ことばにおとをー君の死を、僕の最高傑作の燃料にー

次の日、僕は国際芸術大学の校門の前にいた。
ここで開催される、一年生で構成された学生オーケストラのコンサートを観るためだ。
馴染みの守衛さんと目が合った。今日は客人だから軽く会釈をして、堂々と校内に入る。
晴れ着姿の男女が、思い思いの表情を浮かべて会話に花を咲かせていた。

「おーい! 林道!」

「りっちゃん! こっち!」

待ち合わせをしていた、本田と野口が視界に入る。
栞の病気のことは二人に話したし、お見舞いにも行く予定はあったけれど、結局彼女に会わせることはできなかった。
だから、この演奏会には是非来たいと言ってくれて、僕が誘った。

「林道、お前すげーな」

「え、何が?」

本田が、側に立て掛けられていた看板を指差す。
ポスターの上半分はメンバーの集合写真、下半分は夜明けの風景写真がプリントされている。
在校生からの、新たな夜明けに向かう卒業生に向けて、という意味だろう。そして下部に、

 ”協賛 結野栞 林道直人”

という文字が目立つ大きさで書かれていた。
紙束を握っていた左手に力がこもり、目元に潤みを感じた。きっと、小村さんたちの厚意だろう。

「協賛って、何したの?」

野口が訝しげに見てくる。

「何もしてないよ。多分、栞の彼氏だから、気を遣って書いてくれたんだよ」

二人は納得していなそうだったけれど、その顔が面白くて思わず僕は口角をあげた。

「ちょっとだけ用事があるから、先に会場に行っててくれる?」

と二人に言って、コンサート会場となる講堂横の建物へと足を向けた。



開けられた扉を軽く叩き中に入ると、室内は温白色に包まれ、心地の良いざわめきが木霊していた。
上下黒で統一され、正装した学生たちが和やかに談笑している。
多種の楽器が艶を放ち、コンサート前の緊張と緩和の交わりが空気に描かれていた。

一人の女性が僕に気づき、笑顔で駆け寄ってくる。小村さんだ。
他の女性たちとは異なり、胸元に控えめな白いラインが施されたドレスを着ていて、厳粛の中に佇む気品が感じられた。
前に会った時はラフな格好をしていたから、そのギャップに少し緊張する。

「林道くん! 今日は来てくれてありがとう」

「ううん。むしろ、演奏前の忙しい時にごめん」

無邪気な表情で微笑む小村さんは、パイプ椅子に置いてあった紙を手に取り、また戻ってくる。部屋の奥の方からの視線に気づいて目を向けると、見知った顔ぶれがこちらに軽く手を振ったり、ウインクしていた。栞を探しに国際芸術大学に初めて来た時の記憶が、淡いタッチで蘇る。僕は軽く手を上げて挨拶をした。

「この音を胸に、栞と林道くんの音と言葉を胸に、頑張るね」

小村さんの小さな手には、楽譜が静かに、けれど確かな存在として握られている。

一週間前、僕は国際芸術大学の前で小村さんを待った。連絡先を交換していなかったことを後悔しながら、運良く数十分後に校門前で会うことができた。立ち話もあれだからと、予約していた練習室に招いてくれて、そこで栞の最後の演奏のことを話した。栞が大学内で唯一、最初から最後まで心を許していた小村さんには、伝えるべきだと思ったから。

栞が僕にくれた楽譜。彼女が僕の歌詞を元に作曲した楽譜を見せた。そこまでに至った想いも。全てを。
小村さんは真剣な目色で楽譜を凝視した後、ヴァイオリンをケースから取り出して、丁寧に音を紡ぎだした。
世俗から切り離された箱の中で、栞の音に命が灯る。

小村さんのヴァイオリンの音は、誠実で清らかだった。
曲の終盤、空気が震えるのを感じて瞑っていた目を開けると、彼女の目に涙が浮かんでいた。
頬を伝う雫があご当てに落ちていく。ヴァイオリンに描かれたf字孔もまた、泣いているように見えた。

最後の音を奏でると、小村さんは堰が切れたように大きく泣き出した。
嗚咽を繰り返しながら苦しそうに泣く小さな背中をさすり、僕はただ、彼女が泣き止むまで側で待ち続けた。

「林道さん、一つ、お願いがあります」

泣き止み、目尻を赤く染めた小村さんは、決意の滲んだ瞳で僕を捉えている。

「お願い?」

「はい。来週、卒業生の送辞としてコンサートをやるんですけど、この曲を最後に演奏したいんです」

静寂が流れる。断る理由はなかった。

「小村さんたちがいいなら、是非。栞もきっと、喜ぶと思う」

小村さんの目に再び涙が浮かんだけれど、それを吹き飛ばすように彼女は微笑んだ。

「ありがとうございます。あ、お友達になれたって私は勝手に思ってるから、今日からはタメ語でいくね。あと、林道くんって呼ぶ」

いひひ! と、いたずら好きの子どものように、小村さんは笑った。



「みんなに話したら、即決だったよ。絶対に、この曲を最後に演奏しようって」

今日この後、栞の音が会場に響き渡る。胸に込み上げてくるものが、目を潤ませる。
でも、笑っていたい。笑顔を、天国の栞に届けたい。

「へたっぴって言われないようにね」

「うわっ! 林道くん、まだいじりだすのは早い気がするなあ。そっちがその気なら、今度は私もいじり倒すから!」

「望むところだよ。あ、そうだ、小村さん、こないだの頼みなんだけど……」

「うん! 任せてよ。もう知り合いのフルート専攻の子には、コンタクトしてるから。また色々決まったら、連絡するね」

「ありがとう。本当に」

「どういたしまして。あ、林道くんこそ、天国からへたっぴって栞に言われると思うなあ」

「友達歴的に、いじるの早すぎる気がする」

「どの口が言う⁉︎ 数秒前の記憶消えた⁉︎」

二人で笑い合って、小村さんの向こうで視線を向けてくれていたみんなに黙礼して、控え室を後にした。


講堂に戻ると、本田と野口が周りを見ながら何やら盛り上がっていた。
どうせ可愛い女の子がいたとかしょーもないことだろうと思いながら、呆れ気味に声をかけて中に入った。

シューボックス型の会場の中は、厳かな空気の下でまばらに人の声が響いていた。
ステージの上にはパイプオルガンが鎮座していて、その両端には濡烏ぬれがらす色の細長い大きなタペストリーが飾られている。

本田と野口は二人揃うといつもやかましいけれど、コンサートホールの格式の高さに驚いているようで、言葉も出せずに周りを忙しなく見ていた。僕もコンサートホールで、しかも学生とはいえオーケストラの演奏を聴くなんて初めてだったから、緊張からか手に汗が滲む。

ステージ前の席には卒業生、そのすぐ後ろは保護者席となっていた。
首を巡らせると、中継室前のエリアの一番後ろの席に、栞の両親が座っている。小村さんに頼んで許可をもらって、僕が誘った。

栞のお母さんがこちらに気づき、手を振ってくれている。
その手の中には、見慣れた栞のフルートケースが静かに佇んでいた。遠目からでもわかるほど、ケースの艶は煌めいていた。
お父さんも、微笑んでくれた。

程なくして客席の照明の光が少なくなり、奏者が次々に入場する。

小村さんは小柄なのに一際目立っていて、客席から見て左側、指揮者の真横に立った。
栞に聞いたことがある。確か、あそこの位置はコンサートマスターと呼ばれる人が座る場所だ。

オーケストラ全体の音をまとめるリーダー的な存在で、首席奏者、つまりとっても優秀な人ということなのだろう。先ほど、凄い人をいじってしまった自分の浅はかさが少し恥ずかしい。栞にもっと、彼女のことを聞いておけばよかった。

オーボエの音を起点に紡がれたチューニングの音が、静寂をゆっくりと切り裂いていくように、下から上へと上がっていく。
いくつもの音が重なっていき、波打つように重厚な空気を育てていく。

小村さんがいる左側の奥に、フルート奏者が数人見える。栞が生きていたら、きっとあの場所に座っていたのだろう。
自然と俯いてしまった自分を心の中で叱咤して、再び視線をステージに戻した。
小村さんたちの音の全てを、聴き逃したくない。

指揮者の男性が拍手で迎えられながら入場する。
座っていた奏者全員が立ち上がり、客席に向かってお辞儀をした。

奏者が座る音を最後に、ふわりと辺りに沈黙が敷かれる。
指揮棒が振られ、音が描かれ光が当たった。
物語が音となって僕たちの頭に滑り込み、美しき幻影を瞳の裏に作り出していく。

奏者の体の中にできた言葉が音に変わり、交わり、溶け合い、ゆるやかに交響を生んで、花が咲くように弾けて、僕たちの元に降りてくる。

曲は事前に知っていて、あらかじめ調べた。

テンポが勇ましく心躍るこの曲は、エドワード・エルガーが作曲した行進曲、『威風堂々』だ。起伏豊かで軽快な旋律に始まり、朝日に照らされた広い草原に漂う風のような、雄大な旋律に変わってまた軽快な音に戻っていく。人生の荒波を泳ぎ、自身にとっての平穏を掴み取り、休んだらまた泳ぎ出す。その繰り返し。卒業生の門出を祝う曲としては、うってつけの名曲だ。

小村さんの体は旋律の起伏に寄り添うように揺れて、その度に交響の厚みが瞬間的に増していた。

栞の曲を最後に残し、演奏が一旦小休止を迎える。事前に知らなかったけれど、小村さんが代表して一人立ち上がり、マイクを持った。全ての視線と光が、彼女に集中する。マイクを通して、彼女の深呼吸がホールに響いた。

「卒業生のみなさま、保護者のみなさま、この度はご卒業、おめでとうございます。そして、この場にお越しいただいた全ての方に、感謝申し上げます。最後の曲の演奏の前に、一つ、大切な話をさせてください」

一度言葉が切られ、間が生まれる。
小村さんの言葉の残響で散り散りになった辺りの意識が、再び彼女に集中する。

「旅立つ卒業生のみなさんと共に、もう一人、先日私の大事な、大好きな友人が、天国に旅立ちました」

一瞬ざわめきが起こり、潮が引くようにすぐに止んだ。

「有名なので、知っている人もいるかも知れません。フルート奏者の、結野栞さんです。彼女は私の大事な友人でした。けれど……、けれど、病にかかり、つい先日天国に行ってしまいました。これから演奏する最後の曲は、栞が、最後の力を振り絞って、作曲した曲です。栞が、彼女の愛した人が作詞した言葉に、音をプレゼントしたのです」

自然と、僕の頬に雫が伝う。それは小村さんも、同じだった。

「栞は亡くなる直前まで、フルートを、命を、吹き続けました。卒業生のみなさまや、私たち音楽に生きる全ての人間にとって、栞は爛々に輝く未来への道を、敷いてくれたんだと私は思います。決して甘い理想を語りたいのではありません。私たち表現者は、どこまでも、自分の命を削りながら表現していかなければなりません。逃げ場なんて、どこにもありません。引退もありません。最後の命の、一音まで……。今回の演奏を始まりとして、栞と彼の想いを、覚悟を、私たちは絶対に、未来に繋いでいきます」

小村さんの視線が、僕と交わった。彼女は軽く頷いた。

「個人的なお話で申し訳ございませんでした。卒業生のみなさまの素敵な未来を願って、最後の一音まで、栞と一緒に、精一杯演奏させていただきます。改めて、卒業生のみなさま、保護者のみなさま、本日はご卒業、おめでとうございます」

小村さんは深々と頭を下げる。万雷の拍手が鳴り響いた。



拍手が止み、小村さんが再び座る。

栞の音が、世界に染み渡る。
まどろみのような淡く温かな旋律から始まり、ゆるやかに音が重なり迫力が増していく。

栞と僕の出会いから、過ごした時間をなぞるように。

心の川の流れを描く音たち。僕は打ち震えて、無理に口角を上げても涙が止まってくれない。
朝日を受けた地平線のような、壮大で安らぐ旋律は、栞との記憶を呼び起こす。
音が光るフレームになって記憶を縁取り、そして彩りを添えて、思い出をつくっていく。
良い記憶も、思い出したくない嫌な記憶も、音がその全てを思い出に変えていく。
交わしてきた沢山の言葉が、出来上がった思い出を繋げて、大きな交響の輪を描いていく。

瞳のうちがまた、一斉に、そして眩いほどに煌めく。
この場にいる人たちの心に、栞の音が、栞が、艶を与えていく。
音という名の光る雫がゆるやかに集まり、大きな、本当に大きな、栞の姿を会場に映し出した。

フルートを吹く、音楽をいっぱいの笑顔で奏でる、君の姿を。

栞。
昔の僕だったら、君がいなくなった途端に部屋に閉じこもっていたと思う。

でも、今は違う。君と出会って、再会して、一緒に過ごして、付き合って、時にぶつかって、傷つけ合って、そして笑い合って、体温を交換して、僕たちは生きた。思いやりを交換して、積み重なって太くなった僕の心は、少しだけ、前に進み続ける勇気を濃くしてくれたみたいなんだ。

あの日、君が僕に音を、心をくれなかったら、今の僕はいない。

安い言葉かもしれないけれど、小学生の時、物語の切れ端を描いていた時に君に出会ったのは、運命だと思うんだ。

人生のいろんな選択の先に生まれた、人との出会いという奇跡が、運命なのかもしれない。
君と過ごした日々は、幸せで、最高な運命だった。

世界は残酷だけど、美しい。
残酷な世界で、君は誰よりも美しく生きたんだ。

ねえ、栞。いつか僕に、そっちへいく順番がきたら、その時はもう一度、僕と付き合ってくれますか? そうなれるように、僕はまた、前を向いて人生の選択を続けていくから。君と再会できる運命に、たどり着くために。
 
異常性を抱えた僕の、この気持ちもまた、心からの本心だ。

もし再会できたら、一緒にフルートを吹こうね。へたっぴだと思うけど、練習しておくから。

天国で、たくさんまた笑い合おう。また、音と言葉を交換しよう。
ああ、そうだ。言葉といえば、小説、書き上げたよ。
僕たちの人生の物語だ。
あとはタイトルだけなんだ。今、手に持ってる。
悩んでいるわけではなくて、決めてあるんだ。
あとはタイミングだけ。
それは、今だ。

僕があげた言葉。君がくれた音。
それらが交わって、今日、交響曲になった。 

その記念日に、ふさわしいタイトルだよ。

最後の音が、鳴り響いた。
紙に書かれた言葉に、音が降りてくる。

続く静寂に、地鳴りのような拍手が彩りを加えた。
小村さんがこちらを見て微笑んだ。
その姿に、栞の笑顔が重なる。

『わかった! きみのことばにおとをあげる!』

僕を祝福し、呪いもする、君の言葉。
立ち上がる。本田と野口の戸惑いの視線は無視した。
拍手を背に一人階段を上がり、会場を出て、重厚な扉を閉めた。

ポケットからペンを取り出す。
手に持っていた原稿にタイトルをつけて、僕は静かに歩き出す。

 『ことばにおとを』

了