結野さんはそう言うと、慣れた手つきでケースからプラスチック製の子ども用のフルートを取り出した。
歌口に唇を添えて、目を閉じる。少しだけ体が上下に動き、緩やかに音を奏で始めた。
夕日を飾る涼やかな音色。
空気を震わす音の伸び。
時折、目を見開いては閉じる。
音を味わっているような、恍惚とした表情。
聴いたことがないメロディだった。恐らく即興で作ったのだろう。その後の実績を考えても、間違いなく、結野栞は天才だった。
一分程度の短い演奏だったのに、僕の目に映る光景は瞬く間に変わった。日常の何もかもが、今、産声を上げたかのような澄んだ光を放っている。そして僕の拙い言葉たちがまた結野さんの周りに浮かび上がって、互いに向かい合い歌っているかのようだった。彼女の音から、あの時見た血塗られた男の顔とは別の命の生々しさを感じて少し不安もあったけれど、自分にも、この情景が煌めいて見えることが嬉しかった。
最後の音がフルートから自然にこぼれ落ちて、その余韻が優しく空気を切った。
目に映る光は無くなり、日常に艶やかな潤みが残る。
結野さんは目を開けて、僕に微笑みを向けた。
「どうだった?」
「す、すごすぎて、なんて言えばいいのかわからない……。周りの植物とか、家とか、みんなが元気に歌ってて、楽しいって言ってるみたいだった。それに……、結野さん、なんだか、少しだけ悲しそうにも見えたし、嬉しそうにも見えた」
下手な感情表現に苛立つこともなく、結野さんは嬉しそうに頬を赤らめ、また顔一杯に微笑んだ。
「ありがとう! でも、これはりんくんのおかげだよ!」
アニメで名探偵が犯人を当てた時のように、結野さんは思いっ切りに僕を指差した。
何を言っているのかがわからず、呆けた顔をするしかなかった。彼女は嬉しそうに言葉を続ける。
「きみのことばを、音で歌ったの。きみの、りんくんのことばは、とってもすてきなんだよ」
急に言葉のトーンを落として、そよ風に乗せるように結野さんは言った。
僕はこの日の情景を、命尽きるその瞬間まで忘れることは絶対にないんだろうなと、確信していた。
放課後の特別なひと時があっても、結野さんとの距離感に今までとあまり変化はなかった。話しかけられる頻度が少し増えただけ。
目が合えば必ず微笑んで挨拶をしてくれたけれど、すぐに彼女は周りの友達に覆われてしまう。
整った可愛らしい顔立ちと、明るい性格も合わさって男子が周りによくいるイメージだったけれど、それは違った。結野さんは男女関係なく好かれていた。その顔立ちに似合わず、結構勝気な性格のようで、クラスのいじめっ子ポジションにいる男子にも、臆せず物申している姿をよく見かけた。
僕はというと、放課後に遊ぶ友達もいないから、授業が終わればいつも図書館に行って本を読んでいた。
行きつけは都内有数の大きさを誇るひばり公園内にある、三角形の形状に包まれた図書館だ。その近代的な装いから漏れ出る無機質さを中和するように、周りには豊かな木立が均等に佇み、生み出されるコントラストは静謐で温和な雰囲気を作り出している。
両親は共働きで、母親は十八時くらいまでいつも帰ってこなかったから、夜の十時が閉館で、時間も何もかもを気にせずにくつろげるこの図書館をとても気に入っていた。両親は学童保育を考えていたけれど、僕自身の強い希望と、母親の古くからの知り合いで図書館の司書でもある中川さんが僕に目をかけてくれていたこともあって、渋々今の環境を認めてくれた。
そして四年生の秋、この環境に結野栞が加わった。
彼女とは三、四年も同じクラスで、教室内外でたまに挨拶を交わしたり、少しだけ他愛もない会話をするくらいの関係が続いていた。
いつものように首からGPS機能付きの携帯電話をぶら下げ、図書館の前まで行くと結野さんが入り口に立っていた。
木立がざわめく。
色付いた葉が秋風に揺られながら、彼女の横を滑るように舞い落ちる。それが報せとなって、彼女は僕の方を向いた。
「あ! 来た! おそいよ!」
普段より少しトーンの上がった声で、空気を踊らせながら、結野さんは階段を駆け下りて目の前まで駆け寄る。その日はリコーダーや体操着と荷物が多く、一度家に帰ったから、そのせいで少し図書館にくるのが遅くなった。と、説明しようと思ったけれど、そもそも彼女がなぜここにいるのかがわからなくて、困惑から言葉がすぐに出てこなかった。やっと絞り出した言葉は、「結野さん……?」の一言だけ。
それに何だろう。その時はいつもより、彼女の周りを漂う陽気な音符が少なくなっている気がした。
「なんでここにいるの? って言いたいんでしょ。前にりんくん、ここで本を読んでるって言ってたから、来てみちゃった」
確かに言った。去年、朝の登校中に昇降口で会った日、教室までのスロープを一緒に上りながらそんな雑談をした。
「たしかに言ったけど、だからって来る?」
「来てみたくなったの。いいじゃん。それで」
わざとらしいムッとした表情は、僕の頭に落ちてきたイチョウの葉を見てすぐに崩れた。
「ってりんくん、頭に葉っぱついてるよ?」
あははっと、結野さんは笑った。なんとなくだけど、彼女の笑顔を見たのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
受付で結野さんのための利用者カードを作って、その後は僕がよく本を読む二階の図書フロアに案内した。
結野さんは慣れない手つきで音楽に関する本を選び、僕は気になっていた詩集を選んだ。
特に示し合わせることもなく、自然と向かい合わせに座って、僕が帰る時間まで黙って一緒に本を読んだ。
時折目が合うと微笑んだり、時間が経つと飽きたような表情をしたりする彼女の豊かな表情が面白かった。心地よくも無味で、一抹の恐怖すら孕んだ今までの静寂に、噛む度に味が変化するような多彩な空気が流れ込む。
僕の帰り時間になってから、これも示し合わせることなく二人で同時に席を立って、足並みを揃えて階段をゆっくりと下りた。
受付から視線を感じて左を向くと、何か言いたげな表情の中川さんがいたから、会釈をしてそそくさと図書館を出る。ひんやりした風が体をなぞったけれど、不思議と寒くは感じない。図書館を出ると同時に結野さんは、
「ああ! やっと声出せる!」
と言って、大きく伸びをした。陽はほとんど顔を隠していて、公園は薄闇に包まれていた。
「時間、大丈夫? 結構遅くなっちゃって、ごめん」
「うん! 全然大丈夫。うち、ここからかなり近いんだよね。りんくんは?」
「僕も近い。歩いて七、八分」
その後の話から、結野さんの家は僕の家と反対の位置ではあったけれど、近所であることがわかった。
「結野さんの家は、どこの門から出たら近い?」
「西門。何で?」
「なら、そこまで一緒に行く。もう暗いし、一人だと危ないから」
僕の提案に、結野さんは目をまん丸にして視線を外さなかった。
「へー。なんとなくわかっていたけど、りんくんってやっぱり優しいんだね」
優しい? 初めて人から言われた言葉は、僕の胸のうちにすとんと落ちてくれなかった。何も言えないでいると、結野さんは微笑みながら「ありがとう!」と言って歩き始める。
西門までの歩き道。何を話したかはあまり覚えていないなくて、鈴虫の涼やかな音色だけは耳にはっきりと残っている。
あの日以来、様々な音を聞く度に結野さんのフルートの音を思い出してしまう。
「着いたね! ありがとうりんくん」
「ううん。こちらこそありがとう。いつもより、ずっと楽しかった」
街灯に照らされた結野さんの右頬が、ほんのり赤くなった気がした。
「本当に⁉︎ なら嬉しい! あ、りんくん。明日も来て、いい?」
クラスであまり見たことのない、弱々しい結野さんの表情。誰かに助けを請うようなその表情に、張り詰めていた心の糸はすっかり解ほどけてしまって、半ば無意識に首を縦に振った。物悲しい表情が、不思議でならなかった。
「やった! じゃあまた明日ね! というか、まずは学校でね! おやすみー!」
先ほどの哀願に似た態度を吹き飛ばすように、結野さんは大きく手を振りながら、街灯の光がまばらに落ちるアスファルトの上を走っていった。
