど危ない。そんな素敵な人がいたら、その人は自分と釣り合う素敵な人と結ばれる。まあ、佐野はそんなことを考えもしないだろうけど。
「なあ、好きなタイプは?って聞いてるんだけど、無視ですかー潮さん」
頭の中で随分とひねくれていたせいで、回答を出していないことを忘れていた。
「こういう人、っていうのは、考えたことがなかったけど。好きな人とか、できた記憶ないし。そもそも好きなタイプは?っていう質問に答えられる人が変だよ」
「なんで」
「そう言う人は大体、答えを用意しているんだと思う。実際はわからないんじゃない。でも、例えば佐野君が女子だったら僕は好きになっていたかもね」
「は?」
嘘ではない。直近こんなに親密に行動をするようになったのは佐野くらいだ。一緒のバイト先、優しい先輩、ちょっとアホで物言いがストレートで、たくさん食べる。一緒にお泊まりまでしてくれるのは佐野だけだ。恋愛経験がほとんどない自分に、佐野のような女子が現れたら、確実に好きになると思う。
「いや、でも本当に好きになってたと思う。自分恋愛経験ないし、あ、バカにすんなよ。今バカにした顔しただろ。でも、佐野君ほら、優しいし。一緒にいて楽しいから。もし女子だったらーって考えたらさ、やっぱり好きになるかもって思って」
佐野があまりにも黙るので、あれ、僕キモいこと言ったかなと言うと、佐野はいや…と言いながらつむじのあたりをかいた。
「俺、女子にならないと潮と恋愛できないってこと?」
潮と恋愛できないってこと?俺、女子にならないと潮と恋愛できないってこと?、俺、女子にならないと潮と恋愛できないってこと?、どういう意味だろう。俺、女子にならないと潮と恋愛できないってこと?俺、女子にならないと潮と恋愛できないってこと?
頭の中で佐野の言葉を反芻し、黙りこくって考えていると佐野が潮の敷布団に近づき、手をにぎった。
「俺が女子じゃないから、好きになれそうにない?」
頭がくらくらしてきた。あまりにも情報過多だ。佐野の手をほどき一旦寝ていた体を起こして布団に座る。寝ているとそのまま気絶しそうだからだ。佐野がこっちを見ている。一旦落ち着こうと思って潮は目を閉じる。深呼吸をしようと口を軽く開けると、唇が急に熱くなった。
びっくりして目を開けてのけぞると、佐野が身を乗り出している。キス…?
今、佐野は僕にキスしたのか?
「は…?」
「は?って…。ああ、ごめん、キスして欲しいのかと思った。目閉じたから」
開いた口が塞がらないとはこのことで、事態を全く理解できずにフリーズしていると、じゃあ俺寝るわ、と佐野は潮に背を向け、布団をかぶって寝てしまった。
その夜、潮は全く眠れず、気絶するように眠ったのは空が白くなり始めた頃だった。なので寝起きがすこぶる悪い。布団の中で唇の感触を思い出し、これが潮にとってのファーストキスであることに気づいた。ファーストキス、甘酸っぱいだのレモンの味など幻想めいたものではなく、あれはまさに事故、爆発事故のようなものだ。窃盗、強盗とも言えるだろう。頭の中のいくつかの細胞が爆発して死んだような気がする。細胞が死んだせいか、全く眠れなかったせいか、頭が痛い。アイタタタ、と頭を叩きながら朝食が用意されたテーブルに着くと、祖母が「具合でも悪いのか」と聞いてきた。
「あんまり眠れてなかったよね、潮。昨日何回も起きてたじゃん」
誰のせいだよと思いながら潮はパンにバターを塗った。バターってこんなにうまかったっけ、と佐野がつぶやくのを聞きつつ黙ってパンをかじる、かじる。
「ジャム、塗らないの。めずらしい、寝ぼけてるんじゃない」
祖母に言われて、いつも塗っているブルーベリーのジャムの存在を思い出した。
「潮、バターついてる、口に」
もうダメかもしれない、完全に寝不足である。潮が下唇を指で拭うと、佐野が違うよとティッシュで潮の上唇を拭いた。
「赤ちゃんじゃないんだから、自分で拭いて」
「ああ…、ありがとう」
全然話ができない。昨日は夢だったのだろうか。佐野は至って普通である。さっきのありがとう、の声、変じゃなかったか。上擦っていなかっただろうか。身のこなし一つ一つが怖くなる。細心の注意を払い、牛乳で味のしないパンを流し込むと、佐野に「それ、俺のコップ、潮の右にあるでしょ」と言われ、潮はもう一度気絶しそうになった。
シフトと言うものは無情で、【昔の元気な自分】が【未来の元気な自分】に期待をして組んでいるので、こんな状況下でも朝九時から出勤しないといけなかった。佐野は至って普通な様子だ。ぐるぐると頭の中を働かせないといけないことが非常に腹立たしい。佐野はそういったことに慣れているのだろうか。これが根明というものなのだろうか。根明ってすぐキスとかするんだっけ。男同士だけど、そういう根明のノリなのだろうか。起こったことと感情の辻褄を合わせるために必死になりながら水槽のガラスを拭いていたもんで、横に館内スタッフの小鳥(ことり)がいることに気づかなかった。
「わっ、びっくりした、いつからいたんですか」
「一分くらい前かなあ、潮君ずっとここだけ熱心に拭いているから、どんな汚れだろうと思って見にきたら、もうピッカピカなんだもん。これ以上拭いたらこのガラスなくなっちゃうよ」
「ああ…すみません…」
小鳥さんは大学生で、館長の娘である。普段は本土の大学に通っているらしいが、彼女もまた夏休みだけ地元に戻り、父親のもとでバイトをしているらしい。高校生の佐野や自分とは特別に仲がいいわけではなかったが、父親ゆずりのくだけた雰囲気でとても話しやすい人だと潮は認識していた。
「ぼーっとしてるの…ってくま!くますごいじゃん。どうしたの。寝てないの、寝れないの」
「あいや…確かに寝れてないです…考え事してて…」
「大丈夫?話なら聞けるけど…大したアドバイスはできないけど」
相談なんて誰にもしたことないし、自分が今何に悩んでいるかもわからない。ある程度の推論が立てられない限り、人は悩みを言語化できないんだと潮は初めて知った。何に悩んでいるかわからないんですけど…人間関係かもしれなくて…とモゴモゴさせていると、あら、と小鳥の声が一段高くなった。
「もしかして…好きな人とかできちゃった系?」
好きな人とかできちゃった系ではないとは思います、と即座に訂正し、ただその人の行動が引っかかるというか、意味を理解したいというか…相手の行動に対する自分の感じた気持ちの意味を知りたいとか…とまた言葉が抽象化する。
「なんかよくわかんないんだけどさ、つまり、相手の行動の意味がわからないことと、それを受けた自分の気持ちもよくわからないってこと?当たり前じゃん」
「自分の気持ちについては自分しかわからないと思うけど、相手の行動の意味をとやかく考えるのは難しいんじゃないかな」
「直接本人に聞かないと、結局わかんないじゃん」
正論三本立てである。自分ではわからないことを考えても無駄である。だが、どうやって聞く?あのキスってなんか意味あったりするの?あのキスって勘違い?佐野って帰国子女だったりする?泊島においてキスって今じゃ主流な挨拶なの?どれも筋違いなような気がする。はああ、と落ち込む潮を横目に小鳥は「もうこれだから令和の若者は…」と言い残し、潮を一人にした。
あれから数日間というもの、佐野と話せていない。一週間のうち休館日の木曜日をのぞいてはほぼシフトが入っている潮と佐野だが、佐野がいる場所には無意識に近づかないようにしていた。鉢合わせてもまともに話せる自信がない。
お昼休憩中「無視とかきついんだけど」と後ろから佐野の声がした。お昼休憩を絶妙にずらして佐野と鉢合わせないようにしていた潮は、びくんと肩を揺らした。
「無視しているわけじゃなくて…。その…なんか気まずくて…」
「出たよ、自意識過剰。無視される側の気持ちとか、考えたことないでしょ」
「ごめん…」
「クビです」
佐野はレモン味のスポーツドリンクを一口飲んだ後、潮の隣に座った。この男が考えていることが一切わからない。今まではわかっていたのかと聞かれるとそうではないのだが、今はこの男が何を考えているのか強烈に気になって、まともに話ができない。潮は、あ…とかその…とか、言葉の端くれをこぼすしかこの気まずい時間を潰すことができなかった。佐野はそんな潮に目もくれず、これ飲む?とレモン味のスポーツドリンクを渡した。喉がカラカラで、空気で粘膜が擦り切れそうになっていた潮はありがたくそれを頂戴し、ごくごくと飲んだ。
「ファーストキス」
ぶふっと潮はドリンクを吐き出しそうになってしまった。勢いよくむせてしまったので、鼻の奥に液体が入り込んでヒリヒリする。人工的な柑橘の香りが鼻を通り抜ける。
「ファーストキスだったよ、俺」
やめてくれ、その話は…避けてきた話題、でも聞きたかったことを聞けるチャンスだ。ただどう伝えれれば自分の求めている答えが聞けるのか、潮にはわからなかった。そもそも、自分の求めている答えとはなんだろう。それを知ってどうするのだろうか。
「あの…。なんで僕にキスしたの?」
「それは潮が目、瞑ったからじゃない」
「そうじゃなくて!」
明らかに自分の求めている回答ではなく、もどかしさを隠しきれない。イライラした。僕のことを好きなのか?と聞くのは自意識過剰のように感じるから聞きたくなかった。
「キスされたの、いやだった?」
「嫌とかじゃない…キスされた時の感想はわからない。ファーストキスだった」
「ごめん」
「ファーストキスは佐野君も同じでしょ。でも普通しないでしょ、この関係性で」
ごめん、と目線を落とす佐野をなぜ自分が慰めているのだろう。感情がまたぐるぐると渦を巻きそうになった時、遠くから叫び声が聞こえた。
叫び声の主は小鳥で、リクガメのケージを掃除しようとしたところ、リクガメのウズラ君が見当たらないことに気づいたらしい。
「脱走、だな」
館長が名探偵のように自身の薄い顎髭を触りながら言った。全く、この海洋館の管理がゆるいのか、生物たちに脱走癖があるのかはわからないが、ウニといいリクガメといい、よくもこんなに脱走劇があるもんだ。結局手分けしてウズラ君を探そうと、泊島海洋館は一時休館となった。若者二人は外見てきてねと、広すぎる庭に佐野と自分は放り出された。
潮は館の周辺を、佐野は駐車場を探すことにした。特に駐車場は危険である。リクガメはアスファルトを歩いていたらほとんど見えない。万が一轢かれたら…と考えると、あまりにも危ないので佐野が真っ先に見に行った。短く刈り上げられた芝生には亀は見当たらず、じゃあ僕は庭のすみっこを探してみるねと、潮は表の砂利部分から、裏口の水槽洗い場を回って探した。年中常夏の島の屋外でもの探しをするのは大変きつい。
かれこれ三十分は探しただろうか、後ろから「潮!これ」と佐野がレモン味のスポーツドリンクを渡してきた。必死になって探していたものだから、喉がカラカラになっていることに潮はその時気づき、息継ぎを忘れてゴクゴクとそれを飲み干した。
「そういえばさ、これ、好きだね。僕が最初にあげたやつ」
「これ限定でしょ。夏の間にたくさん飲もうと思って」
「ありがとう、喉乾いていたの気づかなくて。なんか…ちょっとフラフラしてきた」
「大丈夫?ちょっとベンチで休もう。駐車場も探したけどいなかったし…俺もちょっと疲れた」
「うん、ちょっと休もうかな」
ベンチに座り、佐野と潮は黙って館の壁を見ていた。ぼーっと目の前の白い壁に向き合う。建物の壁ってなんでざらざらしているんだろう。ざらざらの凹凸の一部が顔に見えてきた。
「建物の壁ってさ、よく見るとざらざらしてるよな」
「それ同じこと考えてた」
「小さい頃さ、建物の壁に思い切り腕とか肩を擦っちゃって、血まみれになったことある」
「あるね、あれ痛いんだよなあ」
「つるつるじゃいけない理由とかあるのかな」
「うーん、なんだろう、わかんないけど、つるつるだと耐久性が落ちるとかあるのかな。表面積を大きくすることでなにかメリットがあるのかも」
「なにそれ、賢そう」
「いやわかんないけど…」
脱走したリクガメの捜索について頭から抜け落ちそうになっていたその瞬間、カサっという不自然な音が足元から聞こえた気がした。
「佐野君、今カサって、カサって言った」
「え?嘘、ちょ、静かに」
カサカサ…という音は明らかにベンチ下から聞こえてくる。潮が足元に気をつけながらベンチの下を見ると、そこには小ぶりなカメが落ち葉をかき分けて歩いていた。
「はあああああ、よかった、この子だよね、ウズラ君」
「うん、グッジョブ、潮。疲れたからさっさと事務所戻ろう。小鳥さんにも報告しなきゃ…」
そう言うと佐野はウズラをひょいと片手で持ち上げ、館内に入っていった。
「本当にありがとう…!佐野から聞いたよ、潮君が見つけたんでしょう、ウズラ」
小鳥は、ウズラの脱走を自責して気を病んでいたらしく、見つかったことに大きく安堵していた。
「いや、捜索お疲れ様でした。脱走癖でもあるんですかね。自分がここに初めて来た時もウニが脱走して…」
自分、びっくりして失禁したんですよ、と言いかけて疲労を自覚した潮は、じゃあケージも洗っちゃいますねと踵を返した。
ウズラのケージを洗うために裏口に行くと、佐野がケージを拭いていた。
「ごめん。ちょっと遅くなった」
「いや、大丈夫、もう終わるし」
佐野はケージに床材の赤玉土と、餌入れ、隠れるための家のような石をレイアウトし、そこにウズラをそっと置いた。
「ウズラ君っていうからさ…、甲羅がウズラの卵みたいな模様してるのかと思った。全然ウズラっぽくないね」
「ウズラの卵みたいにちっちゃかったから、ウズラって名前をつけたって。前に館長が言ってた」
「へえ、今はウズラの卵どころか、鶏の卵よりも全然大きいけどね」
二人でケージに顔を近づけ、黙ってウズラを見ていると、佐野が「ちょっとまってて」と館内に入っていった。
ウズラの脱走事件で一旦なかったことになった潮の「ファーストキス事件」は、未解決のままふわふわとどこかに消えて無くなりそうだった。それでいいのかもしれない。全てを分かろうとする必要はない。わからないものは、わからないままでもいいのだ。
佐野が「お待たせ」と、三センチくらいに切り揃えられた小松菜が入ったボウルをケージの前に置いた。
「サラダ?」
「バカ、餌だよウズラの。あげてみる?」
「え、怖い」
「いいから、はい」
佐野はどこか嬉しそうに言った。潮は小松菜の切れ端をゆっくり受け取って、ケージの中に恐る恐る手を入れる。カメって噛むんだろうか。急に動いたりするのか、毒はあるのか。
「あのさ…カメって噛むんだっけ」
「噛まないよ」佐野がふふと鼻を鳴らした。
それでも怖くて硬直していると、「ほら」と言いながら佐野がそっと自分の手をとり、小松菜をウズラの前に差し出した。
「こんな感じで、そっと差し出して」
潮が差し出した小松菜を、ウズラがむしゃむしゃと食べている。熱い。重なった手が燃えるように熱い。顔まで熱くなってきた。急に胸や背中に汗をかいている。全身がドクドクと、心臓のように波打っているのを感じる。佐野にバレないだろうか。
佐野が潮に被さるように横並びになり、潮の心臓はまさに爆発しそうだった。
「なんか、かわいいな」
佐野の一言で意識が戻る。
「たしかに、可愛いかも」
「ああ、ウズラね。でも潮もかわいい」
か、かわいい…?言われたことがない形容詞に驚きながら、うん、としか反応を返せない。これ以上ドキドキさせられたら体がもたない。
佐野は潮の硬直した手を緩め、小松菜をケージの中に落とした。そっとケージから抜いた手を佐野は握り直し、「よくできました」と笑った。
その瞬間、自分の中にあったモヤモヤの種が頭の中で発火したような気がした。
潮の手をほどき立ちあがろうとする佐野のジャージを引き寄せ、勢いに任せたキスをした。
ウズラのケージを掃除して、小松菜をあげた後のことを潮はあまり覚えていない。キスした後、細い目をまんまるにさせている佐野を置き去りにして、慌てて館内に戻り自分の荷物をまとめ、退勤した。
あれからというもの、佐野を避けてばかりだ。避けているとはいえ、佐野に会いたくないわけではなく、今日も八時半に海洋館に着いてしまった。まったく自分という人間を理解するのは難しい。早く出勤してしまったせいで暇になってしまったので、スタッフ室のコピー用紙を継ぎ足したり、コーヒーメーカーを拭いたり、ウニを眺めたりした。
佐野は相変わらず九時ギリギリに海洋館に着き、庭の掃除から始める。雨の少ない夏だからなあ、砂埃がなかなか取れないんだねえと独り言を言っているのが聞こえた。
ウニの水槽の影に隠れて佐野のことを目で追っていると、それが本人にバレ、奴がこちらに向かってくる。やばい。潮は周りを見渡し、逃げ場を探したがロビーには自分しかおらずあっけなく佐野に捕まってしまった。
「はい、逃げるの禁止」
「あ、あ、あ、別に逃げたいとか思ってないし…」
「あー、まあいいや、あれ」
「なに」
「ウニ、大丈夫になったの」
忘れてた。ウニが嫌いな設定。もうそんなことはどうでもいい。「なんか平気になったみたい」と軽くあしらうと、佐野はじっとこちらを見ている
「なに…」
はあ、という顔をした佐野が人差し指で潮の顎をトントン、と二回叩いた。
「ねえ、なんで俺にキスしたの?」
人には説明を求めた癖に、自分はなんの説明もできないのか?と佐野に責められているような気がして、至極真っ当なご意見に逃げ場を失った。
「ねえ」
佐野がグッと寄ってくる。近い。やめてください。
「ごめんなさい」
「あのねえ潮君。僕は謝って欲しいわけじゃないんだよ」
「はい」
「今日の夕方、シフト終わったら一緒に帰ろう」
猶予をもらえたことにほっと一息つき、どんな言い訳ができるだろうと頭を働かせた。
潮君ってパソコン得意そうだよね、と館長に言われた時、潮は大きなため息をつきたくなった。はいはい、いかにもオタクですみません。と悪態をつきそうになるのを抑え「あれ、僕パソコン得意って言いましたっけ」と聞いた。意地の悪い質問である。
「あ、いやこの前パソコンでエラー出た時にすぐに原因特定してくれたから…」
「あ」
確かに、館長がメールが送信できないと慌てていたから、ファイルサイズを修正して送信できるようにしてあげた。そんなことを思い出し、先入観で人の思考を勝手に推測して悪態をついた自分を恥じた。
「すごく得意というわけではないんですけど、なにかお手伝いできることはありますか」
「ありがとう潮君…!あ、いやあね、売店の売上げをまとめていたんだけど、すごくわかりにくい表になっちゃって…」
館長が自分なりにまとめた表計算(と言ってもほとんど手打ちの数字だが)を見て、整理しておきますよ、と潮はパソコン仕事を引き受けた。
掃除も好きだが、パソコン仕事は自分に向いていると思った。機械は予測不能な動きはほとんどしないし、予測不能な動きにも必ず原因があり、それを解決する方法があるからだ。向き合っていて感情的に乱されることがほとんどない。
小一時間くらい作業していただろうか。カオス状態だった表計算が少しずつ片付いてきている。
「館長、これっていつまでに提出するやつですか」
「あ、今日」
きょ、今日?と潮は目をひん剥きつつ、安請け合いをしてしまったことを後悔した。館長はえへへ、という顔で媚びている。
「わかりました。今日やっちゃいます。多分あと一時間くらいで終わると思います…」
「あ、うん、終わったら帰っていいよ。ほら、なんか雨降りそうだし…潮君自転車でしょ」
窓の外を見ると、遠くに厚い雲が見える。南国の島は台風がつきものだと思っていたが、潮が泊島に来てから一度も激しい雨は降らなかった。こりゃ一気にくるだろうねえと館長がため息をつく。早く終わらせて、佐野と会わないでさっさと帰った方が良い。そうだ、佐野に会っている暇はなさそうだ。
一刻も早く終わらそうと潮が画面から目を離さず、手を動かし続けていると佐野がスタッフ室に入ってきた。なんでこのタイミングで君が来るんだよ、と心の中で半べそをかく。
「あ、見つけた。潮早く帰ったほうがいいよ。これ多分結構降ると思う」
「うん、もう終わるから…」
「潮君ごめんねえ…」
館長は申し訳なさそうにしながらコーヒーをすすっている。人に労働を委ねておいて、呑気もいいところである。
「できました!チェックをお願いします」
館長からひとしきり有り難がられた後、潮と佐野は小走りで自転車を取りに行った。すでに小雨のようなものが肌に当たったような気がする。
「ああ、これもうすぐちゃんと降るわ。小雨のうちにできるだけ走ろう」
佐野のいう通り、一キロほど海岸を進んだところでザアアと雨が降り始めた。視界が悪く、いつ事故になってもおかしくないくらいだ。
「これちょっとやばいんじゃない!」
目の前の佐野に声が届いているかも定かではない。「潮!ちょっと雨宿り!」と佐野は一百メートルくらい進んだところにあるバス停を指差した。幸い屋根があるところだ。二人はそこに自転車を停車させた。
「一時間くらい止まないと思う、もしかしたらもっと」
南国の雨を舐めていた。確かに一時間以上ここで待つのは厳しい。今もびしょ濡れで風邪を引きそうだ。
「ごめん…通り雨的なものかと思っていました…」
「南国初心者」
「ごめんって」
「まあいいや、ちょっと座って」
佐野はカバンからジャージを取り出すと、潮にシャツを脱ぐように促した。
「え、なんで」
「濡れたままだと風邪引くから、早く脱いで」
意図はわかるが、佐野の前で潮服を脱ぐのはちょっと躊躇われる。シンプルに恥ずかしい。筋トレをしているわけでもなく、痩せ型で貧相だ。シャツに手をかけたままもじもじしていると、佐野がまったく…と言いながら潮のシャツのボタンを上から外した。
「あっ」
咄嗟に佐野の手を掴んでしまう。
「何」
「いやっ」
「風邪、ひいてもいいの」
「…」
抵抗虚しくされるがままに潮は上裸になってしまった。佐野に見られたくなくて俯いていると、佐野は潮の体をタオルで拭いた。
「いいって!」
恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになった潮は顔を紅潮させて佐野を制止した。
佐野は一瞬動きを止め、潮の肩に手を置き、顔を潮の首元に近づけた。唇が首筋に触れようとした矢先、ピカンと空が光ったかと思えばどおおおんと轟音が響き、その三秒後にバス停の天井についていた蛍光灯が消えた。
「てい…停電!」
「結構近くに落ちたな」
佐野はさっさと潮の体を拭いた後、持っていたジャージを被せた。確かに暖かい。ありがとう…と佐野のほうを見ると、佐野は相変わらずぐっしょり濡れたシャツを着ていることに気づいた。
「佐野君、佐野君の体も拭いたほうがいいよ」
「いい。着替えないし。濡れたまま寝ても俺風邪ひかないし」
「でも…」
「いいの」
佐野は海を見つめながら「停電は危ないなあ」とぼそっと呟いていた。僕のせいで佐野に風邪をひかせるなんて、そんなことはあってはならない。潮は佐野の右肩を引き寄せ、シャツのボタンに手をかけた。
「ちょっと、いいって」
「着替えなら、ほら、このジャージ二人で被ればいいじゃん」
佐野のジャージは潮一人だと布を持て余している。二人で被ろう。
「佐野君が風邪引くのは、かわいそう」
佐野は相変わらず薄汚れた肌着を着ている。それを脱がすと、想像よりもずっと細い体だった。
「意外と痩せ型だろ」
「うん、いっぱい食べるから、意外」
潮は佐野の体を拭いた。他人の体をこんなに触ったことがない。人間の肌ってあたたかいんだなと思いながらタオルを滑らせた。
佐野は痩せているとはいえ、大きなその背中を拭いていると、佐野が男だということを実感する。潮は佐野の広くて白い背中におでこをつけた。あたたかい皮膚が自分の額に当たる。
「どうした」
「わからないんだ、自分の気持ちが」
「ん?」
「ごめん。急にキスしたりとかして」
佐野が戸惑っているのがわかる。ごめんなさい、でも自分の気持ちがわからない。なんでこんなに佐野が気になるんだ。佐野に触れたいと思うんだ。なにかを猛烈に好きになる瞬間ってわからない。いつからこうなのかも説明ができないから、終わりが見えなくて怖い。この先もずっとこんな気持ちを抱えて生きていくのだろうか。こんな気持ちを持っていたところで、僕はあまりにも不出来な人間で、不登校だし、暗いし、佐野も迷惑だろう。佐野は僕と違って、明るくて、優しくて、綺麗だ。そして僕らは、後一、二週間もすればもう顔を合わせることはない。そんな自分には届かないようなものを好きになって、この感情に意味はないだろう。ああ、非常に疲れる。届かないと薄々気づいているものにすがろうとしているのは、疲れるんだ。
「別に謝って欲しいわけじゃないんだけ…」
「わすれてほしい」
「は、なんで」
佐野は振り返り、潮の顔に詰め寄った。目が見れない。
「なあ、人の記憶ってそんなに簡単に消せると思うか」
「いや…」
佐野の声は怒っているようだった。怒っているのか?暗くてよく見えないが、悲しそうな目でこちらを見ているような気がする。
「俺のこと、そんなに嫌なのか」
佐野は悲しんでいる。そうじゃない、嫌いじゃない!と心が叫んでいるのに、声が出ない。
「好き…かもしれない」
やっとの思いで絞り出した言葉は曖昧で、さらに佐野を混乱させてしまいそうだった。
「でもごめん、好き【かも】しれないんだ。僕は男を好きになったこともなければ、女もない。恋愛経験自体がなくて、これからどうすれば良いのかもわからない。だから明確なことが言えないし、なにもできない」
「わからないんだったら、試してみれば」
「どういうこ…」
佐野は潮の顎を右手で引き上げ、キスをした。心臓に落雷したような衝撃、全身の細胞が痙攣した。言葉にならない感情を、潮は飲み込み、唇を押し返すことでしか抑えられなかった。
どれだけの時間が経っただろう。気づいたら街灯やバス停の電灯も点灯していた。佐野と潮は一つのジャージを羽織り、ぽつりぽつりと話しながら、車が通らない時を見計らって何度もキスをした。
突然目の前に大きな車が止まり、窓が開いた。
「ちょっと!君たち大丈夫?…って佐野と潮君?何してるの!」
車には館長と小鳥さんが乗っていた。電気が復旧したタイミングで、帰る途中だったらしい。そんなところで風邪引くよ、早く車に乗りなさいと佐野と潮を押し込み、後部座席を倒して自転車二台をすごいスピードでしまい込んだ。
「手品みたいだな」
「いいから!佐野ってどこに住んでるの!住所!」
「あ、潮のほうが近いですよ。僕街の中なんで」
「じゃあ潮君、どのあたり?先におろすよ」
「ああ、ここ曲がってまっすぐいったところの郵便局あるじゃないですか、あのあたりです」
後部座席の右側には佐野がいる。冷たい小指が僕の太ももに当たっているのがわかる。風邪を引かなければいいんだけど、と心配していた潮は、その後少しだけ風邪を引いた。
激しい雨で次の日は休館になったので、いつもより重たくなった体を休めることができた。佐野に「風邪ひいてない?」とメッセージを送ると「全然平気」と返信が来た。
悶々とした気持ちを抱えながら過ごす一日は長く、こんな日に気を紛らわせる手段を潮は知らなかった。朝起きては昨日のことを反芻し、一人で恥ずかしくなって「うっ」と思わず叫んでしまった。朝食も進まず、祖母がいよいよ心配している。
一連の出来事で、自分が佐野に特別な感情を抱いていることをようやく自覚した。佐野との出会いから今まで起こったことを順番に思い出す。どこで特別な感情が芽生えたのかは本当にわからない。ただ全てが大切で、忘れ難い思い出だった。
佐野とのこれからはどうだろう。次はいつ会えるんだろう。次は何を話そうか。またキスできるのかな。佐野に早く触れたい。この気持ちの果てしなさを、人は恋や愛と呼ぶのだろうか。
昨日バス停で起こったことも、反芻しすぎた結果、頭の中で美化して映像化され、現実味が失われつつあった。佐野は果たして現実に存在していたのだろうか。いや存在している。
メッセージを何か交わそうとスマホの画面を凝視していると、佐野から着信が来た。慌てふためきつつ電話をとると『わ、すぐ出た』と佐野が言った。
『たまたまスマホ見てて…どうしたの』
『いや、特に用事はないんだけどさ。潮、暇してるかなと思って、連絡してみた』
『暇だったよ。台風で外にも出られないし、家にいてもすることないし』
話したくて話したくて、ずっと佐野のことを考えていた。口が裂けても言わないが、声にその嬉しさが出てしまわないように意識的に低いトーンで話す。
『しばらく雨降ってなかったからな、これは…今日一日かかるな。明日も掃除大変そう』
『そうだね』
『あ、そういえば潮が東京帰るのって二十七日だっけ』
嫌でも意識させられるお別れを佐野が切り出して来たものだから、心がズキリと痛んだ。
『…うん』
『観光とか…十分にできた?』
『いや、海洋館に行ったっきり、どこにも』
『まじか、木曜どっかいかね?』
『え、いいの』
『うん、俺も潮とどっか行きたいって思ってたし。市街地って言っても観光っぽくないしな…ちょっとバスに乗らないといけないけど、良い?』
『良い!木曜ね、休館日。空けておくね』
『決まりな、風邪引くなよ』
『佐野君もね』
『なあ、もう君付けやめてくんない?名前で呼んで、翔って』
『あ、うん…翔?』
『はは、変な感じ。やっぱなし、佐野って呼んで』
『なんだよ…、佐野ね、了解』
自分を絶望させるのも、天国まで押し上げるのも、今は佐野次第なのだ。自分の世界が佐野に委ねられている感覚ははっきり言って正常じゃないのだろうが、こんなに心地のいいものなのかと思った。
木曜日、潮の家のすぐ近くのバス停で待ち合わせをして、佐野が言うバスに一緒に乗った。そこから一本だけ乗り継いだ先に静かなビーチがあるのだそう。ポツポツと家があり、ここになんの観光地があるのか潮には検討もつかなかった。
昨日一昨日と、海洋館で佐野と顔を合わせる度にどこに行くのかと尋ねても、サプライズだから、と言って何も教えてくれない。正直どこに行くにしても大して興味はなかったが、ただいたずらっぽく笑う佐野が見たくて、潮は何度も聞いた。
バス停を降りて、地元の食堂とガソリンスタンド以外に何もない道路の端を少し歩いた後、佐野は急に体を左に向けて雑木林の中に入って行った。
「え、何?」
「いいから!来て!」
ほぼ道のない道を歩いていく。木々から漏れる陽の光が南国の植生を照らしていて、とても綺麗だ。潮は東京から一眼レフを持ってこなかったことを後悔した。目に焼き付けておこうと、できるだけ佐野と距離をとって、景色を目に焼き付けようとした。
「なんでそんなに離れてるの?ハブに噛まれるから、早く歩いて」
佐野は潮の手を握り、すごい早さで雑木林を駆け抜けていく。
「ほら、前見て」
佐野が歩く先を見ると、十メートルほど先に白浜と海が広がっていた。
「わあ、すごい、砂白い」
「ここあんまり人こないから、ほら、早く」
雑木林を抜けると、人ひとりとしていない真っ白なビーチと、キラキラひかる海がひたすら水平線に広がっていた。海にはひとつ、変な形をした大きな岩がある。
「あれ見せたかったんだよ。岩、見える?ゴジラ岩。ゴジラに見えない?」
言われてみれば確かに、ゴツゴツした体から手がにょきっと出ていて、てっぺんの形が咆哮しているゴジラのように見えなくもない。
「確かにそうか…?でもゴジラ岩ってこの島で有名だっけ?聞いたことないけど」
「俺がそう見えたからいいの、小さい頃あれ見て泣いてたらしいぜ」
「えっ、なにそれ、かわいいね」
「ゴジラがこっちに来る!って、ギャン泣きして、母さんを困らせてたらしい」
「ははは、確かに、波が高かったりするとそれっぽく見えるのかな。小さい頃って大きいものが怖かったなあ」
「な、怖いだろ」
佐野は砂浜に腰をおろし、目を細め、ゴジラ岩を懐かしそうに見た。わざわざこれを見せたかったのか。観光地ってどこだろうと思って、ネットで少し調べたが、的外れだった。佐野らしいと言えば佐野らしいが。そういうところも好きだと思う。
「…また九月の連休に泊島に来たいな」
「え、本当に」
本当は泊島から出たくない。佐野とずっと一緒に海洋館で働いていたい気持ちは間違いなくある。だが、これから先の人生を思うと今高校をやめることが最善の選択だとは思わなかった。
「うん。長い休みの時は、絶対泊島に来る。受験期はわからないけど…。でも電話とか、ラインとか、佐野ともっと話したい」
「うん」
「泊島の大学とかあるのかな」
「はは、わかんない。潮が泊島に来なくても、俺が東京行けばいいってことじゃない」
「え、ほんとに?待ってていいの?」
「はは、会いに行くよ。学生のうちは多分金ないから、高校出たらすぐ働くと思うし、金貯まったら会いに行く」
潮は左手を佐野の右手指にそっと重ねた。握り返してくれなくてもいい。佐野の温かさが好きなのだ。できるだけ長く触れたい。ただ、佐野の目線が自分に流れた瞬間、恥ずかしくなって手を離してしまった。
「ねえ!あの…この後何もなければで良いんだけど。そばを食べに行きたい。市街地にある有名な中華そば屋さん」
「ああ、蓬萊?あそこ混んでる…でも今から行ったら一時か。空いてそうだし行くか!」
勢いよく立ち上がった佐野は、服についた砂を払い、右手を潮に差し出した。
「ほら、手、つなごう」
嬉しさで心が空まで跳ねた気分だ。このままハブに噛まれて死んでも後悔しないだろう。 結局、バスでもずっと手を繋いでしまった。こんな幸せなことがあっていいのだろうか。好きになった人と手をつなげている。奇跡である。
市街地に出て、中華そばを食べた後、潮の家の近くまで佐野が送り届けてくれた。楽しい時間は一瞬だ。休館日はあんなに長く感じた一日が、今日は目を瞑って開いた瞬間に終わったのではないかと思うくらい早く感じる。
「じゃあ、またあした」
「うん、またあした」
この時の僕は、とても幸せだったと今でも思う。何も知らない、知ろうともしない人間の方が幸せでいられるのであれば、僕は無知であり続けたかった。
泊島に来てからもう三週間が経とうとしていた。祖母との生活や海洋館でのバイト生活が日常となりつつある。
祖母は朝は決まって六時に起きて、味噌汁の出汁をとる音で潮の目を覚まさせた。祖母の朝食は和食で毎朝ご飯、お味噌汁、卵焼き、納豆。毎日食べて飽きないのかと聞いたら、飽きる?贅沢だねぇと一蹴された。父から聞かされたのか、潮がこの家で迎える初めての朝から食パンを用意してくれていた。
それぞれの朝食を、祖母の世間話を聞きながら食べる朝が好きだった。
祖母は特別穏やかな性格ではなく、どちらかと言うとぶっきらぼうで大雑把だ。潮の一言に対して悪態をつく祖母を見ながら、自分はこの人の孫なんだなぁと思った。
夕食は何がいいかと聞かれ、なんでもいいと潮が言うと、なんでもいい、だと?贅沢な子だねぇと言いながら結局潮が初日に好きだと言った唐揚げを揚げていた。
自分が東京の高校にうまく馴染めていないことを、祖母は知っているのだろう。祖母の家では学校の話を一切しなかったが、祖母からそのことについて特に質問をされないのは、潮が学校に行けていないことを知ってるからだと思う。
腹は空いていないか、一人で大丈夫なのか、よく眠れているか。祖母が気にするのはいつもこのようなことばかりだった。
潮が東京に帰る二日前の夕方、祖母が珍しく「たまには外で食べよう」と言い出した。いつもは自炊ばかりの祖母が、潮を外食に誘うのは滅多にないことだった。市街地に向かう海沿いの道を車で走る。祖母は鼻歌まじりにハンドルを握っていた。相変わらず運転が荒く、潮は時々シートベルトをグッと握った。
「ソウ、夏休みにこっち来てよかったと思うかい」
赤信号で止まった時、祖母がぽつりと言った。
「なんで?」
「この島に来た時はなんかこう、辛気臭い顔してたじゃない。最近はよく笑うようになったと思う。海洋館のバイト、楽しい?」
「うん、楽しい」
「そう。そうかい、楽しいのが一番だね」
ファミリーレストランに着き、案内された窓際の席に座ると、祖母は早速QRコードでドリンクバーと食事の注文を済ませ、コーヒーを取りに行った。非常に手慣れているので、おそらくこのファミリーレストランにはよく来るんだろう。店に入ってからコーヒーを持ってくるまで三分ほど、祖母はやれやれといった様子でボックス席に座る。
「東京帰るの明後日じゃない。この後お土産とか見に行くかい」
「ああ、お土産は港で買うからいいかな。今日は家でゆっくり片付けしたり、部屋掃除しようと思う」
「早いねえ、あっという間だった。もっとゆっくりしていってもいいのに。まぁ、ずっといられても困るんだけどさ」
祖母はドリンクバーのコーヒーに「相変わらず不味いねぇ」と悪態をつきながら、窓の外に目をやった。
「帰って、どうするんだい、学校」
今まで学校のことについて全く話さなかった祖母に意表をつかれ、一瞬心臓がドキンとする。東京に戻ったら学校に行くとすこし前から決めていた。学校に行って、勉強を頑張って、友達を作って、そんなことを自分も楽しんで良いのではないかという考えが自然に生まれたのは、この島にきたおかげだと思っている。
「行くよ。二学期から、ちゃんと」
言葉に出すと、その言葉はやはり取り消せないと思う。祖母に学校に行くと伝えたのは潮の決意表明だ。祖母、佐野、館長、小鳥など、この島や島の人に対して潮は決意表明を行ったのだ。
「そう。そうかい」
頑張ってねと言われるのかと思ったが祖母は目を細めて言った。
「ソウはソウのしたいことを、すりゃいいんだよ。人生に王道も邪道もなし、今自分が何をするべきなのか、自分の頭で考えな」
「おばあちゃんは、学校に行った方がいいと思ってた?」
「わからん。それはソウ次第。ばあちゃんが言ってるのはそんな小さなことじゃない。学校に行くか行かないかなんて一つの決断でしかない。自分が何が好きで何が嫌いで、どう生きていきたいかを、考えるんだよ」
「うん…」
何を言っているのか、わかりそうでわからない。高校や高校での社会生活が世界の全てと言っても過言ではない高校生が、学校に行かないという選択をするのは邪道であり、怠けであると潮は思っていた。
「そのうち、わかるさ。ソウはまだ未熟、青リンゴ、ケツの青いガキだよ」
「ははは、言い過ぎだよ。うん、ありがとう」
「またおいでね、ばあちゃんが生きてる間に」
本当に自分は、泊島にきてよかったんだ。自分の世界はもう明るくないと思っていた三週間前と比べると、本当に夢のような現在である。
「飲み物、取ってくるね」
潮は席を立ち、ドリンクバーのコーナーへ向かった。
隣のボックス席に、学校帰りらしいジャージ姿の男子高校生が三人座り込んでいた。大量のポテトと、ドリンクバーのみ注文をして先ほどからずっと話し込んでいる。自分も東京に帰ったら、こんな感じで友達とファミレスで話し込みたい。
「あー疲れた、今日の練習マジきつかった」
「十本ってやばいよな。一本でもあの坂は急なのに十本て」
「でもしょうがない、次の新人戦で俺三千だし」
「三千やべえ、俺短距離だからほんとに無理」
陸上部だろうか。この辺りの高校か?思わず聞き耳を立てる。佐野が陸上部に所属しているが、新人戦については聞いていない。佐野も出るのだろうか?もしそれで優勝したりしたら、都内に遠征にきたりするのだろうか。
「そういえばさ、佐野って覚えてる?」
手が止まる。佐野?聞き間違いだろうか。潮はドリンクバーのボタンを押すのをやめた。
「佐野?ああ、もう全然学校来てないやつ?」
「そうそう。この前、海洋館でバイトしてるの見たわ、俺」
「え、まじで?あいつ結局学校辞めたんだっけ」
「辞めたって聞いた。金ないから夜間にも行けないとかで」
「うわ、まじ。しんどいな、それ」
自分の知っている佐野だろうか?海洋館でバイトしているって言ってたから、そうか。他に佐野っていないもんな。でも佐野は学校やめたとか一言も言っていなかった。コップを持つ手先が冷たくなるのを感じる。
「前に工事現場の警備員のバイトしてるところ見たって女子が言ってたな。深夜の工事現場の誘導?的な。貧困家庭とかもうそういうレベルじゃないだろ、あいつ」
「マジか、かわいそうだな…」
「まあでも、関わり方むずいよな。お金貸してって誰かが聞かれた〜みたいな噂もあったし」
「えー、それはないな」
「いやあ、本当に困ってんだと思うよ。親もいないって噂もある」
ボックス席に座っていたその男子生徒三人は、フライドポテトをつまみにドリンクをすすりながら別の話題に移っていった。
潮は自分の見ている世界が急に歪むのを感じた。海洋館っていうのは聞き間違いだったかもしれない。佐野は高校に行っていて、母子家庭で母親と暮らしている。とにかく自分の知っている佐野がそのままであることを証明したい。
「あの、すみません。たまたま聞こえちゃって、その、あの…佐野って…」
三人が誰お前、という顔でこちらを見ている。
「あ、佐野の知り合いとかですか?」
「あ、わからないです、佐野って、あの、佐野…佐野翔ですか?」
「そうそう、佐野翔ね。学校辞めて、今は海洋館で働いているっていう目撃情報。佐野がどうかしました?」
祖母に「ごめん、先に帰っていて」とだけ伝え、潮はファミレスを出た。全力で走りながら、頭の中で、これまでの出来事を思い出す。
なぜ自分は気づかなかったのだろう。
バックヤードを掃除している時、佐野の高校の話になった。俺本当に勉強もできないし友達もあんまいないよと笑う佐野を思い出す。その時は、すごく意外だけど自分と共通点があるようで、なぜだか嬉しくなってしまった。だから自分たちはここまで気が合うのかと勝手に自己解釈していた。
だがよく考えてみれば、海洋館でも年齢関係なくうまく馴染み、生物はもちろん人の面倒見もよく、快活な佐野に友達がいないのはおかしい。すこしでも【自分と同じ】だと思ったのがバカである。
佐野はなにか訳があって本当のことを自分に話さなかったんだろう。母子家庭について少しだけ話してくれた時も、まあそれが当たり前ですよといった態度で、やけに大人びたやつだと思った。自分が何度か、いや何度も佐野に気を遣わせていたかもしれないと思うと、お腹が痛くなる。
この三週間はどこまで本当で、どこまでが嘘なのだろう。自分は佐野の何を知っているのか。考えてみれば、佐野のことをあまり知らない。佐野の母親に会ったこともない。どんな家に住んでいるのかもわからない。どんな友達がいたのかもわからない。毎朝何を食べているのか、誰と食べているのか、全くわからない。そもそも、自分はなんで佐野のことを好きだったんだろう。佐野の何も知らないくせに。佐野と自分の気持ちが一緒だなんて、一瞬でも思ってしまった。ああ、喉の奥が痛い。謝りたい。
海洋館に着くと、閉館時間ぎりぎりで、佐野はちょうど館内で掃除用具の片付けをしているところだった。
「あれ、潮じゃん。会うのって明日じゃなかったっけ」
そこにはいつもと変わらない【自分が知っている、いつもの佐野】がいた。もうこのまま何も言わずに東京に帰って、その後も知らないふりをして生きていくこともできる。その方が衝突をしなくていい。
でもそれでいいのだろうか。きっと傷つくと思う、というか、もうすでに傷ついている。本当の佐野を知らない方が嫌だ。
「佐野」
「なに、怖い顔して」
「あの、本当に聞きたいことあって。あの、ごめん。うまく言えなくて」
佐野の表情から笑みが消えた。
「なんかあったの」
「うん、さっき佐野と同じ高校【だった人】と少し話して…」
佐野の目がひゅっと開き、その後長い沈黙があったように感じる。バックヤードの水槽のポンプの音が大きく響いていた。
「…そう」
やがて、佐野は短くそう呟き、何も取り繕おうとしない。
「バイト終わったら、うちに行こう、一緒に」
佐野が自転車を押し、いつも通っている道を並んで歩いた。
「まあ何を聞いたのかは大体想像つくし、潮が知る必要がないと思ってたから言わなかっただけなんだけど。高校生っていうのも、まあ、厳密には元高校生。今年の五月に退学してる。陸上部だった。それは本当で、まあもう辞めてるけど。なんでやめたかって聞かれるとちょっと長くなるんだけど」
まるで他人ごとのように話す佐野は、すっと息を吸う。
「母さんは、母さんはもういない。去年の冬。突然いなくなったんだ。母さんが出てった時、机に一万円が置いてあって。<これでご飯食べて!>ってメモに書いてた。ラッキーって思ってその日友達と焼肉行っちゃったよ。はは。まあ俺の母さんってずっと一人でふらふらしてる人だったし、過去に一ヶ月くらい家を空けてたこともあったから。また帰ってくるかなって思ってたけどさ、もうずっと帰ってきてない。父さんとはずっと前に離婚してるからその、お父さんに当たる人も知らないし、母方もほぼ実家と絶縁してて頼れる親戚もいなくて、ずっと一人で暮らしてる」
自転車のチェーンの音がかちゃかちゃとなっている。潮は佐野の顔を見ることができなかった。
「そうしてるうちに学校で呼び出されて、学費が振り込まれてないって言われた。学費って高いんだぜ、意外と。学校になんとなく嘘ついて、ちょっと納付期限を伸ばしてもらったりして、すぐ深夜の警備員バイトした。時給よくて。でもさ、深夜に働くから朝がどうしても起きられなっちゃって、学校遅刻することが増えて授業中もまあ眠くて。陸上部はすぐやめたな。バイトしたいし、遠征費も払えないし。そんなこんなで、あれ、俺なんで学校行ってるんだっけってある時こう、全部どうでもよくなっちゃって。どうせ大学にも行けないんだしこのまま働いた方がいいなって思って、先生に本当のこと全部伝えて、学校辞めますって言った。いつ学費を払ってもいいようになんとかするからって言ってくれた先生もいたけど、でもほら、自分にとって高校よりも今を生きることの方が大事だったから、結局ね、退学した」
海沿いの道は西陽が強く、二人の影を長く伸ばしていた。
「なんで、今まで一度も、僕にそのことを言おうと思わなかったの」
潮がようやく声を絞り出すと、佐野は少し笑った。自嘲するような、乾いた笑いだった。
「んー、なんだろう。プライドなのかな。言ったら、俺のことかわいそうとか思うだろ」
「そんなことないよ」
「可哀想な子、って目で見られるようになる。学校の先生もそうだった。親に捨てられた可哀想な子。気を遣われて、なんでも許されて、でもそれって結局、対等じゃないってことだろ。まあ、それだけじゃないよ。嫌われたくなかったんだと思う。潮に。普通の高校生活を送ってない、金もない、家族もいない。待ってる未来が潮と俺じゃ違うから。そりゃ俺も、俺も普通の人生がよかったよ」
潮は何も言い返せなかった。対等でいたかった、という佐野の言葉の意味が、痛いほどわかったからだ。腫れ物のように扱われることがどれだけ人を孤独にするか、自身がよく知っている。
「普通じゃないのは僕も一緒だろ…」
「まあ、そうだけど」
自分が今まで佐野に「普通でいてほしい」と無意識に思っていたのではないだろうか。自分が普通ではないから、普通に見える佐野と特別な関係になれたことを喜んだりしていなかっただろうか。今言葉を紡いでも、弁解にしかならないような気がする。
「ここが、俺の家」
海洋館を出てからもう何分歩いただろう。住宅地の外れ、木造の古い平屋があり、その前で佐野は自転車を止めた。
玄関の引き戸は建て付けが悪いのか、佐野が力を込めてがたがたと開けた。中に入ると、古い家の湿った臭いがした。狭い台所には洗っていない食器が積まれ、居間には敷きっぱなしの布団と、ベランダには、色あせた下着や服が無造作に垂れ下がっていた。ほぼ落ちかけた西陽が縁側から差し込んで、部屋全体を明らかにしている。
言葉を失った。ここでずっと一人だったのか。佐野が一人、この中で息をひそめるようにして生きてきた痕跡を潮は一つ一つ確かめた。
「汚くてごめん。まあ、適当に座って」
佐野は縁側に腰掛けた。潮は佐野と背中を合わせるようにその横に腰を下ろし、膝を抱えて天井の染みを見上げた。
「俺、多分、もう普通の人生は送れない。この島でずっと働いて、一人で生きていく」
その言葉を聞いた瞬間、潮の目から涙がこぼれた。佐野にバレないようにサッと拭く。でもいくらこぼれないように頑張っても、空気を読まずに涙は流れ続けた。
「なんで、泣くんだよ、やめてよ」
「だって、」
言葉にならない。佐野がずっと一人で、この部屋で、誰にも打ち明けられずに耐えてきた夜のことを思うと、胸が潰れそうだ。顔をくしゃっとさせて笑って、たくさん食べて、潮の面倒を焼いて、ウニの話を嬉しそうにする佐野の裏側に、こんな静かな時間があったなんて、想像もしていなかった。
「ごめん、佐野君が一人で頑張ってたこと、僕、何も知らなくて。バカだなって思って、ごめん」
潮は涙を拭いながら、まっすぐに佐野を見た。
「必ず、僕が迎えに来るから。今すぐには何もできないけど、大人になったら、絶対に。佐野を一人にしない」
佐野は少しの間、黙って潮を見ていた。それから、静かに首を振った。
「いい。来なくていい」
「なんで」
「俺はそんな、潮に慈悲をかけられたくない。言っただろう、対等じゃないのは嫌だ」
「そんなつもりない」
「俺と潮は全然違うんだよ。俺、普通じゃないんだよ。これからもそう。潮はそれを分かってないよ。もっと普通の人と仲良くなって、付き合ったり、家族になったりした方がいい。だから、俺のことは忘れてよ」
「意味わかんないよ…。忘れられるわけないよ」
潮は縁側に足を外に出して座ってる佐野の手を取った。佐野は握り返して来ない。
手を握り返して来ない佐野に対して一層不安になる。明らかにしたいのは、佐野の高校についてや母親についてだけではない。正直隠し事があったことはもうどうでもいい、自分と過ごしたこの三週間は、佐野にとってなんだったのだろうか。言葉が続かない。喉の奥が痙攣するように震えて、うまく息が吸えない。ここで聞かなければ一生後悔することになると思った。
「佐野、ねえ…。佐野は、僕のこと少しでも好きだった?」
繋いだ手のひらに、大量の汗が滲んでいく。佐野の指先は冷たく、力が入っていない。嫌な予感がして、潮は顔の筋肉を緊張させた。
「佐野…僕は…」
潮の声をかき消すように、佐野は繋がれた手を離した。
「好きだったら、なに」
「僕、佐野を迎えにきたい。迎えに来られるのが嫌だったら、いくらでも待てるし、何年でも。佐野が一人でも生きていけるようになるまで、僕も自分のやるべきことをちゃんとやって、それで、また」
「だからやめろよ」
佐野が初めて声を荒げた。今まで聞いたことのない、はっきりとした拒絶を感じる声だ。
「待つとか、迎えに来るとか、無責任なこと言うなよ。俺は潮を待たせるために生きてるわけじゃない。そんなの、耐えられない、俺の気持ちがわからないのか」
「そんな…」
「だから、好きじゃない。…好きじゃないよ、潮のこと」
佐野は潮を見ずに言い放ち、潮を置き去りにした。
「夏休み暇だったから、お互い遊んでただけ、でしょ。潮は東京の学校に戻るし、俺はこの島に残るよ。今までの生活に戻るんだよ」
目の前が真っ暗だ。潮は何も言えないまま、その古びた家を後にした。夜の海沿いの道を、一人で歩いて帰った。街灯の光がアスファルトに反射して青い。
好きだったよ
本当に大好きだったんだ、佐野が
佐野も同じ気持ちなのかなと思っていたよ
言えなかった言葉を心で何度も復唱した。これが、潮と佐野が離れ離れになる前の、最後の夜だった。
佐野の家を出てから一時間ほど歩いている。祖母の家へと歩く足が、途中から止まっていることに気づいた。立ちくらみのようなものを感じたので、潮は海沿いにあるバス停でしばらく休んだ。
三週間前、フェリーのデッキで感じた海風のことを思い出す。あの時は、この島に来たところで何も変わらないだろうと思っていた。海洋館で佐野に出会い、そこから始まった全てが、潮にとっては人生で一番眩しい日々だった。ヒトデの水槽を磨いた朝も、稲刈り機みたいに何でも食べる佐野の横顔を眺めていた昼も、雷の中で寄り添ったバス停の夜も、全部、潮にとっては嘘ではなかった。
四日前くらいだろうか、海亀の餌やりゾーンに指輪を落としたというお客様がいた。ウズラ君を探し出してから、潮は探し物の度に駆り出されるようになった。佐野と潮が二人で手分けして探すと、指輪は岩と岩の間にきゅっと挟まっていた。その絶妙な挟まり加減でなかなか取れず、そのあまりの頑固さに二人で爆笑してしまった。結局指輪は格闘の末取れたけど、しゃがみ込んで夢中で作業していたからか、佐野と潮のお尻が水でびちゃびちゃになった。店長に「大人二人でなにしてるの」と怒られ、また笑ってしまった。
佐野にとって全ては遊びだったのだろうか。自分だけが佐野に触れる度にドキドキして、夜寝る前に会話を思い出したり、離れ離れになることに心を痛めたりしていたのだろうか。突っぱねられてしまった以上、もう確かめる術はなく、潮は諦めて再び歩き出した。
家に帰ると、祖母は遅かったねえとだけ言い、何をしていたのかと詮索することはなかった。潮の顔をじっと見て、それから「ご飯食べて、ゆっくりおやすみ」とだけ言い自室へと消えた。食欲がないので用意してくれていた夕食にラップをかけ、冷蔵庫に入れる。
自室に戻り、布団に潜り込むと、東京から持ってきた文庫本が目に入った。佐野が「本とか久しぶりに触ったわ」と言いながらめくっていた、あの本だった。潮はそれを胸に抱えたまま、祖母にバレぬようひっそりと泣きながら眠った。
東京に戻ってからというもの、潮は誰とも口をきかなかった。荷解きをして、部屋の掃除をして、制服にアイロンをかけて、新学期に向けてやるべきことを一つずつこなすことで、泊島での思い出を一つ一つ奥にしまった。できるだけ早く切り替えるんだ。
佐野との最後は正直、人生の中でもかなり辛い別れであった。あまりにも引きずってしまいそうで、フェリーのデッキから遠ざかる泊島を見た時に絶望しそうになった。もうこんなに好きになれる人に会えるかもわからない。なのに、当の本人には二度と会えないかもしれない。不毛である。こんな気持ちを持つことは本当に不毛である。
佐野との思い出は、心の中に大切に仕舞っておくことにしよう。あんなひどい別れ方をしてしまったけど、佐野と過ごした約一ヶ月は紛れもなく、自分にとっては楽しい日々で、本物の思い出だった。思い出そう、楽しかった思い出だけを。完結した物語として自分の中で昇華するんだ。
二学期の始業式に出席するため学校に向かうと、去年までは毎日通っていた校舎がまるで別のもののように見えた。夏休み前と変わらない校舎、制服の群れ。だが以前のような疎外感はなかった。疎外感といえども、自分が勝手に作り出していたものであり、周りの環境がそうさせたわけではないことを潮は思い知った。贅沢な悩みを持っていたのだと思う。
教室に入ったときに数人がこちらを横目で見たような気がしたが、夏休み前に二週間以上休んでいた、今にも死にそうな生徒が急に登校してきたのだから当然だと思う。なんで急にきたの?来なくていいのに。誰かにそう言われたらどうしよう。ネガティブが再発しそうになったが、「自意識過剰」と、自分に言い聞かせることで心を落ち着かせた。
そうだ。他人はそこまで他人に興味がない。自分のことでいつも精一杯なんだ。他人には見えない【なにか】と一人で戦っていたりするのだ。影の薄い不登校の生徒のことなんて気にしている暇はないのだ。
「あれ、あのさ、それ泊島のだったりする?」
隣の席の男子生徒が急に声をかけてきたので、自分に対して話かけられているのかどうか、最初はわからなかった。名前はおそらく栫井(かこい)…栫井と呼ばれていた気がする。多分弓道部。彼は潮が鞄につけていたキーホルダーを指差している。丸いフォルムのウニをモチーフにした、海洋館の売店で買った小さなマスコットだった。
「え、なんで知ってるの?」
「うち、じいちゃんが泊島出身でさ。ほら、俺の苗字珍しいじゃん、栫井ってそっちの苗字らしいよ。まあそれはいいんだけど、去年の夏休み泊島に遊びに行って、そう、泊島海洋館。あそこの亀の餌やり体験、めちゃくちゃ楽しかったわ」
「亀」
勢いよく話す栫井の言葉に頭をフル回転させながらも思わず声が漏れ、潮は祖母が話していた、幼い頃の自分の逸話を思い出した。亀に手を齧られて、海洋館中に響き渡るような声で泣いたという、あの話だ。
「亀、噛むよね」
「え、噛まれたの?」
「いや、覚えてないんだけど。昔、亀の餌やり体験して噛まれたって祖母に言われて。全然覚えてないんだけど」
「そうなんだ。おばあちゃんが泊島出身ってこと?」
「うん。そう、おばあちゃんの家がある。夏休みの間、居候してて。その海洋館でバイトもしてたよ」
夏休み明けに同じクラスの人たちが、海に行った、部活の合宿があった、そういう「普通の話」をしているのを隣で聞き、勝手に肩身を狭くするのが恒例行事だった。他人に挨拶をされることさえ恐怖、ましてや夏の思い出を聞かれるなんてもってのほかだった自分が、同級生と共通の話題で盛り上がるなんて、前代未聞の大事件である。この状況に身震いし、絶対に失敗してはならない、失言しないように…と考えかけたが、これも自意識過剰であるのかもしれないと思うと、会話が一層難しく感じる。みんなよくスラスラと会話できているものだ。
「ええ、あそこでバイトしたの。どうやって?一ヶ月とかバイトできるんだ。いいなあ、俺も行きたかったわ、楽しそう…」
「うん…なんか騙されて働かされた、に近いかも」
「どういう意味」
「あはは、結局は楽しかったんだけどね。みんな優しかったし」
「いいなあ、泊島の写真ないの」
「まあ、ちょっとある、これとか…」
パラパラと写真フォルダをみていると、佐野が海に入ろうとしているところを隠し撮りした写真が出てきた。咄嗟に次の写真にスワイプする。本当は佐野のことを話したい。この学校中に自慢したい。こんな素敵な、大好きな人に出会うことができたんだって言いたい。でもあんな別れ方をしたものだから、思い出を楽しく話すのはちょっと嘘をついているような感覚になるだろう。胸の奥が痛んだ。仕舞い込んだと思っていた思いは、まだ生傷として膿んでいるのだ。
だが潮は泊島に心から感謝した。栫井とのちょっとした会話だったが、大きすぎる一歩だ。その日を境に、自分の学校生活は少しずつ変わっていったように思う。もちろん、以前のように「グループに入れない」という感覚が完全に消えたわけではない。今でもペアになってください、という掛け声には緊張するし、休み時間、誰とも話さずに一人で過ごす日もある。それでも、自分が人からどう見られているかを過剰に気にすることはなくなった。
担任の教師から「潮君、なんか明るくなったね」と言われた。そうですかね、と返すと、「そうね、前は言っちゃあれだけど、だれにも話しかけられたくない!ってオーラあったけど。最近はこう、ほがらかよ」とほっとした様子だった。潮が嫌がらずに学校に毎日行くようになったからか、両親もその前向きな変化に気づいており、以前のように腫れ物に触るような接し方を徐々にしなくなった。誰も潮の【変化の理由】を聞いてこなかったのはありがたく、少しだけ寂しかった。自分を変えてくれたのは明らかに泊島であり、佐野である。なのに、彼について話すことができない。透明化されていく彼の存在に引っ張られ、潮は自分の記憶まで失ってしまいそうだった。
正直わからない。忘れた方が楽なのだと思う。自室のベッドに横になると、毎晩いつも同じことを考えた。佐野は今頃何をしているだろう。あの古い家で、一人、夕飯を食べているだろうか。お腹いっぱい食べれているのだろうか。お風呂には入ったか。よく眠れているのか。寂しくないのか。そんなことを考えてもわからないものはわからないし、自分が苦しい思いをするだけだった。佐野とは連絡先は交換したままだったが、あの日以来、一度もメッセージを送っていない。忘れてと佐野に言われてしまった以上、忘れたふりをするしか誠実な行動は取れないと思う。
佐野のことは忘れられるわけがない。でももう絶対に会えない。会おうとしたり、連絡をしたりすることが自分中心的な考えであり、佐野のためにならないことに気づいた。いつか迎えに行くとも言ったが、それができるだけの力量もないくせに、なんて無責任な言葉だろうと反省した。それに佐野は迎えにきて欲しいなんて一言も言っていないし、迎えに行くから待っててなんて、とても偉そうだ。
どうか忘れてという優しいお願いすらも聞き入れられない自分勝手な僕は、佐野を想う資格もないのだ。
さっさと忘れよう、温かい皮膚も、小波のような息遣いも、くしゃっと笑う顔も、全部忘れてあげようじゃないか。
秋が深まる高校二年生の十月、教室の空気が受験勉強モードに少しずつ変わりはじめていた。文化祭の後片付けが終わると、掲示板には「進路希望調査」の紙が貼り出された。担任からは「今本気にならないと遅いぞ」と授業の度に脅され、生徒の中心的な話題も恋や部活の話から模試や塾のテストの話に変わりつつあった。
「潮君は、どこ受けるか決めた?」
進路相談の面談で、担任にそう聞かれた時、潮は言葉に詰まってしまった。行きたい大学とか、将来の夢とかそもそも考えたことがない。そもそも夏時点では出席日数の関係で高校を卒業できるかも危うかった。突然、目の前に無数の選択肢が広がる。
「あの…大学って、どうやって決めるんですか。そもそも僕って大学行けるんですか」
担任は、はあ、何を今更、と言ったような目をした。それはそうだ。みんな希望大学を決めている。そこそこの進学校なので、大学の決め方さえわからないやつはこの学校にはいない。
「うーん、まずね、潮君は大学に行こうと思えばいけるよ、日本は生徒の数よりも大学が多いんだから。選ばなければどこかには入れる。でもほら、家庭事情とかあるでしょう。私立はダメとか、関東圏内の大学にしなさいとか言われていたりする?」
「いえ、特には。前に大学の話をした時は、どこでも、海外でもいいよって言われました」
「あら、そう、それは本当にラッキーだよ潮君」
「ラッキー?」
「そうよ、お金はいくらでもかけるから、好きなことしなさいってことでしょう。いるのよ、国公立じゃないとだめとか、私立に行くのであれば全額免除の奨学金取りなさいとか、そういう制約がある人も結構いる」
言葉に殴られるとはこのことだ。自分はアホで、バカで、ガキで、どうしようもない。今までの人生、何も考えないで生きてきたんだ。自分が持っていないものばかり、見えないものに執着して、本当にアホもいいところである。自分が本当に嫌いになりそうで、もうこうなったら努力で巻き返そうと目の前の『大学偏差値ランキング』と書かれた雑誌をパラパラめくる。
「東大とかってやっぱり今から難しいんですか」
「真面目に考えなさい」
お前何言ってんの、という顔すらされず、突き返される。そりゃ無理なのは承知で聞いている。ページをめくると、点がたくさんついている日本地図があった。点は大学の所在地を指しているようだ。地図をみていくと、関東にはこんなに大学が密集しているのに、泊島には一つも大学がないことを知りショックを受けた。
「離島に大学なんてないわよ」
「あの、九州で、一番頭のいい大学で、僕が入れるところありますか」
担任が今度こそ「何言ってるんだこいつ」という顔をした。こちらが本気なのを感じ取ると、そりゃまあ、九州大学だけど…と前置きしつつパソコンで九州大学サイトを潮に見せた。
「潮君、旧帝大って知ってる?」
「はい、頭がいい大学です」
「まあそう、九州大は旧帝大と呼ばれる大学の一つなのよ」
「…ああ、ええ…」
間抜けな声が教室に響く。変なプライドなのか、安全圏の大学を受けて確実に九州にいくようではかっこがつかないと思い、潮はじゃあそこ受けます、と伝えた。
「まあいいけど…次までに学部とか考えておいてね。あ、あとさ」
「はい」
「なんで九州なんだっけ、他に旧帝大あるし、九州にこだわる必要はあるの?」
なんで九州なんだっけ、そのまま自分の心の中で繰り返す。
「あの、夏休みに泊島っていう、九州の近くの離島に居候してたんです。福岡からフェリーでいける島です。そこの島が好きで、九州という土地にも興味が沸いて」
半分は本当だった。理由にもなっていないかもしれないが。大学が泊島から近いならどこでもいい。理由はその一点だった。福岡から船で一時間。東京にいるよりも、ずっと佐野に近い場所にいられる。もしかしたら街で偶然すれ違ったりするのかもしれない。そこで過去の話をして、また普通に話せる日がくるのかもしれない。関東圏にいるよりも、九州に行った方がその確率は上がるだろう。妄想が一気に膨らむ。
「どうだった?」
廊下で順番を待っていた栫井が声をかけてきた。
「なんか、呆れられた、何言ってんだこいつ、みたいな顔された」
「はは、何それ、うける」
教室から「栫井くん入っていいよ」と声がかかり、栫井が「じゃ」と言い教室に入っていった。後から聞いた話だが、栫井は関東の国公立を受けないといけないらしい。それが一人暮らしの条件なんだ、と言っていた。
自室の机に向かい、担任からもらった九州大学のパンフレットを開き潮はふと手を止める。九州大学の位置から泊島まで、ペンでなぞる。指先が震えた。地図の中の泊島に触れた指が、あの日の佐野の冷たい手のひらを思い出した。
<必ず、僕が迎えに行くから>
自分で言った言葉を思い出す。やはり言った言葉は取り消せない。過去の自分に噓はつけない。でも、迎えに行くのは自分のエゴに他ならない。だからせめて、近くにいさせてください。あなたに会うチャンスを、一ミリでも近くに置いておきたい。だから自分は九州に行くしかない。
受験勉強は、潮にとって逃避であり、同時に目的を果たすための唯一の手段でもあった。忘れようと決めたのにふとした瞬間に佐野のことを思い出す。雨が降った時、夕日を見た時、おにぎりを食べる時。その度に潮は参考書を開いた。殴るように、もがくように勉強をした。この一問一問が、佐野にできる限り近づくためのテストなんだと思うと全く苦ではない。
模試の結果はやはり厳しく、三年の春になっても判定はEだった。当たり前である、自分の学力を鑑みない志望校選びをしている。理由がわかっている分、参考書を開くその手を止めることはない。担任から「九州でも他にこんな私立があって、そこなら間に合うと思うんだけど…」と弱気なことを言われたりもしたが、今から志望校を変更するのはやはりプライドが許さなかった。
三年生の初夏、潮は早朝の自習室で一人の女子生徒と顔を合わせるようになった。朝七時から開いている自習室に、シフトに入っているかのように同じ時間に現れるのが、別のクラスの由乃(ゆの)だった。いつも音楽を聴きながら一時間ほど勉強し、朝礼前に吹部の女子が迎えにきていた。
頻繁に顔を合わせる癖に、おはようございますとも言えない自分は、ガチャリとドアを開けて軽く会釈をした後、離れた席に座る。そんな由乃とよく話すようになったきっかけは、九州大学の赤本だった。
「九大、志望なの?」
顔を上げると、目をまあるくした由乃がこちらを見ていた。
「あ、え、あ、うん、まだE判定だけど」
「そう。奇遇だね、私も九大。この学校で九大志望、他にいないから」
由乃はそう言うと、自分の赤本を見せた。潮のものより、付箋の数がずっと多い。
「え、そうなの?」
「先生が、理系の潮君が同じ大学目指してるのよって教えてくれて」
「知らなかった。あの、由乃さんだっけ…?吹部の女子がそう呼んでるの聞こえて、あってる?」
「うん」
「九大、目指してるって、ああ、そうか、由乃さんって文系だよね」
「そう。まあ、私もE判定なんだけど」
由乃とはそれから話す機会が増え、時々一緒に勉強するようになった。理系と文系なのでメインの教科は違えど、英語は共通の試験としてあったので、休憩時間に問題を教え合ったり、英単語の出し合いをしたりした。眠気を覚ますにはこのツボを押すといいよ、と言われ、こめかみを思い切り押されたときに、痛すぎて椅子から崩れ落ちたときは二人して大爆笑をした。
友達ができるとか、恋愛をするとか、学校行事を楽しむとか、そういったことにこだわっていた高校一、二年とは違い、高校三年生は受験勉強という共通で取り組まなければいけない課題が全員にある。栫井や由乃は友達というより戦友に近く、受験という試練は潮とその他の生徒を団結させた。
残酷なシステムよねえと由乃が言っていた。高校一、二年のときにクラスの中心で騒いでいた人は確実にヒエラルキートップだったはずなのに、受験という試練の前にそのヒエラルキーは通用せず、最終的に志望校に受かるか受からないかが大事なのだ。
つまり模試の判定がAの人間がお受験ヒエラルキーのトップである。まあ、自分はお受験ヒエラルキーでもE判定であるのだが。
学校のテストに加え、一、二回のE判定はまあこんなものかと思っていたが、何度もE判定を食うと流石にまずいんじゃないかと本気で焦りを感じ始めていたからかもしれない。模試の結果が悪くて問題を解く手が不安で止まってしまう。そんな様子を見かねたのか、由乃が缶のエナジードリンクを差し出してきた。
「私も、E判定だったよ」
「そうなの?」
「うん。でもE判定なんて、この時期珍しくないから。気にしすぎ。浪人組もいるし。勝負はこれから」
由乃の言葉に素直に救われてしまった。自分はなんて弱いんだろう。由乃の力強い言葉が、潮の消えかけた闘争心を奮い立たせた。
夏が終わり、夏休み中に受けた模試の結果が返ってきた頃、潮の判定はDに上がった。涙が出るほど嬉しい。まだ微々たるものだが、自分の受験勉強が着実に身を結び始めていると安堵した。判定が上がったと喜ぶ潮をとは裏腹に、由乃の顔が緊張しているのを感じた。由乃はまたE判定だったらしい。
「私、志望校変えた方がいいかも」
学校からの帰り道、由乃は冗談交じりにそう言った。由乃が毎日十時間以上勉強しているのを知っていたし、本気じゃない由乃を見たことがなかったので、その言葉はまったく本心じゃないのだろう。
「なに弱気になってんの」
「だって、潮でさえDに上がってるのに。私がまだEって、もう諦めた方いいんだと思う」
「うーん、そもそも由乃は、なんで九大に行きたいんだっけ」
「それは前話したけど、単なる幼い頃の憧れよ」
「他に憧れている大学はあるの」
「ないよ」
由乃は「はあ、もうダメかも」と模試の紙を小さく折り曲げてカバンにしまった。なんでこんなに弱気なんだ。由乃はずっと強かった。すでに六回以上E判定をくらっていたのに、そんなの見えていないというように勉強に邁進した。同じようにE判定をくらっている潮を元気づけ、潮もその勢いに引っ張られてきたのだ。実際、受験勉強を同じ熱量で一緒に頑張ることができる友達は数少ないのかもしれない。いつの間にか由乃が吹奏楽部の友達と距離を置き始めたことに、潮も気づいていた。
「由乃、ダメだよ、それは」
慣れないことをしようとしているのはわかっていたが、どうしても由乃が沼にはまっていく様を見逃せなかった。
「よくわかんないけど、やっぱり九大に行くも行かないも一つの分岐点でしかないとは思う。でも、由乃は行きたいんだろう」
「ま、まあそうだけど…」
「行きたいんなら、頑張るしかないんだと思う。今何をするべきか、ちゃんと考えないと」
我ながらとても説教くさくなってしまったし、由乃にも実際「潮の癖に説教かよ」やら「D判定くらいで調子のんな」やら散々な言われようだった。別れ際、由乃は振り返って「次はC判定だから。潮を抜くから。わかった?」と、怒っているのか喜んでいるのかわからない声で宣言した。弱気な由乃はどこへやら、と彼女の変わりように驚きつつ、ネガティブの沼から引き出せたようで安堵した。
外出することがリスクでもある共通テストの直前、ほとんどの生徒は基本的に家で勉強をした。潮も例外ではなく、栫井や由乃と顔を合わすことも少なくなったが、学校で模試を受けた帰り道や、駅までの道のりを並んで歩き、他愛もない話もした。
共通テストが終了し、潮は自室で一人、自己採点を行う。思っていたより悪くない。実際のテスト結果を見てみると、判定こそまだDのままだったが、二次試験でどこまで巻き返せるか、その一点にすべてが懸かっていた。滑り止めで受けている都内の大学の合格通知がすでにきていたが、それが潮を落ち着ける要素にはなっていなかった。九大に合格しなければこの一年間は意味がないと思っている。
二次試験も終えて、あとは結果を待つだけの日々が続いた。一日が一週間くらいに感じ、何をしても落ち着かず、潮は久しぶりに祖母に電話をかけた。
「ソウ、久しぶりだね。受験終わったの」
「うん。一昨日二次試験終わった。特に用事はないんだけどさ、何してるかなって」
「そうかい、お疲れさん。もう結果はどうにもならんのだから、気楽にしとき」
「うん。こんなに頑張ったの、人生初かも」
「ばあちゃんは嬉しいよ。九大に受かったら、よくこっちにくるんだろう」
「あ、うん、まあ」
「また海洋館にも、顔ださんきゃね」
「…そうだね」
「ああ、そういえばこの前、あの子に会ったよ、あの…泊まりに来た子、名前なんだっけ」
突然の質問に息が止まった。
「…翔?」
「そうそう!翔くん、この前道でばーったり。私のこと覚えていてくれて、うれしかったあ」
「元気だった?佐野」
「うん、元気そうには見えたけど。相変わらずほっそいねえあの子。またご飯食べにおいでね〜って言ったけど、断られちゃった。流石にソウがいないと無理よねえ」
祖母の声がだんだん遠くなり。視界がぼやけてくる。薄くなっていた記憶が鮮やかに蘇る。佐野はまだそこに存在しているのだ。祖母に最大限のお礼を伝え、電話を切った。佐野は存在している。そして祖母と会話をした。僕のことも覚えているだろう。僕も、佐野のことを忘れていないよ、会いたいよと伝えたい。祖母の電話番号が表示されている画面を閉じ、佐野と書かれている電話番号を探す。あった。かけようか、どうしよう。でも今かけてどうする?三十分ほど電話をかけた場合の会話についてリハーサルをし、ついに電話をかけるのを諦めた。
合格発表の日、潮は由乃と学校に集まり、誰もいない教室でパソコンを広げた。九州大学の合格番号一覧のリンクを開き、自分の番号を探す。潮の受験番号は合格番号一覧の中にあった。由乃も同じく、自分の番号を見つけて、その場で泣き崩れた。緊張の糸が解けた二人は、駅前のファストフード店に入り、遅めの昼食をとることにした。合格の余韻に浸りながら、由乃はずっと笑っている。潮はその笑顔を見ながら、この一年、由乃がいなければ、自分はここまで走り続けられなかっただろうと思った。
「私たち、本当に頑張ったよね」
「うん、頑張った。二人とも受かって本当によかった、というか、まあ、受かると思ってた」
「はは、今だから言える話だね」
由乃は息をすっと吐き、目線を泳がせながらコーラを飲んだ。
「潮はさ、大学生になったら一人暮らしとかすんの」
「うん、その予定。九州のすぐ近くの泊島におばあちゃんの家あるんだけど、遠いし、船で登校とかできないし」
「大学の近くで一人暮らしするの?」
「うーん、場所は決めてない。そうだ、家決めないとな」
「ふうん」
「由乃は、寮とか入るの?近くに女子寮あるらしいじゃん」
「いや、私も一人暮らしするかな。大学の近くに」
由乃はスマホで地図アプリを開いて、この辺りに済んだら駅も近いから絶対に学校の近くに住んだ方がいいとか、スーパーが近いからこっちもいいね、食材買いすぎたら半分こしようねとか、嬉しそうに話していた。うんうん、と聞いていると、由乃はぼそっと、どうかな…とつぶやいた。
「大学に行っても、また会えるかな、今みたいに潮と話せるのかな」
さっきまであんなに楽しそうにしていた由乃と目が合わない。由乃は今にも泣きそうだった。
「私、正直、途中から受験終わるなーって思ってたよ」
「え、なんで」
「受験期が楽しかったからだよ。潮は受かると思ってた。私はわからなかったけど。どちらにせよ、受験が終わったら潮とはあまり話せなくなるかもしれないじゃん。ていうか、受かったとしても学部違うし。寂しいな。いやだなあって」
潮はぽかんと口を開け、由乃から溢れる言葉を懸命に読解した。
「わたし、潮のこと、好きだったんだと思う。受験勉強してる時からずっと」
突然の由乃の告白に、潮は言葉を失った。潮の人生ゲームのマスに<告白をされる>というものは今までになく、思考がフル回転、由乃と過ごした一年間が、脳裏を駆け巡る。E判定を励まし合った日々、駅までの帰り道、合格発表の日の涙。由乃は間違いなく、この一年の潮を支えてくれた大切な存在だった。栫井から「二人は付き合っているのか」と聞かれ、「付き合ってません!」とふんぞり返る由乃を思い出す。あの時はそこまで否定しなくても…と少し悲しい思いもしたが、今、目の前でその由乃が自分のことを好きと言った。
「あの、ええと、あ…あの…」
なんて返していいかわからない。今すぐ帰ってしまいたい気持ちにもなった。今何を言っても違うような気がして、言葉がつっかえて出ない。違う、本当のことを言えばいい、自分の言いたいことを言えばいいんじゃないか。
「由乃と一緒にいると、すごく安心できたし、頑張れた」
「うん」
「僕でよければ、これからもよろしくお願いします」
あれ、と思う。これって付き合うことになってないか。違う、僕が言いたかったのは、これからも友達でいようということだ。由乃は驚いた顔をした後、徐々にその頬を赤く染めた。耳まで真っ赤である。
「あ、なんか僕変なこと言ったかも…」
「うん、嬉しい。ありがとう。これからもよろしく、潮」
大学生活を目前にした春の陽射しの中で、潮と由乃の交際は、そうして始まってしまった。
春休みはあっという間に過ぎ去った。一人暮らしをすることになった潮は、家探しと引っ越しの準備に追われていた。よさそうな物件をネットで探し、不動産屋に連絡をとり、すぐに九州に行くための飛行機を手配した。実際に家が決まったら家具や家電を選び、役所での手続きを済ませ、引っ越しを終えたと思えば気づけば入学式の日を迎えていた。
由乃も大学近くのアパートで一人暮らしを始めたという。お互いに新生活のセットアップで忙しく、顔を合わせるのは週に一度、大学近くのファストフード店か、たまに電話をして近況報告をするという頻度だった。
「考えることいっぱいで疲れた。もう部屋とかどうでもいい」
「由乃、部屋はアジアン雑貨で埋め尽くしたいとか言ってたじゃん」
「もうどうでもいい、住めればいいと思うわ。流石に考えること多すぎ…。潮はなんでそんな大学から遠いところにアパート借りたの」
「うーん、海が近い方が好きだから?」
交際が始まったとはいえ、二人の関係にはまだ、恋人と呼ぶには曖昧な部分が多いと思う。手を繋いだこともなければ、デートのようなことをしたこともない。大学が始まってからも、履修登録やガイダンスに追われ、由乃も同じように忙しくしていた。そんなこんなであっという間に四月が終わろうとしている。
「潮、ゴールデンウィークって、暇?」
大学のカフェテリアでアイスコーヒーをちびちび飲んでいた由乃がスマホを見ながら聞いてきた。由乃は最近アイスコーヒーを飲むようになった。前に、アイスコーヒーなんて飲むの、めずらしいねと言うと嫌な顔をされた。最近よく飲んでいる割には、不味そうにちびちび飲んでいる様子がおかしかった。
「うん、まあ。バイトも決まってないし」
「じゃあさ、どっか行かない?まだデートっぽいことしてないじゃん私たち」
一瞬、言葉に詰まる。デート?ああ僕たち付き合ってるのか。だからどこかに出かけるのはデートなのか。いいよと伝えると由乃は嬉しそうにどこ行こうかな〜とインスタで場所を探し始めた。
ゴールデンウィーク初日、潮と由乃は電車を乗り継ぎ、大きな水族館へ向かった。入り口には長い列ができていて、由乃が「げー思ったより混んでるね」と苦笑いした。
館内は薄暗く、青い光が水槽越しに揺れている。イワシの群れが渦を巻くように泳ぐ大水槽の前で、由乃が「すごい、大群、これって食べれるの」と声を上げた。情緒のかけらもない由乃の発言に吹き出し、食えるらしいよと返事をする。由乃は面白い。一緒にいてとても楽しい。大学生初日から彼女がいる生活なんて、想像できただろうか。こんな身に余る幸せを受け取っていいのだろうか。潮はこの状況のありがたさを噛み締めた。
クラゲのコーナー、ペンギンのコーナーと、由乃の興味は次々と目移りし、潮はそれに引っ張られる形で展示を見てまわった。由乃は熱心に解説パネルを読み、「これ変だよね?」とか「食べたら美味しいのか」と話しかけてくる。やがて二人は「磯の生き物」というコーナーにたどり着いた。浅い水槽の中に、ヒトデやカニ、そして数匹のウニがゆっくりと動いている。
「ウニって意外と綺麗よねえ」
水質のいいところだと綺麗に発色するんだ、と嬉しそうに語っていた声が耳の奥で蘇る。棘があるから怖くて強いイメージがあるけど、繊細な生き物でもある。そう言って、ウニを見つめていた横顔。女子を見ているよりも全然いいって言ってたかな。
「潮?」
由乃の声で、潮は我に返った。
「あ、ごめん、ぼーっとしてた」
「ウニ、好きなの?なんか、すごい集中して見てるから」
「うん、まあ、好きかな」
「じゃあさ、私は?私のこと好き?」
由乃がこちらを見ている。潮は言葉が出なかった。由乃はそんな潮を不思議そうに見ていたが、やがて、由乃はそっと潮の手を握った。由乃の手は、思っていたよりも小さく、あたたかかった。だが、由乃の手を握り返そうとした潮の指先はぴくりとも動かない。代わりに脳裏にはっきりと思い起こされたのは、嵐の夜、バス停で触れた佐野の冷たい指先だった。
どうしよう、由乃の手を握り返さなきゃいけない。でも、何かをすごく裏切るような気持ちになり、指も体も一ミリも動かない。
僕はまだ、あの人を、佐野を、全く忘れていないんだ。
「潮、ごめんね」
由乃が握った手をそっとほどきながら、水槽の方を向いた。
「え、なに」
「付き合わせてごめん」
どこか諦めに近い、優しい声だった。混乱しているが、由乃は落胆も怒りも感じていなさそうで、それがなぜなのか潮はわかった気がした。由乃は知っていたのかもしれない。潮は自分に恋をしていないことを。
「由乃、本当にごめん」
「ううん、大丈夫。なんとなくね、わかってたし。潮は私と恋愛してない。友達がいいんじゃないかなって感じてて。だからこう、無理やり付き合わせちゃったの、悪かったなって」
「ごめん。僕、ずっと好きな人がいて、言えなくて。その人と離れ離れになったまま、今もその人のことが頭から離れなくて。でも由乃と一緒にいる時間は、僕にとってはすごく大切だった。何度も由乃に救われたと思う。でも、それは…、恋愛感情じゃない」
「そうかあ」
由乃はそう呟くと、ふふと笑い、目尻を拭った。
「本当にごめん」
「もう謝らないでよ。むかつくから。一回ウニに噛まれてもらっていい?」
「ウニは噛まないよ」
「ちょっと黙れる?」
由乃はそう言うと、潮に背を向けて歩き出した。由乃の背中はこんなにも広かったのか。潮は大切な友人と水族館をあとにし、帰りに寄ったファストフード店で佐野のことをすべて話した。
その夜、潮は大きなリュックサックを引っ張り出し、必要最低限の荷物を詰め込んだ。祖母に電話し明日から泊島に行くから泊めて欲しいと伝えた。ゴールデンウィークが明けるまでに東京に戻れるかどうかもわからない。そんなことはもうどうでもいい。この一年半、時間がこのやりきれない気持ちを解決してくれると思っていたがそんなことはない。忘れられるわけがない。
翌朝、始発の電車に乗り込みながら、潮は窓の外を流れる景色を見つめていた。港まで一時間、そこからフェリーで一時間。もう迷いはない。
必ず、迎えに行くから。
薄靄の先に黒い影が見える。フェリーが港に近づくにつれ、潮の心臓は痛いくらいに早鐘を打っていた。デッキに立ち潮風を浴びながら、一年半前初めてこの島に来た日のことを思い出していた。あの時は、場所を変えたところで何も変わらないだろうと、捻くれた気持ちでこの海を見ていたような気がする。今は、そんな自分を変えてくれた島や佐野という人物に自ら出向くんだ。
港に着くと、真っ先に祖母の家に向かった。玄関を開けるなり、祖母が「あらびっくり、おかえり」とその勢いに目を丸くした。
「おばあちゃん、急にほんとごめん。でも今日は遅くなると思う。佐野に会いに行く」
祖母は一瞬驚いた顔をした後、ふっと目を細めて笑った。
「そうかい。帰る時に連絡してね。あ、ちょっと」
祖母は台所から冷たい麦茶を持ってきて、潮に無理やり飲ませた。「あんたこんな暑い中で、熱中症で倒れたら元も子もないからね」と念を押した。潮はそれを一気に飲み干し、荷物を置くと、家を飛び出して自転車を勢いよく漕いだ。
行き先は海洋館だ。一年半前に毎日通っていた海岸沿いの緩やかな坂道の懐かしさに目を細める。海洋館に着いてスタッフ室をノックすると、館長が驚いた顔で迎えてくれた。
「わあ!びっくり、潮君。久しぶり、大人っぽくなったなあ。どうした急に。もう大学生?遊びにきたの?」
「はい、ご無沙汰してます。あ、すみません、急に、あの、佐野は」
息を切らしながら質問をすると館長は少し複雑な表情を浮かべた。嫌な表情だ。館長は言いにくいことがある時にこの表情をするのだ。
「あー、佐野な、最近バイトは土日にしかシフト入ってないんだよ。忙しいらしくて、今いないよ」
土日にシフトに入っているということは、はあ、よかった、まだこの海洋館で働いているということだ。
「家、まだ同じところに住んでますか」
「わかんないけど、多分な」
潮は礼を言うと、海沿いの道を自転車で飛ばした。別れの日、佐野と一緒に歩いた道だ。思い出しただけで涙がでそうだ。泣くのはまだ早い。まずは佐野に会いたい。
一度しか来たことがないから、正確な家の場所はわからない。めじるしとなる、近くのコインランドリーの場所を人に聞きつつ、住宅地の外れにある木造の古い平屋を見つけた時は全身の毛が逆だった。潮は自転車を停め、息を整える間もなく玄関に駆け寄った。
「佐野」
返事はない。もう一度、今度は少し大きな声で呼んだ。
「佐野、いる?」
引き戸を軽く叩いても、中から物音一つしない。潮は少し離れて、庭先から中の様子を伺ったが、電気もついていないようだった。留守か。留守なのか?そもそもこの家に佐野はまだ住んでいるのだろうか?せっかくここまで来たのに。会えずに帰るのか。焦る気持ちが萎んでいく。ああ、もう会えない。もう二度と会えないんだ多分。潮はしばらく玄関先に立ち尽くしていたが、いつ戻るかもわからない佐野を待ち続けるわけにもいかず、仕方なく帰路につくことにした。海沿いの道を、重い足取りで自転車を押して歩き出す。
これは自分のエゴなんだ。佐野は自分を求めてないんだと、運命に言われているようだ。ああ、泣き出してしまいそうだ。会いたかった。大好きだ。なんかもうすごく疲れてしまい、潮は下を向いて深呼吸をした。
「潮?」
背後から、聞き慣れた声がした。振り返ると、イヤホンをしてコンビニの袋を腕に提げた佐野が、目を丸くしてこちらを見ていた。
「え、潮じゃん。なんで、なんでいるの」
「…佐野」
「いや、待って、なんで」
「佐野!」
潮は佐野を抱きしめ、ダムが放流するかの如く声を上げて泣いた。人目もはばからず、その場にしゃがみ込むようにしてもう一段階大きく泣いた。一年半分の想い、我慢していた言葉、迎えに行くと誓ったエゴも、その全部がぐしゃぐしゃになり、滝のように溢れた。
「ちょ、え、潮、な、なんで泣いてんの、待って、大丈夫?」
佐野が慌ててイヤホンをはずし、潮の肩を支えた。
「とりあえず、家行こう。ここじゃ、な」
佐野に支えられるようにして家に上がり、畳の上に座らされると、潮の涙はようやく少しずつ収まっていった。佐野が持ってきた麦茶に口をつけながら、潮はしゃっくりのような嗚咽を漏らしていた。
「まだ泣いてんの。何、そんな俺に会いたかった?」
「うるさい」
「はは、めっちゃ泣いてる。しょんべん小僧改、泣き虫小僧だ」
「やめてよ、その呼び方」
からかう佐野に、潮はようやく平静を取り戻した。涙で滲んでぼやけた視界で家の中を見渡すと、以前と様子が違うことに気づいた。散らかっていた食器はきちんと洗われ、敷きっぱなしの布団も見当たらず、束になっていた督促状もどこにもなかった。
「部屋、ちょっと綺麗になった気がする」
「ああ、まあ、色々あって」
「色々って」
佐野は縁側で体育座りをして、麦茶が入った湯呑みを両手で包むように持ち、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「高卒認定を取った。その単位で今高校に編入して三年生、大学も目指そうかなって思ってる」
「え」
「潮が帰ったあとずっと考えてた。潮は俺に向き合ってくれていたのに、俺ガキだし拗ねてただけだったんだなって。もう何しても俺の人生だめなんだなって勝手に決めつけたりして、ここから抜け出すことを諦めてた。潮が俺と一緒にいたいって言ってくれて、あの時初めて、俺も誰かに生きてほしいって思われる人間なんだって、気づいて。だからあれからね、色々頑張ったんだ」
「佐野」
「何も行動しないで諦めるのが大人じゃないよな。ちゃんとこう、考えて、まわりを頼って、そしたら潮にまた会えるかなって。なんとなくね」
はは、と照れくさそうに笑う佐野の横顔を見て、潮の目から、また涙がこぼれた。もうなにがなんだかわからない、佐野への気持ちが大きくなりすぎて苦しい。痛い。
「ずっと、好きだった。佐野が」
「佐野のこと忘れようと思ったけど、全然無理。受験も、大学も、全部、佐野にまた会うためだった。こんなのおかしいってわかってる、でも、これは僕の気持ちだから。佐野が今どう思ってても、それは、」
最後まで言い終わらないうちに、潮の手に佐野の手が重なった。
「俺も、潮のことが好きだったよ」
驚いて目を見開いた潮に、佐野は少し戸惑ったような、少し怖がっているような顔で言った。
「え」
「多分、今も好きなんだと思う。こんなにドキドキしてる」
佐野は潮の手を取り、自分の胸に当てた。手のひらの下で、佐野の心臓が早鐘のように打っている。潮の心臓も、同じ速度で波打った。きらきらした夕の光が、畳の上に橙色の影を落とす。
佐野の顔が近づき、唇が重なった。遠くで波の音が静かに響いている。二人は言葉を交わすことなく、ただ互いの存在を今ここに確かめ合うように、唇を押し合い、あの夏の続きを取り戻していった。
佐野は潮を連れ海洋館を訪れた。閉館後の静かな館内、ウニの水槽の前で、二人は並んで立っていた。
「俺、来年の春には本土の大学行きたいって思ってる」
「うん」
「潮の大学、九州だよね。もし俺が受かったら」
「同じ大学、来る?」
「わかんない。だって潮の大学頭いいところでしょ。…でも、近くにはいたいかな」
「僕も佐野の近くにいたい。佐野…ほんとに申し訳ないって思ってる。あの時、佐野を置いて東京に帰ったことを今でも思い出して後悔してる。もう絶対一人にしないから」
「そう言ってくれるのはありがたいけど、多分お互いにとってこの一年半は必要な時間だったと思う。ほら、今こうして一緒にいれることが大事なんじゃない」
水槽の中で、ウニがゆっくりと動いていた。棘の間から、青白い光が透けて見える。佐野と出会った時に見たウニよりも一層美しく、透明感を帯びている。こんなに綺麗なウニを初めて見た。横目で佐野を見ると、佐野の顔には水槽の青が反射してとても綺麗で、潮はその光景を夢中で脳裏に焼き付けた
「好きだ」
「はは、ようやくわかったか、ウニの良さ」
「…うん。好き。すごく好き」
水槽越しの淡い光が、二人を静かに照らす。まだこれから先のことは何一つ決まっていなかったが、それでも、隣に佐野がいるという事実だけで、潮はもう十分だった。
好きだ。佐野が。
佐野がくしゃっとした顔で笑っている。青い光で照らされた美しい顔が涙で歪む。
おいおいなんで泣くんだよと佐野が慌てながら笑っている。二人を遠ざけるものはもう何もない。季節は春。ここから二人でまた夏を迎える。秋も、冬も、ずっと一緒だ。
「潮、好きだよ」
ここから三キロメートルも離れている祖母の家まで走って帰るとしても、股の部分が濡れたズボンでは絶対に走りたくない。そんなことしたらこの街の笑いものである。しょんべん漏らし小走り小僧、みたいなヘンテコな名前を付けられて、行く先々で指をさされるのだろう。最悪な妄想をしていたら、後ろから声をかけられた。
「あの…、君大丈夫…?」
振り向くと、そこには泊海洋館の制服を着た男が立っていた。
「だ、大丈夫です!」
この状況で声をかけられるなんて本当に最悪だ。大丈夫と虚勢をはったものの、腰を抜かしたのかうまく立ち上がれない。
「いや、手伝うよ。って、あ…」
男はこちらの濡れたズボンを一瞥すると、何も言わずに潮の腕をとり、自分の肩に巻きつけた。
「立てる?バックヤードに着替えあるから、そこまで頑張って歩いて」
男に言われるがままに立ち上がり、潮は自分のパーカーの裾で濡れたズボンができるだけ見えないよう隠しながら歩いた。
潮が泊島に来たのは昨日のことだった。夏の間だけ、祖母の家に居候させてもらうことになった。ちょっとしたことがきっかけで不登校気味になってしまった自分を両親が心配して、夏の間だけでもリフレッシュしてきたらと、泊島に送り出したのだ。
東京にいる時もそうだが、泊島に行ったところでどうせ一人なのだから、場所を変えても何も変わらないだろう。そう半分不貞腐れながら準備をした。正直フェリーに乗っている時も、周りは旅客が多く、彼らの浮き足立ったような会話や雰囲気に耐えられずデッキに出た。その時、頬に強く当たる海風が思ったよりも心地よく、そうか確かに、たまには外に出てみるのも良いかもしれないと気持ちを切り替えた。
港に着くと祖母が待っていて「よくきたね、車、向こうに停めてるからちょっと歩くよ」と、潮の手を引いて車に案内した。祖母にとっての潮は、永遠に小さい孫なのだ。祖母より身長が頭一つ抜けた今でも、祖母は車通りの多い場所を通る時に手を握ってくれる。
祖母は今年で八十二歳。危ないから、八十歳までに早く免許を返納しなさいと父が説得を試みたが、東京に住んでいるあんたにはわからない、田舎では車がないとどこにもいけない、年寄り婆さんを孤独死させる気か。と祖母は聞かなかった。それどころか「そろそろ免許返納しようと思ってたところにソウが来たもんだから、また返納できなくなったねえ」と、潮の来島を言い訳に免許返納を先送りにするつもりである。
祖母の運転する車の助手席に乗りながら、久々に訪れる島の変わりようを窓から見ていた。
「ファミリーマートができたんだよ。開店初日はすんごい行列で。今も駐車場パンパン。ほれ、あそこ」
ファミリーマート、サイゼリヤ、スターバックス。数年前に来島した時はなかったチェーン店が街にちらほらある。自分が現実逃避のために来た泊島が、知り尽くした都会に侵食されているようで嫌な気分になった。
「なんか、嫌な感じ。泊島じゃないみたい」
ぽろっと潮がこぼすと、それは泊島に住んでいない人の意見だねえと祖母が言った。たしかに、今まで本土にしかなかったものが手軽に手に入るようになった当事者は、この島が栄えていくことをありがたく思うものだ。自分の知っているその環境が変わらないでいて欲しいと願うのは、当事者ではなくいつも部外者らしい。
街から少し離れたところにある祖母の家は、ちょうど海と山に挟まれた道路を車で走らせて辿り着く。海沿いの道路を通る時、海面が青く輝いていて、反射的に目を細めた。
「わあ」
「ああ、よかった、一週間前は土砂降りだったんだよ。一昨日からすごい晴れて。今日もいい天気で海が綺麗でしょう」
「うん、すごい綺麗」
海の横をしばらく走っていると、真っ白い屋根の、家にしては大きい、駐車場の広い建物が見えた。見たことがあるようなないような、思い出そうとしたがよく覚えていない。
「あれってなんだっけ」
「ああ、海洋館だよ。泊島海洋館。ソウが小さい頃にみんなで行ったでしょう。亀の餌やり体験したの、覚えてない?ソウがものすんごい泣いて。亀に手を食べられて、ふんぎゃあああああって海洋館全体に響き渡る声でさあ。あはは、思い出したら面白い。海洋館のスタッフが全員集まってきちゃって。その時の写真とか、見たことない?ソウが三歳くらいの時かなあ」
「覚えてない」
「明日行ってみるといいさ、自転車か、歩いてもいけるよ」
そう祖母に唆されて、早速、翌日から観光客のような浮かれ方をしていたら、ウニが飛んできて驚いて失禁してしまったというわけである。
「本当にすみません…。ウニが飛んできて…」
「ウニが飛んできて?」
「はい…。苦手なんです、ウニ…」
「それは申し訳ない、うちの生物たち、元気でよく脱走するから…。しょんべんも漏らすよな…。あ、ここバックヤード。入って」
バックヤードには物が散乱していたが人の気配はなく、潮はほっと一息ついた。「これ、着替えていいよ」と差し出されたのは泊島海洋館と書かれたジャージ一式だった。
「これ前のスタッフのだけど…。そこの着替えスペースで着替えて。俺、ここで見張ってるから」
「うわ…、本当にすみません…。必ずすぐに洗って返します」
「予備みたいなものだから急がなくていいよ。ほら、早く着替えな、不快でしょ、しょんべん」
しょんべんってあんまり言わないで欲しいなと思いつつ、親切ではあるので、すみません…と小声で謝り、着替えのために用意された間仕切りの向こうでジャージに着替えた。間仕切りの向こうから声が聞こえる。
「サイズどう?」
「ピッタリです。ありがとうございます」
「よかった。あ、そういえば君、泊島の人?には見えないけど…、観光客にも見えないなあ…。観光できた感じだった?」
「あ、いや、うーん。夏休みの間だけ、泊島に住んでる祖母の家に居候してて」
「へえ、夏休み…ってことは、あれ、高校生とか?」
高校生…だけど最近高校には行っておらず…。そんなことは言わなくていいので言わない。今は夏休みなので、堂々と身分を明らかにできるなと潮は胸を撫で下ろした。
「はい、一応高二です」
「まじか、俺も一応高二。めっちゃ年下だと思った、わり」
「え、お兄さんはもっと年上かと思ってました」
「ここの制服着てたらわからないよな。俺も夏休みの間だけ、バイトしてんの」
正直この男は…その横柄な態度から二十歳前後なのではないかと思っていたが、同い年と言われれば確かに、そのように見えなくもない。
「おばさんがパートしててさあ、誘われたっていうか」
潮は着替えを終えカーテンを開けると、そこには私服姿の男がいた。
「え、上下着たの」
「あ…、一式もらったから…」
「はは、面白いね」
「こんなことに付き合わせてしまって、本当にすみません。ジャージは必ず洗って返しますので…」
「やめてよ、敬語。同い年なんだし。ところでまだ名前聞いてなかったけど」
失禁したところを見られた上に本名まで知られてしまいそうだ。仮名を教えるべきだろうか。いや、助けてくれた相手にそれは失礼。
「…。潮…」
「うしお?」
「はい」
「潮ね。俺のことは佐野って呼んでいいよ、ここの人はみんなそう呼んでるし」
「いや…佐野さん、ありがとう」
「さん、いらない。佐野でいいから」
今日会った、しかも助けられた恩人のことを呼び捨てできるわけはなく、じゃあ佐野君でお願いしますと頼むと、まあいいけどと面倒そうに佐野が言った。
「せっかくだからさ、ちょっと館内見てく?俺もう上がりの時間だし」
「でもこの格好だとまずいんじゃ…」
「誰かに見られたら、汚したから予備の制服貸したって言うよ」
館内を歩きながら亀の水槽、サンゴの展示、タコのいるコーナーと、佐野は順々に説明した。
「ウニの展示には行かないでおくよ、またしょんべんされたら困るから」
「あの…さっきからしょんべんしょんべんって、あまり言わないでもらえますか」
「はは、冗談だって。ていうか、なんでウニ嫌いなの?」
ウニが嫌い、それは咄嗟に出てしまった言葉であり、真実ではない。びっくりして失禁してしまい、咄嗟にでた言い訳である。
「うーん、苦手なんです。色々思い出しちゃって…」
「そうかあ。でもウニってすごくて。棘があるから怖くて強いイメージがあるけど、すっごい繊細な生き物でもあってさ。水質の影響で元気になったり、元気がなくなったり。水質がとてもいいところだと、すごく綺麗に発色する。それをね、見てたら癒されるんだ。いつかわかってほしいなあ」
水槽を見る佐野の目にヒトデが反射し、星のように光っている。
「へえ」
「へえって」
「そんなに好きなんだ?」
「まあね、女子見てるよりも全然いい」
佐野の横顔を見ると、確かにそのように思ってそうだ。憧れのアイドルを見るように、うっとりと水槽を見ている人間が目の前にいた。
「ふうん」
「ふうんって。なんか突っ込んでよ」
「いや、別にそういう人もいるかなって」
「そうか…。あ、ちょっと…」
佐野はそう言うと、わ、とだけ言い咄嗟に潮の目を後から抑えた。
「え!ちょっと、何?」
「わり、うっかりウニのコーナー来ちゃった」
「あ…」
「でもなあ、本当にウニってすごいんだよ。いつかわかってくれるといいな」
「うーん、ちょっと先になるかな…」
「僕が絶対好きにさせる」
「え」
そう言うと佐野は潮の体の向きをくるっと変え、肩をぽんっと叩いた。
「まあ、また時間ある時にでもきて。今度は一緒にウニに餌をあげてみよう」
そう言いのこした彼は、じゃあねと潮を海洋館から送り出した。
佐野にジャージを借りてから約一週間。いまだに潮はジャージを返しに行けていなかった。いつかは返しにいけるだろうと常に持ち歩いているものの、嫌な妄想をしてしまってなかなか海洋館に返しにいけない。自分に親切にしてくれた佐野という男は顔が広そうで、海洋館の中でも誰彼かまわずペラペラ話しまくるタイプであろう。きっと今頃、潮の顔に【しょんべん小僧】と書かれた紙が海洋館の至る所に貼られているに違いない。そんな自分が海洋館に行ったらどうなるだろうか。きっとクスクスどころか、館内大爆笑だ。館内放送で「しょんべん小僧が来館したぞ〜」と放送があってもおかしくはない。いや流石にそれはおかしいか。そんなことを海辺で考えていると、背後から大きな声が聞こえた。
「おーい!もしかしてしょんべんの人ー?」
その下品な声掛けが自分に向けられたものではないと願いつつ、ただこの小さい島で【しょんべんの人】と言えば、今は潮しか該当者がいないのである。嫌いや振り返ってみると、防波堤の向こう側に佐野がいた。
「もうそれ言うのやめてー!」
はは、と笑いながら佐野は自転車を降り、公道から海辺に降りてきた。
「バイト終わりにたまたまここ通ってて。潮、この近くに住んでるの?」
「うん、すぐそこにおばあちゃん家がある」
「へえ…ってそれ…もしかしてうちのジャージ?」
「あ…」
「うわーよかった、パクられたかもってちょっと心配したんだよ」
急に声をかけられたことに驚いていた潮は、海洋館に行かなくてもジャージを返せる絶好の機会をのがすまいと、ジャージが入った袋を差し出した。
「あの…ごめんなさい…。これ…恥ずかしくてなかなか行けなくて…。館内全員に笑われたら僕…生きていけないので…」
「はっはっ、確かに、俺って口軽そうだもんな。今頃館内に潮の写真と【しょんべん小僧】って書いたチラシを貼りまくって、館内放送で潮がしょんべん漏らした話しててもおかしくないか」
自分が妄想していた最悪のケースが、佐野の行動の選択肢に入っていたことに絶望をしていると、佐野がジャージを押し返した。
「え…」
「今日会えたのはラッキー。だけど、また明日海洋館来れる?俺荷物持つの嫌だからさ、今渡されも困るんだよね」
結局海洋館に行かないといけないのか…と多少うんざりしてしまったが、元凶を作ったのは自分なのである。これは快諾せざるを得ない。さっさと明日返してしまって、残りの時間を平穏にすごそう。それで終わりだ。
「ああ、そうだよね。ごめん。明日持っていく…」
「大丈夫、館内の人にしょんべんの事、言ってないから」
「はあ…」
「あ、スマホ持ってる?ライン交換しよう」
確かに、連絡先を交換していれば、海洋館に入らずとも佐野に直接ジャージを渡せる。スマホを出そうとパーカーに手を入れるとそこにはスマホがなかった。
「ごめん、スマホ家に置いてきちゃった。電話番号でいい?」
「まあいいけど、そこからライン追加できるし」
佐野のスマホに自分の番号を登録し、佐野にスマホを返すと、早速自分の名前が【しょんべん小僧】と登録されていた。
「じゃ、また明日!海洋館来る時電話でもラインでもして!」
そう言うと佐野は公道に戻り、自転車を走らせて行った。
無常にも、明日は二四時間後にやってくる。忙しなく居間と自室と洗面台を行き来している自分に、祖母が「そんなにソワソワしてうるさいね、デートでもいくのかい?」と冷やかしてくる。いいえ、あなたの孫は海洋館で失禁して館内中の笑い者で、いまからその現場に向かうんですよ、と心の中で呟きながら、どんな服装で、どんな表情で、海洋館に現れれば一番笑われないかだけを考えていた。
先ほどスマホを見ると、一件留守電が入っていた。『あ、潮。今日ちょっと亀の掃除してるからさ、受付の女の人に声かけて呼び出してもらって。じゃああとで!』
じゃああとで、じゃないんです。受付の人に声かけないといけないじゃないですか。何のための連絡先交換なんだよとイライラする。
むしゃくしゃしながら海洋館に行くと、受付には見知らぬ女性が座っていて、潮の顔を見るなり「あっ」という顔をした。ジャージの入った袋を握る手に力がはいり、潮は目を細めながら佐野さんはいますかと尋ねる。受付の女性は潮の顔から目を逸らさずに、内線らしきものを取った。
「う…うしおさんですね?少々お待ちください」
なぜ僕の名前を知っているんだろう。あらかじめ佐野から聞いていたのだろうか。しょんべん小僧、という不名誉なニックネーム込みで伝わっていないといいけれど、と潮は祈るような気持ちだった。数分後、私服の佐野が通用口から顔を出し「おー、来た来た」と小走りで向かってきた。
「あの、これ。ありがとうございました…。本当に助かりました」
潮が袋を両手で差し出すと、それを受け取った佐野は、はいはい、と気の抜けた返事をする。中身をちらっと見て、潮が入れたレモン味のスポーツドリンクを取り出した。
「これ何」
「ああ、佐野君の好きなものがわからなかったんだけど、レモン味のスポーツドリンク。ほら、今暑いし…。祖母が、人からものを借りた時はお礼をつけなさいって、うるさくて」
「真面目だな」
お礼なんて何を用意すれば良いかわからず、行きしろのコンビニで期間限定のドリンクを買った。買った後にお礼にスポーツドリンクはいかがなものかと少し後悔していた。佐野はペットボトルをカチッと開け、ごくごくと喉を鳴らしながらそれを飲んだ。
「お礼にスポーツドリンクってちょっと変だよな…。僕こういうのあんまり慣れてなくて」
「変。かなり。だけど俺これちょー好き。サンキュ」
ジャージは無事返却できて、お礼も渡せた。これでこの男との貸し借りの関係は終わりだろうと潮は胸を撫でおろした。
「じゃあこれで。本当にありがとうございました」
そのまま帰ろうとした潮の肩を、佐野がぽんと叩いた。まだなにかあるのだろうか。
「ちょっと待って。せっかく来たんだし、館長に会っていきなよ」
「は、なんで、帰ります」
「なんでって…まあ、いや、いいから。こっち」
佐野に腕を引かれ、潮はバックヤードの奥へと連れて行かれた。ジャージを汚したことで謝罪をしないといけないのだろうか。怒られる?ジャージ代を弁償しろとか?恐る恐るスタッフ室に入るとそこには日に焼けた初老の男性がパソコンを前に唸っていた。
「館長、この子、この前ウニで転んでしょんべ…」
「佐野君!」
潮が思わず声を荒げると、館長がこちらを見てぶはっと吹き出した。
「ああ、佐野君から聞いてるよ。災難だったね。うちのウニ子がすまなかった」
館長は人の良さそうな笑顔を潮に向け、こちらの全身をじろじろと眺めた。値踏みされているようで居心地が悪い。佐野にも言われたが、都会っぽくもなければ島の人にも見えない潮はこの街では異質なようだ。
「ごめん、君、名前は?」
「潮です」
「そう、潮君は夏の間だけこっちにいるんだって?」
「あ、はい。祖母の家に」
「暇してる…って聞いたけど、短期バイトとか興味ない?」
あまりにも唐突な質問に、潮は言葉に詰まった。暇してるって聞いたけどってなんだ?佐野が勝手に言ったのか。なんて勝手な…。ただ、暇か暇でないかで言えば、絶望的に暇だ。友達もいない、観光しにきたわけでもない、不登校の高校生が夏休みを充実させられるわけがない。でも正直に「暇です」と答えるのも情けなくて、口ごもっていると佐野がにやにやしながら口を挟んだ。
「いやー、実はさ、夏の繁忙期でバイトが一人足りてなくなっちゃったんですよねぇ、館長?」
「そうそう、ちょうど夏休みの間だけでも館内清掃で入ってくれる人を募集していて」
「え…」
「潮君さえよければ、うちで働いてみない?ほら、お小遣い稼ぎにさ」
「時給は安いけどね」
「ちょっと佐野君〜、まあ事実だなあ。でも、毎日入館料無料!」
バイトなんだから当たり前でしょと佐野に突っ込まれている館長を横目に、潮は頭をフル回転させていた。断りたい。できるはずがない。こんな明るい人しかいないような職場で、自分みたいな根暗が働けるわけがない。まず人と話せない。人が何を考えているのか全くわからない。ここでバイトするような高校生はちゃんと学校に行けている、しかも一部の明るい人間だと思う。そう、佐野のような人間のことだ。自分もここで働けるくらいなら今すぐ学校に行ける。すなわち、不登校の自分には無理。QED。
心の中で海洋館で働けない理由を高速で羅列する。ただ、目の前の二人の中では自分がここで働くことが決まっているような雰囲気で、すこぶる断りにくい。
「僕、バイト経験ないです、人見知りだったりしますし…、それに…」
「ああ、ウニ以外を担当させるから大丈夫。ウニはな、佐野君がやりたいっていうから」
館長はニヤリと笑いながらそう言った。潮は隣の佐野をキッと見た。佐野は、「ね、一ヶ月くらい一緒に働こうよ」と何もわかっていない様子で説得してきている。この流れは絶対に佐野が事前に館長へ話を通していたに違いない。佐野を恨めしく思いつつ、ちょうど良い断り文句もなければ、先に迷惑をかけているのは自分という絶望的に不利な状況。もう考えるのも面倒になってきた。一ヶ月弱は確かに暇なので、お小遣い稼ぎにはなるか…と考えを改めつつある。
「あの、僕でいいんでしょうか」
「いいも何も、猫の手も借りたいくらいなんだから」
祖母の家にいても、することはない。テレビを見て、庭の草をむしって、あとは自分の内側にこもって余計なことばかり考える。泊島にくる前と何も変わらないまま、東京に帰る。そんな夏を過ごすくらいなら少しでも何かに挑戦したという事実がほしい。もしダメだったらその時また考えよう。
「あの…じゃあお願いします。働きます」
働きますと口では言ったものの、全身の細胞が「働きたくないです」と叫んでいる。館長(と佐野)は満足げに顔を見合わせ、明日から来られるかと事務的な話を始めた。潮がぺこぺこと頭を下げながら書類らしきものに個人情報を記入していると、佐野が小さく笑う声が聞こえた。
「なに?」
「いや別に。思ったよりもあっさり働くことを決めてくれたなって」
「佐野君が…佐野君が仕組んだんでしょ」
「さあね、なんのこと」
しらばっくれる佐野の横顔を見ながら、潮はふと、ここから始まる新しい日常を考えて期待のような感情を持っている自分に気づいた。とは言っても日数を数えると三週間くらいなのだが。海洋館の匂い、潮の匂いと、少し生臭い水槽の匂いが混ざった空気を吸い込みながら、潮は久しぶりに心を昂らせた。
館長室を出たところで、佐野が思い出したように振り返る。
「あ、そうだ。明日は開館前にここに来て。朝九時集合ね」
「九時、分かった」
「あと」
「なに」
「ウニの水槽、俺が担当だから。潮は【絶対に】近づかなくていいから、な?」
心遣いだと分かってはいたが、その気遣いの中に、また少しだけしょんべんの気配を感じ取ってしまい、潮は無言で佐野の背中を睨みつけた。佐野は振り返らないまま、肩を揺らして笑っていた。
朝九時前に海洋館の通用口に到着すると、佐野はすでに長靴を履いてホースを引きずっていた。
「遅い」
「ごめん、僕クビ?」
「嘘、早いよ。おはよう。クビになんかさせるかよ」
「よかった、一日目からクビかと思って」
へへへと笑い、佐野は潮に長靴とゴム手袋、それから水色のポロシャツを潮に渡した。この前のジャージは館内の人用で、渡されたのはどうやら清掃用の制服らしい。動きやすく吸湿性のあるポロシャツは触り心地がまだ新しく、太陽に当たると布が光って見えた。胸のところに、泊島海洋館のロゴが刺繍されている。「潮(うしお)」とサインペンで書かれたネームプレートはさっき書かれたのだろうか、プレートと擦れて字がびょーんと伸びていた。
「これ、佐野君が作ったの」
「まあ、書いただけだけど」
「びょーんて伸びてる、字」
「はい、先輩の努力をバカにしたからクビね」
確かに字はびょーんと伸びていたが、佐野が書いた字を見て妙な気持ちだった。佐野は大抵はふざけている。だが最初の失禁事件の時もそうだが、基本的に優しいやつなのかもしれない。思い返してみると、一人でいるところに声をかけてきたり、このバイトに誘ってくれたのももしかしたら優しさなのか…いや、それは買い被りすぎ。思い返せばこのバイトだって、騙されるようにして始まったじゃないか。
あまりにも久しぶりに人と関わっているから、相手に期待してしまうのかもしれない。期待して裏切られるのは散々だ。潮はそんなことを考えながら、佐野が館内着に着替えるところを見ていた。
「あのさ、そんなに見ないでくれる?」
「ああ、ごめん」
見ないでと言われても目に入ってしまう。佐野は少し汚れた肌着の上から館内着を羽織り、腕の部分を丁寧にまくった。想像していたよりも細くて綺麗な腕が見えて、潮は目を咄嗟にそらす。
「なに見てんだよ」
佐野が急に顔を覗き込んできたから、潮は驚いて体をのけぞらせてしまった。
「あ…、いや…。見てない」
「見てたじゃん、そんなに気になるならもっと見ればいいのに」
そう言うと佐野は潮の顎を持ち上げ、ほら、と自分の顔に近づけた。なんだ、この状況は。
「あのっ、み、見ないでください…」
「ふうん」
一瞬口角をあげた佐野は、潮の顎に置いていた手を離した。息をするのを忘れていた潮は溜まっていた空気をふうっと吐き出して呼吸を整えた。
「ほら。もう行かないと」
こんな気持ちにさせておいて働けるかと内心憤りながら、はい、とだけ言い狭いロッカールームをあとにした。
初日の仕事は単純なもので助かった。魚の餌やりができたのはラッキーで、そのほかは水槽のガラス拭き、開館前の玄関清掃、一日二度のトイレ清掃、開館中の館内清掃だった。
「そこの階段、滑るから走らないで」
「まだ歩いてもいないけどね」
「一日目のくせに口答えしないでください」
こんな調子で、佐野にいちいち口を出されるのは正直鬱陶しかったが、世話を焼かれていること自体は悪い気はしない。最近両親は潮のことを腫れ物のように扱っていたし、学校の教師たちも、腫れ物ですらなく、ただ存在しないもののように潮を無視した。そのうち自分が腫れ物であることに慣れてしまった。そんなことを知らない佐野に、デリカシーのないことを言われたり、軽口をたたかれたり、世話を焼かれたりしている。
休憩時間、バックヤードの裏口にあるベンチに並んで座る。館長が買いすぎたからとコンビニのおにぎりを六つ潮と佐野にくれた。ランチを用意するのを完全に忘れていたのでありがたい。
「たまにおにぎりくれるんだよね、館長。なんかお腹空いてる時に十個くらい買って、四個でお腹いっぱいになっちゃうらしい。でも毎回十個買うようにしてるんだって。それじゃないとお腹がいっぱいにならないらしい」
佐野は館長のよくわからない満腹中枢の仕組みの話をしている。この館の人たちは本当にどうかしている。変な人ばかりだ。だが自分も他人のことは言えないな…と肩を落としているうちに、佐野は鮭を先に食べ終え、続いてシーチキンのおにぎりを開封した。
「さっきまでお魚さんたちのお世話してたのに、人間様って残酷だよなあ」
残酷残酷、と言いながら佐野はシーチキンおにぎりをむしゃむしゃと食べる。
「まあ、そう言われてみれば…。おにぎりって海の幸が多いよね」
「たしかに。鮭もシーチキンも、昆布もおかかもか」
「梅干しくらいじゃないかなあ、海の幸じゃない具って」
「いやもっと他にあるって、ネギチャーシューとか、高菜マヨネーズとか」
二人きりで話すのは割と心地よい。佐野はいつだって自然体だった。さっきのロッカールームでの出来事も、彼なりのコミュニケーションなんだろう。世の中には一定数、ああいう体の距離感がバグってる奴がいる。ドキドキするだけ無駄である。
「潮ってさ、学校行ってるんだっけ」
不意打ちの質問に、手が止まる。なぜ?なぜそんなことを聞く?なにか不登校がバレるようなことを言っただろうか。そんなはずはない。それか全身から不登校オーラが出ている?最悪だ…。
ここで嘘をつくべきか、正直に答えるべきか。判断がつかないまま、結局あいまいな返事をした。
「夏休みだから、行ってない」
「そういう意味じゃなくて。多分だけど、行ってないんでしょ、普段も」
さらに驚いて、潮は佐野の横顔をパッと見た。佐野はシーチキンのおにぎりを食べ終え、梅干しのおにぎりを開封していた。
「え…なんで分かるの」
「なんとなく。夏休みの間ずっとこっちにいるとか、あんまりしないでしょ、普通の高校生は」
たしかに普通の高校生は…夏休みに離島で、しかも一人で過ごさない。盲点だった。同級生と海に行ったり、受験勉強をしたり、部活をしていたり、祭りに行ったり。そういうのが普通の高校生なのである。自分が普通ではないから気づかなかった。
「中学の頃は普通に学校行ってたし、友達もそこそこいたんだよ。でも中学の友達がみんな別の高校行っちゃったり、友達つくるのもそんなに得意じゃないって気づいて。喋れるやつはいるけど、そいつも僕と話すのすごい気を遣ってくれてるんじゃないかなとか考えちゃったり、みんなが僕の事ちょっとバカにしているって感じることもあったり…まあなんて言うか、自意識過剰」
気づけば、聞かれてもいないことをぼそぼそと話していた。
「そもそも高校って、グループがすでにあったみたいに初日からみんな楽しそうで。どのグループに入る?って言われてもどこも違うというか…僕は誰にも呼ばれていない気がして。高校二年の五月までは、一回も休まないようにしてた。皆勤賞だよ。多分だけど、休んだら負け的な感じで考えていたんだと思う。でもゴールデンウィーク明け、インフルエンザになっちゃって、一週間くらい学校休んじゃった。そうしたらさ、なんかすごく、学校行きずらいって思っちゃって。だって、二週間弱学校行かなかったインキャが急に登校して、変な感じにならない?死んだのかと思ったとか、くすくす笑われたらどうしようって思ったり…つまりその…」
「自意識過剰、ね」
二週間休んだのはきっかけにすぎない。学校に行かないという選択をしているのは自分である。本当にしょうもない理由だとは思う。いつからこんな自意識を肥大化させてしまったのだろう。そして佐野にそれをぶつけてしまったことをすでに後悔している。話しやすいからと言って、初対面も同然の相手にこんな話をする必要はなかったのに。ほら、やっぱり困ってる。佐野はしばらく黙った後「あっそう」と放り投げた。
「そう、そう、自意識過剰なんだ、僕、きっと…」
「重症だ。今すぐ捨てなよその自意識。ほら、廃品回収の車だ」
「ご家庭に不要になったパソコンや〜」という廃品回収の車のアナウンスが鳴っている。僕の中に不要になった自意識があります、そう心で叫んだが廃品回収者は海洋館を通り過ぎた。
「ああ、行っちゃった。回収失敗」
軽口に紛れさせたその言葉の中に、佐野なりの気遣いがあることに気づいて、潮はふっと思わず笑ってしまった。佐野が驚いたようにこちらを見た。
「なに、笑うところあった?」
「いや、なんていうか、自分は自意識過剰って思ってて、結構それって重大な欠陥なんじゃないかって思ってたけど、佐野君がそう茶化してくれると軽くなっていいなって」
「俺、めちゃくちゃ真面目に聞いてたのに」
不服そうな佐野の顔がおかしくて、潮はごめんごめんと笑った。
午後の仕事を終え、海に夕日が落ちるころ、潮は自転車を押しながら海沿いの道を歩いた。佐野とは一緒に退勤し、隣を歩いている。
「明日も九時ね」
「うん」
「遅刻しても怒らないから、絶対来てよ」
「行くよ、明日も」
「うん」
それだけ言うと、佐野は自転車に跨り、じゃあね、と手を振って去っていった。潮はしばらくその後ろ姿を見送ってから、祖母の家への道を歩き出した。
働き始めて数日、潮はようやく水槽のガラス拭きのコツをつかみ始めていた。円を描くように拭くと跡が残る。上から下に一方向に拭くんだよ、と館長に教わったその方法を実践していると、後ろから覗き込む気配がした。
「お、上手くなったじゃん」
「何度もやれば誰でも上手くなるよ」
「そう?俺、いまだに館長に呼び出しされるくらい拭き方汚い」
「やばいよそれ、やる気の問題」
「館長〜潮君が俺のことバカにしてきます〜」
佐野が館長に泣きつくと、やれやれという顔をした館長はそれを無視して亀を磨き続けた。佐野や館内の人は潮を腫れ物扱いしない。高校生としての潮はここにいないから当然なのだが。
バイト初日から、佐野は世話を焼いてくるし、周りもそれを微笑ましく見守ってくれているようだった。自分も新入りとして必死にものを覚えようとしていたし、東京の高校生としての自分を思い出す暇が全くなかったのも良かった。
佐野が清掃した水槽に戻した亀が気持ち良さそうに伸びをしているのを見て、潮もぐっと背骨を伸ばした。
休憩時間、ベンチに座ってペットボトルのお茶を飲みながらくつろいでいると佐野も遅れてやってきた。佐野はいつもコンビニ弁当か、おにぎりだった。高校二年生、育ち盛り。そりゃたくさん食べるが、なんでこんなに細いんだ。
「佐野君って、部活なに?運動部?」
「え、なんで」
「いや、気になっただけ」
「陸上部」
「練習とか大変なの?」
「まあね、そこそこ」
佐野は勢いよくお弁当をかきこんでいる。稲刈り機。彼の食べっぷりを見てそう命名した。潮のお弁当は祖母がおにぎりを三つと、そしてプラスチック容器におかずがたんまりと入っている。潮はそれをちびちび食べる。元々少食だが、育ち盛りだから食えと持たせてくれる祖母の親切を無碍にしたくない気持ちで、昼休憩の時間を最大限使って食べていた。
「ねぇ佐野君、僕のおにぎりとおかずちょっと食べない?」
「え、いいの」
「本当に多すぎていつも食べきれない。少食なんだけど、おばあちゃんが張り切って作ってくれるから食べ切りたくて…これ中身は梅らしいけど、はい」
「ありがとう」
さっきまで貪っていたお弁当を横に置き、佐野はラップで包まれたおにぎりをがぶっと食べた。すごい、三分の一が無くなった…。
「うま」
もう全部あげたい。こんなに美味しそうにご飯を食べる人ははじめて見たし、美味しそうにご飯を食べる人って見ていてすごく気持ちがいい。
「今度うちに来てみたら?おばあちゃんも僕の友達を連れてきたら喜ぶし。きっと料理も張り切ってくれると思う。ほら、バイト終わったらとか、夜ご飯の時間よければ」
「まじか、行く!」
「あ、じゃあ部活ない日とかで、いつでも」
「明日か明後日は?今日はちょっと、ちゃんとした服とか着てないし、お土産とかも何も買ってないから…」
「おばあちゃんに聞いてみる、明日はいきなりすぎるから難しいかもしれないけど…。お土産はいらないよ。お菓子とか有り余ってるから、うち」
「すごいな」
【稲刈り機(佐野号)】の食べっぷりがあまりにも素晴らしいものだから、思わず誘ってしまった。祖母に友達がご飯を食べに来ると伝えると想像以上に喜んでいるようだった。明日は市場に行ってくる、と、すごい張り切りようである。
約束の日、佐野は白シャツとジーンズで海洋館に出勤した。彼なりの正装なのだろうか。いつものだるだるの、プリントが色褪せたバンドTシャツではなく、一応白シャツを着てきたんだなと潮は思った。
「白シャツ…」
「一応、ね」
やはり佐野なりの正装だ。バカだなあ、そんなの必要ないのにと内心では佐野を冷やかし、潮はははと笑った。
「いらっしゃい。よく来たね、あがって」
祖母が張り切りすぎているのは今朝からわかっていたが、手巻き寿司とカツレツ、餃子と春巻き、野菜のディップなど、クリスマスパーティーを開催できそうなメニューに佐野も面食らっている。「お会計一万円です、とか言われたらどうしよう…」と青ざめる佐野をまあまあと座らせ、潮は取り皿に醤油をさした。
「佐野君っていうの、お名前は?」
「翔です。飛ぶやつ、翔。しょうです」
「翔くん、来てくれてどうもね、ほんとにいっぱい作ったから、遠慮なく食べて。ご飯のおかわりもあるから、それは自分でよそって」
祖母は十合炊きの炊飯器をどんっとテーブルにおき、しゃもじをその上に載せた。
「そういえば、佐野君の名前、翔って言うんだ」
「うん、みんな佐野って呼ぶし、あんまり名前言う機会ないな、最近。あ、そういえば潮って苗字なんだね。表札を見てびっくりした。潮って名前なのかと思ってた。名前は?」
「颯太(そうた)」
「へえ、なんか変な感じ。颯太って感じあんまりしないね。潮って感じだ。潮ってこれからも呼ぶと思う」
「うん」
その後も繰り出される祖母の「これも食べな」攻撃をうけ、潮は早々にリタイアした。一方佐野は、さすが稲刈り機である。全ての料理に手をつけ、うまいうまいと食うものだから、祖母も気をよくして次から次へと料理を持ってきた。明らかに昨日の残り物だという酢の物を持ってきて、一瞬それはないよ…と思ったものの、佐野はそれすらも残さずに平らげた。
「ほんとすごいよ佐野君…」
「うまかった、ご馳走様でした。一週間分くらいもちそー」
「もう二十時だけど、親とか心配しない?」
「大丈夫、今日俺の母ちゃん帰ってこないから。俺、母子家庭で母ちゃんずっと仕事してるから」
「そうなんだ」
お腹が満たされて満足そうに座椅子にのけぞる佐野の顔が一瞬硬くなったのを感じ、親のことは聞かなければよかったかなと後悔した。
「じゃあ今日泊まっていけば」
キッチンで洗い物をしていた祖母が顔を出した。
「あ、洗い物させてすみません!」
佐野が慌てて立ち上がろうとした時、机にあった醤油瓶を倒して佐野のジーンズを汚した。
「ああ、すみません」
慌ててテーブルをティッシュで拭く佐野に大丈夫大丈夫と祖母が言い、台拭きをよこした。
「お客さんなんだから、ゆっくりして行きな。ソウ、着替えとバスタオル持ってきてあげて」
「あ、佐野君は泊まっていいの?大丈夫?」
「はい、嬉しいです。ありがとうございます」
じゃあきまりね、と祖母が言う。潮は佐野を脱衣所に案内し、お湯の出し方やシャンプーリンスの色の違いを説明した。
「このプラスチックのかごにバスタオルと着替え一式入れておくから。下着だけ…、ごめんだけど自分の使って。シャワー入ってる間に着替えとかは入れておくよ」
「ありがとう」
自室に敷布団を広げ、佐野がそこに満足そうに寝転がっている。お泊まり会なんて幼稚園以来のように感じる。やはり自分が持っているパーカーは佐野の体には小さくて、袖の先から細くて綺麗な腕と脚が出ていた。
「ごめん、僕の服サイズ小さくて」
「いや、きつくないから大丈夫。この服めっちゃ潮の匂いするね」
佐野がシャツの首元を鼻に近づけて深呼吸している。臭いんだろうか。いや洗ったばっかりだから大丈夫。自分の服を着て敷布団で横になる佐野は、もともとここに居ましたよ、という様子でくつろいでいる。祖母の家なので、潮の持ち物は少なく、唯一その部屋を潮の部屋たらしめているものといえば東京から持ってきた文庫本と、少ない洋服だった。佐野は文庫本をパラパラとめくり「本とか久しぶりに触ったわ」とか言っている。この光景に既視感があるとすれば、この前びっくり仰天動画というテレビ番組で見た野良猫だろう。急に家に入ってきた野良猫が、『もともとここに居ましたよ』といった面持ちでくつろいでいる様子だ。その野良猫は先住猫たちを統制し、餌も一丁前に食べ、日当たりの良い窓際でお腹を広げて寝ていた。【稲刈り機】に加え、【野良猫】というあだ名をつけられたことを知らない佐野は大きなあくびをした。
「佐野君がくつろいでいるところ、見るの好きかも。なんか、街ででかい顔をしてる野良猫を手懐けた気分」
「よくわかんないけど、俺くつろぎすぎってことかな」
「いや…野良猫みたいだなって思っただけ」
「俺犬派だけど…」
「もういいよこの話やめよう」
今は犬派猫派で議論をする必要がないので、潮は返事はしなかった。もしも佐野が東京にいて、同じ高校のクラスにいたら仲良くなっていただろうか。佐野は明るくて無頓着で、どこかアホだけど優しいやつだ。そう考えると、友達なんて入学式よりも前に作っているに違いない。自分とここまで仲良くなれたのは海洋館という小さな箱で出会ったからだ。もし佐野が高校という大きな箱の中で潮を見つけていたとしたら…いや、見つけさえしないかもしれない。見つけていたとしても、その辺にいるなにか人間らしきもの、くらいの存在感しか出せない。そう思うと、佐野とお泊まりをしているこの状況はかなり奇跡的なものに思える。
「ねえ佐野君、佐野君ってさ、高校でどんな人と仲良いの」
「なにその質問、どうして?」
どうしてと言われても…よく考えたら、佐野のような人間が自分とつるむメリットがない。ただのバイト仲間といえばそれまでだが。高校のクラスで友達と談笑する佐野をイメージすると、ますます自分と関わることが奇妙に思えてきた。部活の友達はどんな人?どんな遊びをするんだろう。彼女はいるのだろうか。
「いや、単純にちょっと知りたくなっただけ。どんな人と遊んでるんだろうとか、彼女はいるのかなとか…」
「いない、彼女いない。彼氏もいない。潮は彼女とか、いるの?」
からかっているのだろうか。いるわけないじゃんとため息混じりに吐き捨てると、佐野はいやわからないだろと言いながら体を立てた。
「潮はどんなやつが好きなの、付き合いたいとか、思ったりするの」
どんなやつが好きなのかと言われたら、美形で優しい人が好きである。でもこれは嘘だ。考えたことがないからわからない、が正直なところだ。よく「好きなタイプは?」と聞かれて「好きになった人がタイプです」と答える俳優やアイドルのインタビューを見たことがあるが、その回答は「くだらない質問をするな」という回答の丁寧語だと思う。具体的にこれがこうで、こんな場面でこうする人です、と答えられる人は大体、好きな【個人】のことを思い浮かべながら話しているか、好きなタイプはどんな人かと聞かれた時のために答えを用意している奇人である。
そもそも、自分みたいな人間が「好きなタイプ」を考えて口に出したところで「童貞の妄想乙ww」と揶揄われるだけである。すなわち「かわいい人」「優しい人」「誰に対しても丁寧な人」など、汎用的でみんなが好きな属性ほど危ない。そんな素敵な人がいたら、その人は自分と釣り合う素敵な人と結ばれる。まあ、佐野はそんなことを考えもしないだろうけど。
「なあ、好きなタイプは?って聞いてるんだけど、無視ですかー潮さん」
頭の中で随分とひねくれていたせいで、回答を出していないことを忘れていた。
「こういう人、っていうのは、考えたことがなかったけど。好きな人とか、できた記憶ないし。そもそも好きなタイプは?っていう質問に答えられる人が変だよ」
「なんで」
「そう言う人は大体、答えを用意しているんだと思う。実際はわからないんじゃない。でも、例えば佐野君が女子だったら僕は好きになっていたかもね」
「は?」
嘘ではない。直近こんなに親密に行動をするようになったのは佐野くらいだ。一緒のバイト先、優しい先輩、ちょっとアホで物言いがストレートで、たくさん食べる。一緒にお泊まりまでしてくれるのは佐野だけだ。恋愛経験がほとんどない自分に、佐野のような女子が現れたら、確実に好きになると思う。
「いや、でも本当に好きになってたと思う。自分恋愛経験ないし、あ、バカにすんなよ。今バカにした顔しただろ。でも、佐野君ほら、優しいし。一緒にいて楽しいから。もし女子だったらーって考えたらさ、やっぱり好きになるかもって思って」
佐野があまりにも黙るので、あれ、僕キモいこと言ったかなと言うと、佐野はいや…と言いながらつむじのあたりをかいた。
「俺、女子にならないと潮と恋愛できないってこと?」
潮と恋愛できないってこと?俺、女子にならないと潮と恋愛できないってこと?、俺、女子にならないと潮と恋愛できないってこと?、どういう意味だろう。俺、女子にならないと潮と恋愛できないってこと?俺、女子にならないと潮と恋愛できないってこと?
頭の中で佐野の言葉を反芻し、黙りこくって考えていると佐野が潮の敷布団に近づき、手をにぎった。
「俺が女子じゃないから、好きになれそうにない?」
頭がくらくらしてきた。あまりにも情報過多だ。佐野の手をほどき一旦寝ていた体を起こして布団に座る。寝ているとそのまま気絶しそうだからだ。佐野がこっちを見ている。一旦落ち着こうと思って潮は目を閉じる。深呼吸をしようと口を軽く開けると、唇が急に熱くなった。
びっくりして目を開けてのけぞると、佐野が身を乗り出している。キス…?
今、佐野は僕にキスしたのか?
「は…?」
「は?って…。ああ、ごめん、キスして欲しいのかと思った。目閉じたから」
開いた口が塞がらないとはこのことで、事態を全く理解できずにフリーズしていると、じゃあ俺寝るわ、と佐野は潮に背を向け、布団をかぶって寝てしまった。
その夜、潮は全く眠れず、気絶するように眠ったのは空が白くなり始めた頃だった。なので寝起きがすこぶる悪い。布団の中で唇の感触を思い出し、これが潮にとってのファーストキスであることに気づいた。ファーストキス、甘酸っぱいだのレモンの味など幻想めいたものではなく、あれはまさに事故、爆発事故のようなものだ。窃盗、強盗とも言えるだろう。頭の中のいくつかの細胞が爆発して死んだような気がする。細胞が死んだせいか、全く眠れなかったせいか、頭が痛い。アイタタタ、と頭を叩きながら朝食が用意されたテーブルに着くと、祖母が「具合でも悪いのか」と聞いてきた。
「あんまり眠れてなかったよね、潮。昨日何回も起きてたじゃん」
誰のせいだよと思いながら潮はパンにバターを塗った。バターってこんなにうまかったっけ、と佐野がつぶやくのを聞きつつ黙ってパンをかじる、かじる。
「ジャム、塗らないの。めずらしい、寝ぼけてるんじゃない」
祖母に言われて、いつも塗っているブルーベリーのジャムの存在を思い出した。
「潮、バターついてる、口に」
もうダメかもしれない、完全に寝不足である。潮が下唇を指で拭うと、佐野が違うよとティッシュで潮の上唇を拭いた。
「赤ちゃんじゃないんだから、自分で拭いて」
「ああ…、ありがとう」
全然話ができない。昨日は夢だったのだろうか。佐野は至って普通である。さっきのありがとう、の声、変じゃなかったか。上擦っていなかっただろうか。身のこなし一つ一つが怖くなる。細心の注意を払い、牛乳で味のしないパンを流し込むと、佐野に「それ、俺のコップ、潮の右にあるでしょ」と言われ、潮はもう一度気絶しそうになった。
シフトと言うものは無情で、【昔の元気な自分】が【未来の元気な自分】に期待をして組んでいるので、こんな状況下でも朝九時から出勤しないといけなかった。佐野は至って普通な様子だ。ぐるぐると頭の中を働かせないといけないことが非常に腹立たしい。佐野はそういったことに慣れているのだろうか。これが根明というものなのだろうか。根明ってすぐキスとかするんだっけ。男同士だけど、そういう根明のノリなのだろうか。起こったことと感情の辻褄を合わせるために必死になりながら水槽のガラスを拭いていたもんで、横に館内スタッフの小鳥(ことり)がいることに気づかなかった。
「わっ、びっくりした、いつからいたんですか」
「一分くらい前かなあ、潮君ずっとここだけ熱心に拭いているから、どんな汚れだろうと思って見にきたら、もうピッカピカなんだもん。これ以上拭いたらこのガラスなくなっちゃうよ」
「ああ…すみません…」
小鳥さんは大学生で、館長の娘である。普段は本土の大学に通っているらしいが、彼女もまた夏休みだけ地元に戻り、父親のもとでバイトをしているらしい。高校生の佐野や自分とは特別に仲がいいわけではなかったが、父親ゆずりのくだけた雰囲気でとても話しやすい人だと潮は認識していた。
「ぼーっとしてるの…ってくま!くますごいじゃん。どうしたの。寝てないの、寝れないの」
「あいや…確かに寝れてないです…考え事してて…」
「大丈夫?話なら聞けるけど…大したアドバイスはできないけど」
相談なんて誰にもしたことないし、自分が今何に悩んでいるかもわからない。ある程度の推論が立てられない限り、人は悩みを言語化できないんだと潮は初めて知った。何に悩んでいるかわからないんですけど…人間関係かもしれなくて…とモゴモゴさせていると、あら、と小鳥の声が一段高くなった。
「もしかして…好きな人とかできちゃった系?」
好きな人とかできちゃった系ではないとは思います、と即座に訂正し、ただその人の行動が引っかかるというか、意味を理解したいというか…相手の行動に対する自分の感じた気持ちの意味を知りたいとか…とまた言葉が抽象化する。
「なんかよくわかんないんだけどさ、つまり、相手の行動の意味がわからないことと、それを受けた自分の気持ちもよくわからないってこと?当たり前じゃん」
「自分の気持ちについては自分しかわからないと思うけど、相手の行動の意味をとやかく考えるのは難しいんじゃないかな」
「直接本人に聞かないと、結局わかんないじゃん」
正論三本立てである。自分ではわからないことを考えても無駄である。だが、どうやって聞く?あのキスってなんか意味あったりするの?あのキスって勘違い?佐野って帰国子女だったりする?泊島においてキスって今じゃ主流な挨拶なの?どれも筋違いなような気がする。はああ、と落ち込む潮を横目に小鳥は「もうこれだから令和の若者は…」と言い残し、潮を一人にした。
あれから数日間というもの、佐野と話せていない。一週間のうち休館日の木曜日をのぞいてはほぼシフトが入っている潮と佐野だが、佐野がいる場所には無意識に近づかないようにしていた。鉢合わせてもまともに話せる自信がない。
お昼休憩中「無視とかきついんだけど」と後ろから佐野の声がした。お昼休憩を絶妙にずらして佐野と鉢合わせないようにしていた潮は、びくんと肩を揺らした。
「無視しているわけじゃなくて…。その…なんか気まずくて…」
「出たよ、自意識過剰。無視される側の気持ちとか、考えたことないでしょ」
「ごめん…」
「クビです」
佐野はレモン味のスポーツドリンクを一口飲んだ後、潮の隣に座った。この男が考えていることが一切わからない。今まではわかっていたのかと聞かれるとそうではないのだが、今はこの男が何を考えているのか強烈に気になって、まともに話ができない。潮は、あ…とかその…とか、言葉の端くれをこぼすしかこの気まずい時間を潰すことができなかった。佐野はそんな潮に目もくれず、これ飲む?とレモン味のスポーツドリンクを渡した。喉がカラカラで、空気で粘膜が擦り切れそうになっていた潮はありがたくそれを頂戴し、ごくごくと飲んだ。
「ファーストキス」
ぶふっと潮はドリンクを吐き出しそうになってしまった。勢いよくむせてしまったので、鼻の奥に液体が入り込んでヒリヒリする。人工的な柑橘の香りが鼻を通り抜ける。
「ファーストキスだったよ、俺」
やめてくれ、その話は…避けてきた話題、でも聞きたかったことを聞けるチャンスだ。ただどう伝えれれば自分の求めている答えが聞けるのか、潮にはわからなかった。そもそも、自分の求めている答えとはなんだろう。それを知ってどうするのだろうか。
「あの…。なんで僕にキスしたの?」
「それは潮が目、瞑ったからじゃない」
「そうじゃなくて!」
明らかに自分の求めている回答ではなく、もどかしさを隠しきれない。イライラした。僕のことを好きなのか?と聞くのは自意識過剰のように感じるから聞きたくなかった。
「キスされたの、いやだった?」
「嫌とかじゃない…キスされた時の感想はわからない。ファーストキスだった」
「ごめん」
「ファーストキスは佐野君も同じでしょ。でも普通しないでしょ、この関係性で」
ごめん、と目線を落とす佐野をなぜ自分が慰めているのだろう。感情がまたぐるぐると渦を巻きそうになった時、遠くから叫び声が聞こえた。
叫び声の主は小鳥で、リクガメのケージを掃除しようとしたところ、リクガメのウズラ君が見当たらないことに気づいたらしい。
「脱走、だな」
館長が名探偵のように自身の薄い顎髭を触りながら言った。全く、この海洋館の管理がゆるいのか、生物たちに脱走癖があるのかはわからないが、ウニといいリクガメといい、よくもこんなに脱走劇があるもんだ。結局手分けしてウズラ君を探そうと、泊島海洋館は一時休館となった。若者二人は外見てきてねと、広すぎる庭に佐野と自分は放り出された。
潮は館の周辺を、佐野は駐車場を探すことにした。特に駐車場は危険である。リクガメはアスファルトを歩いていたらほとんど見えない。万が一轢かれたら…と考えると、あまりにも危ないので佐野が真っ先に見に行った。短く刈り上げられた芝生には亀は見当たらず、じゃあ僕は庭のすみっこを探してみるねと、潮は表の砂利部分から、裏口の水槽洗い場を回って探した。年中常夏の島の屋外でもの探しをするのは大変きつい。
かれこれ三十分は探しただろうか、後ろから「潮!これ」と佐野がレモン味のスポーツドリンクを渡してきた。必死になって探していたものだから、喉がカラカラになっていることに潮はその時気づき、息継ぎを忘れてゴクゴクとそれを飲み干した。
「そういえばさ、これ、好きだね。僕が最初にあげたやつ」
「これ限定でしょ。夏の間にたくさん飲もうと思って」
「ありがとう、喉乾いていたの気づかなくて。なんか…ちょっとフラフラしてきた」
「大丈夫?ちょっとベンチで休もう。駐車場も探したけどいなかったし…俺もちょっと疲れた」
「うん、ちょっと休もうかな」
ベンチに座り、佐野と潮は黙って館の壁を見ていた。ぼーっと目の前の白い壁に向き合う。建物の壁ってなんでざらざらしているんだろう。ざらざらの凹凸の一部が顔に見えてきた。
「建物の壁ってさ、よく見るとざらざらしてるよな」
「それ同じこと考えてた」
「小さい頃さ、建物の壁に思い切り腕とか肩を擦っちゃって、血まみれになったことある」
「あるね、あれ痛いんだよなあ」
「つるつるじゃいけない理由とかあるのかな」
「うーん、なんだろう、わかんないけど、つるつるだと耐久性が落ちるとかあるのかな。表面積を大きくすることでなにかメリットがあるのかも」
「なにそれ、賢そう」
「いやわかんないけど…」
脱走したリクガメの捜索について頭から抜け落ちそうになっていたその瞬間、カサっという不自然な音が足元から聞こえた気がした。
「佐野君、今カサって、カサって言った」
「え?嘘、ちょ、静かに」
カサカサ…という音は明らかにベンチ下から聞こえてくる。潮が足元に気をつけながらベンチの下を見ると、そこには小ぶりなカメが落ち葉をかき分けて歩いていた。
「はあああああ、よかった、この子だよね、ウズラ君」
「うん、グッジョブ、潮。疲れたからさっさと事務所戻ろう。小鳥さんにも報告しなきゃ…」
そう言うと佐野はウズラをひょいと片手で持ち上げ、館内に入っていった。
「本当にありがとう…!佐野から聞いたよ、潮君が見つけたんでしょう、ウズラ」
小鳥は、ウズラの脱走を自責して気を病んでいたらしく、見つかったことに大きく安堵していた。
「いや、捜索お疲れ様でした。脱走癖でもあるんですかね。自分がここに初めて来た時もウニが脱走して…」
自分、びっくりして失禁したんですよ、と言いかけて疲労を自覚した潮は、じゃあケージも洗っちゃいますねと踵を返した。
ウズラのケージを洗うために裏口に行くと、佐野がケージを拭いていた。
「ごめん。ちょっと遅くなった」
「いや、大丈夫、もう終わるし」
佐野はケージに床材の赤玉土と、餌入れ、隠れるための家のような石をレイアウトし、そこにウズラをそっと置いた。
「ウズラ君っていうからさ…、甲羅がウズラの卵みたいな模様してるのかと思った。全然ウズラっぽくないね」
「ウズラの卵みたいにちっちゃかったから、ウズラって名前をつけたって。前に館長が言ってた」
「へえ、今はウズラの卵どころか、鶏の卵よりも全然大きいけどね」
二人でケージに顔を近づけ、黙ってウズラを見ていると、佐野が「ちょっとまってて」と館内に入っていった。
ウズラの脱走事件で一旦なかったことになった潮の「ファーストキス事件」は、未解決のままふわふわとどこかに消えて無くなりそうだった。それでいいのかもしれない。全てを分かろうとする必要はない。わからないものは、わからないままでもいいのだ。
佐野が「お待たせ」と、三センチくらいに切り揃えられた小松菜が入ったボウルをケージの前に置いた。
「サラダ?」
「バカ、餌だよウズラの。あげてみる?」
「え、怖い」
「いいから、はい」
佐野はどこか嬉しそうに言った。潮は小松菜の切れ端をゆっくり受け取って、ケージの中に恐る恐る手を入れる。カメって噛むんだろうか。急に動いたりするのか、毒はあるのか。
「あのさ…カメって噛むんだっけ」
「噛まないよ」佐野がふふと鼻を鳴らした。
それでも怖くて硬直していると、「ほら」と言いながら佐野がそっと自分の手をとり、小松菜をウズラの前に差し出した。
「こんな感じで、そっと差し出して」
潮が差し出した小松菜を、ウズラがむしゃむしゃと食べている。熱い。重なった手が燃えるように熱い。顔まで熱くなってきた。急に胸や背中に汗をかいている。全身がドクドクと、心臓のように波打っているのを感じる。佐野にバレないだろうか。
佐野が潮に被さるように横並びになり、潮の心臓はまさに爆発しそうだった。
「なんか、かわいいな」
佐野の一言で意識が戻る。
「たしかに、可愛いかも」
「ああ、ウズラね。でも潮もかわいい」
か、かわいい…?言われたことがない形容詞に驚きながら、うん、としか反応を返せない。これ以上ドキドキさせられたら体がもたない。
佐野は潮の硬直した手を緩め、小松菜をケージの中に落とした。そっとケージから抜いた手を佐野は握り直し、「よくできました」と笑った。
その瞬間、自分の中にあったモヤモヤの種が頭の中で発火したような気がした。
潮の手をほどき立ちあがろうとする佐野のジャージを引き寄せ、勢いに任せたキスをした。
ウズラのケージを掃除して、小松菜をあげた後のことを潮はあまり覚えていない。キスした後、細い目をまんまるにさせている佐野を置き去りにして、慌てて館内に戻り自分の荷物をまとめ、退勤した。
あれからというもの、佐野を避けてばかりだ。避けているとはいえ、佐野に会いたくないわけではなく、今日も八時半に海洋館に着いてしまった。まったく自分という人間を理解するのは難しい。早く出勤してしまったせいで暇になってしまったので、スタッフ室のコピー用紙を継ぎ足したり、コーヒーメーカーを拭いたり、ウニを眺めたりした。
佐野は相変わらず九時ギリギリに海洋館に着き、庭の掃除から始める。雨の少ない夏だからなあ、砂埃がなかなか取れないんだねえと独り言を言っているのが聞こえた。
ウニの水槽の影に隠れて佐野のことを目で追っていると、それが本人にバレ、奴がこちらに向かってくる。やばい。潮は周りを見渡し、逃げ場を探したがロビーには自分しかおらずあっけなく佐野に捕まってしまった。
「はい、逃げるの禁止」
「あ、あ、あ、別に逃げたいとか思ってないし…」
「あー、まあいいや、あれ」
「なに」
「ウニ、大丈夫になったの」
忘れてた。ウニが嫌いな設定。もうそんなことはどうでもいい。「なんか平気になったみたい」と軽くあしらうと、佐野はじっとこちらを見ている
「なに…」
はあ、という顔をした佐野が人差し指で潮の顎をトントン、と二回叩いた。
「ねえ、なんで俺にキスしたの?」
人には説明を求めた癖に、自分はなんの説明もできないのか?と佐野に責められているような気がして、至極真っ当なご意見に逃げ場を失った。
「ねえ」
佐野がグッと寄ってくる。近い。やめてください。
「ごめんなさい」
「あのねえ潮君。僕は謝って欲しいわけじゃないんだよ」
「はい」
「今日の夕方、シフト終わったら一緒に帰ろう」
猶予をもらえたことにほっと一息つき、どんな言い訳ができるだろうと頭を働かせた。
潮君ってパソコン得意そうだよね、と館長に言われた時、潮は大きなため息をつきたくなった。はいはい、いかにもオタクですみません。と悪態をつきそうになるのを抑え「あれ、僕パソコン得意って言いましたっけ」と聞いた。意地の悪い質問である。
「あ、いやこの前パソコンでエラー出た時にすぐに原因特定してくれたから…」
「あ」
確かに、館長がメールが送信できないと慌てていたから、ファイルサイズを修正して送信できるようにしてあげた。そんなことを思い出し、先入観で人の思考を勝手に推測して悪態をついた自分を恥じた。
「すごく得意というわけではないんですけど、なにかお手伝いできることはありますか」
「ありがとう潮君…!あ、いやあね、売店の売上げをまとめていたんだけど、すごくわかりにくい表になっちゃって…」
館長が自分なりにまとめた表計算(と言ってもほとんど手打ちの数字だが)を見て、整理しておきますよ、と潮はパソコン仕事を引き受けた。
掃除も好きだが、パソコン仕事は自分に向いていると思った。機械は予測不能な動きはほとんどしないし、予測不能な動きにも必ず原因があり、それを解決する方法があるからだ。向き合っていて感情的に乱されることがほとんどない。
小一時間くらい作業していただろうか。カオス状態だった表計算が少しずつ片付いてきている。
「館長、これっていつまでに提出するやつですか」
「あ、今日」
きょ、今日?と潮は目をひん剥きつつ、安請け合いをしてしまったことを後悔した。館長はえへへ、という顔で媚びている。
「わかりました。今日やっちゃいます。多分あと一時間くらいで終わると思います…」
「あ、うん、終わったら帰っていいよ。ほら、なんか雨降りそうだし…潮君自転車でしょ」
窓の外を見ると、遠くに厚い雲が見える。南国の島は台風がつきものだと思っていたが、潮が泊島に来てから一度も激しい雨は降らなかった。こりゃ一気にくるだろうねえと館長がため息をつく。早く終わらせて、佐野と会わないでさっさと帰った方が良い。そうだ、佐野に会っている暇はなさそうだ。
一刻も早く終わらそうと潮が画面から目を離さず、手を動かし続けていると佐野がスタッフ室に入ってきた。なんでこのタイミングで君が来るんだよ、と心の中で半べそをかく。
「あ、見つけた。潮早く帰ったほうがいいよ。これ多分結構降ると思う」
「うん、もう終わるから…」
「潮君ごめんねえ…」
館長は申し訳なさそうにしながらコーヒーをすすっている。人に労働を委ねておいて、呑気もいいところである。
「できました!チェックをお願いします」
館長からひとしきり有り難がられた後、潮と佐野は小走りで自転車を取りに行った。すでに小雨のようなものが肌に当たったような気がする。
「ああ、これもうすぐちゃんと降るわ。小雨のうちにできるだけ走ろう」
佐野のいう通り、一キロほど海岸を進んだところでザアアと雨が降り始めた。視界が悪く、いつ事故になってもおかしくないくらいだ。
「これちょっとやばいんじゃない!」
目の前の佐野に声が届いているかも定かではない。「潮!ちょっと雨宿り!」と佐野は一百メートルくらい進んだところにあるバス停を指差した。幸い屋根があるところだ。二人はそこに自転車を停車させた。
「一時間くらい止まないと思う、もしかしたらもっと」
南国の雨を舐めていた。確かに一時間以上ここで待つのは厳しい。今もびしょ濡れで風邪を引きそうだ。
「ごめん…通り雨的なものかと思っていました…」
「南国初心者」
「ごめんって」
「まあいいや、ちょっと座って」
佐野はカバンからジャージを取り出すと、潮にシャツを脱ぐように促した。
「え、なんで」
「濡れたままだと風邪引くから、早く脱いで」
意図はわかるが、佐野の前で潮服を脱ぐのはちょっと躊躇われる。シンプルに恥ずかしい。筋トレをしているわけでもなく、痩せ型で貧相だ。シャツに手をかけたままもじもじしていると、佐野がまったく…と言いながら潮のシャツのボタンを上から外した。
「あっ」
咄嗟に佐野の手を掴んでしまう。
「何」
「いやっ」
「風邪、ひいてもいいの」
「…」
抵抗虚しくされるがままに潮は上裸になってしまった。佐野に見られたくなくて俯いていると、佐野は潮の体をタオルで拭いた。
「いいって!」
恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになった潮は顔を紅潮させて佐野を制止した。
佐野は一瞬動きを止め、潮の肩に手を置き、顔を潮の首元に近づけた。唇が首筋に触れようとした矢先、ピカンと空が光ったかと思えばどおおおんと轟音が響き、その三秒後にバス停の天井についていた蛍光灯が消えた。
「てい…停電!」
「結構近くに落ちたな」
佐野はさっさと潮の体を拭いた後、持っていたジャージを被せた。確かに暖かい。ありがとう…と佐野のほうを見ると、佐野は相変わらずぐっしょり濡れたシャツを着ていることに気づいた。
「佐野君、佐野君の体も拭いたほうがいいよ」
「いい。着替えないし。濡れたまま寝ても俺風邪ひかないし」
「でも…」
「いいの」
佐野は海を見つめながら「停電は危ないなあ」とぼそっと呟いていた。僕のせいで佐野に風邪をひかせるなんて、そんなことはあってはならない。潮は佐野の右肩を引き寄せ、シャツのボタンに手をかけた。
「ちょっと、いいって」
「着替えなら、ほら、このジャージ二人で被ればいいじゃん」
佐野のジャージは潮一人だと布を持て余している。二人で被ろう。
「佐野君が風邪引くのは、かわいそう」
佐野は相変わらず薄汚れた肌着を着ている。それを脱がすと、想像よりもずっと細い体だった。
「意外と痩せ型だろ」
「うん、いっぱい食べるから、意外」
潮は佐野の体を拭いた。他人の体をこんなに触ったことがない。人間の肌ってあたたかいんだなと思いながらタオルを滑らせた。
佐野は痩せているとはいえ、大きなその背中を拭いていると、佐野が男だということを実感する。潮は佐野の広くて白い背中におでこをつけた。あたたかい皮膚が自分の額に当たる。
「どうした」
「わからないんだ、自分の気持ちが」
「ん?」
「ごめん。急にキスしたりとかして」
佐野が戸惑っているのがわかる。ごめんなさい、でも自分の気持ちがわからない。なんでこんなに佐野が気になるんだ。佐野に触れたいと思うんだ。なにかを猛烈に好きになる瞬間ってわからない。いつからこうなのかも説明ができないから、終わりが見えなくて怖い。この先もずっとこんな気持ちを抱えて生きていくのだろうか。こんな気持ちを持っていたところで、僕はあまりにも不出来な人間で、不登校だし、暗いし、佐野も迷惑だろう。佐野は僕と違って、明るくて、優しくて、綺麗だ。そして僕らは、後一、二週間もすればもう顔を合わせることはない。そんな自分には届かないようなものを好きになって、この感情に意味はないだろう。ああ、非常に疲れる。届かないと薄々気づいているものにすがろうとしているのは、疲れるんだ。
「別に謝って欲しいわけじゃないんだけ…」
「わすれてほしい」
「は、なんで」
佐野は振り返り、潮の顔に詰め寄った。目が見れない。
「なあ、人の記憶ってそんなに簡単に消せると思うか」
「いや…」
佐野の声は怒っているようだった。怒っているのか?暗くてよく見えないが、悲しそうな目でこちらを見ているような気がする。
「俺のこと、そんなに嫌なのか」
佐野は悲しんでいる。そうじゃない、嫌いじゃない!と心が叫んでいるのに、声が出ない。
「好き…かもしれない」
やっとの思いで絞り出した言葉は曖昧で、さらに佐野を混乱させてしまいそうだった。
「でもごめん、好き【かも】しれないんだ。僕は男を好きになったこともなければ、女もない。恋愛経験自体がなくて、これからどうすれば良いのかもわからない。だから明確なことが言えないし、なにもできない」
「わからないんだったら、試してみれば」
「どういうこ…」
佐野は潮の顎を右手で引き上げ、キスをした。心臓に落雷したような衝撃、全身の細胞が痙攣した。言葉にならない感情を、潮は飲み込み、唇を押し返すことでしか抑えられなかった。
どれだけの時間が経っただろう。気づいたら街灯やバス停の電灯も点灯していた。佐野と潮は一つのジャージを羽織り、ぽつりぽつりと話しながら、車が通らない時を見計らって何度もキスをした。
突然目の前に大きな車が止まり、窓が開いた。
「ちょっと!君たち大丈夫?…って佐野と潮君?何してるの!」
車には館長と小鳥さんが乗っていた。電気が復旧したタイミングで、帰る途中だったらしい。そんなところで風邪引くよ、早く車に乗りなさいと佐野と潮を押し込み、後部座席を倒して自転車二台をすごいスピードでしまい込んだ。
「手品みたいだな」
「いいから!佐野ってどこに住んでるの!住所!」
「あ、潮のほうが近いですよ。僕街の中なんで」
「じゃあ潮君、どのあたり?先におろすよ」
「ああ、ここ曲がってまっすぐいったところの郵便局あるじゃないですか、あのあたりです」
後部座席の右側には佐野がいる。冷たい小指が僕の太ももに当たっているのがわかる。風邪を引かなければいいんだけど、と心配していた潮は、その後少しだけ風邪を引いた。
激しい雨で次の日は休館になったので、いつもより重たくなった体を休めることができた。佐野に「風邪ひいてない?」とメッセージを送ると「全然平気」と返信が来た。
悶々とした気持ちを抱えながら過ごす一日は長く、こんな日に気を紛らわせる手段を潮は知らなかった。朝起きては昨日のことを反芻し、一人で恥ずかしくなって「うっ」と思わず叫んでしまった。朝食も進まず、祖母がいよいよ心配している。
一連の出来事で、自分が佐野に特別な感情を抱いていることをようやく自覚した。佐野との出会いから今まで起こったことを順番に思い出す。どこで特別な感情が芽生えたのかは本当にわからない。ただ全てが大切で、忘れ難い思い出だった。
佐野とのこれからはどうだろう。次はいつ会えるんだろう。次は何を話そうか。またキスできるのかな。佐野に早く触れたい。この気持ちの果てしなさを、人は恋や愛と呼ぶのだろうか。
昨日バス停で起こったことも、反芻しすぎた結果、頭の中で美化して映像化され、現実味が失われつつあった。佐野は果たして現実に存在していたのだろうか。いや存在している。
メッセージを何か交わそうとスマホの画面を凝視していると、佐野から着信が来た。慌てふためきつつ電話をとると『わ、すぐ出た』と佐野が言った。
『たまたまスマホ見てて…どうしたの』
『いや、特に用事はないんだけどさ。潮、暇してるかなと思って、連絡してみた』
『暇だったよ。台風で外にも出られないし、家にいてもすることないし』
話したくて話したくて、ずっと佐野のことを考えていた。口が裂けても言わないが、声にその嬉しさが出てしまわないように意識的に低いトーンで話す。
『しばらく雨降ってなかったからな、これは…今日一日かかるな。明日も掃除大変そう』
『そうだね』
『あ、そういえば潮が東京帰るのって二十七日だっけ』
嫌でも意識させられるお別れを佐野が切り出して来たものだから、心がズキリと痛んだ。
『…うん』
『観光とか…十分にできた?』
『いや、海洋館に行ったっきり、どこにも』
『まじか、木曜どっかいかね?』
『え、いいの』
『うん、俺も潮とどっか行きたいって思ってたし。市街地って言っても観光っぽくないしな…ちょっとバスに乗らないといけないけど、良い?』
『良い!木曜ね、休館日。空けておくね』
『決まりな、風邪引くなよ』
『佐野君もね』
『なあ、もう君付けやめてくんない?名前で呼んで、翔って』
『あ、うん…翔?』
『はは、変な感じ。やっぱなし、佐野って呼んで』
『なんだよ…、佐野ね、了解』
自分を絶望させるのも、天国まで押し上げるのも、今は佐野次第なのだ。自分の世界が佐野に委ねられている感覚ははっきり言って正常じゃないのだろうが、こんなに心地のいいものなのかと思った。
木曜日、潮の家のすぐ近くのバス停で待ち合わせをして、佐野が言うバスに一緒に乗った。そこから一本だけ乗り継いだ先に静かなビーチがあるのだそう。ポツポツと家があり、ここになんの観光地があるのか潮には検討もつかなかった。
昨日一昨日と、海洋館で佐野と顔を合わせる度にどこに行くのかと尋ねても、サプライズだから、と言って何も教えてくれない。正直どこに行くにしても大して興味はなかったが、ただいたずらっぽく笑う佐野が見たくて、潮は何度も聞いた。
バス停を降りて、地元の食堂とガソリンスタンド以外に何もない道路の端を少し歩いた後、佐野は急に体を左に向けて雑木林の中に入って行った。
「え、何?」
「いいから!来て!」
ほぼ道のない道を歩いていく。木々から漏れる陽の光が南国の植生を照らしていて、とても綺麗だ。潮は東京から一眼レフを持ってこなかったことを後悔した。目に焼き付けておこうと、できるだけ佐野と距離をとって、景色を目に焼き付けようとした。
「なんでそんなに離れてるの?ハブに噛まれるから、早く歩いて」
佐野は潮の手を握り、すごい早さで雑木林を駆け抜けていく。
「ほら、前見て」
佐野が歩く先を見ると、十メートルほど先に白浜と海が広がっていた。
「わあ、すごい、砂白い」
「ここあんまり人こないから、ほら、早く」
雑木林を抜けると、人ひとりとしていない真っ白なビーチと、キラキラひかる海がひたすら水平線に広がっていた。海にはひとつ、変な形をした大きな岩がある。
「あれ見せたかったんだよ。岩、見える?ゴジラ岩。ゴジラに見えない?」
言われてみれば確かに、ゴツゴツした体から手がにょきっと出ていて、てっぺんの形が咆哮しているゴジラのように見えなくもない。
「確かにそうか…?でもゴジラ岩ってこの島で有名だっけ?聞いたことないけど」
「俺がそう見えたからいいの、小さい頃あれ見て泣いてたらしいぜ」
「えっ、なにそれ、かわいいね」
「ゴジラがこっちに来る!って、ギャン泣きして、母さんを困らせてたらしい」
「ははは、確かに、波が高かったりするとそれっぽく見えるのかな。小さい頃って大きいものが怖かったなあ」
「な、怖いだろ」
佐野は砂浜に腰をおろし、目を細め、ゴジラ岩を懐かしそうに見た。わざわざこれを見せたかったのか。観光地ってどこだろうと思って、ネットで少し調べたが、的外れだった。佐野らしいと言えば佐野らしいが。そういうところも好きだと思う。
「…また九月の連休に泊島に来たいな」
「え、本当に」
本当は泊島から出たくない。佐野とずっと一緒に海洋館で働いていたい気持ちは間違いなくある。だが、これから先の人生を思うと今高校をやめることが最善の選択だとは思わなかった。
「うん。長い休みの時は、絶対泊島に来る。受験期はわからないけど…。でも電話とか、ラインとか、佐野ともっと話したい」
「うん」
「泊島の大学とかあるのかな」
「はは、わかんない。潮が泊島に来なくても、俺が東京行けばいいってことじゃない」
「え、ほんとに?待ってていいの?」
「はは、会いに行くよ。学生のうちは多分金ないから、高校出たらすぐ働くと思うし、金貯まったら会いに行く」
潮は左手を佐野の右手指にそっと重ねた。握り返してくれなくてもいい。佐野の温かさが好きなのだ。できるだけ長く触れたい。ただ、佐野の目線が自分に流れた瞬間、恥ずかしくなって手を離してしまった。
「ねえ!あの…この後何もなければで良いんだけど。そばを食べに行きたい。市街地にある有名な中華そば屋さん」
「ああ、蓬萊?あそこ混んでる…でも今から行ったら一時か。空いてそうだし行くか!」
勢いよく立ち上がった佐野は、服についた砂を払い、右手を潮に差し出した。
「ほら、手、つなごう」
嬉しさで心が空まで跳ねた気分だ。このままハブに噛まれて死んでも後悔しないだろう。 結局、バスでもずっと手を繋いでしまった。こんな幸せなことがあっていいのだろうか。好きになった人と手をつなげている。奇跡である。
市街地に出て、中華そばを食べた後、潮の家の近くまで佐野が送り届けてくれた。楽しい時間は一瞬だ。休館日はあんなに長く感じた一日が、今日は目を瞑って開いた瞬間に終わったのではないかと思うくらい早く感じる。
「じゃあ、またあした」
「うん、またあした」
この時の僕は、とても幸せだったと今でも思う。何も知らない、知ろうともしない人間の方が幸せでいられるのであれば、僕は無知であり続けたかった。
泊島に来てからもう三週間が経とうとしていた。祖母との生活や海洋館でのバイト生活が日常となりつつある。
祖母は朝は決まって六時に起きて、味噌汁の出汁をとる音で潮の目を覚まさせた。祖母の朝食は和食で毎朝ご飯、お味噌汁、卵焼き、納豆。毎日食べて飽きないのかと聞いたら、飽きる?贅沢だねぇと一蹴された。父から聞かされたのか、潮がこの家で迎える初めての朝から食パンを用意してくれていた。
それぞれの朝食を、祖母の世間話を聞きながら食べる朝が好きだった。
祖母は特別穏やかな性格ではなく、どちらかと言うとぶっきらぼうで大雑把だ。潮の一言に対して悪態をつく祖母を見ながら、自分はこの人の孫なんだなぁと思った。
夕食は何がいいかと聞かれ、なんでもいいと潮が言うと、なんでもいい、だと?贅沢な子だねぇと言いながら結局潮が初日に好きだと言った唐揚げを揚げていた。
自分が東京の高校にうまく馴染めていないことを、祖母は知っているのだろう。祖母の家では学校の話を一切しなかったが、祖母からそのことについて特に質問をされないのは、潮が学校に行けていないことを知ってるからだと思う。
腹は空いていないか、一人で大丈夫なのか、よく眠れているか。祖母が気にするのはいつもこのようなことばかりだった。
潮が東京に帰る二日前の夕方、祖母が珍しく「たまには外で食べよう」と言い出した。いつもは自炊ばかりの祖母が、潮を外食に誘うのは滅多にないことだった。市街地に向かう海沿いの道を車で走る。祖母は鼻歌まじりにハンドルを握っていた。相変わらず運転が荒く、潮は時々シートベルトをグッと握った。
「ソウ、夏休みにこっち来てよかったと思うかい」
赤信号で止まった時、祖母がぽつりと言った。
「なんで?」
「この島に来た時はなんかこう、辛気臭い顔してたじゃない。最近はよく笑うようになったと思う。海洋館のバイト、楽しい?」
「うん、楽しい」
「そう。そうかい、楽しいのが一番だね」
ファミリーレストランに着き、案内された窓際の席に座ると、祖母は早速QRコードでドリンクバーと食事の注文を済ませ、コーヒーを取りに行った。非常に手慣れているので、おそらくこのファミリーレストランにはよく来るんだろう。店に入ってからコーヒーを持ってくるまで三分ほど、祖母はやれやれといった様子でボックス席に座る。
「東京帰るの明後日じゃない。この後お土産とか見に行くかい」
「ああ、お土産は港で買うからいいかな。今日は家でゆっくり片付けしたり、部屋掃除しようと思う」
「早いねえ、あっという間だった。もっとゆっくりしていってもいいのに。まぁ、ずっといられても困るんだけどさ」
祖母はドリンクバーのコーヒーに「相変わらず不味いねぇ」と悪態をつきながら、窓の外に目をやった。
「帰って、どうするんだい、学校」
今まで学校のことについて全く話さなかった祖母に意表をつかれ、一瞬心臓がドキンとする。東京に戻ったら学校に行くとすこし前から決めていた。学校に行って、勉強を頑張って、友達を作って、そんなことを自分も楽しんで良いのではないかという考えが自然に生まれたのは、この島にきたおかげだと思っている。
「行くよ。二学期から、ちゃんと」
言葉に出すと、その言葉はやはり取り消せないと思う。祖母に学校に行くと伝えたのは潮の決意表明だ。祖母、佐野、館長、小鳥など、この島や島の人に対して潮は決意表明を行ったのだ。
「そう。そうかい」
頑張ってねと言われるのかと思ったが祖母は目を細めて言った。
「ソウはソウのしたいことを、すりゃいいんだよ。人生に王道も邪道もなし、今自分が何をするべきなのか、自分の頭で考えな」
「おばあちゃんは、学校に行った方がいいと思ってた?」
「わからん。それはソウ次第。ばあちゃんが言ってるのはそんな小さなことじゃない。学校に行くか行かないかなんて一つの決断でしかない。自分が何が好きで何が嫌いで、どう生きていきたいかを、考えるんだよ」
「うん…」
何を言っているのか、わかりそうでわからない。高校や高校での社会生活が世界の全てと言っても過言ではない高校生が、学校に行かないという選択をするのは邪道であり、怠けであると潮は思っていた。
「そのうち、わかるさ。ソウはまだ未熟、青リンゴ、ケツの青いガキだよ」
「ははは、言い過ぎだよ。うん、ありがとう」
「またおいでね、ばあちゃんが生きてる間に」
本当に自分は、泊島にきてよかったんだ。自分の世界はもう明るくないと思っていた三週間前と比べると、本当に夢のような現在である。
「飲み物、取ってくるね」
潮は席を立ち、ドリンクバーのコーナーへ向かった。
隣のボックス席に、学校帰りらしいジャージ姿の男子高校生が三人座り込んでいた。大量のポテトと、ドリンクバーのみ注文をして先ほどからずっと話し込んでいる。自分も東京に帰ったら、こんな感じで友達とファミレスで話し込みたい。
「あー疲れた、今日の練習マジきつかった」
「十本ってやばいよな。一本でもあの坂は急なのに十本て」
「でもしょうがない、次の新人戦で俺三千だし」
「三千やべえ、俺短距離だからほんとに無理」
陸上部だろうか。この辺りの高校か?思わず聞き耳を立てる。佐野が陸上部に所属しているが、新人戦については聞いていない。佐野も出るのだろうか?もしそれで優勝したりしたら、都内に遠征にきたりするのだろうか。
「そういえばさ、佐野って覚えてる?」
手が止まる。佐野?聞き間違いだろうか。潮はドリンクバーのボタンを押すのをやめた。
「佐野?ああ、もう全然学校来てないやつ?」
「そうそう。この前、海洋館でバイトしてるの見たわ、俺」
「え、まじで?あいつ結局学校辞めたんだっけ」
「辞めたって聞いた。金ないから夜間にも行けないとかで」
「うわ、まじ。しんどいな、それ」
自分の知っている佐野だろうか?海洋館でバイトしているって言ってたから、そうか。他に佐野っていないもんな。でも佐野は学校やめたとか一言も言っていなかった。コップを持つ手先が冷たくなるのを感じる。
「前に工事現場の警備員のバイトしてるところ見たって女子が言ってたな。深夜の工事現場の誘導?的な。貧困家庭とかもうそういうレベルじゃないだろ、あいつ」
「マジか、かわいそうだな…」
「まあでも、関わり方むずいよな。お金貸してって誰かが聞かれた〜みたいな噂もあったし」
「えー、それはないな」
「いやあ、本当に困ってんだと思うよ。親もいないって噂もある」
ボックス席に座っていたその男子生徒三人は、フライドポテトをつまみにドリンクをすすりながら別の話題に移っていった。
潮は自分の見ている世界が急に歪むのを感じた。海洋館っていうのは聞き間違いだったかもしれない。佐野は高校に行っていて、母子家庭で母親と暮らしている。とにかく自分の知っている佐野がそのままであることを証明したい。
「あの、すみません。たまたま聞こえちゃって、その、あの…佐野って…」
三人が誰お前、という顔でこちらを見ている。
「あ、佐野の知り合いとかですか?」
「あ、わからないです、佐野って、あの、佐野…佐野翔ですか?」
「そうそう、佐野翔ね。学校辞めて、今は海洋館で働いているっていう目撃情報。佐野がどうかしました?」
祖母に「ごめん、先に帰っていて」とだけ伝え、潮はファミレスを出た。全力で走りながら、頭の中で、これまでの出来事を思い出す。
なぜ自分は気づかなかったのだろう。
バックヤードを掃除している時、佐野の高校の話になった。俺本当に勉強もできないし友達もあんまいないよと笑う佐野を思い出す。その時は、すごく意外だけど自分と共通点があるようで、なぜだか嬉しくなってしまった。だから自分たちはここまで気が合うのかと勝手に自己解釈していた。
だがよく考えてみれば、海洋館でも年齢関係なくうまく馴染み、生物はもちろん人の面倒見もよく、快活な佐野に友達がいないのはおかしい。すこしでも【自分と同じ】だと思ったのがバカである。
佐野はなにか訳があって本当のことを自分に話さなかったんだろう。母子家庭について少しだけ話してくれた時も、まあそれが当たり前ですよといった態度で、やけに大人びたやつだと思った。自分が何度か、いや何度も佐野に気を遣わせていたかもしれないと思うと、お腹が痛くなる。
この三週間はどこまで本当で、どこまでが嘘なのだろう。自分は佐野の何を知っているのか。考えてみれば、佐野のことをあまり知らない。佐野の母親に会ったこともない。どんな家に住んでいるのかもわからない。どんな友達がいたのかもわからない。毎朝何を食べているのか、誰と食べているのか、全くわからない。そもそも、自分はなんで佐野のことを好きだったんだろう。佐野の何も知らないくせに。佐野と自分の気持ちが一緒だなんて、一瞬でも思ってしまった。ああ、喉の奥が痛い。謝りたい。
海洋館に着くと、閉館時間ぎりぎりで、佐野はちょうど館内で掃除用具の片付けをしているところだった。
「あれ、潮じゃん。会うのって明日じゃなかったっけ」
そこにはいつもと変わらない【自分が知っている、いつもの佐野】がいた。もうこのまま何も言わずに東京に帰って、その後も知らないふりをして生きていくこともできる。その方が衝突をしなくていい。
でもそれでいいのだろうか。きっと傷つくと思う、というか、もうすでに傷ついている。本当の佐野を知らない方が嫌だ。
「佐野」
「なに、怖い顔して」
「あの、本当に聞きたいことあって。あの、ごめん。うまく言えなくて」
佐野の表情から笑みが消えた。
「なんかあったの」
「うん、さっき佐野と同じ高校【だった人】と少し話して…」
佐野の目がひゅっと開き、その後長い沈黙があったように感じる。バックヤードの水槽のポンプの音が大きく響いていた。
「…そう」
やがて、佐野は短くそう呟き、何も取り繕おうとしない。
「バイト終わったら、うちに行こう、一緒に」
佐野が自転車を押し、いつも通っている道を並んで歩いた。
「まあ何を聞いたのかは大体想像つくし、潮が知る必要がないと思ってたから言わなかっただけなんだけど。高校生っていうのも、まあ、厳密には元高校生。今年の五月に退学してる。陸上部だった。それは本当で、まあもう辞めてるけど。なんでやめたかって聞かれるとちょっと長くなるんだけど」
まるで他人ごとのように話す佐野は、すっと息を吸う。
「母さんは、母さんはもういない。去年の冬。突然いなくなったんだ。母さんが出てった時、机に一万円が置いてあって。<これでご飯食べて!>ってメモに書いてた。ラッキーって思ってその日友達と焼肉行っちゃったよ。はは。まあ俺の母さんってずっと一人でふらふらしてる人だったし、過去に一ヶ月くらい家を空けてたこともあったから。また帰ってくるかなって思ってたけどさ、もうずっと帰ってきてない。父さんとはずっと前に離婚してるからその、お父さんに当たる人も知らないし、母方もほぼ実家と絶縁してて頼れる親戚もいなくて、ずっと一人で暮らしてる」
自転車のチェーンの音がかちゃかちゃとなっている。潮は佐野の顔を見ることができなかった。
「そうしてるうちに学校で呼び出されて、学費が振り込まれてないって言われた。学費って高いんだぜ、意外と。学校になんとなく嘘ついて、ちょっと納付期限を伸ばしてもらったりして、すぐ深夜の警備員バイトした。時給よくて。でもさ、深夜に働くから朝がどうしても起きられなっちゃって、学校遅刻することが増えて授業中もまあ眠くて。陸上部はすぐやめたな。バイトしたいし、遠征費も払えないし。そんなこんなで、あれ、俺なんで学校行ってるんだっけってある時こう、全部どうでもよくなっちゃって。どうせ大学にも行けないんだしこのまま働いた方がいいなって思って、先生に本当のこと全部伝えて、学校辞めますって言った。いつ学費を払ってもいいようになんとかするからって言ってくれた先生もいたけど、でもほら、自分にとって高校よりも今を生きることの方が大事だったから、結局ね、退学した」
海沿いの道は西陽が強く、二人の影を長く伸ばしていた。
「なんで、今まで一度も、僕にそのことを言おうと思わなかったの」
潮がようやく声を絞り出すと、佐野は少し笑った。自嘲するような、乾いた笑いだった。
「んー、なんだろう。プライドなのかな。言ったら、俺のことかわいそうとか思うだろ」
「そんなことないよ」
「可哀想な子、って目で見られるようになる。学校の先生もそうだった。親に捨てられた可哀想な子。気を遣われて、なんでも許されて、でもそれって結局、対等じゃないってことだろ。まあ、それだけじゃないよ。嫌われたくなかったんだと思う。潮に。普通の高校生活を送ってない、金もない、家族もいない。待ってる未来が潮と俺じゃ違うから。そりゃ俺も、俺も普通の人生がよかったよ」
潮は何も言い返せなかった。対等でいたかった、という佐野の言葉の意味が、痛いほどわかったからだ。腫れ物のように扱われることがどれだけ人を孤独にするか、自身がよく知っている。
「普通じゃないのは僕も一緒だろ…」
「まあ、そうだけど」
自分が今まで佐野に「普通でいてほしい」と無意識に思っていたのではないだろうか。自分が普通ではないから、普通に見える佐野と特別な関係になれたことを喜んだりしていなかっただろうか。今言葉を紡いでも、弁解にしかならないような気がする。
「ここが、俺の家」
海洋館を出てからもう何分歩いただろう。住宅地の外れ、木造の古い平屋があり、その前で佐野は自転車を止めた。
玄関の引き戸は建て付けが悪いのか、佐野が力を込めてがたがたと開けた。中に入ると、古い家の湿った臭いがした。狭い台所には洗っていない食器が積まれ、居間には敷きっぱなしの布団と、ベランダには、色あせた下着や服が無造作に垂れ下がっていた。ほぼ落ちかけた西陽が縁側から差し込んで、部屋全体を明らかにしている。
言葉を失った。ここでずっと一人だったのか。佐野が一人、この中で息をひそめるようにして生きてきた痕跡を潮は一つ一つ確かめた。
「汚くてごめん。まあ、適当に座って」
佐野は縁側に腰掛けた。潮は佐野と背中を合わせるようにその横に腰を下ろし、膝を抱えて天井の染みを見上げた。
「俺、多分、もう普通の人生は送れない。この島でずっと働いて、一人で生きていく」
その言葉を聞いた瞬間、潮の目から涙がこぼれた。佐野にバレないようにサッと拭く。でもいくらこぼれないように頑張っても、空気を読まずに涙は流れ続けた。
「なんで、泣くんだよ、やめてよ」
「だって、」
言葉にならない。佐野がずっと一人で、この部屋で、誰にも打ち明けられずに耐えてきた夜のことを思うと、胸が潰れそうだ。顔をくしゃっとさせて笑って、たくさん食べて、潮の面倒を焼いて、ウニの話を嬉しそうにする佐野の裏側に、こんな静かな時間があったなんて、想像もしていなかった。
「ごめん、佐野君が一人で頑張ってたこと、僕、何も知らなくて。バカだなって思って、ごめん」
潮は涙を拭いながら、まっすぐに佐野を見た。
「必ず、僕が迎えに来るから。今すぐには何もできないけど、大人になったら、絶対に。佐野を一人にしない」
佐野は少しの間、黙って潮を見ていた。それから、静かに首を振った。
「いい。来なくていい」
「なんで」
「俺はそんな、潮に慈悲をかけられたくない。言っただろう、対等じゃないのは嫌だ」
「そんなつもりない」
「俺と潮は全然違うんだよ。俺、普通じゃないんだよ。これからもそう。潮はそれを分かってないよ。もっと普通の人と仲良くなって、付き合ったり、家族になったりした方がいい。だから、俺のことは忘れてよ」
「意味わかんないよ…。忘れられるわけないよ」
潮は縁側に足を外に出して座ってる佐野の手を取った。佐野は握り返して来ない。
手を握り返して来ない佐野に対して一層不安になる。明らかにしたいのは、佐野の高校についてや母親についてだけではない。正直隠し事があったことはもうどうでもいい、自分と過ごしたこの三週間は、佐野にとってなんだったのだろうか。言葉が続かない。喉の奥が痙攣するように震えて、うまく息が吸えない。ここで聞かなければ一生後悔することになると思った。
「佐野、ねえ…。佐野は、僕のこと少しでも好きだった?」
繋いだ手のひらに、大量の汗が滲んでいく。佐野の指先は冷たく、力が入っていない。嫌な予感がして、潮は顔の筋肉を緊張させた。
「佐野…僕は…」
潮の声をかき消すように、佐野は繋がれた手を離した。
「好きだったら、なに」
「僕、佐野を迎えにきたい。迎えに来られるのが嫌だったら、いくらでも待てるし、何年でも。佐野が一人でも生きていけるようになるまで、僕も自分のやるべきことをちゃんとやって、それで、また」
「だからやめろよ」
佐野が初めて声を荒げた。今まで聞いたことのない、はっきりとした拒絶を感じる声だ。
「待つとか、迎えに来るとか、無責任なこと言うなよ。俺は潮を待たせるために生きてるわけじゃない。そんなの、耐えられない、俺の気持ちがわからないのか」
「そんな…」
「だから、好きじゃない。…好きじゃないよ、潮のこと」
佐野は潮を見ずに言い放ち、潮を置き去りにした。
「夏休み暇だったから、お互い遊んでただけ、でしょ。潮は東京の学校に戻るし、俺はこの島に残るよ。今までの生活に戻るんだよ」
目の前が真っ暗だ。潮は何も言えないまま、その古びた家を後にした。夜の海沿いの道を、一人で歩いて帰った。街灯の光がアスファルトに反射して青い。
好きだったよ
本当に大好きだったんだ、佐野が
佐野も同じ気持ちなのかなと思っていたよ
言えなかった言葉を心で何度も復唱した。これが、潮と佐野が離れ離れになる前の、最後の夜だった。
佐野の家を出てから一時間ほど歩いている。祖母の家へと歩く足が、途中から止まっていることに気づいた。立ちくらみのようなものを感じたので、潮は海沿いにあるバス停でしばらく休んだ。
三週間前、フェリーのデッキで感じた海風のことを思い出す。あの時は、この島に来たところで何も変わらないだろうと思っていた。海洋館で佐野に出会い、そこから始まった全てが、潮にとっては人生で一番眩しい日々だった。ヒトデの水槽を磨いた朝も、稲刈り機みたいに何でも食べる佐野の横顔を眺めていた昼も、雷の中で寄り添ったバス停の夜も、全部、潮にとっては嘘ではなかった。
四日前くらいだろうか、海亀の餌やりゾーンに指輪を落としたというお客様がいた。ウズラ君を探し出してから、潮は探し物の度に駆り出されるようになった。佐野と潮が二人で手分けして探すと、指輪は岩と岩の間にきゅっと挟まっていた。その絶妙な挟まり加減でなかなか取れず、そのあまりの頑固さに二人で爆笑してしまった。結局指輪は格闘の末取れたけど、しゃがみ込んで夢中で作業していたからか、佐野と潮のお尻が水でびちゃびちゃになった。店長に「大人二人でなにしてるの」と怒られ、また笑ってしまった。
佐野にとって全ては遊びだったのだろうか。自分だけが佐野に触れる度にドキドキして、夜寝る前に会話を思い出したり、離れ離れになることに心を痛めたりしていたのだろうか。突っぱねられてしまった以上、もう確かめる術はなく、潮は諦めて再び歩き出した。
家に帰ると、祖母は遅かったねえとだけ言い、何をしていたのかと詮索することはなかった。潮の顔をじっと見て、それから「ご飯食べて、ゆっくりおやすみ」とだけ言い自室へと消えた。食欲がないので用意してくれていた夕食にラップをかけ、冷蔵庫に入れる。
自室に戻り、布団に潜り込むと、東京から持ってきた文庫本が目に入った。佐野が「本とか久しぶりに触ったわ」と言いながらめくっていた、あの本だった。潮はそれを胸に抱えたまま、祖母にバレぬようひっそりと泣きながら眠った。
東京に戻ってからというもの、潮は誰とも口をきかなかった。荷解きをして、部屋の掃除をして、制服にアイロンをかけて、新学期に向けてやるべきことを一つずつこなすことで、泊島での思い出を一つ一つ奥にしまった。できるだけ早く切り替えるんだ。
佐野との最後は正直、人生の中でもかなり辛い別れであった。あまりにも引きずってしまいそうで、フェリーのデッキから遠ざかる泊島を見た時に絶望しそうになった。もうこんなに好きになれる人に会えるかもわからない。なのに、当の本人には二度と会えないかもしれない。不毛である。こんな気持ちを持つことは本当に不毛である。
佐野との思い出は、心の中に大切に仕舞っておくことにしよう。あんなひどい別れ方をしてしまったけど、佐野と過ごした約一ヶ月は紛れもなく、自分にとっては楽しい日々で、本物の思い出だった。思い出そう、楽しかった思い出だけを。完結した物語として自分の中で昇華するんだ。
二学期の始業式に出席するため学校に向かうと、去年までは毎日通っていた校舎がまるで別のもののように見えた。夏休み前と変わらない校舎、制服の群れ。だが以前のような疎外感はなかった。疎外感といえども、自分が勝手に作り出していたものであり、周りの環境がそうさせたわけではないことを潮は思い知った。贅沢な悩みを持っていたのだと思う。
教室に入ったときに数人がこちらを横目で見たような気がしたが、夏休み前に二週間以上休んでいた、今にも死にそうな生徒が急に登校してきたのだから当然だと思う。なんで急にきたの?来なくていいのに。誰かにそう言われたらどうしよう。ネガティブが再発しそうになったが、「自意識過剰」と、自分に言い聞かせることで心を落ち着かせた。
そうだ。他人はそこまで他人に興味がない。自分のことでいつも精一杯なんだ。他人には見えない【なにか】と一人で戦っていたりするのだ。影の薄い不登校の生徒のことなんて気にしている暇はないのだ。
「あれ、あのさ、それ泊島のだったりする?」
隣の席の男子生徒が急に声をかけてきたので、自分に対して話かけられているのかどうか、最初はわからなかった。名前はおそらく栫井(かこい)…栫井と呼ばれていた気がする。多分弓道部。彼は潮が鞄につけていたキーホルダーを指差している。丸いフォルムのウニをモチーフにした、海洋館の売店で買った小さなマスコットだった。
「え、なんで知ってるの?」
「うち、じいちゃんが泊島出身でさ。ほら、俺の苗字珍しいじゃん、栫井ってそっちの苗字らしいよ。まあそれはいいんだけど、去年の夏休み泊島に遊びに行って、そう、泊島海洋館。あそこの亀の餌やり体験、めちゃくちゃ楽しかったわ」
「亀」
勢いよく話す栫井の言葉に頭をフル回転させながらも思わず声が漏れ、潮は祖母が話していた、幼い頃の自分の逸話を思い出した。亀に手を齧られて、海洋館中に響き渡るような声で泣いたという、あの話だ。
「亀、噛むよね」
「え、噛まれたの?」
「いや、覚えてないんだけど。昔、亀の餌やり体験して噛まれたって祖母に言われて。全然覚えてないんだけど」
「そうなんだ。おばあちゃんが泊島出身ってこと?」
「うん。そう、おばあちゃんの家がある。夏休みの間、居候してて。その海洋館でバイトもしてたよ」
夏休み明けに同じクラスの人たちが、海に行った、部活の合宿があった、そういう「普通の話」をしているのを隣で聞き、勝手に肩身を狭くするのが恒例行事だった。他人に挨拶をされることさえ恐怖、ましてや夏の思い出を聞かれるなんてもってのほかだった自分が、同級生と共通の話題で盛り上がるなんて、前代未聞の大事件である。この状況に身震いし、絶対に失敗してはならない、失言しないように…と考えかけたが、これも自意識過剰であるのかもしれないと思うと、会話が一層難しく感じる。みんなよくスラスラと会話できているものだ。
「ええ、あそこでバイトしたの。どうやって?一ヶ月とかバイトできるんだ。いいなあ、俺も行きたかったわ、楽しそう…」
「うん…なんか騙されて働かされた、に近いかも」
「どういう意味」
「あはは、結局は楽しかったんだけどね。みんな優しかったし」
「いいなあ、泊島の写真ないの」
「まあ、ちょっとある、これとか…」
パラパラと写真フォルダをみていると、佐野が海に入ろうとしているところを隠し撮りした写真が出てきた。咄嗟に次の写真にスワイプする。本当は佐野のことを話したい。この学校中に自慢したい。こんな素敵な、大好きな人に出会うことができたんだって言いたい。でもあんな別れ方をしたものだから、思い出を楽しく話すのはちょっと嘘をついているような感覚になるだろう。胸の奥が痛んだ。仕舞い込んだと思っていた思いは、まだ生傷として膿んでいるのだ。
だが潮は泊島に心から感謝した。栫井とのちょっとした会話だったが、大きすぎる一歩だ。その日を境に、自分の学校生活は少しずつ変わっていったように思う。もちろん、以前のように「グループに入れない」という感覚が完全に消えたわけではない。今でもペアになってください、という掛け声には緊張するし、休み時間、誰とも話さずに一人で過ごす日もある。それでも、自分が人からどう見られているかを過剰に気にすることはなくなった。
担任の教師から「潮君、なんか明るくなったね」と言われた。そうですかね、と返すと、「そうね、前は言っちゃあれだけど、だれにも話しかけられたくない!ってオーラあったけど。最近はこう、ほがらかよ」とほっとした様子だった。潮が嫌がらずに学校に毎日行くようになったからか、両親もその前向きな変化に気づいており、以前のように腫れ物に触るような接し方を徐々にしなくなった。誰も潮の【変化の理由】を聞いてこなかったのはありがたく、少しだけ寂しかった。自分を変えてくれたのは明らかに泊島であり、佐野である。なのに、彼について話すことができない。透明化されていく彼の存在に引っ張られ、潮は自分の記憶まで失ってしまいそうだった。
正直わからない。忘れた方が楽なのだと思う。自室のベッドに横になると、毎晩いつも同じことを考えた。佐野は今頃何をしているだろう。あの古い家で、一人、夕飯を食べているだろうか。お腹いっぱい食べれているのだろうか。お風呂には入ったか。よく眠れているのか。寂しくないのか。そんなことを考えてもわからないものはわからないし、自分が苦しい思いをするだけだった。佐野とは連絡先は交換したままだったが、あの日以来、一度もメッセージを送っていない。忘れてと佐野に言われてしまった以上、忘れたふりをするしか誠実な行動は取れないと思う。
佐野のことは忘れられるわけがない。でももう絶対に会えない。会おうとしたり、連絡をしたりすることが自分中心的な考えであり、佐野のためにならないことに気づいた。いつか迎えに行くとも言ったが、それができるだけの力量もないくせに、なんて無責任な言葉だろうと反省した。それに佐野は迎えにきて欲しいなんて一言も言っていないし、迎えに行くから待っててなんて、とても偉そうだ。
どうか忘れてという優しいお願いすらも聞き入れられない自分勝手な僕は、佐野を想う資格もないのだ。
さっさと忘れよう、温かい皮膚も、小波のような息遣いも、くしゃっと笑う顔も、全部忘れてあげようじゃないか。
秋が深まる高校二年生の十月、教室の空気が受験勉強モードに少しずつ変わりはじめていた。文化祭の後片付けが終わると、掲示板には「進路希望調査」の紙が貼り出された。担任からは「今本気にならないと遅いぞ」と授業の度に脅され、生徒の中心的な話題も恋や部活の話から模試や塾のテストの話に変わりつつあった。
「潮君は、どこ受けるか決めた?」
進路相談の面談で、担任にそう聞かれた時、潮は言葉に詰まってしまった。行きたい大学とか、将来の夢とかそもそも考えたことがない。そもそも夏時点では出席日数の関係で高校を卒業できるかも危うかった。突然、目の前に無数の選択肢が広がる。
「あの…大学って、どうやって決めるんですか。そもそも僕って大学行けるんですか」
担任は、はあ、何を今更、と言ったような目をした。それはそうだ。みんな希望大学を決めている。そこそこの進学校なので、大学の決め方さえわからないやつはこの学校にはいない。
「うーん、まずね、潮君は大学に行こうと思えばいけるよ、日本は生徒の数よりも大学が多いんだから。選ばなければどこかには入れる。でもほら、家庭事情とかあるでしょう。私立はダメとか、関東圏内の大学にしなさいとか言われていたりする?」
「いえ、特には。前に大学の話をした時は、どこでも、海外でもいいよって言われました」
「あら、そう、それは本当にラッキーだよ潮君」
「ラッキー?」
「そうよ、お金はいくらでもかけるから、好きなことしなさいってことでしょう。いるのよ、国公立じゃないとだめとか、私立に行くのであれば全額免除の奨学金取りなさいとか、そういう制約がある人も結構いる」
言葉に殴られるとはこのことだ。自分はアホで、バカで、ガキで、どうしようもない。今までの人生、何も考えないで生きてきたんだ。自分が持っていないものばかり、見えないものに執着して、本当にアホもいいところである。自分が本当に嫌いになりそうで、もうこうなったら努力で巻き返そうと目の前の『大学偏差値ランキング』と書かれた雑誌をパラパラめくる。
「東大とかってやっぱり今から難しいんですか」
「真面目に考えなさい」
お前何言ってんの、という顔すらされず、突き返される。そりゃ無理なのは承知で聞いている。ページをめくると、点がたくさんついている日本地図があった。点は大学の所在地を指しているようだ。地図をみていくと、関東にはこんなに大学が密集しているのに、泊島には一つも大学がないことを知りショックを受けた。
「離島に大学なんてないわよ」
「あの、九州で、一番頭のいい大学で、僕が入れるところありますか」
担任が今度こそ「何言ってるんだこいつ」という顔をした。こちらが本気なのを感じ取ると、そりゃまあ、九州大学だけど…と前置きしつつパソコンで九州大学サイトを潮に見せた。
「潮君、旧帝大って知ってる?」
「はい、頭がいい大学です」
「まあそう、九州大は旧帝大と呼ばれる大学の一つなのよ」
「…ああ、ええ…」
間抜けな声が教室に響く。変なプライドなのか、安全圏の大学を受けて確実に九州にいくようではかっこがつかないと思い、潮はじゃあそこ受けます、と伝えた。
「まあいいけど…次までに学部とか考えておいてね。あ、あとさ」
「はい」
「なんで九州なんだっけ、他に旧帝大あるし、九州にこだわる必要はあるの?」
なんで九州なんだっけ、そのまま自分の心の中で繰り返す。
「あの、夏休みに泊島っていう、九州の近くの離島に居候してたんです。福岡からフェリーでいける島です。そこの島が好きで、九州という土地にも興味が沸いて」
半分は本当だった。理由にもなっていないかもしれないが。大学が泊島から近いならどこでもいい。理由はその一点だった。福岡から船で一時間。東京にいるよりも、ずっと佐野に近い場所にいられる。もしかしたら街で偶然すれ違ったりするのかもしれない。そこで過去の話をして、また普通に話せる日がくるのかもしれない。関東圏にいるよりも、九州に行った方がその確率は上がるだろう。妄想が一気に膨らむ。
「どうだった?」
廊下で順番を待っていた栫井が声をかけてきた。
「なんか、呆れられた、何言ってんだこいつ、みたいな顔された」
「はは、何それ、うける」
教室から「栫井くん入っていいよ」と声がかかり、栫井が「じゃ」と言い教室に入っていった。後から聞いた話だが、栫井は関東の国公立を受けないといけないらしい。それが一人暮らしの条件なんだ、と言っていた。
自室の机に向かい、担任からもらった九州大学のパンフレットを開き潮はふと手を止める。九州大学の位置から泊島まで、ペンでなぞる。指先が震えた。地図の中の泊島に触れた指が、あの日の佐野の冷たい手のひらを思い出した。
<必ず、僕が迎えに行くから>
自分で言った言葉を思い出す。やはり言った言葉は取り消せない。過去の自分に噓はつけない。でも、迎えに行くのは自分のエゴに他ならない。だからせめて、近くにいさせてください。あなたに会うチャンスを、一ミリでも近くに置いておきたい。だから自分は九州に行くしかない。
受験勉強は、潮にとって逃避であり、同時に目的を果たすための唯一の手段でもあった。忘れようと決めたのにふとした瞬間に佐野のことを思い出す。雨が降った時、夕日を見た時、おにぎりを食べる時。その度に潮は参考書を開いた。殴るように、もがくように勉強をした。この一問一問が、佐野にできる限り近づくためのテストなんだと思うと全く苦ではない。
模試の結果はやはり厳しく、三年の春になっても判定はEだった。当たり前である、自分の学力を鑑みない志望校選びをしている。理由がわかっている分、参考書を開くその手を止めることはない。担任から「九州でも他にこんな私立があって、そこなら間に合うと思うんだけど…」と弱気なことを言われたりもしたが、今から志望校を変更するのはやはりプライドが許さなかった。
三年生の初夏、潮は早朝の自習室で一人の女子生徒と顔を合わせるようになった。朝七時から開いている自習室に、シフトに入っているかのように同じ時間に現れるのが、別のクラスの由乃(ゆの)だった。いつも音楽を聴きながら一時間ほど勉強し、朝礼前に吹部の女子が迎えにきていた。
頻繁に顔を合わせる癖に、おはようございますとも言えない自分は、ガチャリとドアを開けて軽く会釈をした後、離れた席に座る。そんな由乃とよく話すようになったきっかけは、九州大学の赤本だった。
「九大、志望なの?」
顔を上げると、目をまあるくした由乃がこちらを見ていた。
「あ、え、あ、うん、まだE判定だけど」
「そう。奇遇だね、私も九大。この学校で九大志望、他にいないから」
由乃はそう言うと、自分の赤本を見せた。潮のものより、付箋の数がずっと多い。
「え、そうなの?」
「先生が、理系の潮君が同じ大学目指してるのよって教えてくれて」
「知らなかった。あの、由乃さんだっけ…?吹部の女子がそう呼んでるの聞こえて、あってる?」
「うん」
「九大、目指してるって、ああ、そうか、由乃さんって文系だよね」
「そう。まあ、私もE判定なんだけど」
由乃とはそれから話す機会が増え、時々一緒に勉強するようになった。理系と文系なのでメインの教科は違えど、英語は共通の試験としてあったので、休憩時間に問題を教え合ったり、英単語の出し合いをしたりした。眠気を覚ますにはこのツボを押すといいよ、と言われ、こめかみを思い切り押されたときに、痛すぎて椅子から崩れ落ちたときは二人して大爆笑をした。
友達ができるとか、恋愛をするとか、学校行事を楽しむとか、そういったことにこだわっていた高校一、二年とは違い、高校三年生は受験勉強という共通で取り組まなければいけない課題が全員にある。栫井や由乃は友達というより戦友に近く、受験という試練は潮とその他の生徒を団結させた。
残酷なシステムよねえと由乃が言っていた。高校一、二年のときにクラスの中心で騒いでいた人は確実にヒエラルキートップだったはずなのに、受験という試練の前にそのヒエラルキーは通用せず、最終的に志望校に受かるか受からないかが大事なのだ。
つまり模試の判定がAの人間がお受験ヒエラルキーのトップである。まあ、自分はお受験ヒエラルキーでもE判定であるのだが。
学校のテストに加え、一、二回のE判定はまあこんなものかと思っていたが、何度もE判定を食うと流石にまずいんじゃないかと本気で焦りを感じ始めていたからかもしれない。模試の結果が悪くて問題を解く手が不安で止まってしまう。そんな様子を見かねたのか、由乃が缶のエナジードリンクを差し出してきた。
「私も、E判定だったよ」
「そうなの?」
「うん。でもE判定なんて、この時期珍しくないから。気にしすぎ。浪人組もいるし。勝負はこれから」
由乃の言葉に素直に救われてしまった。自分はなんて弱いんだろう。由乃の力強い言葉が、潮の消えかけた闘争心を奮い立たせた。
夏が終わり、夏休み中に受けた模試の結果が返ってきた頃、潮の判定はDに上がった。涙が出るほど嬉しい。まだ微々たるものだが、自分の受験勉強が着実に身を結び始めていると安堵した。判定が上がったと喜ぶ潮をとは裏腹に、由乃の顔が緊張しているのを感じた。由乃はまたE判定だったらしい。
「私、志望校変えた方がいいかも」
学校からの帰り道、由乃は冗談交じりにそう言った。由乃が毎日十時間以上勉強しているのを知っていたし、本気じゃない由乃を見たことがなかったので、その言葉はまったく本心じゃないのだろう。
「なに弱気になってんの」
「だって、潮でさえDに上がってるのに。私がまだEって、もう諦めた方いいんだと思う」
「うーん、そもそも由乃は、なんで九大に行きたいんだっけ」
「それは前話したけど、単なる幼い頃の憧れよ」
「他に憧れている大学はあるの」
「ないよ」
由乃は「はあ、もうダメかも」と模試の紙を小さく折り曲げてカバンにしまった。なんでこんなに弱気なんだ。由乃はずっと強かった。すでに六回以上E判定をくらっていたのに、そんなの見えていないというように勉強に邁進した。同じようにE判定をくらっている潮を元気づけ、潮もその勢いに引っ張られてきたのだ。実際、受験勉強を同じ熱量で一緒に頑張ることができる友達は数少ないのかもしれない。いつの間にか由乃が吹奏楽部の友達と距離を置き始めたことに、潮も気づいていた。
「由乃、ダメだよ、それは」
慣れないことをしようとしているのはわかっていたが、どうしても由乃が沼にはまっていく様を見逃せなかった。
「よくわかんないけど、やっぱり九大に行くも行かないも一つの分岐点でしかないとは思う。でも、由乃は行きたいんだろう」
「ま、まあそうだけど…」
「行きたいんなら、頑張るしかないんだと思う。今何をするべきか、ちゃんと考えないと」
我ながらとても説教くさくなってしまったし、由乃にも実際「潮の癖に説教かよ」やら「D判定くらいで調子のんな」やら散々な言われようだった。別れ際、由乃は振り返って「次はC判定だから。潮を抜くから。わかった?」と、怒っているのか喜んでいるのかわからない声で宣言した。弱気な由乃はどこへやら、と彼女の変わりように驚きつつ、ネガティブの沼から引き出せたようで安堵した。
外出することがリスクでもある共通テストの直前、ほとんどの生徒は基本的に家で勉強をした。潮も例外ではなく、栫井や由乃と顔を合わすことも少なくなったが、学校で模試を受けた帰り道や、駅までの道のりを並んで歩き、他愛もない話もした。
共通テストが終了し、潮は自室で一人、自己採点を行う。思っていたより悪くない。実際のテスト結果を見てみると、判定こそまだDのままだったが、二次試験でどこまで巻き返せるか、その一点にすべてが懸かっていた。滑り止めで受けている都内の大学の合格通知がすでにきていたが、それが潮を落ち着ける要素にはなっていなかった。九大に合格しなければこの一年間は意味がないと思っている。
二次試験も終えて、あとは結果を待つだけの日々が続いた。一日が一週間くらいに感じ、何をしても落ち着かず、潮は久しぶりに祖母に電話をかけた。
「ソウ、久しぶりだね。受験終わったの」
「うん。一昨日二次試験終わった。特に用事はないんだけどさ、何してるかなって」
「そうかい、お疲れさん。もう結果はどうにもならんのだから、気楽にしとき」
「うん。こんなに頑張ったの、人生初かも」
「ばあちゃんは嬉しいよ。九大に受かったら、よくこっちにくるんだろう」
「あ、うん、まあ」
「また海洋館にも、顔ださんきゃね」
「…そうだね」
「ああ、そういえばこの前、あの子に会ったよ、あの…泊まりに来た子、名前なんだっけ」
突然の質問に息が止まった。
「…翔?」
「そうそう!翔くん、この前道でばーったり。私のこと覚えていてくれて、うれしかったあ」
「元気だった?佐野」
「うん、元気そうには見えたけど。相変わらずほっそいねえあの子。またご飯食べにおいでね〜って言ったけど、断られちゃった。流石にソウがいないと無理よねえ」
祖母の声がだんだん遠くなり。視界がぼやけてくる。薄くなっていた記憶が鮮やかに蘇る。佐野はまだそこに存在しているのだ。祖母に最大限のお礼を伝え、電話を切った。佐野は存在している。そして祖母と会話をした。僕のことも覚えているだろう。僕も、佐野のことを忘れていないよ、会いたいよと伝えたい。祖母の電話番号が表示されている画面を閉じ、佐野と書かれている電話番号を探す。あった。かけようか、どうしよう。でも今かけてどうする?三十分ほど電話をかけた場合の会話についてリハーサルをし、ついに電話をかけるのを諦めた。
合格発表の日、潮は由乃と学校に集まり、誰もいない教室でパソコンを広げた。九州大学の合格番号一覧のリンクを開き、自分の番号を探す。潮の受験番号は合格番号一覧の中にあった。由乃も同じく、自分の番号を見つけて、その場で泣き崩れた。緊張の糸が解けた二人は、駅前のファストフード店に入り、遅めの昼食をとることにした。合格の余韻に浸りながら、由乃はずっと笑っている。潮はその笑顔を見ながら、この一年、由乃がいなければ、自分はここまで走り続けられなかっただろうと思った。
「私たち、本当に頑張ったよね」
「うん、頑張った。二人とも受かって本当によかった、というか、まあ、受かると思ってた」
「はは、今だから言える話だね」
由乃は息をすっと吐き、目線を泳がせながらコーラを飲んだ。
「潮はさ、大学生になったら一人暮らしとかすんの」
「うん、その予定。九州のすぐ近くの泊島におばあちゃんの家あるんだけど、遠いし、船で登校とかできないし」
「大学の近くで一人暮らしするの?」
「うーん、場所は決めてない。そうだ、家決めないとな」
「ふうん」
「由乃は、寮とか入るの?近くに女子寮あるらしいじゃん」
「いや、私も一人暮らしするかな。大学の近くに」
由乃はスマホで地図アプリを開いて、この辺りに済んだら駅も近いから絶対に学校の近くに住んだ方がいいとか、スーパーが近いからこっちもいいね、食材買いすぎたら半分こしようねとか、嬉しそうに話していた。うんうん、と聞いていると、由乃はぼそっと、どうかな…とつぶやいた。
「大学に行っても、また会えるかな、今みたいに潮と話せるのかな」
さっきまであんなに楽しそうにしていた由乃と目が合わない。由乃は今にも泣きそうだった。
「私、正直、途中から受験終わるなーって思ってたよ」
「え、なんで」
「受験期が楽しかったからだよ。潮は受かると思ってた。私はわからなかったけど。どちらにせよ、受験が終わったら潮とはあまり話せなくなるかもしれないじゃん。ていうか、受かったとしても学部違うし。寂しいな。いやだなあって」
潮はぽかんと口を開け、由乃から溢れる言葉を懸命に読解した。
「わたし、潮のこと、好きだったんだと思う。受験勉強してる時からずっと」
突然の由乃の告白に、潮は言葉を失った。潮の人生ゲームのマスに<告白をされる>というものは今までになく、思考がフル回転、由乃と過ごした一年間が、脳裏を駆け巡る。E判定を励まし合った日々、駅までの帰り道、合格発表の日の涙。由乃は間違いなく、この一年の潮を支えてくれた大切な存在だった。栫井から「二人は付き合っているのか」と聞かれ、「付き合ってません!」とふんぞり返る由乃を思い出す。あの時はそこまで否定しなくても…と少し悲しい思いもしたが、今、目の前でその由乃が自分のことを好きと言った。
「あの、ええと、あ…あの…」
なんて返していいかわからない。今すぐ帰ってしまいたい気持ちにもなった。今何を言っても違うような気がして、言葉がつっかえて出ない。違う、本当のことを言えばいい、自分の言いたいことを言えばいいんじゃないか。
「由乃と一緒にいると、すごく安心できたし、頑張れた」
「うん」
「僕でよければ、これからもよろしくお願いします」
あれ、と思う。これって付き合うことになってないか。違う、僕が言いたかったのは、これからも友達でいようということだ。由乃は驚いた顔をした後、徐々にその頬を赤く染めた。耳まで真っ赤である。
「あ、なんか僕変なこと言ったかも…」
「うん、嬉しい。ありがとう。これからもよろしく、潮」
大学生活を目前にした春の陽射しの中で、潮と由乃の交際は、そうして始まってしまった。
春休みはあっという間に過ぎ去った。一人暮らしをすることになった潮は、家探しと引っ越しの準備に追われていた。よさそうな物件をネットで探し、不動産屋に連絡をとり、すぐに九州に行くための飛行機を手配した。実際に家が決まったら家具や家電を選び、役所での手続きを済ませ、引っ越しを終えたと思えば気づけば入学式の日を迎えていた。
由乃も大学近くのアパートで一人暮らしを始めたという。お互いに新生活のセットアップで忙しく、顔を合わせるのは週に一度、大学近くのファストフード店か、たまに電話をして近況報告をするという頻度だった。
「考えることいっぱいで疲れた。もう部屋とかどうでもいい」
「由乃、部屋はアジアン雑貨で埋め尽くしたいとか言ってたじゃん」
「もうどうでもいい、住めればいいと思うわ。流石に考えること多すぎ…。潮はなんでそんな大学から遠いところにアパート借りたの」
「うーん、海が近い方が好きだから?」
交際が始まったとはいえ、二人の関係にはまだ、恋人と呼ぶには曖昧な部分が多いと思う。手を繋いだこともなければ、デートのようなことをしたこともない。大学が始まってからも、履修登録やガイダンスに追われ、由乃も同じように忙しくしていた。そんなこんなであっという間に四月が終わろうとしている。
「潮、ゴールデンウィークって、暇?」
大学のカフェテリアでアイスコーヒーをちびちび飲んでいた由乃がスマホを見ながら聞いてきた。由乃は最近アイスコーヒーを飲むようになった。前に、アイスコーヒーなんて飲むの、めずらしいねと言うと嫌な顔をされた。最近よく飲んでいる割には、不味そうにちびちび飲んでいる様子がおかしかった。
「うん、まあ。バイトも決まってないし」
「じゃあさ、どっか行かない?まだデートっぽいことしてないじゃん私たち」
一瞬、言葉に詰まる。デート?ああ僕たち付き合ってるのか。だからどこかに出かけるのはデートなのか。いいよと伝えると由乃は嬉しそうにどこ行こうかな〜とインスタで場所を探し始めた。
ゴールデンウィーク初日、潮と由乃は電車を乗り継ぎ、大きな水族館へ向かった。入り口には長い列ができていて、由乃が「げー思ったより混んでるね」と苦笑いした。
館内は薄暗く、青い光が水槽越しに揺れている。イワシの群れが渦を巻くように泳ぐ大水槽の前で、由乃が「すごい、大群、これって食べれるの」と声を上げた。情緒のかけらもない由乃の発言に吹き出し、食えるらしいよと返事をする。由乃は面白い。一緒にいてとても楽しい。大学生初日から彼女がいる生活なんて、想像できただろうか。こんな身に余る幸せを受け取っていいのだろうか。潮はこの状況のありがたさを噛み締めた。
クラゲのコーナー、ペンギンのコーナーと、由乃の興味は次々と目移りし、潮はそれに引っ張られる形で展示を見てまわった。由乃は熱心に解説パネルを読み、「これ変だよね?」とか「食べたら美味しいのか」と話しかけてくる。やがて二人は「磯の生き物」というコーナーにたどり着いた。浅い水槽の中に、ヒトデやカニ、そして数匹のウニがゆっくりと動いている。
「ウニって意外と綺麗よねえ」
水質のいいところだと綺麗に発色するんだ、と嬉しそうに語っていた声が耳の奥で蘇る。棘があるから怖くて強いイメージがあるけど、繊細な生き物でもある。そう言って、ウニを見つめていた横顔。女子を見ているよりも全然いいって言ってたかな。
「潮?」
由乃の声で、潮は我に返った。
「あ、ごめん、ぼーっとしてた」
「ウニ、好きなの?なんか、すごい集中して見てるから」
「うん、まあ、好きかな」
「じゃあさ、私は?私のこと好き?」
由乃がこちらを見ている。潮は言葉が出なかった。由乃はそんな潮を不思議そうに見ていたが、やがて、由乃はそっと潮の手を握った。由乃の手は、思っていたよりも小さく、あたたかかった。だが、由乃の手を握り返そうとした潮の指先はぴくりとも動かない。代わりに脳裏にはっきりと思い起こされたのは、嵐の夜、バス停で触れた佐野の冷たい指先だった。
どうしよう、由乃の手を握り返さなきゃいけない。でも、何かをすごく裏切るような気持ちになり、指も体も一ミリも動かない。
僕はまだ、あの人を、佐野を、全く忘れていないんだ。
「潮、ごめんね」
由乃が握った手をそっとほどきながら、水槽の方を向いた。
「え、なに」
「付き合わせてごめん」
どこか諦めに近い、優しい声だった。混乱しているが、由乃は落胆も怒りも感じていなさそうで、それがなぜなのか潮はわかった気がした。由乃は知っていたのかもしれない。潮は自分に恋をしていないことを。
「由乃、本当にごめん」
「ううん、大丈夫。なんとなくね、わかってたし。潮は私と恋愛してない。友達がいいんじゃないかなって感じてて。だからこう、無理やり付き合わせちゃったの、悪かったなって」
「ごめん。僕、ずっと好きな人がいて、言えなくて。その人と離れ離れになったまま、今もその人のことが頭から離れなくて。でも由乃と一緒にいる時間は、僕にとってはすごく大切だった。何度も由乃に救われたと思う。でも、それは…、恋愛感情じゃない」
「そうかあ」
由乃はそう呟くと、ふふと笑い、目尻を拭った。
「本当にごめん」
「もう謝らないでよ。むかつくから。一回ウニに噛まれてもらっていい?」
「ウニは噛まないよ」
「ちょっと黙れる?」
由乃はそう言うと、潮に背を向けて歩き出した。由乃の背中はこんなにも広かったのか。潮は大切な友人と水族館をあとにし、帰りに寄ったファストフード店で佐野のことをすべて話した。
その夜、潮は大きなリュックサックを引っ張り出し、必要最低限の荷物を詰め込んだ。祖母に電話し明日から泊島に行くから泊めて欲しいと伝えた。ゴールデンウィークが明けるまでに東京に戻れるかどうかもわからない。そんなことはもうどうでもいい。この一年半、時間がこのやりきれない気持ちを解決してくれると思っていたがそんなことはない。忘れられるわけがない。
翌朝、始発の電車に乗り込みながら、潮は窓の外を流れる景色を見つめていた。港まで一時間、そこからフェリーで一時間。もう迷いはない。
必ず、迎えに行くから。
薄靄の先に黒い影が見える。フェリーが港に近づくにつれ、潮の心臓は痛いくらいに早鐘を打っていた。デッキに立ち潮風を浴びながら、一年半前初めてこの島に来た日のことを思い出していた。あの時は、場所を変えたところで何も変わらないだろうと、捻くれた気持ちでこの海を見ていたような気がする。今は、そんな自分を変えてくれた島や佐野という人物に自ら出向くんだ。
港に着くと、真っ先に祖母の家に向かった。玄関を開けるなり、祖母が「あらびっくり、おかえり」とその勢いに目を丸くした。
「おばあちゃん、急にほんとごめん。でも今日は遅くなると思う。佐野に会いに行く」
祖母は一瞬驚いた顔をした後、ふっと目を細めて笑った。
「そうかい。帰る時に連絡してね。あ、ちょっと」
祖母は台所から冷たい麦茶を持ってきて、潮に無理やり飲ませた。「あんたこんな暑い中で、熱中症で倒れたら元も子もないからね」と念を押した。潮はそれを一気に飲み干し、荷物を置くと、家を飛び出して自転車を勢いよく漕いだ。
行き先は海洋館だ。一年半前に毎日通っていた海岸沿いの緩やかな坂道の懐かしさに目を細める。海洋館に着いてスタッフ室をノックすると、館長が驚いた顔で迎えてくれた。
「わあ!びっくり、潮君。久しぶり、大人っぽくなったなあ。どうした急に。もう大学生?遊びにきたの?」
「はい、ご無沙汰してます。あ、すみません、急に、あの、佐野は」
息を切らしながら質問をすると館長は少し複雑な表情を浮かべた。嫌な表情だ。館長は言いにくいことがある時にこの表情をするのだ。
「あー、佐野な、最近バイトは土日にしかシフト入ってないんだよ。忙しいらしくて、今いないよ」
土日にシフトに入っているということは、はあ、よかった、まだこの海洋館で働いているということだ。
「家、まだ同じところに住んでますか」
「わかんないけど、多分な」
潮は礼を言うと、海沿いの道を自転車で飛ばした。別れの日、佐野と一緒に歩いた道だ。思い出しただけで涙がでそうだ。泣くのはまだ早い。まずは佐野に会いたい。
一度しか来たことがないから、正確な家の場所はわからない。めじるしとなる、近くのコインランドリーの場所を人に聞きつつ、住宅地の外れにある木造の古い平屋を見つけた時は全身の毛が逆だった。潮は自転車を停め、息を整える間もなく玄関に駆け寄った。
「佐野」
返事はない。もう一度、今度は少し大きな声で呼んだ。
「佐野、いる?」
引き戸を軽く叩いても、中から物音一つしない。潮は少し離れて、庭先から中の様子を伺ったが、電気もついていないようだった。留守か。留守なのか?そもそもこの家に佐野はまだ住んでいるのだろうか?せっかくここまで来たのに。会えずに帰るのか。焦る気持ちが萎んでいく。ああ、もう会えない。もう二度と会えないんだ多分。潮はしばらく玄関先に立ち尽くしていたが、いつ戻るかもわからない佐野を待ち続けるわけにもいかず、仕方なく帰路につくことにした。海沿いの道を、重い足取りで自転車を押して歩き出す。
これは自分のエゴなんだ。佐野は自分を求めてないんだと、運命に言われているようだ。ああ、泣き出してしまいそうだ。会いたかった。大好きだ。なんかもうすごく疲れてしまい、潮は下を向いて深呼吸をした。
「潮?」
背後から、聞き慣れた声がした。振り返ると、イヤホンをしてコンビニの袋を腕に提げた佐野が、目を丸くしてこちらを見ていた。
「え、潮じゃん。なんで、なんでいるの」
「…佐野」
「いや、待って、なんで」
「佐野!」
潮は佐野を抱きしめ、ダムが放流するかの如く声を上げて泣いた。人目もはばからず、その場にしゃがみ込むようにしてもう一段階大きく泣いた。一年半分の想い、我慢していた言葉、迎えに行くと誓ったエゴも、その全部がぐしゃぐしゃになり、滝のように溢れた。
「ちょ、え、潮、な、なんで泣いてんの、待って、大丈夫?」
佐野が慌ててイヤホンをはずし、潮の肩を支えた。
「とりあえず、家行こう。ここじゃ、な」
佐野に支えられるようにして家に上がり、畳の上に座らされると、潮の涙はようやく少しずつ収まっていった。佐野が持ってきた麦茶に口をつけながら、潮はしゃっくりのような嗚咽を漏らしていた。
「まだ泣いてんの。何、そんな俺に会いたかった?」
「うるさい」
「はは、めっちゃ泣いてる。しょんべん小僧改、泣き虫小僧だ」
「やめてよ、その呼び方」
からかう佐野に、潮はようやく平静を取り戻した。涙で滲んでぼやけた視界で家の中を見渡すと、以前と様子が違うことに気づいた。散らかっていた食器はきちんと洗われ、敷きっぱなしの布団も見当たらず、束になっていた督促状もどこにもなかった。
「部屋、ちょっと綺麗になった気がする」
「ああ、まあ、色々あって」
「色々って」
佐野は縁側で体育座りをして、麦茶が入った湯呑みを両手で包むように持ち、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「高卒認定を取った。その単位で今高校に編入して三年生、大学も目指そうかなって思ってる」
「え」
「潮が帰ったあとずっと考えてた。潮は俺に向き合ってくれていたのに、俺ガキだし拗ねてただけだったんだなって。もう何しても俺の人生だめなんだなって勝手に決めつけたりして、ここから抜け出すことを諦めてた。潮が俺と一緒にいたいって言ってくれて、あの時初めて、俺も誰かに生きてほしいって思われる人間なんだって、気づいて。だからあれからね、色々頑張ったんだ」
「佐野」
「何も行動しないで諦めるのが大人じゃないよな。ちゃんとこう、考えて、まわりを頼って、そしたら潮にまた会えるかなって。なんとなくね」
はは、と照れくさそうに笑う佐野の横顔を見て、潮の目から、また涙がこぼれた。もうなにがなんだかわからない、佐野への気持ちが大きくなりすぎて苦しい。痛い。
「ずっと、好きだった。佐野が」
「佐野のこと忘れようと思ったけど、全然無理。受験も、大学も、全部、佐野にまた会うためだった。こんなのおかしいってわかってる、でも、これは僕の気持ちだから。佐野が今どう思ってても、それは、」
最後まで言い終わらないうちに、潮の手に佐野の手が重なった。
「俺も、潮のことが好きだったよ」
驚いて目を見開いた潮に、佐野は少し戸惑ったような、少し怖がっているような顔で言った。
「え」
「多分、今も好きなんだと思う。こんなにドキドキしてる」
佐野は潮の手を取り、自分の胸に当てた。手のひらの下で、佐野の心臓が早鐘のように打っている。潮の心臓も、同じ速度で波打った。きらきらした夕の光が、畳の上に橙色の影を落とす。
佐野の顔が近づき、唇が重なった。遠くで波の音が静かに響いている。二人は言葉を交わすことなく、ただ互いの存在を今ここに確かめ合うように、唇を押し合い、あの夏の続きを取り戻していった。
佐野は潮を連れ海洋館を訪れた。閉館後の静かな館内、ウニの水槽の前で、二人は並んで立っていた。
「俺、来年の春には本土の大学行きたいって思ってる」
「うん」
「潮の大学、九州だよね。もし俺が受かったら」
「同じ大学、来る?」
「わかんない。だって潮の大学頭いいところでしょ。…でも、近くにはいたいかな」
「僕も佐野の近くにいたい。佐野…ほんとに申し訳ないって思ってる。あの時、佐野を置いて東京に帰ったことを今でも思い出して後悔してる。もう絶対一人にしないから」
「そう言ってくれるのはありがたいけど、多分お互いにとってこの一年半は必要な時間だったと思う。ほら、今こうして一緒にいれることが大事なんじゃない」
水槽の中で、ウニがゆっくりと動いていた。棘の間から、青白い光が透けて見える。佐野と出会った時に見たウニよりも一層美しく、透明感を帯びている。こんなに綺麗なウニを初めて見た。横目で佐野を見ると、佐野の顔には水槽の青が反射してとても綺麗で、潮はその光景を夢中で脳裏に焼き付けた
「好きだ」
「はは、ようやくわかったか、ウニの良さ」
「…うん。好き。すごく好き」
水槽越しの淡い光が、二人を静かに照らす。まだこれから先のことは何一つ決まっていなかったが、それでも、隣に佐野がいるという事実だけで、潮はもう十分だった。
好きだ。佐野が。
佐野がくしゃっとした顔で笑っている。青い光で照らされた美しい顔が涙で歪む。
おいおいなんで泣くんだよと佐野が慌てながら笑っている。二人を遠ざけるものはもう何もない。季節は春。ここから二人でまた夏を迎える。秋も、冬も、ずっと一緒だ。
「潮、好きだよ」
