ことばにおとをー君の死を、僕の最高傑作の燃料にー

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朝五時。思考はずっと止まっていたのに、目は開いたままだった。
昨夜はかなり遅くなったから、母さんも父さんも心配して玄関まで駆け寄ってきたけれど、「大丈夫」とだけ言って、部屋に行ってベッドに仰向けに倒れた。

結野さんから深夜に連絡がきて、とりあえず無事なようで安心した一方で、胸のうちで渦巻く疑念は募っていった。

結野さんの父親の、あの問いかけ。
彼女が何か僕に隠しているのは間違いない。病院という空間と、結野さんの両親と担当医のやり取りの淀みのなさ。したくもない予想が、脳裏を巡る。何かの病気にかかっているとしか思えない。でも、そんな風には見えなかった。

いや、違う。
音は感じていた。再会してから、どこかずっと、あの時の血塗られた顔と同じような、崩壊の音色が彼女の周りに流れていた。

少し冷静になった今の頭は、結野さんが倒れた時の情景すら言葉にしようとしている。
これを物語にしたら面白いかもしれない、なんて。
止めようとしても止められない。僕の、潜在的な意志。歯軋りしながら部屋の壁を殴った。


眠ることなく朝を迎える。
昨夜からずっと、ずっと、誰かの手に心臓を軽く握られているような、張り詰めた痛みが胸のうちに居座っている。
まだ、結野さんの隠していることが良くないことだなんて決まったわけではないのに。不安が全ての体の働きを錆びつかせる。

きっとこの後、結野さんから言われるだろう。
彼女が抱えている秘密を。

日常をつつがなく過ごすのに、こんなにも困難が付きまとうなんて知らなかった。
いや、上手く進まない方が、普通なのかもしれない。
でも、ただ結野さんと一緒に過ごしたいだけなのに、なんでそれだけのことがこれほど難しいのだろう。

待ち合わせの時間ぴったりに、僕はひばり公園に着いた。もう結野さんは来ていた。池の側でおじいさんと話をしている。
いつもベンチに座っていて、あの騒動の時も助けてくれたおじいさん。そういえば、お礼をちゃんと言っていなかった。
僕に気づいた彼女は、大きく手を振った後に駆け寄ってきた。動きは軽快で、表情は明るい。いつも通りに。

「待たせてごめん」

結野さんはデニムジャケットに白のTシャツ、チャコールのスカートにニットブーツ。あまり見たことがないラフ寄りの格好だった。

「ううん! おじいさんにお礼言ってたの」

結野さんの向こうから微笑みを向けてくれているおじいさんに、僕は深くお辞儀した。意図が伝わったのか、おじいさんは右手をふりふりと優しく振る。気にするなと言っているような気がした。

「体は、もう平気なの?」

「それをこれから話すね。ちょっとここは人目も多いし、あの広場に行こっか」

「……大丈夫?」

宮野との一件以降、あの広場は結野さんにとってトラウマになっていてもおかしくない。

「大丈夫。確かに怖かった出来事だったけど、それ以上に、りんくんと楽しく過ごした思い出の場所だから。それに、静かで好き」

嬉しい言葉なのに、結野さんの言葉の一つひとつに諦念のような雰囲気を感じて、不安になる。

「わかった。そうしよう」

図書館裏の広場は相変わらず静かで、土に敷かれた落ち葉が風に揺られる度に、乾いた音が川の流れのように耳に届けられる。

横を歩いていた結野さんは僕の少し前に歩み出て、外灯の側で止まった。
反射的に僕も立ち止まる。彼女の髪とスカートが、風に揺られ密やかに小さく浮き上がった。
僕と彼女の間を、風の音が通り過ぎた。



「打つ手はありません。持って一年です」

結野さんは上を向く。頬に力が入るのが見えた。
けれど、表情はわからない。まるで祈るように、空を見上げながら言った。

「え?」

「そんな感じで淡々と言われてさ。今年の三月くらいに。びっくりだよね」

持って一年。不穏な言葉に鼓動が早くなる。喉が急激に乾いてきた。視界がざらつく。言葉が出せない。

結野さんが振り向いた。
なぜ、なぜ、微笑んでいる? 
そんなに、切なそうに、微笑んでいる? 

外灯の影が差した彼女の瞳は、微笑みと全く合っていない。
表面だけで笑っている。言葉を出せない僕から、彼女は視線を外さない。

「私、死ぬんだ。もうすぐ」

木立に残っていた水気のない葉が、僕の目の前に落ちた。
死ぬ? 病気にかかっているどころか、もう、結野さんは、死ぬ? 
余命いくばくもないってことなのか。嘘、だよね。

「嘘、じゃないんだよね……」

「うん。私も今のりんくんと同じ感じだった。え?誰かのことを言ってるの? って、自分のことを言われてるって思えなかった。信じたくなくて、自分事として受け入れられなかった。……癌なんだって、私」

「何とか、ならないの? 治す方法とか……」

「りんくん、ごめん。やめて。お願いだから。覚悟が、揺らいじゃう。死ぬのがまた、怖くなる」

軽く痙攣した頬。
小刻みに震える唇。無理な笑顔。

覚悟が揺らぐ。
震えた言葉の重みが、僕を俯かせる。
嘘じゃないんだ。
結野さんは、きっとたくさん悩んで、泣いて、泣いて、泣いて、どうしようもないとわかって、覚悟を決めた。

僕の前で倒れて、もう隠しきれないと思って、震える心を目一杯に叩いて、覚悟を決めてここに来た。

つい最近知り合った仲ではない。だからこそ、彼女の抱える恐怖を簡単にわかったなんて言えないけど、冷静に、腑に落ちてしまう。
再会してからの日々。彼女との日常の隅々で感じていた、影。
あの時の匂い。音。涙。表情。言葉。
思い出が、突きつけてくる。彼女の言葉が真実であることを。
潤みを帯びたひくついた瞳が、死への恐怖と戦う彼女の覚悟を示していることを。

「ごめんね、暗い思いさせて。まだ生きられるから、たくさん遊んでくれると嬉しい。だからほら、笑って」

結野さんに近寄り、膝を折る。
膝から冷気が伝わって、心まで冷たくなっていく。
初めてかも知れない。言葉が自然に思いつかなくて、ただ、どうすればいいのか、わからなくなるのは。

どうして。どうしてだよ。

僕は何でもっと、彼女との時間を大切にしなかった。
彼女の未来は明るいとか、あんなふざけたことまで言って彼女を傷つけたのはなぜだ。

命の終わりと戦う彼女に、よりにもよって死を題材にした歌詞を書いてプレゼントして……。
あの時の涙は、嬉し涙じゃなくて、悲しみからくるものだったのかもしれない。
僕は、どれだけ彼女に不躾な行動をとっていたんだ。

何でもっと、もっと、当たり前の日常を大切にできなかったんだ。

「無理だよ、結野さん。僕、笑えないよ……」

両肩に温もりを感じた。顔を上げると、結野さんの顔が目の前にあった。「りんくんありがとう。悲しんでくれて」と、彼女の両目からこぼれ落ちる雫が、僕の心を固くした。

結野さんが覚悟を決めたんだ。
僕も決めなくてどうすんだ。もう嫌だ。逃げない。”一緒にいる”って、約束したんだ。

結野さんをゆっくりと立たせて、まっすぐに見た。
彼女の覚悟を踏み躙る行為かもしれない。
自己満足の行為なのかもしれない。
僕には何もできないかもしれない。でも、側にいて、支えたい。

今度は僕が、君に、心からの言葉を渡す番だ。

「結野さん、好きです。もしよければ、付き合ってくれませんか?」