栞がいなくなってから、二週間が経った。
僕はほとんど睡眠も取らずに小説を書き続けた。
葬儀から数日しか経っていないのに、悲しみを感じるよりも、書きたい欲求が体中から遠慮なく迸っていた。
けれど……。
ーーやっぱりお前は、人の死すらも表現の種にしようとしている、最低の人間だ。
頭の中で、そんな囁きがずっと鳴り響いている。
悲しみと、表現への快感。
自分の中に、当たり前に存在する矛盾。
それが僕の心に爪を立てて、手の動きを止めた。
異常性を、自分勝手に、そして傲慢に肯定して突き進むのか。
あの頃のように、誰も傷つけないように、その異常性を否定して隠し通すのか。
悲しみ。表現の喜び。悲しみ。喜び。悲しみ。喜び。
いい文章が書けた時の、快感。人の不幸の上に置いた、快感。
どこまでも僕は、僕は……。
「で? それが何?」
「え?」
中川さんは、本棚を整理していた手を止めて、振り向いた。
栞以外に、僕は初めて話した。
今まで抱えてきた想いの全てを。
窓に差し込む夕陽が、中川さんの半身に影を落とした。
「異常性がある。僕は悩んでます。かわいそうでしょ? かわいそうって言って? 僕の異常性を肯定して? そう、慰めて欲しいわけ?」
「いや、そんなつもりじゃ」
言われた言葉の既視感に、心が揺れる。
「他人の心に土足で踏み込んで、勝手に自分の解答を押し付ける。表現者なんて、他人の人生を、自分のために貪る怪物よ」
僕は息をのんだ。
「罪悪感や苦悩なんて、大なり小なりみんな抱えてる。あなたは何? それだけのことをやっておきながら、今さら逃げるの? 栞ちゃんの命を削っておきながら、逃げるの? 人の心に手を出すなら、死ぬ最後まで向き合う覚悟を持ちなさいよ。一生重荷を背負って生きなさいよ。それが、栞ちゃんへの誠実さじゃないの?」
図書館に漂う静けさが、確かな重さを帯びた気がした。「きみにことばをあげる」「僕が君に言葉をあげる」、栞と交わした約束が、鎖となって僕の心をきつくきつく締め上げた。「きついこと言ってごめんね。それに……」と、中川さんが言葉を続けた。
「私は悟った人間の小説なんて読みたくない。人とぶつかって、悩んで、悩んで、悩んで、そうやって書き上げられた人の小説を、人生を、私は読みたい。栞ちゃんの手紙に書かれた最後の想い、ないがしろにするつもり? 私が見てきた君は、そんな人間じゃないと思うけど」
一生、中川さんには敵わないなと思った。
思い出しても、自分が醜くて思わず笑ってしまう。
また、理由をつけ、苦しみや人の想いから、逃げようとしていた。どこまでも、僕は弱い人間だ。
みんなそれぞれ、エゴや異常性を抱えている。それに怯え、時に酔っている。
治せないなら、向き合え。逃げるな。自分を守る言い訳にするな。共に生きろ。重荷を背負って。
環境のせいにして、勝手に空虚な気持ちになって自分を守ったって、何も変えられない。
いつだって、人と心でぶつかる覚悟がなければ、自分自身を変えようとする思いやりがなければ、環境は何も変えられない。
栞が自分の運命から逃げずに、命を振り絞って、自分の言葉を、心を、音にのせて歌ったように。
決意しても、きっとこの先も、同じ悩みは常に湧き上がってくる。
君の死すらも、自分の人生の糧にしようとしている自分勝手さに、心が押し潰されそうになることもあるだろう。
抱える矛盾に、心が押し潰されそうになる時も何度もあるだろう。でもそれが、僕が背負うべき業だ。
人間はどこまでもわがままで、自分勝手だ。
渦巻くあらゆる感情の中で、結局最後に勝つのは、自己愛なのかもしれない。
人のことを想いながらも、その裏で自分を守りたい。認めてほしい。主張したい。そんな感情が常に潜んでいる。
でもそれだけが、真実じゃない。
身勝手さを認めて、その上で人に寄り添い、思いやりを交換しようともがく。
この世の全ては矛盾していると気づきながら、それでももがく。
その先で、自己愛同士の隙間にある、温かい宝石を、心の寄り添いを、得ることができるのかもしれない。
君は音楽で、僕は言葉。
お互いの都合をぶつけ合って、笑って、苦しんで、今がある。悟らずにぶつかり、もがき続けたから、今がある。
これから僕は、君のくれた音のある言葉で、自分の解答を人に押し付けるよ。
君が燃やした煌めく命が、音が、心が、人を笑顔にすると信じているから。
今書いている小説は、君の人生を表現したものだ。
君のくれた心が、僕の言葉の中で生きているんだ。
さあ、言葉を、心を、奏でようか。
「林道。本当に大丈夫か?」
目尻を下げた本田が、覗き込むように僕を見た。
「うん。どうしても、読んで欲しいし、伝えたいことがあるから」
トートバッグの重みが、歩みを遅くする。顔も見たくない。
会いたくない。自分だけじゃない。栞まで傷つけた人間だ。
でも、どうしてもこのままで終わることなんて、できなかった。
「そっか。まあ、なんかあったらすぐに俺が飛びかかってやるから、安心しろな」
「警察沙汰だけはやめてくれ」
「そこはお前、『本田、サンキューな!』とか言って、友情を確かめ合うだろ、普通」
僕は思わず微笑む。足の重みが、少し軽くなるのを感じた。
ひばり公園の、人目のつかない広場で本田と彼を待っていると、街灯の側で人の気配が動いた。
宮野だ。
連絡先を知らなかったから、本田から安井を通じて半ば強引に連絡をとってもらった。
断られると思ったけれど、そこは本田がなんとかしてくれたみたいだ。
だからこそ、ここからは一人でやりたかったけれど、何がなんでも付いてくると申し出てきた本田を無下にできなかった。
最後に会った時とあまり容姿は変わっておらず、けれど目のくまの深さは明らかに増していた。
手が震える。「林道」と、本田が囁くように言葉を僕の前に落とした。自然と、手の震えがおさまった。
「本田、サンキューな」
「さっき言えよ」
お互いに微笑み、目の前に来た宮野を見つめる。
宮野は気まずそうに目を逸らした。
「なんだよ。呼び出して。言っとくけど、あの日のこと、謝る気なんて……」
「栞は、死んだ」
宮野の言葉に被せるように、僕は強く言葉を放った。
あからさまに、宮野は狼狽える。
「は? 何言ってんの? 栞が?」
栞という呼び方に、多少の苛立ちが募る。冷静に。
「栞は病気だったんだ。でも、そんな中でも、栞は生きた。自分の意志で、強く生きた。最後まで命を燃やした」
強張っていく宮野の表情。
顔を見ているのも嫌だ、けど、そういうことだ。認めたくないけど、そういうことなんだ。
「僕たちとは違って」
一陣の風が、僕と宮野の体を貫くように吹きつける。
横に立つ本田の体が、わずかに動くのを感じた。
「は……? お前と一緒にすんなよ! 俺はっ」
再び宮野の言葉に被せるように、僕は彼の前に紙束を差し出した。
「頼むから、これを読んでくれないかな。何時間でも待つから」
完成した小説原稿を、宮野は凝視した。
まだタイトルはつけていない。決めてはいるけど、なんとなく、宮野には絶対に教えたくなかった。
「また、ぽちぽち書いてたのかよ。賞もとってないくせに、誰からも認められてないくせに。やっぱきしょいな、お前」
本田が「宮野」と、思わず半歩前に出ようとするのを、僕は手だけで止めた。
「これが僕の、自己主張だから」
宮野の目が、急に見開かれる。
初めて、彼の瞳がわずかに透き通って見えた。
宮野は何も言わず、僕と本田の横を通り過ぎ、奥のベンチに荒々しく腰かけた。
三時間ほど、無音の風がただ流れた。
本田も僕も、小説を読み込む宮野を、じっと眺めた。
日が沈み、街灯に光が灯った。宮野は体を震わせ、こちらに音が聞こえるくらいの勢いで歯軋りしている。
醜く、痛々しい、夕映を荒く引き裂くような、聞くに耐えない音。
滲む表情は、後悔と、恐れと、怒りに見えた。
本田は少し狼狽えていたけれど、僕は表情ひとつ変えずに、ただ宮野を見続けた。
宮野は徐に立ち上がり、僕に原稿を乱暴に押し付ける。心底軽蔑した、温度の無い瞳。
「お前、狂ってるよ。異常だ」
「うん。異常だよ」
僕は微笑んだ。ごく自然に。宮野の瞳に、明らかに恐れが浮かんだ。
その瞳の震える膜が、僕と彼との、果てなく分厚い壁を表しているようだった。
そのまま何も言わずに宮野は去っていった。彼の背中に、淡くも透き通った街灯の光が当たった。
「もっと何か言わなくていーのかよ」
「言ったよ。たくさん。伝えることは、伝えた」
本田はきっと、僕の発言の意味が理解できていないのだろう。彼の素っ頓狂な顔にも微笑みを向けて、僕は踵を返す。
宮野の力でぐしゃぐしゃになった紙束を、静かに二つに裂いて、バッグにしまった。
「なんか、林道、変わったな」
「そう? 変わってないよ。何も。あ、そうだ。今日は本当にありがとう」
「いいってことよ。ほら、高校の時、俺が部活で大怪我したことあったじゃん? その時お前、さりげなくお菓子をくれただろ? みんな近寄り難そうにしてたのに、あの時まだ対して親しくなかったお前が、まさかそんなことしてくれるなんて思わなかったから、感動したんよ。その恩返しだ」
「いつの話してんの。大したことしてないよ」
本田はからからと笑う。
そんなこと、今の今まで忘れていた。ただ、本田が悲しい感じをしていたから、そうしただけだと思う。
でも、だから、こんな僕ともずっと付き合ってくれていたのか。
残照に包まれた広場は、どこか昼間よりも明るく見えた。
その分、影も長く感じた。
僕はほとんど睡眠も取らずに小説を書き続けた。
葬儀から数日しか経っていないのに、悲しみを感じるよりも、書きたい欲求が体中から遠慮なく迸っていた。
けれど……。
ーーやっぱりお前は、人の死すらも表現の種にしようとしている、最低の人間だ。
頭の中で、そんな囁きがずっと鳴り響いている。
悲しみと、表現への快感。
自分の中に、当たり前に存在する矛盾。
それが僕の心に爪を立てて、手の動きを止めた。
異常性を、自分勝手に、そして傲慢に肯定して突き進むのか。
あの頃のように、誰も傷つけないように、その異常性を否定して隠し通すのか。
悲しみ。表現の喜び。悲しみ。喜び。悲しみ。喜び。
いい文章が書けた時の、快感。人の不幸の上に置いた、快感。
どこまでも僕は、僕は……。
「で? それが何?」
「え?」
中川さんは、本棚を整理していた手を止めて、振り向いた。
栞以外に、僕は初めて話した。
今まで抱えてきた想いの全てを。
窓に差し込む夕陽が、中川さんの半身に影を落とした。
「異常性がある。僕は悩んでます。かわいそうでしょ? かわいそうって言って? 僕の異常性を肯定して? そう、慰めて欲しいわけ?」
「いや、そんなつもりじゃ」
言われた言葉の既視感に、心が揺れる。
「他人の心に土足で踏み込んで、勝手に自分の解答を押し付ける。表現者なんて、他人の人生を、自分のために貪る怪物よ」
僕は息をのんだ。
「罪悪感や苦悩なんて、大なり小なりみんな抱えてる。あなたは何? それだけのことをやっておきながら、今さら逃げるの? 栞ちゃんの命を削っておきながら、逃げるの? 人の心に手を出すなら、死ぬ最後まで向き合う覚悟を持ちなさいよ。一生重荷を背負って生きなさいよ。それが、栞ちゃんへの誠実さじゃないの?」
図書館に漂う静けさが、確かな重さを帯びた気がした。「きみにことばをあげる」「僕が君に言葉をあげる」、栞と交わした約束が、鎖となって僕の心をきつくきつく締め上げた。「きついこと言ってごめんね。それに……」と、中川さんが言葉を続けた。
「私は悟った人間の小説なんて読みたくない。人とぶつかって、悩んで、悩んで、悩んで、そうやって書き上げられた人の小説を、人生を、私は読みたい。栞ちゃんの手紙に書かれた最後の想い、ないがしろにするつもり? 私が見てきた君は、そんな人間じゃないと思うけど」
一生、中川さんには敵わないなと思った。
思い出しても、自分が醜くて思わず笑ってしまう。
また、理由をつけ、苦しみや人の想いから、逃げようとしていた。どこまでも、僕は弱い人間だ。
みんなそれぞれ、エゴや異常性を抱えている。それに怯え、時に酔っている。
治せないなら、向き合え。逃げるな。自分を守る言い訳にするな。共に生きろ。重荷を背負って。
環境のせいにして、勝手に空虚な気持ちになって自分を守ったって、何も変えられない。
いつだって、人と心でぶつかる覚悟がなければ、自分自身を変えようとする思いやりがなければ、環境は何も変えられない。
栞が自分の運命から逃げずに、命を振り絞って、自分の言葉を、心を、音にのせて歌ったように。
決意しても、きっとこの先も、同じ悩みは常に湧き上がってくる。
君の死すらも、自分の人生の糧にしようとしている自分勝手さに、心が押し潰されそうになることもあるだろう。
抱える矛盾に、心が押し潰されそうになる時も何度もあるだろう。でもそれが、僕が背負うべき業だ。
人間はどこまでもわがままで、自分勝手だ。
渦巻くあらゆる感情の中で、結局最後に勝つのは、自己愛なのかもしれない。
人のことを想いながらも、その裏で自分を守りたい。認めてほしい。主張したい。そんな感情が常に潜んでいる。
でもそれだけが、真実じゃない。
身勝手さを認めて、その上で人に寄り添い、思いやりを交換しようともがく。
この世の全ては矛盾していると気づきながら、それでももがく。
その先で、自己愛同士の隙間にある、温かい宝石を、心の寄り添いを、得ることができるのかもしれない。
君は音楽で、僕は言葉。
お互いの都合をぶつけ合って、笑って、苦しんで、今がある。悟らずにぶつかり、もがき続けたから、今がある。
これから僕は、君のくれた音のある言葉で、自分の解答を人に押し付けるよ。
君が燃やした煌めく命が、音が、心が、人を笑顔にすると信じているから。
今書いている小説は、君の人生を表現したものだ。
君のくれた心が、僕の言葉の中で生きているんだ。
さあ、言葉を、心を、奏でようか。
「林道。本当に大丈夫か?」
目尻を下げた本田が、覗き込むように僕を見た。
「うん。どうしても、読んで欲しいし、伝えたいことがあるから」
トートバッグの重みが、歩みを遅くする。顔も見たくない。
会いたくない。自分だけじゃない。栞まで傷つけた人間だ。
でも、どうしてもこのままで終わることなんて、できなかった。
「そっか。まあ、なんかあったらすぐに俺が飛びかかってやるから、安心しろな」
「警察沙汰だけはやめてくれ」
「そこはお前、『本田、サンキューな!』とか言って、友情を確かめ合うだろ、普通」
僕は思わず微笑む。足の重みが、少し軽くなるのを感じた。
ひばり公園の、人目のつかない広場で本田と彼を待っていると、街灯の側で人の気配が動いた。
宮野だ。
連絡先を知らなかったから、本田から安井を通じて半ば強引に連絡をとってもらった。
断られると思ったけれど、そこは本田がなんとかしてくれたみたいだ。
だからこそ、ここからは一人でやりたかったけれど、何がなんでも付いてくると申し出てきた本田を無下にできなかった。
最後に会った時とあまり容姿は変わっておらず、けれど目のくまの深さは明らかに増していた。
手が震える。「林道」と、本田が囁くように言葉を僕の前に落とした。自然と、手の震えがおさまった。
「本田、サンキューな」
「さっき言えよ」
お互いに微笑み、目の前に来た宮野を見つめる。
宮野は気まずそうに目を逸らした。
「なんだよ。呼び出して。言っとくけど、あの日のこと、謝る気なんて……」
「栞は、死んだ」
宮野の言葉に被せるように、僕は強く言葉を放った。
あからさまに、宮野は狼狽える。
「は? 何言ってんの? 栞が?」
栞という呼び方に、多少の苛立ちが募る。冷静に。
「栞は病気だったんだ。でも、そんな中でも、栞は生きた。自分の意志で、強く生きた。最後まで命を燃やした」
強張っていく宮野の表情。
顔を見ているのも嫌だ、けど、そういうことだ。認めたくないけど、そういうことなんだ。
「僕たちとは違って」
一陣の風が、僕と宮野の体を貫くように吹きつける。
横に立つ本田の体が、わずかに動くのを感じた。
「は……? お前と一緒にすんなよ! 俺はっ」
再び宮野の言葉に被せるように、僕は彼の前に紙束を差し出した。
「頼むから、これを読んでくれないかな。何時間でも待つから」
完成した小説原稿を、宮野は凝視した。
まだタイトルはつけていない。決めてはいるけど、なんとなく、宮野には絶対に教えたくなかった。
「また、ぽちぽち書いてたのかよ。賞もとってないくせに、誰からも認められてないくせに。やっぱきしょいな、お前」
本田が「宮野」と、思わず半歩前に出ようとするのを、僕は手だけで止めた。
「これが僕の、自己主張だから」
宮野の目が、急に見開かれる。
初めて、彼の瞳がわずかに透き通って見えた。
宮野は何も言わず、僕と本田の横を通り過ぎ、奥のベンチに荒々しく腰かけた。
三時間ほど、無音の風がただ流れた。
本田も僕も、小説を読み込む宮野を、じっと眺めた。
日が沈み、街灯に光が灯った。宮野は体を震わせ、こちらに音が聞こえるくらいの勢いで歯軋りしている。
醜く、痛々しい、夕映を荒く引き裂くような、聞くに耐えない音。
滲む表情は、後悔と、恐れと、怒りに見えた。
本田は少し狼狽えていたけれど、僕は表情ひとつ変えずに、ただ宮野を見続けた。
宮野は徐に立ち上がり、僕に原稿を乱暴に押し付ける。心底軽蔑した、温度の無い瞳。
「お前、狂ってるよ。異常だ」
「うん。異常だよ」
僕は微笑んだ。ごく自然に。宮野の瞳に、明らかに恐れが浮かんだ。
その瞳の震える膜が、僕と彼との、果てなく分厚い壁を表しているようだった。
そのまま何も言わずに宮野は去っていった。彼の背中に、淡くも透き通った街灯の光が当たった。
「もっと何か言わなくていーのかよ」
「言ったよ。たくさん。伝えることは、伝えた」
本田はきっと、僕の発言の意味が理解できていないのだろう。彼の素っ頓狂な顔にも微笑みを向けて、僕は踵を返す。
宮野の力でぐしゃぐしゃになった紙束を、静かに二つに裂いて、バッグにしまった。
「なんか、林道、変わったな」
「そう? 変わってないよ。何も。あ、そうだ。今日は本当にありがとう」
「いいってことよ。ほら、高校の時、俺が部活で大怪我したことあったじゃん? その時お前、さりげなくお菓子をくれただろ? みんな近寄り難そうにしてたのに、あの時まだ対して親しくなかったお前が、まさかそんなことしてくれるなんて思わなかったから、感動したんよ。その恩返しだ」
「いつの話してんの。大したことしてないよ」
本田はからからと笑う。
そんなこと、今の今まで忘れていた。ただ、本田が悲しい感じをしていたから、そうしただけだと思う。
でも、だから、こんな僕ともずっと付き合ってくれていたのか。
残照に包まれた広場は、どこか昼間よりも明るく見えた。
その分、影も長く感じた。
