ことばにおとをー君の死を、僕の最高傑作の燃料にー

それにしても、なぜ昔の記憶が頭に浮かんだのだろう。高校三年間は特に、昔のことなんて思い出すことはなかった。
大学受験のためにそれなりに無心で勉強していたから、なおさらだ。椅子の背もたれに全身を預けて、天井を見上げる。

――結野さんは、元気にしているんだろうか。

彼女のフルートの音色を頭の中で巡らしていると、背後で扉が開けられる音が鳴った。

「林道、悪いな。待たせてしまって」

担任の小西先生だ。中肉中背で、年齢は四十一歳。人の良さそうな顔をしているけれど、怒るとびっくりするほど怖い。でも、難関で有名な私立大学といわれている京林けいりん大学文学部の国文科に僕が受かった時は、泣いて喜んでくれた。熱くてまっすぐな、若くていい先生だった。

「いえ、全く」

小西先生は向かいの席に腰を下ろして、数枚のプリントをバインダーから取って机上に並べた。

「この書類は気にしないでいいよ。本当はみんなの成績とか好みを自分なりに分析して、いい大学がないか提案するためのものだから。いち早く合格した林道には不要だけど、せっかく用意したし、何となく持ってきただけだから」

そう言われては余計に気になる。ちらりと見てみると、僕の一年からの成績の全部と、提出してきた課題の要約とそこから導き出した小西先生の所感が書いてあった。趣味は本を読むこと。少し口数は少ないけど、心の優しい子。と書かれた文字を見たときは、思わず微笑んでしまった。

「ん? どうした?」

「いえ、何でもないです。それで、今日は何を話すんでしたっけ?」

話す内容は事前に教えてもらえなかった。

「実は、特にないんだけど、林道はこの先どうするのかなって思ってさ。ただ世間話をしたくて」

「進路の話ってことですか? 大学には受かりましたから、そこに進学するだけですけど」

小西先生の真意が読み取れず、僕は困惑気味に答えた。

「いや、そういうことじゃなくてさ、もっと将来の話」

「将来……」

思わずおうむ返しをしてしまった。大学より先、いや、先生の感じを見るに、もっともっと先のことを聞かれているような気がする。
考えたこともなかった。そうだ。大学が終われば、学生という名の冠を脱ぐことになる。各駅停車の終着駅が大学四年で、その先の線路は自分で敷かなければいけない。

けれど、とっくに気づいている。何も、したいことなんてないって。
親が懸命に働いたお金を、こんな自分が大学に溶かしてしまっていいのだろうか。
当たり前に思っていた進学すら、先生の問いから一気に揺らぐ。何て答えればいいのか、わからない。

「すまんすまん。今は想像しづらいよな。大学に受かったばっかりだしな」

僕の逡巡を見抜いたのか、先生は笑顔を向けて安心させようとしている。けれど、「でも……」と声のトーンを落として話を続けた。

「失礼だから、先に謝らせてくれ。林道は、なんていうか、いつもつまらなそうにしてるから、その、何かやりたいこととかないのかなって思ってさ。勉強もできるし、本もよく読んでるし、その気になればいくらでも選択肢なんて転がってると思うんだけど」

俯く僕の視線の先に、書類に書かれた、”本が好きだから、文学部に行ったら、やりたいことが見つかりやすいかも?”という先生のメモがある。彼なりに、僕のことを心配してくれているだろう。〇〇になりたいんです!とか、夢を語ることができたら安心させてあげられるんだろうけど、そうしたいんだけど、何もないから、それも言ってあげられない。

「そうですね……。そうかもしれません。でも、本が好きだから、司書さんとか、本に関われる仕事もいいかなって思ってます」

「え、そうなのか! いや、先生、それはいいと思うぞ! 林道は本当に本が好きだもんな!」

苦し紛れについた嘘。嘘を信じて、僕のために喜んでくれる先生。
僕の本性から目を逸らした、夢というかりそめの安心が、胸のうちを強く縛り、痛みが滲む。

「先生、心配してくださってありがとうございます。大学でもっと勉強して、もっとやりたいことが見つかったら、それに邁進するつもりです」

「心配なんてしてないよ! いやあ、そっかそっか。林道は頭もいいし、優しい子だから、何でもできるさ。な?」

ーー優しい。その響きに、心の底に隠した本音がくすぐられる。僕が、優しいもんか。

僕は「ありがとうございます」と小さく呟くように言った。その後は、どんな本を読んでいるのかとか、本当に他愛もない話をして面談は終わった。「ここで少し作業してから職員室に戻るから」と言う先生にお辞儀をして、先に会議室を出た。

しんとした廊下を横目に、ドアにもたれ掛かり天井を見上げる。
僕が将来やりたいと思うこと。考えれば考えるのほど、行き着いてしまう。

ずっと、物語を書いていたいって――。

絶対に叶わない夢なのに。
醜い、異常な想いを抱えている人間なのに。
自分の感情に怯えて、逃げている人間なのに。
そもそも、物語を人に見せるのを怖がっている人間が、叶えられるはずがない。

ああ、そうか。いよいよ人生の過渡期に入るから、結野さんのことを思い出したのかもしれない。
僕とは対照的に、やりたいことがあって、それに邁進していて、常に心は光に包まれて、優雅で前向きな音を奏でている彼女を。

前に、本屋でふと手に取った音楽雑誌で見たことがある。いくつもの賞を受賞している、結野さんの姿を。

結野さんは結果も出している。
羨ましい。何でも持っている彼女が。
心の綺麗な彼女が。

思わず自らに向かって憫笑する。
環境のせいにして、乾いた道に潤いをもたらそうとしない自分自身を、いやに情けなく感じた。