※
「栞!」
病室に入ると、栞は朗らかな顔で窓外を見つめていた。
いつもより、彼女の体が小さく見える。
付き合って間もない頃、両親に栞のこと、彼女の病気のことを伝えた。
父さんはいつも通り「そうか」くらいしか言わなかったけど、「直人、覚悟はあるのね? 人の命は、重いわよ」という母さんの言葉が、時折頭の中で響き渡る。
わかってるつもりだった。覚悟を決めていたはずだった。
それでも、栞の病状が急変して、入院した。
その事実が、いやでも心を激しく揺さぶってくる。避けられない。命から、逃げることはできない。
彼女と一緒に何度も願った。何か奇跡が起きて、体が回復しないかって。命が延びないかって。
でもやっぱり、命という重みの前に、その願いは踏み潰された。
「あ、ふにゃふにゃから進化した彼氏様がきました」
いつもの冗談と、微笑む姿。軽口には軽口で返したかった。
でも、無理だった。
点滴の針が刺さった跡が目立ち、以前よりも確実にやつれた君の腕。
床頭台のテレビの下に置かれた、種々の薬。
どれだけ辛い思いをしているのか、どんなに鈍感だってわかるよ。
君の痩せた体が背負うには、あまりにも大きすぎる苦痛を。
僕は君みたいに強くないから、どうしても笑えない。笑えないよ。
「栞……」
そう言って、栞の手を握ることしかできなかった。
情けない自分を、許してくれ。彼女の左手が、僕の両手の上に温もりを与えてくれた。
「ありがとう、なおくん。いつも悲しんでくれて」
「なんだよ、それ。当たり前じゃんか……」
神様、なんでだよ。どうして栞なんだ。何か彼女が、悪いことをしたのか?
何もしてない。ただ純粋に生きて、純粋にフルートを楽しんでいただけだ。こんなの、あんまりじゃないか!
ただフルートを吹いていたい彼女の願いも、ただ彼女の側にいたい僕の願いも、そんな小さい願いも叶えてくれないのか。
なんで、どうして……。
「当たり前じゃない。人の痛みも、自分ごとのように考えてしまうなおくんだからだよ。……ねえ、なおくん」
「……」
顎に力がこもる。何もできない自分を、殴ってやりたい。
「またかって思うかもだけど、私のお願い、聞いてくれる?」
栞の顔が、夕映えに赤く染まる。
「お願い……?」
「うん。なおくんにしか、頼めない」
病院の一階。
小児科の待合ロビーの近くに、洋風の中庭がある。
入り口に向かう際に必ずここを通るから、前に栞がこの病院に運ばれた時にも見ていた。
その時は暗くて全貌はわからなかったけれど、冬に咲く花が花壇に所狭しと咲いていて、中央にはソヨゴの木がサークルベンチに囲まれていた。
雰囲気はひばり公園に似ていた。中庭は、ちょうど誰もいない。
栞は肩に掛けていたフルートケースをサークルベンチに置き、フルートを優しく取り出した。
僕は間違ったことをしているのかもしれない。
止めるべきだったのかもしれない。
彼女の最後の願い。
――最後に、フルートを吹きたい。
栞の体ではきっと、もう耐えられない。
幸せが、命を削る重みになったんだ。
それをわかった上で、全てを話した上で、栞は僕に頼んだ。
残りの人生を投げ捨てることになっても、減らすことになっても、それでも選んだ。
自分にとっての命を、燃やすことを。
覚悟に満ちた栞から目を逸らすことなんて、到底できなかった。
感じたくない。でも、崩れるゆく命を燃やすその美しさから、目を逸らすなんて、到底できなかった。
「なおくん。私が最後に、君に、音をあげる」
恐怖を感じるほどの決意を滲ませて、栞は微笑む。
ノートに書かれた手書きの楽譜を、彼女はベンチに置いた。
「栞!」
病室に入ると、栞は朗らかな顔で窓外を見つめていた。
いつもより、彼女の体が小さく見える。
付き合って間もない頃、両親に栞のこと、彼女の病気のことを伝えた。
父さんはいつも通り「そうか」くらいしか言わなかったけど、「直人、覚悟はあるのね? 人の命は、重いわよ」という母さんの言葉が、時折頭の中で響き渡る。
わかってるつもりだった。覚悟を決めていたはずだった。
それでも、栞の病状が急変して、入院した。
その事実が、いやでも心を激しく揺さぶってくる。避けられない。命から、逃げることはできない。
彼女と一緒に何度も願った。何か奇跡が起きて、体が回復しないかって。命が延びないかって。
でもやっぱり、命という重みの前に、その願いは踏み潰された。
「あ、ふにゃふにゃから進化した彼氏様がきました」
いつもの冗談と、微笑む姿。軽口には軽口で返したかった。
でも、無理だった。
点滴の針が刺さった跡が目立ち、以前よりも確実にやつれた君の腕。
床頭台のテレビの下に置かれた、種々の薬。
どれだけ辛い思いをしているのか、どんなに鈍感だってわかるよ。
君の痩せた体が背負うには、あまりにも大きすぎる苦痛を。
僕は君みたいに強くないから、どうしても笑えない。笑えないよ。
「栞……」
そう言って、栞の手を握ることしかできなかった。
情けない自分を、許してくれ。彼女の左手が、僕の両手の上に温もりを与えてくれた。
「ありがとう、なおくん。いつも悲しんでくれて」
「なんだよ、それ。当たり前じゃんか……」
神様、なんでだよ。どうして栞なんだ。何か彼女が、悪いことをしたのか?
何もしてない。ただ純粋に生きて、純粋にフルートを楽しんでいただけだ。こんなの、あんまりじゃないか!
ただフルートを吹いていたい彼女の願いも、ただ彼女の側にいたい僕の願いも、そんな小さい願いも叶えてくれないのか。
なんで、どうして……。
「当たり前じゃない。人の痛みも、自分ごとのように考えてしまうなおくんだからだよ。……ねえ、なおくん」
「……」
顎に力がこもる。何もできない自分を、殴ってやりたい。
「またかって思うかもだけど、私のお願い、聞いてくれる?」
栞の顔が、夕映えに赤く染まる。
「お願い……?」
「うん。なおくんにしか、頼めない」
病院の一階。
小児科の待合ロビーの近くに、洋風の中庭がある。
入り口に向かう際に必ずここを通るから、前に栞がこの病院に運ばれた時にも見ていた。
その時は暗くて全貌はわからなかったけれど、冬に咲く花が花壇に所狭しと咲いていて、中央にはソヨゴの木がサークルベンチに囲まれていた。
雰囲気はひばり公園に似ていた。中庭は、ちょうど誰もいない。
栞は肩に掛けていたフルートケースをサークルベンチに置き、フルートを優しく取り出した。
僕は間違ったことをしているのかもしれない。
止めるべきだったのかもしれない。
彼女の最後の願い。
――最後に、フルートを吹きたい。
栞の体ではきっと、もう耐えられない。
幸せが、命を削る重みになったんだ。
それをわかった上で、全てを話した上で、栞は僕に頼んだ。
残りの人生を投げ捨てることになっても、減らすことになっても、それでも選んだ。
自分にとっての命を、燃やすことを。
覚悟に満ちた栞から目を逸らすことなんて、到底できなかった。
感じたくない。でも、崩れるゆく命を燃やすその美しさから、目を逸らすなんて、到底できなかった。
「なおくん。私が最後に、君に、音をあげる」
恐怖を感じるほどの決意を滲ませて、栞は微笑む。
ノートに書かれた手書きの楽譜を、彼女はベンチに置いた。
