あの日から僕はバイトのシフトを減らしてもらい、大学の後はなるべく栞と図書館前で待ち合わせをして、彼女との時間を作った。
図書館で本を読んで、時々中川さんと三人でおしゃべりをした。
時間が余れば裏の広場に行って宵の口までずっと。
大学であった出来事とか、歩いてる最中に見つけた花の話とか、日常に転がる宝石のことを、たくさん話した。
季節は冬隣。末枯れた冬木立は、日の下でも夜の下でも言葉を発することなく静かに佇んでいる。
化粧を落とした草木とは対照的に、街を歩く人は色とりどりの厚手の衣服で身を固める。
指先を擦りながら、僕と栞はひばり公園の広場で、ベンチに座りながら花壇に植えられたピンク色のビオラの花を眺めていた。
「そういえばさ、最近、フルートは何で持ってこないの?」
ここ最近、いやずっと、フルートを肩に掛けた栞の姿を見ていない。
話題にすら上がってこない。彼女にとって何よりも大事なものだと思っていたから、不思議だった。
「もう、満足に吹けないからね」
「え?」
栞はビオラから視線を外さない。口角を少し上げて、ただ花を見ている。
「フルートは、意外と体力がいる楽器なんだよね。しっかり吹こうとすると、息苦しくなっちゃうし、最近薬のせいであまり運動もできてないから、体力的にもきつくって。大学の授業以外では、もう吹いてない」
表面上は日常が問題なく時を進めても、栞の体は少しずつ、確実に悪くなっている。
直視しないといけない現実が、空気を張り詰めたものに変えた。
二人で話していると忘れることができていた寒さが、体に戻ってくる。
「それに……。フルートは、ママがやってたから、ママとパパが褒めてくれるからやってただけ。だから、もう、いいの」
「それは、違うと思う」
遮るように出た僕の言葉に、栞は驚いてこちらを見た。目は見開かれて、次の言葉を待っているようだった。
僕自身が一番驚いた。ほとんど反射的だったから。
でも、もう一度しっかり考えても、違うと言える。それは確信だ。
「いや、だって、フルートを吹いてる時、心から楽しいって、栞の表情に出てる気がするよ。それに、そうじゃなきゃ、本当に好きで本気で向き合ってなきゃ、あんなに素敵な音、出せないと思う」
栞はなおも目を見開いて、僕を見続ける。
「ごめん、なんかうまく言えない。病気で辛いのに、無粋だったかも」
「ううん、ありがとう。本当は、どんどん吹けなくなるのが怖くて、最近フルートを見ることも避けてる。情けないでしょ?」
僕から目を逸らして、栞は気まずそうに苦笑する。
どれだけ悔しいだろう。
あれだけ大好きだったものを奪われるのは。
周りの空気すら踊らせるような陽気で美しい音を奏でていたのに、どんどん音が出し辛くなっていくのは。
自分の音楽の果てを、人の笑顔を見られなくなるのは。
人生の一部だったフルートを取り上げられた悔しさと恐怖は、どれだけ栞の心を締め付けているのだろう。
「わかった。僕が、栞に言葉をあげる」
「え?」
逃げて、何もしてこなかった自分にできることは、物語を書くことしかない。
拙くても、言葉を搾り出して、今度は僕が栞を助けたい。
たとえそれが、僕の中にある本性を曝け出すことになっても。
「覚えてる? 小学生の時に、栞が初めてフルートを吹いてくれた時に言った言葉」
僕はその言葉に、確かに救われたんだ。君は日常に音を、煌めきをくれたんだ。
栞は僕を見つめながら、口をゆっくり動かす。
「君の言葉に、音をあげる」
「覚えてくれてたんだ。そう、だから今度は、僕が君の音に言葉をあげる」
息を強く吸う。いじめも、宮野こともあったけれど、環境のせいにして立ち止まっていたのは僕自身だ。
自分の心に眠る異常性を言い訳にして、逃げてきたんだ。
君に出会って、人とぶつかって、少しずつ自分の弱さと、誤りと、強さと、心と正面から向き合えるようになってきた。
そう信じて、突き進む。
「小説をまた書くよ。前に見せた歌詞をベースに、命の、栞の人生の美しさを物語にする」
栞は、微笑みながら泣いた。
「なんか最近ダメだなあ、涙もろくって。なおくんのせいだな、うん。急に男の子っぽくなるんだもん。あんなにふにゃふにゃしてたのに」
「ふにゃふにゃって……。もっと言い方あるでしょ」
あははっと栞は笑う。久しぶりに見た。昔と同じ、無邪気な笑顔を。
ちなみに、彼女の僕への呼び方が”りんくん”から、”なおくん”に変わった。「彼氏を苗字のあだ名で呼ぶなんて、なんか変でしょ?」と言われて渋々首を縦に振ったけれど、長年の”りんくん”呼びに慣れきっていて、まだ”なおくん”と呼ばれるとむず痒い気持ちになる。
「よし。私も最後まで、ギリギリまで、フルートを吹いてみる。なおくんには負けないから」
触れ合う視線。触れ合うまつ毛。触れ合う鼻。
甘い時間の隙間。触れ合う口。
無音の空間に体温が温もりを加えて、僕たちを包み込んだ。
図書館で本を読んで、時々中川さんと三人でおしゃべりをした。
時間が余れば裏の広場に行って宵の口までずっと。
大学であった出来事とか、歩いてる最中に見つけた花の話とか、日常に転がる宝石のことを、たくさん話した。
季節は冬隣。末枯れた冬木立は、日の下でも夜の下でも言葉を発することなく静かに佇んでいる。
化粧を落とした草木とは対照的に、街を歩く人は色とりどりの厚手の衣服で身を固める。
指先を擦りながら、僕と栞はひばり公園の広場で、ベンチに座りながら花壇に植えられたピンク色のビオラの花を眺めていた。
「そういえばさ、最近、フルートは何で持ってこないの?」
ここ最近、いやずっと、フルートを肩に掛けた栞の姿を見ていない。
話題にすら上がってこない。彼女にとって何よりも大事なものだと思っていたから、不思議だった。
「もう、満足に吹けないからね」
「え?」
栞はビオラから視線を外さない。口角を少し上げて、ただ花を見ている。
「フルートは、意外と体力がいる楽器なんだよね。しっかり吹こうとすると、息苦しくなっちゃうし、最近薬のせいであまり運動もできてないから、体力的にもきつくって。大学の授業以外では、もう吹いてない」
表面上は日常が問題なく時を進めても、栞の体は少しずつ、確実に悪くなっている。
直視しないといけない現実が、空気を張り詰めたものに変えた。
二人で話していると忘れることができていた寒さが、体に戻ってくる。
「それに……。フルートは、ママがやってたから、ママとパパが褒めてくれるからやってただけ。だから、もう、いいの」
「それは、違うと思う」
遮るように出た僕の言葉に、栞は驚いてこちらを見た。目は見開かれて、次の言葉を待っているようだった。
僕自身が一番驚いた。ほとんど反射的だったから。
でも、もう一度しっかり考えても、違うと言える。それは確信だ。
「いや、だって、フルートを吹いてる時、心から楽しいって、栞の表情に出てる気がするよ。それに、そうじゃなきゃ、本当に好きで本気で向き合ってなきゃ、あんなに素敵な音、出せないと思う」
栞はなおも目を見開いて、僕を見続ける。
「ごめん、なんかうまく言えない。病気で辛いのに、無粋だったかも」
「ううん、ありがとう。本当は、どんどん吹けなくなるのが怖くて、最近フルートを見ることも避けてる。情けないでしょ?」
僕から目を逸らして、栞は気まずそうに苦笑する。
どれだけ悔しいだろう。
あれだけ大好きだったものを奪われるのは。
周りの空気すら踊らせるような陽気で美しい音を奏でていたのに、どんどん音が出し辛くなっていくのは。
自分の音楽の果てを、人の笑顔を見られなくなるのは。
人生の一部だったフルートを取り上げられた悔しさと恐怖は、どれだけ栞の心を締め付けているのだろう。
「わかった。僕が、栞に言葉をあげる」
「え?」
逃げて、何もしてこなかった自分にできることは、物語を書くことしかない。
拙くても、言葉を搾り出して、今度は僕が栞を助けたい。
たとえそれが、僕の中にある本性を曝け出すことになっても。
「覚えてる? 小学生の時に、栞が初めてフルートを吹いてくれた時に言った言葉」
僕はその言葉に、確かに救われたんだ。君は日常に音を、煌めきをくれたんだ。
栞は僕を見つめながら、口をゆっくり動かす。
「君の言葉に、音をあげる」
「覚えてくれてたんだ。そう、だから今度は、僕が君の音に言葉をあげる」
息を強く吸う。いじめも、宮野こともあったけれど、環境のせいにして立ち止まっていたのは僕自身だ。
自分の心に眠る異常性を言い訳にして、逃げてきたんだ。
君に出会って、人とぶつかって、少しずつ自分の弱さと、誤りと、強さと、心と正面から向き合えるようになってきた。
そう信じて、突き進む。
「小説をまた書くよ。前に見せた歌詞をベースに、命の、栞の人生の美しさを物語にする」
栞は、微笑みながら泣いた。
「なんか最近ダメだなあ、涙もろくって。なおくんのせいだな、うん。急に男の子っぽくなるんだもん。あんなにふにゃふにゃしてたのに」
「ふにゃふにゃって……。もっと言い方あるでしょ」
あははっと栞は笑う。久しぶりに見た。昔と同じ、無邪気な笑顔を。
ちなみに、彼女の僕への呼び方が”りんくん”から、”なおくん”に変わった。「彼氏を苗字のあだ名で呼ぶなんて、なんか変でしょ?」と言われて渋々首を縦に振ったけれど、長年の”りんくん”呼びに慣れきっていて、まだ”なおくん”と呼ばれるとむず痒い気持ちになる。
「よし。私も最後まで、ギリギリまで、フルートを吹いてみる。なおくんには負けないから」
触れ合う視線。触れ合うまつ毛。触れ合う鼻。
甘い時間の隙間。触れ合う口。
無音の空間に体温が温もりを加えて、僕たちを包み込んだ。
