家の近くまでゆっくりと帰ったけれど、何度携帯を見ても返事はおろか既読もまだつかない。
何か事件にでも巻き込まれたのか、悪い想像が脳裏に膨らんでいく。
まさかいる訳はないと思いつつ、家には帰らず図書館に向かった。
そこにいなかったら、思い切って結野さんの家に行ってみようという決意の元で。
晩夏光に照らされ、気怠そうに漂う彩雲。
緋色に染まる空の下で、街は活気ある空気から余白のある空気へと移り変わる。
久しぶりにひばり公園に来た。花壇ではコスモスの花が蕾を開き、池の水面ではコナギが青紫色の模様を浮かび上がらせている。至る所で芽吹き始めた秋の花が花影を側に落とし、夏の隆盛にくたびれた草花の休息が穏やかな雰囲気を生んでいた。まるで、秋の訪れを歓迎しているように。
おじいさんは今日も池のベンチで腰を下ろして辺りを見渡している。僕に気づくと、左手を振って挨拶をしてくれた。
微笑みと軽い会釈で応えて図書館に向かう。入り口の自動ドアの前に来たところで、ある思い出が頭を突き抜ける。
足の向きを変えて、図書館をなぞるように歩き出す。特に確固とした考えはなかった。
逃げ出した罪悪感か、結野さんと過ごした幸せな思い出からか、何かに導かれるように歩みを進めた。
途中のベンチで、白髪混じりの老紳士数人が画材と見られる道具を手に持ちながら談笑していた。
僕は立ち止まる。相変わらず、ここにひとけはない。
だからこそ、余計に目立っている。清らかな女性の姿を、灯った外灯の淡い光が、はっきりと縁取っている。
「結野さん……」
思わず独り言を落とす。確かに土曜だけど、なんで、ここにいる? 来る理由もないだろうに、なんで、こんな図書館の裏の、寂しげな場所にいる? あの時と同じベンチで、虚な目をして座っている?
――もしかしてずっと、この数ヶ月間、毎週ここで待ってたのか? 僕を。
自意識過剰な考え。けれど結野さんの悲しみに満ちた表情が、いやでも教えてくる。僕の弱さを。そして、彼女の強さを。
足を踏み出した瞬間、右手から物音が聞こえたと思ったらすぐに宮野が現れた。僕は咄嗟に側の木の後ろに隠れた。
「いい加減にしろよ栞! なんであんなやつにこだわるんだよ! 待ってもこねーってあんなやつ」
響く宮野の荒々しい声。結野さんは応えない。黙って下を向いている。その時だ、宮野が彼女の腕を掴み、無理矢理ベンチから立たせようとしたのは。彼女は「何すんの! 離して!」と抵抗している。
泣いているのが、僕の位置からでも一目でわかった。
勝手に体が動いていた。
言い合う二人。僕には気づかない。
いつの間にか、宮野の右手を掴んでいた。
「いったっ! なんだ⁉︎」
「りんくん……」
言葉は出ない。自分でも感じたことのない力が、右手にこもる。
手首付近の皮膚が沈み、骨の形が浮き上がる。
「お前っ、離せよ!」
さらに手首の皮膚が沈む。鼻息が荒くなる。意識があるのかないのか、自分でもわからない。
何かの衝動が、原始的な感情が、手に力を込める以外の行動を僕に許さなかった。
「離せ! 離せってこのクズ!」
刹那、腹部に鈍痛を感じて思わず宮野から手を離し、少し後ずさる。
宮野の左足が前に出ている。蹴りを入れられたんだ。
「りんくん!」
結野さんの声に、音に、意識の糸がはっきりと脳に繋がる。「大丈夫……?」と、彼女が手を僕の肩に添える。温もりが駆け巡る。「結野さんの方こそ、腕、大丈夫?」と、僕は声をかけた。彼女は泣きながら、「うん」と頷いた。
「なんだよ、くそ。なんでだよ。みんな、俺のこと褒めてたじゃねーか。ちやほやしてくれてたじゃねーか。なんで、どんどんどんどん、態度が変わっていくんだよ。俺の方を向かなくなるんだよ。俺は、俺は、外見も良いままだし、頭だって……。受験に失敗しただけで……くそっ! 親父も、母さんも、どいつもこいつも……」
宮野の吐き出した言葉の全てが、空気を潰して重々しい何かを辺りに積み重ねている。
結野さんは、憐れむような目で宮野を見つめている。
僕たちに視線を戻すと、宮野は狂ったような目色で唾を飛ばしながら叫んだ。
「全部、全部、くそだ。全部!」
宮野が僕たちに向かって拳を振り上げた時、図書館の方角から声が届く。
「君たち、何してるんだ!」
先ほどの、画材を持って談笑していた老紳士たちだった。そしてさらにその後ろから、おじいさんが杖をつきながら姿を現した。中川さんを引き連れて。宮野が大声を上げたからだろう。辺りでは他に数人の男女が、こちらの様子をひそひそと話しをしながら見ていた。
宮野は呆然としている。中川さんは眉間に皺を寄せて、ずかずかとこちらに向かってきた。
僕たちと宮野を交互に見る。険のある表情を崩さない。何かを理解したのか、中川さんは頷いて宮野に視線をぶつけた。
「あんた、これ以上騒ぐなら警察呼ぶよ? しかも、女の子の腕を無理矢理掴んでたんだって?」
宮野は反抗すると思ったけれど、体を震わせて、辺りを何度か見渡して、逃げるように去っていった。
後でわかったことだけれど、図書館に入らず、思い詰めた顔で裏手に向かった僕を見て不思議に思ったおじいさんが、ゆっくり後をつけてきたらしい。そして、途中から僕たちの状況を見て、図書館前でチラシを貼り直していた中川さんを呼んでくれたそうだ。「いつも君に助けてもらっているから、今度は私が助けられてよかったよ」と、おじいさんは笑っていた。
その後、中川さんが特に結野さんを心配して、僕たちを図書館の中のカフェに連れて行った。
少しの間黙って結野さんの背中をさすった後、会計だけを先に済ませて、「直人くん、あとはよろしくね」と、仕事に戻って行った。
「りんくん、ごめんね。たくさん、色々、本当に。それに、助けてくれてありがとう」
「ううん。それは大したことじゃないし、僕が悪い、全部。本当にごめんね。結野さんを傷つけて」
僕は国際芸術大学のキャンパスに行ったことや、小村さんや大学の友達が心配していたこと、過去のいじめのことなどを包み隠さず話した。
結野さんは転校した後のことをより詳細に、そして宮野との関係のことも話してくれた。人の話もちゃんと聞かず、とんでもない勘違いで彼女に酷いことを言い放った。知った事実の重みに、胸がどんどんきつく縛られて、痛みが走る。
「宮野だけど、もう、私たちの前には、来ないと思う」
宮野に手を無理矢理掴まれていた時の、恐怖に歪み、涙を流していた結野さんの表情が脳裏にちらつく。
同時に、狂気に満たされた宮野の荒れた表情も。
「そうなのかな……。最後の、なんていうか、理性が飛んだような……。あの感じを見てると、これからも何かをしてきそうだけど」
「ううん。宮野は、実は自分に自信がなくて、周りの目をとにかく気にする人だから。あんな風に注目されたしね。プライド的にも、もう来ないよ」
確かに、僕に冷然とした視線を向けてきた時も、人目につかないような場所や瞬間が多かった。
結野さんが交際を強要された時も人目につかない場所だったようだし、今日も、人の通りが少ない図書館の裏手の広場での出来事だった。
「宮野くん、少しは変われるといいけどね……」
「ううん、きっと変わらないよ。自分で乗り越えようと思わない限りは」
「え?」
「どれだけ願ったって、責任をその人に渡してみたって、人を変えるなんてできない。でも、自分は変えられる。自分が変われば、相手との関係も変えられる。いいものにだってできる。環境に怒りをぶつけたって、そこからは何も返ってこないもん。厳しい言い方かもだけど、私は、そう思うな」
凛とした結野さんの目。まるで自分に言い聞かせているような、丁寧な速さで紡がれた言葉に思えた。
それがなぜか、僕の心に痛みを打ちつけた。
「なんかね、認めたくないけど、私も弱い人間だからさ、りんくんがいなかったら、宮野と同じようになってたかもしれないなって……」
「え? どういうこと? 宮野と結野さんが同じって言いたいの……?」
「うん」
「そんなこと、絶対ないよ!!」
思わず大声が出てしまい、周りの客が一斉に僕たちの方を見た。顔が熱くなって、僕は俯いた。結野さんはふふっと笑って、「ありがとう」と小さな声で言った。彼女は嬉しそうに僕をずっと見ていて、なんとなく気まずくなって、話題を変えた。
「そういえば、なんであそこにいたの……?」
なんとなく予想はついていたけど、確かめたかった。自分の打算的な思考に嫌気が差すけれど、どうしても、確かめたかった。
「ずっといたよ。毎週土曜日、夕方には必ず。図書館に行って、りんくんが見当たらなかった時は、あそこに来るかなって思って。ずっと待ってた」
胸がまた痛む。
僕は逃げていたのに、結野さんはずっと、逃げずに待っていたんだ。
「本当に、ごめん……」
「もう謝らないで、りんくん。あ、じゃあ一つだけお願い聞いてくれる?」
「何?」
「また、一緒に、いてくれる?」
結野さんの目尻に光が仄めく。彼女の心の傷を、こちらに教えるように。唇を一度強く結んで、力強く頷いて答えた。
「うん、絶対、一緒にいる。いさせてください」
結野さんは泣きながら笑って、湯気が揺らめく紅茶を、幸せそうに飲んだ。
空が花紺青色に染まる頃、僕たちは中川さんにお礼を言って、図書館を後にした。
他愛のない話をしながら西口に向かって、僕がほんの少し先に前に出た瞬間、結野さんが背中に抱きついてきた。
空の果てで、太陽が眠りにつこうとしているのが見える。
甘い沈黙が漂う。折柄の風が、側を駆け抜ける。
「どうしたの……?」
「こないだみたいに、ちょっと、こうしてたくて……」
けれど甘い時間は長く、続いてくれなかった。
しばらくお互いに体温を分け合った後、突然結野さんが胸を強く押さえて、喉が破裂するくらいの勢いで咳をした。
止まらない咳。荒れる呼吸。額に迸る汗。
僕の戸惑いをよそに、結野さんはその場に倒れた。
ピアノの鍵盤を、乱暴に叩いたような鋭利な低音が、腹の底で響いた。
何か事件にでも巻き込まれたのか、悪い想像が脳裏に膨らんでいく。
まさかいる訳はないと思いつつ、家には帰らず図書館に向かった。
そこにいなかったら、思い切って結野さんの家に行ってみようという決意の元で。
晩夏光に照らされ、気怠そうに漂う彩雲。
緋色に染まる空の下で、街は活気ある空気から余白のある空気へと移り変わる。
久しぶりにひばり公園に来た。花壇ではコスモスの花が蕾を開き、池の水面ではコナギが青紫色の模様を浮かび上がらせている。至る所で芽吹き始めた秋の花が花影を側に落とし、夏の隆盛にくたびれた草花の休息が穏やかな雰囲気を生んでいた。まるで、秋の訪れを歓迎しているように。
おじいさんは今日も池のベンチで腰を下ろして辺りを見渡している。僕に気づくと、左手を振って挨拶をしてくれた。
微笑みと軽い会釈で応えて図書館に向かう。入り口の自動ドアの前に来たところで、ある思い出が頭を突き抜ける。
足の向きを変えて、図書館をなぞるように歩き出す。特に確固とした考えはなかった。
逃げ出した罪悪感か、結野さんと過ごした幸せな思い出からか、何かに導かれるように歩みを進めた。
途中のベンチで、白髪混じりの老紳士数人が画材と見られる道具を手に持ちながら談笑していた。
僕は立ち止まる。相変わらず、ここにひとけはない。
だからこそ、余計に目立っている。清らかな女性の姿を、灯った外灯の淡い光が、はっきりと縁取っている。
「結野さん……」
思わず独り言を落とす。確かに土曜だけど、なんで、ここにいる? 来る理由もないだろうに、なんで、こんな図書館の裏の、寂しげな場所にいる? あの時と同じベンチで、虚な目をして座っている?
――もしかしてずっと、この数ヶ月間、毎週ここで待ってたのか? 僕を。
自意識過剰な考え。けれど結野さんの悲しみに満ちた表情が、いやでも教えてくる。僕の弱さを。そして、彼女の強さを。
足を踏み出した瞬間、右手から物音が聞こえたと思ったらすぐに宮野が現れた。僕は咄嗟に側の木の後ろに隠れた。
「いい加減にしろよ栞! なんであんなやつにこだわるんだよ! 待ってもこねーってあんなやつ」
響く宮野の荒々しい声。結野さんは応えない。黙って下を向いている。その時だ、宮野が彼女の腕を掴み、無理矢理ベンチから立たせようとしたのは。彼女は「何すんの! 離して!」と抵抗している。
泣いているのが、僕の位置からでも一目でわかった。
勝手に体が動いていた。
言い合う二人。僕には気づかない。
いつの間にか、宮野の右手を掴んでいた。
「いったっ! なんだ⁉︎」
「りんくん……」
言葉は出ない。自分でも感じたことのない力が、右手にこもる。
手首付近の皮膚が沈み、骨の形が浮き上がる。
「お前っ、離せよ!」
さらに手首の皮膚が沈む。鼻息が荒くなる。意識があるのかないのか、自分でもわからない。
何かの衝動が、原始的な感情が、手に力を込める以外の行動を僕に許さなかった。
「離せ! 離せってこのクズ!」
刹那、腹部に鈍痛を感じて思わず宮野から手を離し、少し後ずさる。
宮野の左足が前に出ている。蹴りを入れられたんだ。
「りんくん!」
結野さんの声に、音に、意識の糸がはっきりと脳に繋がる。「大丈夫……?」と、彼女が手を僕の肩に添える。温もりが駆け巡る。「結野さんの方こそ、腕、大丈夫?」と、僕は声をかけた。彼女は泣きながら、「うん」と頷いた。
「なんだよ、くそ。なんでだよ。みんな、俺のこと褒めてたじゃねーか。ちやほやしてくれてたじゃねーか。なんで、どんどんどんどん、態度が変わっていくんだよ。俺の方を向かなくなるんだよ。俺は、俺は、外見も良いままだし、頭だって……。受験に失敗しただけで……くそっ! 親父も、母さんも、どいつもこいつも……」
宮野の吐き出した言葉の全てが、空気を潰して重々しい何かを辺りに積み重ねている。
結野さんは、憐れむような目で宮野を見つめている。
僕たちに視線を戻すと、宮野は狂ったような目色で唾を飛ばしながら叫んだ。
「全部、全部、くそだ。全部!」
宮野が僕たちに向かって拳を振り上げた時、図書館の方角から声が届く。
「君たち、何してるんだ!」
先ほどの、画材を持って談笑していた老紳士たちだった。そしてさらにその後ろから、おじいさんが杖をつきながら姿を現した。中川さんを引き連れて。宮野が大声を上げたからだろう。辺りでは他に数人の男女が、こちらの様子をひそひそと話しをしながら見ていた。
宮野は呆然としている。中川さんは眉間に皺を寄せて、ずかずかとこちらに向かってきた。
僕たちと宮野を交互に見る。険のある表情を崩さない。何かを理解したのか、中川さんは頷いて宮野に視線をぶつけた。
「あんた、これ以上騒ぐなら警察呼ぶよ? しかも、女の子の腕を無理矢理掴んでたんだって?」
宮野は反抗すると思ったけれど、体を震わせて、辺りを何度か見渡して、逃げるように去っていった。
後でわかったことだけれど、図書館に入らず、思い詰めた顔で裏手に向かった僕を見て不思議に思ったおじいさんが、ゆっくり後をつけてきたらしい。そして、途中から僕たちの状況を見て、図書館前でチラシを貼り直していた中川さんを呼んでくれたそうだ。「いつも君に助けてもらっているから、今度は私が助けられてよかったよ」と、おじいさんは笑っていた。
その後、中川さんが特に結野さんを心配して、僕たちを図書館の中のカフェに連れて行った。
少しの間黙って結野さんの背中をさすった後、会計だけを先に済ませて、「直人くん、あとはよろしくね」と、仕事に戻って行った。
「りんくん、ごめんね。たくさん、色々、本当に。それに、助けてくれてありがとう」
「ううん。それは大したことじゃないし、僕が悪い、全部。本当にごめんね。結野さんを傷つけて」
僕は国際芸術大学のキャンパスに行ったことや、小村さんや大学の友達が心配していたこと、過去のいじめのことなどを包み隠さず話した。
結野さんは転校した後のことをより詳細に、そして宮野との関係のことも話してくれた。人の話もちゃんと聞かず、とんでもない勘違いで彼女に酷いことを言い放った。知った事実の重みに、胸がどんどんきつく縛られて、痛みが走る。
「宮野だけど、もう、私たちの前には、来ないと思う」
宮野に手を無理矢理掴まれていた時の、恐怖に歪み、涙を流していた結野さんの表情が脳裏にちらつく。
同時に、狂気に満たされた宮野の荒れた表情も。
「そうなのかな……。最後の、なんていうか、理性が飛んだような……。あの感じを見てると、これからも何かをしてきそうだけど」
「ううん。宮野は、実は自分に自信がなくて、周りの目をとにかく気にする人だから。あんな風に注目されたしね。プライド的にも、もう来ないよ」
確かに、僕に冷然とした視線を向けてきた時も、人目につかないような場所や瞬間が多かった。
結野さんが交際を強要された時も人目につかない場所だったようだし、今日も、人の通りが少ない図書館の裏手の広場での出来事だった。
「宮野くん、少しは変われるといいけどね……」
「ううん、きっと変わらないよ。自分で乗り越えようと思わない限りは」
「え?」
「どれだけ願ったって、責任をその人に渡してみたって、人を変えるなんてできない。でも、自分は変えられる。自分が変われば、相手との関係も変えられる。いいものにだってできる。環境に怒りをぶつけたって、そこからは何も返ってこないもん。厳しい言い方かもだけど、私は、そう思うな」
凛とした結野さんの目。まるで自分に言い聞かせているような、丁寧な速さで紡がれた言葉に思えた。
それがなぜか、僕の心に痛みを打ちつけた。
「なんかね、認めたくないけど、私も弱い人間だからさ、りんくんがいなかったら、宮野と同じようになってたかもしれないなって……」
「え? どういうこと? 宮野と結野さんが同じって言いたいの……?」
「うん」
「そんなこと、絶対ないよ!!」
思わず大声が出てしまい、周りの客が一斉に僕たちの方を見た。顔が熱くなって、僕は俯いた。結野さんはふふっと笑って、「ありがとう」と小さな声で言った。彼女は嬉しそうに僕をずっと見ていて、なんとなく気まずくなって、話題を変えた。
「そういえば、なんであそこにいたの……?」
なんとなく予想はついていたけど、確かめたかった。自分の打算的な思考に嫌気が差すけれど、どうしても、確かめたかった。
「ずっといたよ。毎週土曜日、夕方には必ず。図書館に行って、りんくんが見当たらなかった時は、あそこに来るかなって思って。ずっと待ってた」
胸がまた痛む。
僕は逃げていたのに、結野さんはずっと、逃げずに待っていたんだ。
「本当に、ごめん……」
「もう謝らないで、りんくん。あ、じゃあ一つだけお願い聞いてくれる?」
「何?」
「また、一緒に、いてくれる?」
結野さんの目尻に光が仄めく。彼女の心の傷を、こちらに教えるように。唇を一度強く結んで、力強く頷いて答えた。
「うん、絶対、一緒にいる。いさせてください」
結野さんは泣きながら笑って、湯気が揺らめく紅茶を、幸せそうに飲んだ。
空が花紺青色に染まる頃、僕たちは中川さんにお礼を言って、図書館を後にした。
他愛のない話をしながら西口に向かって、僕がほんの少し先に前に出た瞬間、結野さんが背中に抱きついてきた。
空の果てで、太陽が眠りにつこうとしているのが見える。
甘い沈黙が漂う。折柄の風が、側を駆け抜ける。
「どうしたの……?」
「こないだみたいに、ちょっと、こうしてたくて……」
けれど甘い時間は長く、続いてくれなかった。
しばらくお互いに体温を分け合った後、突然結野さんが胸を強く押さえて、喉が破裂するくらいの勢いで咳をした。
止まらない咳。荒れる呼吸。額に迸る汗。
僕の戸惑いをよそに、結野さんはその場に倒れた。
ピアノの鍵盤を、乱暴に叩いたような鋭利な低音が、腹の底で響いた。
