栞の演奏が幕をとじる。
最後の一音まで凛として、陽気で、必死で、悲しくて、真剣で、彼女の心の全てが込められていた。
彼女の人生の、全てが。
あの日、初めて君の演奏を聴いた日の音に、人生の重みが、美しさが、彩りを加えた。
苦しむ君の姿を見て、とても笑うことなんてできなかった。
なのに、なんでだろう。君の音を聴いたら、果てなく響く、清らかな君の音を聴いたら、自然と口角が上がった。
神々しさすら感じる君の姿。涙が止まらないのに、上がる口角も止められない。
いや、違う。
やっぱり僕は思ってしまった。血を流す彼女を見て。
血を流しながらフルートを吹く、彼女を見て。
ーー美しいと。
思わず口角を上げた本当の理由。
どこまでも醜くて、おぞましい、僕の異常性。
目の前で開く栞という大輪の花は、僕の五感の全てを震わせた。
栞がこちらを向く。
ずっと変わらない、安心したような、無邪気な笑顔を彼女も浮かべていた。
歪で、結び目の狂った糸で、初めて、本当の意味で、彼女と心が繋がった気がした。
栞は、担当医の処置により一命を取り留めた。
「お前、お前っ! どういうことだ!」
廊下の長椅子に座っていた僕に、病室から出てきた栞のお父さんが荒々しく駆け寄る。
胸ぐらを捕まれ、壁に押しつけられた。怒りと悲しみの混ざり合った表情。目は充血している。
「なんで止めなかった! なんで、なんで栞にフルートを吹かせた! 無理矢理やらせたのか! どうなんだ!」
赤く染まる両目から、雫がとめどなく流れている。
栞が咎められるのは嫌だ。それに、これは僕の異常性が原因だ。
そして、僕がまた小説を書くと言ったことが原因だ。安らかに過ごす命の選択肢を、僕は彼女から奪ったんだ。
綺麗事と非難されてもいい。
けれど、たとえこのまま栞に会えなくなったとしても、僕は君を守りたい。何があっても。
「そうです。僕が吹いてほしいと頼みました」
栞のお父さんの顔は、みるみる青筋を立てていく。
表情の色が、怒りと悲しみから恨みに変わっていく。
「お前っ! お前に何がわかる! あの子の余命は、もういくばくもないんだ! どれだけ辛い思いをして、治療に耐えて……それが無駄だったとわかって、治る希望を捨てたあの子の気持ちが、お前にわかるのか⁉︎ 最後の時間を大切に過ごしていた私たちの思いが、お前にわかるのか⁉︎ ふざけるな!」
荒々しく響く言葉の音。振り上げられた右腕。僕は目を逸らさない。
「あなた! いい加減にして!」
栞のお母さんが、お父さんの右腕を掴んだ。
「あなたは栞の何を見てきたの! 栞にとって、フルートこそが命だったの! たとえどんなことになっても、最後にフルートが吹きたいって……。そんなわがままを言えたのは、最後に甘えられたのは、私たち親じゃなくて、直人くんだったのよ! 吹き終わった後の、彼に向けた笑顔が見えなかったの!」
栞のお父さんの体から、力と熱が抜けていく。
僕を掴んでいた左手が、力無く垂れ下がった。
「なんで、栞がこんなことになったんだ……。なんで、どうして……」
お母さんがお父さんの肩を抱いて、僕の方を見た。
「直人くん、ありがとう。栞と、真剣に向き合ってくれて。あの子のあんな笑顔、私たちも見たことがなかった。嘘、つかなくていいから。栞が、頼んだんでしょ?」
僕は何も言えなかった。
気を抜くと身勝手な涙があふれてきそうだったから。
その場にくずおれてしまいそうだったから。
栞のお母さんは僕の顔をじっと見て、そして微笑んだ。
「うん、わかった。やっぱりそうなのね。改めて、本当にありがとう」
栞のお母さんは僕に近寄り、僕の右肩にそっと手を置いた。
伝わる温もりが、心に沈澱していた黒い何かを、ゆっくり溶かしてくれた。
そしてその後、栞からの連絡が途絶えた。
病院に行っても面会拒否だった。栞のお母さんに聞いても、彼女の意志ということだけで、深くは教えてくれなかった。
なんとなく、もう会えないという気はしていた。彼女の命の全てを見た、あの日に。
でも、なんで。どうしてなんだ。
最後まで側にいたい。君の痛みに、最後まで寄り添わせてほしい。もう一度だけ、顔を見せてほしい。
君の死を美しいと思ってしまう、最低な僕だ。
でも、それくらいのことをさせて欲しい。
身勝手と、罵られても構わないから。
まだ、小説も完成していない。
あともう少しなんだ。君に、読んで欲しい。
なんでもっと、栞との時間を大事にしなかったんだ。
もっと、もっと……。
日常が尊いものだって、なんで、もっと早く気づけなかった。
なんでもっと、ありがとうって言えなかった。
なんでもっと、ごめんねって言えなかった。
なんで、なんで、なんで。
もう一度だけ、君の頷きだけでもいいから。
お願いだから……。
※
最後に、なおくん、の、前で、フルート、を吹いてから、糸が切れた人形のように、私の、体、は、急激に、悪くなって、いった。
「結野さん、体起こしますねー」
そんな、看護師さん、の言葉、にも、うまく、反応、でき、ない。
最後は、家で、すご、した。
ずっと、ママと、パパ、が、手を、握って、いて、くれた。
なお、くん。ママに、たのんだ、もの、きっと、お葬式、の後で、渡され、ると、思う。
それは、感動もの、ではなくて、私の、わが、まま、だよ。
ずっと、忘れ、ないで、ほしい、から。
最、後まで、わが、ままで、ごめん、ね。
ああ、でも、やっぱり、最、後に、一度、だけ、あいたかった、なあ。
私、ばか、だなあ。
大好きだよ、なお、くん。ありが、とう。
※
――栞の訃報を、栞のお母さんから受けた。
彼女の最後の演奏から、二ヶ月後のことだった。
最後の一音まで凛として、陽気で、必死で、悲しくて、真剣で、彼女の心の全てが込められていた。
彼女の人生の、全てが。
あの日、初めて君の演奏を聴いた日の音に、人生の重みが、美しさが、彩りを加えた。
苦しむ君の姿を見て、とても笑うことなんてできなかった。
なのに、なんでだろう。君の音を聴いたら、果てなく響く、清らかな君の音を聴いたら、自然と口角が上がった。
神々しさすら感じる君の姿。涙が止まらないのに、上がる口角も止められない。
いや、違う。
やっぱり僕は思ってしまった。血を流す彼女を見て。
血を流しながらフルートを吹く、彼女を見て。
ーー美しいと。
思わず口角を上げた本当の理由。
どこまでも醜くて、おぞましい、僕の異常性。
目の前で開く栞という大輪の花は、僕の五感の全てを震わせた。
栞がこちらを向く。
ずっと変わらない、安心したような、無邪気な笑顔を彼女も浮かべていた。
歪で、結び目の狂った糸で、初めて、本当の意味で、彼女と心が繋がった気がした。
栞は、担当医の処置により一命を取り留めた。
「お前、お前っ! どういうことだ!」
廊下の長椅子に座っていた僕に、病室から出てきた栞のお父さんが荒々しく駆け寄る。
胸ぐらを捕まれ、壁に押しつけられた。怒りと悲しみの混ざり合った表情。目は充血している。
「なんで止めなかった! なんで、なんで栞にフルートを吹かせた! 無理矢理やらせたのか! どうなんだ!」
赤く染まる両目から、雫がとめどなく流れている。
栞が咎められるのは嫌だ。それに、これは僕の異常性が原因だ。
そして、僕がまた小説を書くと言ったことが原因だ。安らかに過ごす命の選択肢を、僕は彼女から奪ったんだ。
綺麗事と非難されてもいい。
けれど、たとえこのまま栞に会えなくなったとしても、僕は君を守りたい。何があっても。
「そうです。僕が吹いてほしいと頼みました」
栞のお父さんの顔は、みるみる青筋を立てていく。
表情の色が、怒りと悲しみから恨みに変わっていく。
「お前っ! お前に何がわかる! あの子の余命は、もういくばくもないんだ! どれだけ辛い思いをして、治療に耐えて……それが無駄だったとわかって、治る希望を捨てたあの子の気持ちが、お前にわかるのか⁉︎ 最後の時間を大切に過ごしていた私たちの思いが、お前にわかるのか⁉︎ ふざけるな!」
荒々しく響く言葉の音。振り上げられた右腕。僕は目を逸らさない。
「あなた! いい加減にして!」
栞のお母さんが、お父さんの右腕を掴んだ。
「あなたは栞の何を見てきたの! 栞にとって、フルートこそが命だったの! たとえどんなことになっても、最後にフルートが吹きたいって……。そんなわがままを言えたのは、最後に甘えられたのは、私たち親じゃなくて、直人くんだったのよ! 吹き終わった後の、彼に向けた笑顔が見えなかったの!」
栞のお父さんの体から、力と熱が抜けていく。
僕を掴んでいた左手が、力無く垂れ下がった。
「なんで、栞がこんなことになったんだ……。なんで、どうして……」
お母さんがお父さんの肩を抱いて、僕の方を見た。
「直人くん、ありがとう。栞と、真剣に向き合ってくれて。あの子のあんな笑顔、私たちも見たことがなかった。嘘、つかなくていいから。栞が、頼んだんでしょ?」
僕は何も言えなかった。
気を抜くと身勝手な涙があふれてきそうだったから。
その場にくずおれてしまいそうだったから。
栞のお母さんは僕の顔をじっと見て、そして微笑んだ。
「うん、わかった。やっぱりそうなのね。改めて、本当にありがとう」
栞のお母さんは僕に近寄り、僕の右肩にそっと手を置いた。
伝わる温もりが、心に沈澱していた黒い何かを、ゆっくり溶かしてくれた。
そしてその後、栞からの連絡が途絶えた。
病院に行っても面会拒否だった。栞のお母さんに聞いても、彼女の意志ということだけで、深くは教えてくれなかった。
なんとなく、もう会えないという気はしていた。彼女の命の全てを見た、あの日に。
でも、なんで。どうしてなんだ。
最後まで側にいたい。君の痛みに、最後まで寄り添わせてほしい。もう一度だけ、顔を見せてほしい。
君の死を美しいと思ってしまう、最低な僕だ。
でも、それくらいのことをさせて欲しい。
身勝手と、罵られても構わないから。
まだ、小説も完成していない。
あともう少しなんだ。君に、読んで欲しい。
なんでもっと、栞との時間を大事にしなかったんだ。
もっと、もっと……。
日常が尊いものだって、なんで、もっと早く気づけなかった。
なんでもっと、ありがとうって言えなかった。
なんでもっと、ごめんねって言えなかった。
なんで、なんで、なんで。
もう一度だけ、君の頷きだけでもいいから。
お願いだから……。
※
最後に、なおくん、の、前で、フルート、を吹いてから、糸が切れた人形のように、私の、体、は、急激に、悪くなって、いった。
「結野さん、体起こしますねー」
そんな、看護師さん、の言葉、にも、うまく、反応、でき、ない。
最後は、家で、すご、した。
ずっと、ママと、パパ、が、手を、握って、いて、くれた。
なお、くん。ママに、たのんだ、もの、きっと、お葬式、の後で、渡され、ると、思う。
それは、感動もの、ではなくて、私の、わが、まま、だよ。
ずっと、忘れ、ないで、ほしい、から。
最、後まで、わが、ままで、ごめん、ね。
ああ、でも、やっぱり、最、後に、一度、だけ、あいたかった、なあ。
私、ばか、だなあ。
大好きだよ、なお、くん。ありが、とう。
※
――栞の訃報を、栞のお母さんから受けた。
彼女の最後の演奏から、二ヶ月後のことだった。
