二人で会う時までに、僕が数行でもいいから文章を書いて、それを栞に見せる。
彼女はそれを見て即興で作曲してフルートを吹いてみたり、僕の文章に合うクラシック音楽を吹いてみたり。
僕はその演奏を聴いてまた何かを得て、それを文章に落とし込む。
言葉と音を与え合う。
あーでもない。こーでもないと言いながら。
自分たちの音と言葉を、より良いものにしようと学び合った。
「音楽ってさ、聞いた後に世界に少し艶が残る気がするんだよね。映画を見た後、何が現実で何が虚構かよくわからなくなる感じに似てると思ってて。だから、”音が煌めく雫に変わって、草花に潤いを残した”みたいな文章はどうかな?」
「素敵すぎる! さすがだね、なおくん。音が煌めく雫に変わるかあ。例えば、こんな感じの涼しげな音の余韻はどうかな?」
栞は文章から音を想像して、僕の言葉に音を、命を吹き込んでいく。
音が軽快に跳ねて、震えて、伸びて、音符が周りでスキップをしているような、軽やかな音色の川を空気に描いていく。
もちろん、栞の体に負担をかけすぎないように、休み休みで。
僕もそれに合わせて、彼女に見せる言葉は区切りを短めに、そして明瞭にするよう心がけた。
日々の会話の中で、栞が大学の人たちと意図的に距離を取っていたことを知った。
その話を聞いて、小村美咲の姿が頭に浮かぶ。そして忘れていた伝言のことも。
来年の三月。卒業生のための送辞の意味を込めて、一年生で構成された学生オーケストラが演奏会を行うことが器楽科の伝統らしい。実力的にも、当然栞はしきりに誘いを受けていたけれど、その度に断っていた。今ではその理由も、大学の人と距離を取っていたことも理解できる。
それに、きっと、三月はもう……。
けれど、小村さんの心配そうな表情と、彼ら彼女らの人の良さそうな表情を思い出すと、このまま距離を取った状態でいいとは思えなかった。お節介と分かっていても、直接触れてしまったから。彼女を想う人の気持ちを。
小村さんたちに病気について話すことを提案した時、栞は難色を示すと思ったけれど、少しの逡巡だけですぐに頷いた。「私もその方がいいと思ってたけど、勇気が出なかったら、そう言ってくれて助かった」と。
栞の頼みで国際芸術大学の校門まで一緒に行った。彼女の背中を見送る。
前に来た時と同じ守衛さんと目が合って、僕は隠れるように校門側に鎮座する大木の横へと移動した。
冬ざれのもの寂しい世界の中で、葉を落とさずに凛と命を燃やしている大木。
幹はそこまで太くなく、葉は細長い。葉先は鋭利に尖っている。シラカシの木だろうか。
もう少し早く来ていたらどんぐりが見れたかもしれない。
来年も再来年も、この木はきっとここにあって、緑色の日常を未来に伸ばしていくのだろう。
栞の残された短い命を想うと、美しい大木が皮肉に見えて、思わず幹を蹴りそうになった。
どんなに願っても、恨んでも、悲しんでも、時の流れは待ってくれない。
寄り添って、共に椅子に座ってはくれない。
いつか、誰もが死を迎える。
そんなことはわかっていても、彼女に残された時間はあまりにも短い。
僕の寿命を分けられたらどんなに良いだろう。均等に分けて、一緒に上へ行けたら、どんなに幸せだろう。
ただ一緒に歩きたい。そんな願いも叶えてもらえない。
だめだ。他責思考がどうしても先立つ。
僕のせいで懸命に生きる栞の笑顔に、影が落ちてしまう。しっかりしないと。
終わるまで待っているとは言ったものの、よく考えれば話の内容的にすぐには戻ってこないだろうと思い始めていたところで、栞が校門から出てきた。一度辺りを見渡し、僕に気づく。時間にしたら三十分ほどしか経っていなかった。
「ごめんね、待たせて」
「ううん。ゆっくり話せた? 思ったより早かった気がするけど」
「うん。とってもよく話せた。話せて、本当によかった」
栞の目尻がほんのり赤い。泣いた後だろう。
でも、晴れやかで澄み切った表情をしている。ちゃんと話せたのは、嘘じゃないみたいだ。
「もう大変だった。美咲なんてわんわん泣いてさあ。みんなも、今まで気づけなくてごめんって。私が黙って勝手な行動を取ってただけだから、何も謝る必要ないのに」
小村さんが泣く姿は、すぐに想像できる。
「正式に、三月の演奏会は断った」
栞は大木を見上げている。表情は見なくてもわかる。きっと、ただただ悔しいんだ。
「そっか……」
「こら、なおくんがそんなに悔しそうな顔しないの。その代わり、ギリギリまで大学の授業ではフルートを続けるつもりだし、それに、なおくんの前で演奏できてるのが、何より幸せだから」
僕が言葉を渡して、栞がそれを見て感情を音にのせて歌う。今の僕にはそれしか彼女にしてあげられることがない。
情けないけど、でも、考えて、彼女にぶつかって導き出した答えだから、やり切る。
「そうだね。うん。うじうじしててもしょうがない」
「そうそう! 本当にふにゃふにゃから卒業したね、なおくん」
「だから、そのふにゃふにゃって言い方なんとかならない? 彼氏を傷つけて楽しい?」
あははっと栞は笑った。最近、笑顔も増えてきた。「うん! めっちゃ楽しいー!」という発言は受け入れ難いが。
けれど、僕たちの願いや決意を現実が踏み躙る。
それから一ヶ月も経たず、新年を迎えた後、栞の病状が急激に悪化した。
突然決まった入院は、彼女からの電話で伝えられた。
気丈な声色をしていたけれど、声は、震えていた。
※
病院での診断を終えて、両親と一緒に帰ろうと一階ロビーを歩いていた時だった。
尋常じゃない痛みが体中に走って、とても耐えられなくて私はその場に倒れた。
両親が必死に私の名前を叫んでいるのは聞こえていた。
でも、何も反応できなかった。
私を置いて遠くにいこうとしている意識を、この世に繋ぎ止めることに必死だった。
「すぐに運んで!」
駆けつけた担当の先生の声。ざわつく人の声。両親の声。
どんどんその音が朧げになって、輪郭も消えていく。
ストレッチャーに乗せられて、動き出した瞬間だった。体が急激に重くなっていく。
何かが私を引きずり込もうとしている。何も見えない、闇の底に。
いやだ。いや。いや! 怖い。助けて。ママ、パパ、お願い。
なおくん、私、もっと、生きたい……。
先生たちの懸命の処置で何とか事なきを得たけれど、迫り来る死の現実を、直に感じてしまった。
もう、私、本当に死ぬんだって。
「栞、入るわよ」
数回ドアがノックされた後、ママが入ってきた。両手には多くの荷物を持っている。
「ママ、ごめんね、色々とさせちゃって」
「何言ってんの。子供が親の心配なんて、するもんじゃありません」
私が病気になってから、ママがフルートの仕事をほとんど断っているのは知っている。
私の悪くなる一方の体調を側で見ていて、何度もパパの前で泣いていたのを知っている。
私のせいで、二人の人生を奪っていることが申し訳なかった。
「はい、フルート」
ママは肩に掛けていたフルートケースを、静かにベッドに置いた。思わず口角が上がる。
「栞、わかってると思うけど、その、だめよ」
「うん、わかってる」
先生から、体に負荷のかかる行為は一切控えるように言われている。フルートを吹くことはもってのほかだと。
それでもいい。ただ、側に置いておきたかった。
なおくんにもらったいっぱいの言葉が、フルートを見ていると音符みたいに浮き上がってくる。
今もそう。本当は、すぐにでも吹きたいけど。
「直人くんには、ちゃんと言ったの?」
「うん。昨日の夜に連絡した。今日の夕方の面会時間に、来てくれる」
「そう、じゃあ夕方は来ないでおくね。パパにもそう言っておく」
両親には、なおくんとの関係は話している。二人ともかなり驚いていたし、パパはあまりいい顔はしていなかった。
でもママはすぐに何かを理解したのか、「栞、よかったわね。ママ、嬉しい」と言ってくれた。
「パパは相変わらず?」
「うん。栞に何か思ってるわけじゃないわよ? 直人くんに少し……ね。あの子はちゃんと覚悟があって、栞と付き合っているのかとか、ぶつぶつ言ってる。ごめんね、栞」
パパの気持ちはわかる。私はもうすぐ死ぬ。
宮野のことも知っているから、そんな私にいたずらに近づいて傷つけるんじゃないかって、きっと思っているんだと思う。
ずっと仕事ばかりで、病気になるまで私のことなんて見てくれなかったのに。
周りの目ばかりを気にして、「ちゃんとするように」って、いつも私を押さえつけてきたくせに。
そんな負の感情を抱いてしまうこともあるけれど、私に何かあると必死に病院まで送り迎えをしてくれたり、検査の結果がよかった時は泣きそうな顔で「よかったなあ」と言ってくれたことを、絶対に忘れない。
「ううん。ママもパパも、何も悪くないし、気にしてないから」
私は、側に置いているノートをめくる。なおくんにもらった歌詞を見つめて、ふっと笑った。
本当に、彼の言う通りだ。
大切なものは失ってから気づくなんて、意地悪な心のルールだよね。
それが命の終わりなら、気づいても何も返せないから。
あと少しの命、私に何ができるだろう。何を、したいんだろう。
ううん。もう、決めている。なおくんが気づかせてくれたから。
私にとっての、命を。
彼女はそれを見て即興で作曲してフルートを吹いてみたり、僕の文章に合うクラシック音楽を吹いてみたり。
僕はその演奏を聴いてまた何かを得て、それを文章に落とし込む。
言葉と音を与え合う。
あーでもない。こーでもないと言いながら。
自分たちの音と言葉を、より良いものにしようと学び合った。
「音楽ってさ、聞いた後に世界に少し艶が残る気がするんだよね。映画を見た後、何が現実で何が虚構かよくわからなくなる感じに似てると思ってて。だから、”音が煌めく雫に変わって、草花に潤いを残した”みたいな文章はどうかな?」
「素敵すぎる! さすがだね、なおくん。音が煌めく雫に変わるかあ。例えば、こんな感じの涼しげな音の余韻はどうかな?」
栞は文章から音を想像して、僕の言葉に音を、命を吹き込んでいく。
音が軽快に跳ねて、震えて、伸びて、音符が周りでスキップをしているような、軽やかな音色の川を空気に描いていく。
もちろん、栞の体に負担をかけすぎないように、休み休みで。
僕もそれに合わせて、彼女に見せる言葉は区切りを短めに、そして明瞭にするよう心がけた。
日々の会話の中で、栞が大学の人たちと意図的に距離を取っていたことを知った。
その話を聞いて、小村美咲の姿が頭に浮かぶ。そして忘れていた伝言のことも。
来年の三月。卒業生のための送辞の意味を込めて、一年生で構成された学生オーケストラが演奏会を行うことが器楽科の伝統らしい。実力的にも、当然栞はしきりに誘いを受けていたけれど、その度に断っていた。今ではその理由も、大学の人と距離を取っていたことも理解できる。
それに、きっと、三月はもう……。
けれど、小村さんの心配そうな表情と、彼ら彼女らの人の良さそうな表情を思い出すと、このまま距離を取った状態でいいとは思えなかった。お節介と分かっていても、直接触れてしまったから。彼女を想う人の気持ちを。
小村さんたちに病気について話すことを提案した時、栞は難色を示すと思ったけれど、少しの逡巡だけですぐに頷いた。「私もその方がいいと思ってたけど、勇気が出なかったら、そう言ってくれて助かった」と。
栞の頼みで国際芸術大学の校門まで一緒に行った。彼女の背中を見送る。
前に来た時と同じ守衛さんと目が合って、僕は隠れるように校門側に鎮座する大木の横へと移動した。
冬ざれのもの寂しい世界の中で、葉を落とさずに凛と命を燃やしている大木。
幹はそこまで太くなく、葉は細長い。葉先は鋭利に尖っている。シラカシの木だろうか。
もう少し早く来ていたらどんぐりが見れたかもしれない。
来年も再来年も、この木はきっとここにあって、緑色の日常を未来に伸ばしていくのだろう。
栞の残された短い命を想うと、美しい大木が皮肉に見えて、思わず幹を蹴りそうになった。
どんなに願っても、恨んでも、悲しんでも、時の流れは待ってくれない。
寄り添って、共に椅子に座ってはくれない。
いつか、誰もが死を迎える。
そんなことはわかっていても、彼女に残された時間はあまりにも短い。
僕の寿命を分けられたらどんなに良いだろう。均等に分けて、一緒に上へ行けたら、どんなに幸せだろう。
ただ一緒に歩きたい。そんな願いも叶えてもらえない。
だめだ。他責思考がどうしても先立つ。
僕のせいで懸命に生きる栞の笑顔に、影が落ちてしまう。しっかりしないと。
終わるまで待っているとは言ったものの、よく考えれば話の内容的にすぐには戻ってこないだろうと思い始めていたところで、栞が校門から出てきた。一度辺りを見渡し、僕に気づく。時間にしたら三十分ほどしか経っていなかった。
「ごめんね、待たせて」
「ううん。ゆっくり話せた? 思ったより早かった気がするけど」
「うん。とってもよく話せた。話せて、本当によかった」
栞の目尻がほんのり赤い。泣いた後だろう。
でも、晴れやかで澄み切った表情をしている。ちゃんと話せたのは、嘘じゃないみたいだ。
「もう大変だった。美咲なんてわんわん泣いてさあ。みんなも、今まで気づけなくてごめんって。私が黙って勝手な行動を取ってただけだから、何も謝る必要ないのに」
小村さんが泣く姿は、すぐに想像できる。
「正式に、三月の演奏会は断った」
栞は大木を見上げている。表情は見なくてもわかる。きっと、ただただ悔しいんだ。
「そっか……」
「こら、なおくんがそんなに悔しそうな顔しないの。その代わり、ギリギリまで大学の授業ではフルートを続けるつもりだし、それに、なおくんの前で演奏できてるのが、何より幸せだから」
僕が言葉を渡して、栞がそれを見て感情を音にのせて歌う。今の僕にはそれしか彼女にしてあげられることがない。
情けないけど、でも、考えて、彼女にぶつかって導き出した答えだから、やり切る。
「そうだね。うん。うじうじしててもしょうがない」
「そうそう! 本当にふにゃふにゃから卒業したね、なおくん」
「だから、そのふにゃふにゃって言い方なんとかならない? 彼氏を傷つけて楽しい?」
あははっと栞は笑った。最近、笑顔も増えてきた。「うん! めっちゃ楽しいー!」という発言は受け入れ難いが。
けれど、僕たちの願いや決意を現実が踏み躙る。
それから一ヶ月も経たず、新年を迎えた後、栞の病状が急激に悪化した。
突然決まった入院は、彼女からの電話で伝えられた。
気丈な声色をしていたけれど、声は、震えていた。
※
病院での診断を終えて、両親と一緒に帰ろうと一階ロビーを歩いていた時だった。
尋常じゃない痛みが体中に走って、とても耐えられなくて私はその場に倒れた。
両親が必死に私の名前を叫んでいるのは聞こえていた。
でも、何も反応できなかった。
私を置いて遠くにいこうとしている意識を、この世に繋ぎ止めることに必死だった。
「すぐに運んで!」
駆けつけた担当の先生の声。ざわつく人の声。両親の声。
どんどんその音が朧げになって、輪郭も消えていく。
ストレッチャーに乗せられて、動き出した瞬間だった。体が急激に重くなっていく。
何かが私を引きずり込もうとしている。何も見えない、闇の底に。
いやだ。いや。いや! 怖い。助けて。ママ、パパ、お願い。
なおくん、私、もっと、生きたい……。
先生たちの懸命の処置で何とか事なきを得たけれど、迫り来る死の現実を、直に感じてしまった。
もう、私、本当に死ぬんだって。
「栞、入るわよ」
数回ドアがノックされた後、ママが入ってきた。両手には多くの荷物を持っている。
「ママ、ごめんね、色々とさせちゃって」
「何言ってんの。子供が親の心配なんて、するもんじゃありません」
私が病気になってから、ママがフルートの仕事をほとんど断っているのは知っている。
私の悪くなる一方の体調を側で見ていて、何度もパパの前で泣いていたのを知っている。
私のせいで、二人の人生を奪っていることが申し訳なかった。
「はい、フルート」
ママは肩に掛けていたフルートケースを、静かにベッドに置いた。思わず口角が上がる。
「栞、わかってると思うけど、その、だめよ」
「うん、わかってる」
先生から、体に負荷のかかる行為は一切控えるように言われている。フルートを吹くことはもってのほかだと。
それでもいい。ただ、側に置いておきたかった。
なおくんにもらったいっぱいの言葉が、フルートを見ていると音符みたいに浮き上がってくる。
今もそう。本当は、すぐにでも吹きたいけど。
「直人くんには、ちゃんと言ったの?」
「うん。昨日の夜に連絡した。今日の夕方の面会時間に、来てくれる」
「そう、じゃあ夕方は来ないでおくね。パパにもそう言っておく」
両親には、なおくんとの関係は話している。二人ともかなり驚いていたし、パパはあまりいい顔はしていなかった。
でもママはすぐに何かを理解したのか、「栞、よかったわね。ママ、嬉しい」と言ってくれた。
「パパは相変わらず?」
「うん。栞に何か思ってるわけじゃないわよ? 直人くんに少し……ね。あの子はちゃんと覚悟があって、栞と付き合っているのかとか、ぶつぶつ言ってる。ごめんね、栞」
パパの気持ちはわかる。私はもうすぐ死ぬ。
宮野のことも知っているから、そんな私にいたずらに近づいて傷つけるんじゃないかって、きっと思っているんだと思う。
ずっと仕事ばかりで、病気になるまで私のことなんて見てくれなかったのに。
周りの目ばかりを気にして、「ちゃんとするように」って、いつも私を押さえつけてきたくせに。
そんな負の感情を抱いてしまうこともあるけれど、私に何かあると必死に病院まで送り迎えをしてくれたり、検査の結果がよかった時は泣きそうな顔で「よかったなあ」と言ってくれたことを、絶対に忘れない。
「ううん。ママもパパも、何も悪くないし、気にしてないから」
私は、側に置いているノートをめくる。なおくんにもらった歌詞を見つめて、ふっと笑った。
本当に、彼の言う通りだ。
大切なものは失ってから気づくなんて、意地悪な心のルールだよね。
それが命の終わりなら、気づいても何も返せないから。
あと少しの命、私に何ができるだろう。何を、したいんだろう。
ううん。もう、決めている。なおくんが気づかせてくれたから。
私にとっての、命を。
