降り始めてた夜の帷を、サイレンの音が切り裂いた。
震える手で、何度も119番を押し間違えた。
なんとかつながった電話で、冷静に状況を説明できたのか、何を言ったのか思い出せない。
幸い、手術が必要な症状ではなかったのか、結野さんは応急処置のみで今は病室で眠っている。僕は彼女との関係性を聞かれ、親族やそれに準ずるような関係でもなかったため、詳しい病状を教えてもらえなかった。
病院側が連絡を取り、彼女の両親がまもなく到着するそうだ。
当時の状況説明のためにしばらくロビーチェアに座り、僕は呆然と床を見つめながら待った。
程なくして、廊下の奥から足音が聞こえてきた。姿を現したのは二人の男女で、女性は長い黒髪を揺らし、仄暗い照明の下でもわかるほど肌が白かった。男性は光沢のあるネイビーのジャケットを纏い、オールバックで威厳のある顔つきをしている。
結野さんの両親だ。小学生の頃、結野さんの誕生日会で一度会っているはずだけど、初めて会った気しかしない。
足音が聞こえてか、病室から担当医も出てきた。
「先生! 栞は⁉︎」
「莉子、取り乱すな。先生、いつもお世話になります」
結野さんの両親と担当医は明らかに顔馴染みのようだった。莉子と呼ばれた結野さんの母親は、近くで見ると顔立ちが非常に整っている。娘の心配からか髪が乱れていても、その気品は保たれていた。
「今は安定されてます。今夜は遅いので、点滴をしながら様子を見て、問題なければ明日退院としましょう」
安心したのか、母親はしなだれかかるように父親の方に倒れ、優しく受け止められていた。
そしてそのまま僕に気づいた母親が「この方が、救急車を……?」と担当医に問いかけた。
「ええ、栞さんの側にいてくれたそうで、すぐに救急車を呼んでくださったようです。本当に助かりました」
担当医の説明を受けて両親とも「ありがとうございます」と頭を下げてきて、僕も思わず立ち上がり、深くお辞儀した。
「失礼ですが、お名前は……?」
と母親。「林道直人と言います。栞さんとは小学生の時からの友達で、今日も一緒に遊んでもらってました」と僕。
宮野との一件が頭を掠めたけれど、言っても混乱しそうだったので詳細は伏せた。
すると急に、父親も母親も目を見開き、僕を凝視した。自己紹介しかしていないけれど、何かまずいことでも言ったのだろうか。身がすくむ。母親が震える唇で「あなたが……」と言った。
「栞から、よく話は聞いてました。いつもあの子に付き合ってくれて本当にありがとう。小学生の時の誕生日会にも来てくれたのよね? 失礼だけどさすがにお顔までは覚えていなくて、是非一度会いたいと思ってた。会えて、嬉しい」
小村さんの時もそうだ。結野さんは、僕のことをいろんな人に話してくれていたのか。嬉しさと、こないだまでうじうじしていた自分の行動の不甲斐なさがまたはっきりとした輪郭になって、心中で暴れ回る。
「林道くん。私からもお礼を言わせて欲しい。いつも、そして今回は本当にありがとう」
と父親。
「い、いえ、大したことはしてないです」
父親は一度僕から目を逸らして、担当医に「栞は今、寝てますか?」と聞いた。
担当医が「ええ」と言うと、再び僕に視線を戻した。何かの決意が滲むような、真剣な目つきだ。
「林道くん、ちなみになんだが、栞から……聞いているかい?」
含みのある言い方。何をという目的語が抜けていて、質問の意味がわからない。
僕の反応を見てなのか、「いや、いい、変なことを聞いてすまんね。忘れてくれ」と言った。
気になった僕は、「あの、何のことなんでしょう?」と食い下がっても、答えてはくれなかった。
母親は居心地が悪そうに下を見ている。
改めて三人からお礼を言われて、僕は心に靄がかかったまま病院を後にした。
※
天井。いつ見ても慣れない、病院の天井。
特に経過観察も問題なかったから、予定通り今日退院する。土日のことだから、友達に事が露見することはないけど、もうこれ以上、りんくんには隠せない。昨日目覚めて、両親や先生と話した後、深夜にメッセージを入れた。すぐに既読がついて、『本当に大丈夫? 落ち着いたら、ゆっくり話したい』ときたから、『明日退院する予定だから、体が大丈夫そうだったら十六時に図書館前で待ち合わせよう』と約束した。
病気を告白して、みんなに嫌な顔をされたりしないか不安で、誰にも言えなかった。
哀れみを受けるのも嫌だった。私はまだ、フルートを吹ける。元気に生活できる。そう思い込みたかった。
だから、だから、どうか変わらずに側にいてほしい。
距離を取らないで。お願い。
死ぬのが怖くなるから、極力自分から人との距離を取っていたのに、笑っちゃう。
結局、心の底で、私は、誰かに側にいて欲しいんだ。
孤独に、耐えられないんだ。
安心を叶えてくれてたのはりんくんだけど、でも、病気を告白しても、彼は一緒にいてくれるのだろうか。
同情という名の心の距離が、りんくんとの間にできてしまうのだろうか。
そうなったら、私は、芽吹いていた生への希望を、変わらず持ち続けることができるのだろうか。
私を救ってくれた彼に、心からの恩返しをできるのだろうか。
どんなに心が前を向こうと強く固くなっても、病気は、立ち止まってくれない。
一緒に、泣いてくれない。一緒に、強くなってはくれない。背中を、さすってはくれない。
ずっと、悪魔のように私の背後に張り付いている。
痛ぶるように、徐々に私の体を食っていく。
私の希望を食っていく。
誰かに余命のことを話したら、私、本当に病気なんだって。死ぬんだって。はっきり思い知ってしまう気がする。
もう、覚悟を決めないといけない。りんくんの前で倒れた瞬間、それが決まったんだ。
大切な人に命の終わりを話す。
覚悟。死ぬ、覚悟。
何だろう、涙が、本当に、出ない。
さっきから嫌なことばっかり考えているのに、涙が出てくれない。
目に温度を、感じない。
私は眉間に力を込めて、まっすぐ、天井を見据えた。
震える手で、何度も119番を押し間違えた。
なんとかつながった電話で、冷静に状況を説明できたのか、何を言ったのか思い出せない。
幸い、手術が必要な症状ではなかったのか、結野さんは応急処置のみで今は病室で眠っている。僕は彼女との関係性を聞かれ、親族やそれに準ずるような関係でもなかったため、詳しい病状を教えてもらえなかった。
病院側が連絡を取り、彼女の両親がまもなく到着するそうだ。
当時の状況説明のためにしばらくロビーチェアに座り、僕は呆然と床を見つめながら待った。
程なくして、廊下の奥から足音が聞こえてきた。姿を現したのは二人の男女で、女性は長い黒髪を揺らし、仄暗い照明の下でもわかるほど肌が白かった。男性は光沢のあるネイビーのジャケットを纏い、オールバックで威厳のある顔つきをしている。
結野さんの両親だ。小学生の頃、結野さんの誕生日会で一度会っているはずだけど、初めて会った気しかしない。
足音が聞こえてか、病室から担当医も出てきた。
「先生! 栞は⁉︎」
「莉子、取り乱すな。先生、いつもお世話になります」
結野さんの両親と担当医は明らかに顔馴染みのようだった。莉子と呼ばれた結野さんの母親は、近くで見ると顔立ちが非常に整っている。娘の心配からか髪が乱れていても、その気品は保たれていた。
「今は安定されてます。今夜は遅いので、点滴をしながら様子を見て、問題なければ明日退院としましょう」
安心したのか、母親はしなだれかかるように父親の方に倒れ、優しく受け止められていた。
そしてそのまま僕に気づいた母親が「この方が、救急車を……?」と担当医に問いかけた。
「ええ、栞さんの側にいてくれたそうで、すぐに救急車を呼んでくださったようです。本当に助かりました」
担当医の説明を受けて両親とも「ありがとうございます」と頭を下げてきて、僕も思わず立ち上がり、深くお辞儀した。
「失礼ですが、お名前は……?」
と母親。「林道直人と言います。栞さんとは小学生の時からの友達で、今日も一緒に遊んでもらってました」と僕。
宮野との一件が頭を掠めたけれど、言っても混乱しそうだったので詳細は伏せた。
すると急に、父親も母親も目を見開き、僕を凝視した。自己紹介しかしていないけれど、何かまずいことでも言ったのだろうか。身がすくむ。母親が震える唇で「あなたが……」と言った。
「栞から、よく話は聞いてました。いつもあの子に付き合ってくれて本当にありがとう。小学生の時の誕生日会にも来てくれたのよね? 失礼だけどさすがにお顔までは覚えていなくて、是非一度会いたいと思ってた。会えて、嬉しい」
小村さんの時もそうだ。結野さんは、僕のことをいろんな人に話してくれていたのか。嬉しさと、こないだまでうじうじしていた自分の行動の不甲斐なさがまたはっきりとした輪郭になって、心中で暴れ回る。
「林道くん。私からもお礼を言わせて欲しい。いつも、そして今回は本当にありがとう」
と父親。
「い、いえ、大したことはしてないです」
父親は一度僕から目を逸らして、担当医に「栞は今、寝てますか?」と聞いた。
担当医が「ええ」と言うと、再び僕に視線を戻した。何かの決意が滲むような、真剣な目つきだ。
「林道くん、ちなみになんだが、栞から……聞いているかい?」
含みのある言い方。何をという目的語が抜けていて、質問の意味がわからない。
僕の反応を見てなのか、「いや、いい、変なことを聞いてすまんね。忘れてくれ」と言った。
気になった僕は、「あの、何のことなんでしょう?」と食い下がっても、答えてはくれなかった。
母親は居心地が悪そうに下を見ている。
改めて三人からお礼を言われて、僕は心に靄がかかったまま病院を後にした。
※
天井。いつ見ても慣れない、病院の天井。
特に経過観察も問題なかったから、予定通り今日退院する。土日のことだから、友達に事が露見することはないけど、もうこれ以上、りんくんには隠せない。昨日目覚めて、両親や先生と話した後、深夜にメッセージを入れた。すぐに既読がついて、『本当に大丈夫? 落ち着いたら、ゆっくり話したい』ときたから、『明日退院する予定だから、体が大丈夫そうだったら十六時に図書館前で待ち合わせよう』と約束した。
病気を告白して、みんなに嫌な顔をされたりしないか不安で、誰にも言えなかった。
哀れみを受けるのも嫌だった。私はまだ、フルートを吹ける。元気に生活できる。そう思い込みたかった。
だから、だから、どうか変わらずに側にいてほしい。
距離を取らないで。お願い。
死ぬのが怖くなるから、極力自分から人との距離を取っていたのに、笑っちゃう。
結局、心の底で、私は、誰かに側にいて欲しいんだ。
孤独に、耐えられないんだ。
安心を叶えてくれてたのはりんくんだけど、でも、病気を告白しても、彼は一緒にいてくれるのだろうか。
同情という名の心の距離が、りんくんとの間にできてしまうのだろうか。
そうなったら、私は、芽吹いていた生への希望を、変わらず持ち続けることができるのだろうか。
私を救ってくれた彼に、心からの恩返しをできるのだろうか。
どんなに心が前を向こうと強く固くなっても、病気は、立ち止まってくれない。
一緒に、泣いてくれない。一緒に、強くなってはくれない。背中を、さすってはくれない。
ずっと、悪魔のように私の背後に張り付いている。
痛ぶるように、徐々に私の体を食っていく。
私の希望を食っていく。
誰かに余命のことを話したら、私、本当に病気なんだって。死ぬんだって。はっきり思い知ってしまう気がする。
もう、覚悟を決めないといけない。りんくんの前で倒れた瞬間、それが決まったんだ。
大切な人に命の終わりを話す。
覚悟。死ぬ、覚悟。
何だろう、涙が、本当に、出ない。
さっきから嫌なことばっかり考えているのに、涙が出てくれない。
目に温度を、感じない。
私は眉間に力を込めて、まっすぐ、天井を見据えた。
