ことばにおとをー君の死を、僕の最高傑作の燃料にー

高校の卒業式を終えて、四月の入学式までの数週間は長めの春休みだ。
けれど、春休み最初の目覚めは最悪だった。

卒業式での宮野との出来事がきっかけだったのかわからないけど、昨夜は宮野の言葉のおまけつきで、中三の時のいじめの記憶が悪夢となって再び頭の中に現れた。逃れようと、もがいて夢の膜を突き破り飛び起きた。

汗に濡れた寝巻きが、冷えた部屋の空気を吸ってまとわりつく。
体から温度が消えいき、頭に重石がのしかかる。

着替えを済ませてリビングに下りると、母さんがソファに座って朝ドラを見ていた。
今日は土曜日なのに、父さんの姿はなかった。

「おはよう」

「おはよう~。朝ごはん、まだ冷めてないと思うから、そのまま食べちゃいな」

母さんは振り返りダイニングテーブルを指差して、すぐにまたテレビに視線を戻した。
放映中の朝ドラで推しの俳優が主演になったらしく、最近夢中になっている。
悪夢のせいで浮ついた心が、いつもの日常を見て少し温まった。

「ありがとう。父さんは仕事?」

「そっ! 今日は工場の視察があるみたい。夕方には帰ってくると思うけど」

僕は「そっか」と言って、椅子に座った。
父さんは商社で働いていて、母さんは都内の企業で事務をしている。
二人とも家にいないことが多かった。
僕が小さい頃からそうだから、あまり勉強しなさいとか、生活面での注意などは受けたことがほとんどない。

両親と仲が悪いことは全くない。けれど、積極的な交流があるわけでもない。
理由は明白で、僕が距離を置いているからだ。
自分の本性を意識してから、両親に知られたらという恐れが常に背中にこびりついていて、どうしても素直に接することができなかった。

朝ご飯を食べ終えて、部屋に戻って外行きの服に着替える。
鍵と財布だけを持ってテレビにかじりついたままの母さんの背中に、「図書館に行ってくるね」と声をかけた。
「は~い」と、間延びした返事に苦笑しながら家を出た。

馴染んだ道を一歩一歩踏みしめる。三月のひばり公園は早くも春の兆しが芽吹いていた。
花壇にはポピーやスミレが蕾を開き、うららかな陽光をその身に受けている。
大きなクスノキの側では、タンポポが風に吹かれ陽気に揺れている。
少し歩き進めると、公衆トイレの横で、ひっそりと咲く一輪のタンポポを見つけた。
僕は吸い寄せられるように歩み寄る。日当たりはいいけれど、なんとも寂しそうな姿だった。

「君も怖くて、一人そこにいるの?」

屈んで話しかけてみたものの、すぐに恥ずかしくなって顔が赤くなるのを感じた。
なぜこんな行動をとったのかもわからず、辺りをさっと見渡してから勢いよく立ち上がった。

怖い……か。

『本当に何もない人間だな』

宮野の言葉。僕も当たり前の感情を、当たり前に感じることができたら、どんなに楽だったろう。
 
『きみのことばにおとをあげる!』

図書館の前にきて、結野さんの言葉が急に胸のうちでリフレインのように響き渡った。
あの時だけは、本性を含めた心の空一面が晴れ渡っていた。

あのまっすぐで艶のある目は、彼女のフルートの音色は、思い出そうとすれば今でも鮮明に蘇る。