ことばにおとをー君の死を、僕の最高傑作の燃料にー

君と再会したちょうど一年前の三月。

今度は君との別れの月になるなんて、思いもしなかった。

春愁(しゅんしゅう)に満ちた風が、静謐に佇む街の間を抜けていく。
花曇りの空は、その雲のどこかに君を隠しているのかもしれない。
朝日を照りかえすアスファルトの道は、宝石を散りばめたように煌めいている。
土から芽吹き始めた緑は、元気に日光を浴びていた。

日常は、時間を失った君を残して、今日も進んでいく。
命のレールから外れた人を置き去りに、今日も進んでいく。

陽が入りにくいのか、斎場は少し暗かった。僕の目にはそう映った。
白い壁に覆われ、温もりを感じない大理石で囲まれたロビーが、虚しさを駆り立てる。

祭壇には、栞の写真が飾られていた。整列されたパイプ椅子には、喪服姿の人がまばらに座っている。
ハンカチで涙を拭う人。俯き床を見て、身じろぎもしない人。彼女の写真を仰ぎ見る人。

小村さんたちもいた。小村さんは悲しい音で奏でられた言葉にならない嗚咽を、周囲に響かせていた。
棺の前には小さな人集りがあって、凛とした佇まいで立つ男女が、そこから抜け出して僕の元に歩み寄る。
栞の両親だった。互いに一礼する。

「直人くん。今日は来てくれてありがとう」

栞のお母さんは気丈に笑顔を見せているけれど、目尻は赤く、頬は引き攣っていた。
どれだけ雫を目からこぼしたのか、想像しなくてもわかった。

「直人くん……。この前は、申し訳なかった。取り乱してしまって……」

お父さんは申し訳なさげに俯き、悲痛な表情を浮かべている。
栞の想う人はみんな、心に傷を負ったんだ。
なのに僕は、栞と僕のことしか考えないで、秘めるべき決意を他人にぶつけてしまった。

「いえ、僕のほうこそすみませんでした。お父さんの気持ちを考えず、悲しみを逆撫でするような嘘をつきました。本当に、すみません」

お父さんはしばらく僕を見つめて、微笑んだ。
その微笑みは、栞が垣間見せるものにそっくりだ。

「栞の顔、よかったら見てあげてくれないか」

「はい……」

棺に近づく。覗き窓から見える、数ヶ月ぶりの栞の顔。
化粧された白く綺麗な顔。でも、頬はこけていて、いつもの元気な生気は感じられない。
ゆっくりと顔を寄せる。仄かに、木の香りがした。

「なんだよ、栞。元々肌は白いんだから、お化粧、あんまり似合ってないよ……。なあ。いつもみたいに、軽口で言い返してくれよ。……なあ!」

棺の両端を強く握る。けれど、力が抜けてそのまま崩れ落ちた。

くそ、くそ、くそ! なんで、神様、なんで……なんで!

ーーなんで、こんな時でも、美しさを感じさせるんだよ! 小説に書く言葉を浮かばせるんだよ! これ以上、自分を嫌いにさせないでくれよ!


栞のお母さんが屈んで、僕の背中を包み込んでくれた。
違う、違うんだ。悲しいのは誓って本当だ。だけど、それだけじゃないんだ。この落胆は、高尚な悲しみだけじゃないんだ。

こんな僕は、慰めてもらう資格もないんだ。



葬儀が終わった。形としても、栞がこの世界からいなくなってしまった。
もう二度と、心を交わすはできない。

ロビーから出て空を見上げる。雲の船が漂っている。
あの船のどこかに、君が乗っているのかもしれない。誰も知らない世界に、君を運んでいるのかもしれない。

僕がそっちに行く番が来たら、また会えるだろうか。
また君と、君と……。

「直人くん!」

歩き出そうとしたところで、栞のお母さんが僕を呼び止めた。息を整え姿勢を正し、僕を見つめる。

「ごめんね。あの日以来、栞に会わせてあげられなくて。あの子の最後の想いが、ここにあるの。栞の心を、聞いてあげてほしい」

お母さんから差し出された手の中に、小さなクリーム色の便箋が静かに座っていた。

「ありがとうございます……。今、開けてもいいですか?」

「うん……」

便箋の封を開けると、中には同じクリーム色の手紙が入っていた。
少しだけ厚みを感じる。二枚あるみたいだ。視線を言葉に合わせる。僕は栞の心に、触れた。



『なおくんへ』

 やっほー!
 あ、今イラっとしたでしょ? 
 全米が泣いた!みたいな内容を想像してたんでしょ?
 ふにゃふにゃ彼氏さん、騙されました〜。
 ……ごめんって、ちゃんと書くね(笑)
 まずは感謝です。
 なおくん、私と出会ってくれてありがとう。
 最後にありがとうもごめんねもたくさん伝えたけど、全部本音です。
 でも一つだけ、新しく謝らせてください。
 あの日以来、会ってあげられなくて、ごめんね。
 なんとか隠してたけど、どんどん荒んでいく心も、痩せていく体も、なおくんには見せたくなかった。

 なんでかわかる? わかんないだろうなあ、鈍感だから(笑)

 世界で一番大好きな人の前では、綺麗なままでいたいの。

 最後までわがままで、ごめんね。

 なおくんと最後に会ったあの時も、医療用ウイッグでフルート吹いてたんだ。
 だから、もうこれ以上、なおくんに自分の姿を見せたくなかった。
 本当に、ごめんね。

 なおくんが思ってる以上に、私って弱い人間なの。死ぬのが怖い。
 本当は、誰かに側にいて欲しかった。

 だからね、なおくんが私に告白してくれた時、生きててよかったって本気で思えた。

 本当に、嬉しかった。
 だめだ、涙が出てきちゃった。情けないね。
 なおくん、どうか、ずっと笑っていてね。

 なおくんが辛そうにしてたら、天国から雨をいっぱい降らせてやるから。
 大好きな人の辛い涙なんて、私は見たくないから。

 たくさん笑って、笑顔をこっちに届けてください。

 そしていつか、なおくんが命を全うして、こちらにきた時は、また一緒に、音と言葉を交換しようね。

 できれば、フルートを一緒に吹きたいな。
 だから、練習しとくんだよ! へたっぴだったら笑ってやる!

 心残りは一つだけ。なおくんの完成した小説を読めないこと。だけど、なおくんならきっと完成させられる。
 大丈夫。私が保証するから。

 君の言葉に、音をのせるんだよ。

 私にとって、なおくんに会えたことは最高の幸せでした。

 なおくんにはたくさん救われました。

 煌めく世界を映す、君の、綺麗な目に。



 ここからは、秘密の話。違ってたら、読み飛ばして。

 私ね、なおくんがいつも何かに悩んでいる風で、自己肯定感が低いのはなんでだろうって思ってた。

 その理由。

 君は、それがたとえ”死”であっても、美しく見えてしまうことが怖かったんじゃないかな。たぶん、当たりでしょ?(笑)

 気づいてないと思った? ふにゃふにゃ彼氏さん。

 だって、私も同じだから。小さい頃から、どんなに綺麗な光景も、凄惨な光景も、そこから音が聞こえてた。
 今の光景を、こんな風に奏でたら美しいだろうなって。
 そんなことをいっつも心の中で思ってしまうの。
 私は他の人と違って、優秀だからそうなんだ!って、傲慢な蓋をして悩みを飛ばしてた。

 きら星の歌詞。

 あれは私を気遣って、綺麗な言葉を並べてくれたんでしょ?

 きっと無意識だったんだと思うけど、なおくんはやっぱり、死をも美しく見るんだって思った。
 あの歌詞は逆に、君が恐怖と思っている本性を、感情を、私に植え付けてきたんだよ。

 でもね、勘違いしないで。私は、本当に嬉しかった。
 君のそれは異常性じゃないから。美点だよ。
 君に教えてもらった、世界の秘密。
 世界は変わらず美しい。心の目がその時の状態によって変えて見せてるだけで、世界はずっと美しい。君の瞳は、本質を映す。

 その瞳に、私は救われた。

 なおくん、私たちは表現者だから、一生逃げることは許されないよ。
 私の死でさえも、土足で踏み抜いて、土台にして、小説を書き切りなさい。

 もう二度と、自分の感情に蓋をしないで。
 君は、美しいから。私が保証する。

 なーんてね。重いこと書いてごめんね。

 なおくん。ずっと、ずっと、ずっと大好きだよ。

 ずーっと!

 結野栞



僕は震えた。悲しさだけではない。
僕の異常性は、ブラックボックスは、全部栞にバレていた。

わかっていながらの、彼女の行動。
まるで僕の言葉が、呪いのように彼女に染み込んで、無意識のうちに彼女の命を貪(むさぼ)っていたのかもしれない。

僕は結局、自己愛に負けて、取り返しのつかない罪を犯してしまったんじゃないのか。
僕は、一体、何なんだ。

手紙は所々に乾いた跡があった。
きっと、本当に、泣きながら書いたんだろう。
二枚目も手紙かと思ったらそうではなくて、手書きの楽譜だった。
楽譜の読めない僕でも、すぐにわかった。
音符の下に、僕が栞にあげた歌詞が書かれていたから。

風が吹く。
心地のいい音が僕の周りを取り囲んで、強く首を絞めてくる。
清らかなのに、強く、痛い。

あれ、涙が出てこない。
泣き方も、わからなくなったのかな。
もう二度と、会えないのに。
悲しいはずなのに。
あの笑顔にも。あの相槌にも。
あの声にも。あの涙にも。

ちゃんと泣くこともできない。
体から力が抜けて、その場にくずおれる。

悲しみに満ちた、鼻をすする音。
歯軋りの音。
全ての音が、僕に寄り添うことはなく空に登って、儚く消え続ける。

栞のお母さんの眼差しだけが、僕の側にいてくれた。
けれど、僕の悲しみの本流は、誰も知らない。