ことばにおとをー君の死を、僕の最高傑作の燃料にー

※

生きることを諦めかけていた時、なおくんに救ってもらった。 

泣き方を忘れそうになっても、何度も教えもらった。

笑顔を忘れそうになっても、何度も教えてもらった。

幸せを捨てようとしても、何度も拾ってきてくれた。

そんななおくんに、私はフルートを胸に当ててお辞儀をした。

笑え。私。

なおくん、生まれてきてくれてありがとう。
私と一緒にいてくれてありがとう。
私と心を通わせてくれてありがとう。
私に体温を分けてくれてありがとう。
私と笑い合ってくれてありがとう。
私の痛みを一緒に背負ってくれてありがとう。

一緒にいるって言ってくれた君との約束。
果たしてあげられなくて、ごめんね。

たくさん嫌な思いをさせてごめんね。
側にいてあげられなくて、ごめんね。
辛いことをお願いして、ごめんね。
私を、愛してくれて、ありがとう。

精一杯の思いを、なおくんに伝えた。
彼は泣いていた。体の水分が全部無くなっちゃうんじゃないかってくらいに。

「栞、僕は君に出会えて、本当に幸せだ。これまでも、これからも。大好きだ。君のことが」

泣きながら言うんだもん。卑怯だよ。
こっちは笑いたいのに、嬉しくて涙が出そうになる。

でも、泣かない。君がくれた歌詞に、言葉に触れながら作った曲。

君のように、この与えられた非情な運命を、ステージを、美しい目で見る。そう決めた。

嘆いていたって、何も生まれない。環境のせいにしたって、何も変えられない。
いつだって、自分で乗り越える意思をもたなければ、戦う覚悟をもたなければ、何も変えられない。

私はここで、このステージで、吹いて、歌って、命を全うする。

音楽に、命をかける。

私が愛した君を、涙で濡れる君を、私の音で、笑顔にしてみせる。
それが私にできる、最後の恩返しだから。

ここからは内緒。

私ね、なおくん。
この演奏を最後に、たとえ一命を取り留めても、もう君とは会わないって決めてるの。

なんでって? 

だって、見せたくないから。
私の体は、これからどんどん痩せて、心はどんどん荒んでいく。
誰かに優しくできる余裕なんて、無くなっていく。
好きな人に、綺麗じゃない姿なんて、見せたくない。

少し前、風呂場で髪を軽く掻き分けただけなのに不快な感触が手に残った。
排水口周りに横たわる、私の尊厳。
脱毛を抑える工夫は治療中に凝らしていたのに、それでも、嘲笑うかのように落ちていく、私の尊厳。

その場にくずおれて、一人で泣いた。
もう、逃げられないから。命の終わりが、確実に近づいている。

あともう一つ。これは、本当に絶対に言えない。
きっとこの演奏に、私の体は耐えられない。血を吐くかもしれない。
でも、それが狙い。それだけすれば、君は一生、私を忘れないでいてくれる。そうでしょ? 
ごめんね。完璧な悲劇のヒロインを演じたいけど、私には無理。

忘れないで。私のこと。お願い。
ずっと、ずっと、ずっと。

ほら、こんなに重くなる。
だからもう、君には会わない。これ以上、会えない。
だから最後に言わせて。私を、君の心に一生焼き付けて。

「なおくん、大好き」

歌口に唇を添える。
それが、私のステージが始まるサイン。
訪れる静寂が、私を祝福してくれている。

フルートが夕日を照り返し、鮮やかに煌めく。
太陽が顔を隠そうとするなら、私が輝いてやる。
お願い。今、この時間だけでいいから。お願い、私の体。震えないで。
歌え! 私の命! 燃えろ! 私の……命!

息を吸う。音が紡がれる。
高く、清く、澄み渡る涼やかな音色。
震える音の余韻が、風を撫でる。
緩やかに揺れる体。抑揚が音を彩る。
風に音が乗り、辺りに届けていく。
なおくんがくれた歌詞が、瞳の裏で浮かび上がる。
胸の内が温まり、言葉が色づいていく。
色づいた言葉が光を帯びて、音になって光の雨を降らす。
言葉が、想いが、音になって周りの世界に命を与えていく。
草花の揺れる音、風の音、全ての音が、交響を生んでいく。
なおくん。聞いてる? 
君のくれた言葉が、私の音になって、世界に光を差した。

ああ。音が心地いい。
湧き上がる音が命と一体になって、血になり、心に染み渡っていく。
もう迷いなんてない。私の音の全てを、君に届けたい。
君のために捧げたい。
いい音を出したい。その長年の願いが今、ついに叶った。
私やっぱり、フルートが好き。音楽が好き。
もう少し、もう少しだけ。

視界が揺れる。キーを押す指が震え始める。
体の中に走る血管が、ぶちぶちと音をたてながら、私自身の音によって、次々に叩き潰されていく。
行き場を失った血が、轟音を放ちながら、私の喉を目掛けて逃げ惑う。
力が体から逃げようとする。逃がさない。お願い。もう少しだから!
喉に何かが込み上げてくる。喉に力を込めた。くるな。まだ、くるな!
お願い! もう少し、もう少しだから!
歌え、歌え、歌え!

響け! 私の命!



※

「何をしている!」

面会時間を過ぎても、栞が病室にいなかったからだろう。
慌てた看護師と、担当医が中庭まで駆けてきた。目の前の光景に、言葉を失う。
すぐに栞を止めようと足を踏み出す。僕の手が、それを遮る。

「お願いします。栞の、最後の願いなんです。お願いします。見ててあげてください。目を、逸らさないで」

しばらく僕の顔を凝視した後、寂しげな表情を浮かべて、担当医が栞に向き直った。
程なくして、恐らく担当医に連絡を受けたであろう栞の両親も、青ざめた表情で中庭に来た。
けれど、お母さんはすぐに涙を浮かべ、止めようとするお父さんを制した。

みんなが、彼女の命を、真正面から見つめていた。


※

最後の音が静寂をゆっくりと切り裂いて、空気を透明にしていく。

なおくん、君の言葉はこんなに美しいんだよ。
こんなに素敵なんだよ。伝わった、かな?

吐き気と共に咳が出る。苦しい。
口に広がる鉄の味。
フルートから滴る赤い雫。
汚れていく病院着。
なおくんの方を見る。
いつの間にか人だかりができていた。
ママとパパの顔。
でも、私が見たいのは、君の笑顔。
なおくんが駆け寄り、私の体を支えた。
私の血液が君に移っていく。染み込んでいく。
ゆっくり、染み込んでいく。
思わず私は、さらに口角を上げた。

……よかった。なおくんも、笑顔……だ……。

血に染まるフルートが、私の手から静かに落ちていった。