僕は走った。
携帯はいくら電話しても出ないし、メッセージも未読のまま。結野さんの家に行こうと思ったけど、休日の午後なら学生オーケストラの活動をしていると前に結野さんから聞いたのを思い出し、国際芸術大学に行き先を変えた。
キャンパスは思ったよりも普通だった。弓型にしなる建物とか、卵みたいな建物とか、奇抜な建造物が立ち並んでいるのかなと想像していた。特に京林大学と変わらない西洋風の建物が出迎えてくれた時は、緊張して強張っていた胸の筋肉が少し緩んだ。
念の為、守衛さんには視線を合わせないようにして、颯爽とキャンパスに入る。
建物は普通だけど、個性的な装いをしている学生が多い。
色の名称が存在しなさそうな刺々しい髪色をした人。
マントのように長い上着をはためかせて歩く人。
全身の至る所が真っ黒で、カラスがそのまま擬人化したような人。
結野さんとはまた違ったタイプの強い個性に、緩んだ胸がまた強張る。
校内地図を見ても、どこに結野さんがいるか見当もつかなかった。誰かに聞いてみようかと思っても、行き交う人がほとんど主張激しめな身なりだから、話しかけるのもなかなか高いハードルだった。
しばらくうろうろしていると、平べったい建物の入り口から出てきた小柄な女性が視界に入った。だぼっとしたラフな半袖のスウェットシャツを着ていて、髪はツインテール。ヴァイオリンの楽器ケースを肩に掛けている。元気で人の良さそうな顔。楽器を持っているなら、結野さんを知っているかも。早歩きでキャンパスの奥に向かおうとする彼女を、精一杯に走って追いかけた。
「すみません!」
僕の声に、小柄な女性は勢いよく振り向く。ツインテールの髪が首に遅れてついてきた。周りにいた学生の数人もつられて僕の方を見てきて、状況的にいつもなら恥ずかしさが募っていくのに、今は何も感じなかった。
「私、ですよね? どうかされました?」
周りにいた学生たちはいつの間にか去っていて、束の間の静寂が辺りを覆う。彼女の向こうには開けた中庭があって、白いベンチの周りで談笑する楽器ケースを持った学生の団体が見えた。僕は彼女に歩み寄る。とても警戒した目つきで僕を見上げてはいるけれど、彼女の澄んだ目を見ると不思議と心が軽くなる気がした
「突然すみません。ここの大学の器楽科の生徒で、結野栞という人を探しています。今日ここにいるかとか、ご存知ないですか?」
「栞を……」
結野さんを下の名前で呼ぶということは、知り合いの可能性が高い。それに、結野さんの名前が出た瞬間、わずかながら表情が柔らかくなるのを感じた。けれど、まだ警戒しているのだろう。目を逸らして、気まずそうに僕の左足付近を見つめている。
「失礼ですが、結野さんのお友達、でしょうか? 僕は結野さんと小学生からの付き合いで、林道直人といいます」
小学生からの付き合いだということ、そして名前を明かせば少しは警戒心を解いてくれるだろうかと思っての発言だった。
けれど、彼女の反応は予想以上の、砕けたものだった。
「りんどう……? もしかして、栞からりんくんって呼ばれてます……?」
りんくん。結野さん以外から初めて呼ばれて、思わず体が強張る。
「あ、はい。そう呼んでくるのは結野さんだけですけど……」
僕の言葉に、彼女の表情はみるみると明るくなった。
警戒している状態でも、純粋ここに極まれり、といった雰囲気が滲み出ているのに、さらに煌めきが増した。
結野さんとどこか似ている。きっとこの人がヴァイオリンを奏でたら、彼女と同じような、陽気で軽やかで、踊っているような音色が辺りを漂うのだろうなと、直感的に思った。
「やっぱり! 初めまして。私は小村美咲っていいます。栞とは専攻する楽器は違いますけど、同じ学科でよく一緒にいるんです! それで、よくりんくんって人の話をしてくれて、それがもう楽しそうに話すんですよ。大学から急に栞、周りにツンとした態度を取り始めて、どこか元気もなくて……。そんな栞があんまり楽しそうに話すから、どんな人か気になってて! 会えて嬉しいです!」
立て板に水を流すような調子で、興奮気味に話す小村さん。
結野さんが僕のことを他人に話してくれていたことに、嬉しさが込み上げてくる。
でも、ツンとしているというのはどういうことだろう。
確かにフルートのことになると少し傲慢になることはあるが、基本的には明るく人あたりの良い性格だから、ツンとしている結野さんをあまり想像できない。
「そんな上等な人物じゃないですよ。でもありがとうございます。あの、それで、彼女がどこにいるか、ご存知です……? 携帯に連絡はしたんですけど、全く反応がなくて」
「あ、そうでしたね。ごめんなさい、今日は大学に来ないって今朝連絡があって。だからわからないんです。私もさっきオケのことで電話したんですけど、出なかったし。あ、ちょっと待ってくださいね、メッセージ送ったから……。だめだ、やっぱり既読もついてない」
「そう、ですか……」
小村さんに会えて、トントン拍子で結野さんに会えるかもと期待していたから、落胆も大きかった。
しばらく無言で俯いてしまって、小村さんが慌て始めた。
「小村、どうしたん?」
前方にたくさんの気配を感じて顔を上げると、中庭に見えていた学生の団体が小村さんを囲うように立っていた。先ほどキャンパスを歩いていて、行きずりに見た学生とは異なり、彼ら彼女らはオフィスカジュアルのような、綺麗めの服装をしていた。
「あ、みんな、今日栞ってどこにいるか知らないよね? この人は林道さんっていって、栞と小学生からの幼馴染なんだって。私もたまに栞から話聞いててさ、あれ? そういえば、なんで栞を探してるんでしたっけ?」
幼馴染という響きに首を小さく傾げていたから、突然の問いかけに心が揺れた。
そういえば、結野さんを探してる理由を考えていなかった。宮野との複雑な出来事を語ったところで、訝しげに見られるだけだ。
「あ、えっと、彼女とこの前会った時にキャンパスを見せてくれるって約束をしていて、時間通りに校門前に来たんですけどいなくて……」
高速で頭をフル回転させて得た理由だったけれど、思いの外淀みなく話すことができた。
小村さんや彼ら彼女らの「なるほど」といったように頷く様子を見て、さらに胸を撫で下ろす。
「栞、たまに抜けてるとこあるからなあ。それは災難でしたね。で、みんなわかる? 私も別件で連絡してるんだけど、栞から反応ないんだよね」
と、小村さんが問いかけると、コーヒー色のヴァイオリンケースを手に持った女性が「確実かはわからないけど」と切り出した。
髪は黒髪のロングで、白の半袖のブラウスに、グレーのジャケットの袖を通さずに羽織っている。
「前に、土曜の夕方はいつもいなくなるから、バイト?って聞いたら、図書館に行ってるって言ってたから、そこじゃない?」
忘れていた。そうだ今日は土曜日だ。天啓を得た気分になったけれど、すぐに心の中で頭を振る。
けど、違う。
しばらく僕は図書館に行っていないから、結野さんも行ってないはずだ。とりあえず、今日は大学には来てないことがわかっただけでも収穫。連絡はしているし、勢いでここまで来てしまったけれど、大人しく返信を待つのが一番かもしれない。
「ありがとうございます。その図書館、心当たりがあるので行ってみます」
行く気はなかったけど、せっかく協力してくれた結野さんの友達に失礼はしたくなくて、否定はしなかった。「不躾にすみませんでした。失礼します」と去ろうとした時、小村さんが僕を呼び止めた。
「林道さん、もしこの後栞に会えたら伝えて欲しいんです。さっき連絡も入れたけど、三月のオケのこと、無理しないで栞のペースで考えて、返事くれればいいからねって」
小村さんに続くように、後ろの彼ら彼女らも頷く。
「と、言いますと……?」
「あ、いや、最近、というかここ数ヶ月、栞、いつもよりさらに元気なくて……。よく咳もしてて、講義も休みがちだったから、私たちも心配で」
みんなの様子を見てると、居心地の悪そうな、本当に心配そうな表情をしているから、本音なのだろう。
接している感じ、とても人柄の良い人たちだということはわかる。
結野さんの暗い変化は、僕が彼女を傷つけたせいだ。その事実が胸のうちをきつく縛った。
「栞って不器用なだけだと思うんですよ。大学から急にクールになったけど……。だって、栞の音は素敵だから。あ、栞って本当にすごいんですよ。あのビブラートをコントロールする技術。揺らぎを添えたドラマチックな響きは、栞にしかない唯一無二の音色って感じなんです! あ、すみませんつい……」
小村さんの純粋無垢な表情に、思わず微笑む。
「わかりました。絶対に伝えます」
と、僕は応えた。結野さんの音は素敵。
その言葉が心から嬉しかったから。
携帯はいくら電話しても出ないし、メッセージも未読のまま。結野さんの家に行こうと思ったけど、休日の午後なら学生オーケストラの活動をしていると前に結野さんから聞いたのを思い出し、国際芸術大学に行き先を変えた。
キャンパスは思ったよりも普通だった。弓型にしなる建物とか、卵みたいな建物とか、奇抜な建造物が立ち並んでいるのかなと想像していた。特に京林大学と変わらない西洋風の建物が出迎えてくれた時は、緊張して強張っていた胸の筋肉が少し緩んだ。
念の為、守衛さんには視線を合わせないようにして、颯爽とキャンパスに入る。
建物は普通だけど、個性的な装いをしている学生が多い。
色の名称が存在しなさそうな刺々しい髪色をした人。
マントのように長い上着をはためかせて歩く人。
全身の至る所が真っ黒で、カラスがそのまま擬人化したような人。
結野さんとはまた違ったタイプの強い個性に、緩んだ胸がまた強張る。
校内地図を見ても、どこに結野さんがいるか見当もつかなかった。誰かに聞いてみようかと思っても、行き交う人がほとんど主張激しめな身なりだから、話しかけるのもなかなか高いハードルだった。
しばらくうろうろしていると、平べったい建物の入り口から出てきた小柄な女性が視界に入った。だぼっとしたラフな半袖のスウェットシャツを着ていて、髪はツインテール。ヴァイオリンの楽器ケースを肩に掛けている。元気で人の良さそうな顔。楽器を持っているなら、結野さんを知っているかも。早歩きでキャンパスの奥に向かおうとする彼女を、精一杯に走って追いかけた。
「すみません!」
僕の声に、小柄な女性は勢いよく振り向く。ツインテールの髪が首に遅れてついてきた。周りにいた学生の数人もつられて僕の方を見てきて、状況的にいつもなら恥ずかしさが募っていくのに、今は何も感じなかった。
「私、ですよね? どうかされました?」
周りにいた学生たちはいつの間にか去っていて、束の間の静寂が辺りを覆う。彼女の向こうには開けた中庭があって、白いベンチの周りで談笑する楽器ケースを持った学生の団体が見えた。僕は彼女に歩み寄る。とても警戒した目つきで僕を見上げてはいるけれど、彼女の澄んだ目を見ると不思議と心が軽くなる気がした
「突然すみません。ここの大学の器楽科の生徒で、結野栞という人を探しています。今日ここにいるかとか、ご存知ないですか?」
「栞を……」
結野さんを下の名前で呼ぶということは、知り合いの可能性が高い。それに、結野さんの名前が出た瞬間、わずかながら表情が柔らかくなるのを感じた。けれど、まだ警戒しているのだろう。目を逸らして、気まずそうに僕の左足付近を見つめている。
「失礼ですが、結野さんのお友達、でしょうか? 僕は結野さんと小学生からの付き合いで、林道直人といいます」
小学生からの付き合いだということ、そして名前を明かせば少しは警戒心を解いてくれるだろうかと思っての発言だった。
けれど、彼女の反応は予想以上の、砕けたものだった。
「りんどう……? もしかして、栞からりんくんって呼ばれてます……?」
りんくん。結野さん以外から初めて呼ばれて、思わず体が強張る。
「あ、はい。そう呼んでくるのは結野さんだけですけど……」
僕の言葉に、彼女の表情はみるみると明るくなった。
警戒している状態でも、純粋ここに極まれり、といった雰囲気が滲み出ているのに、さらに煌めきが増した。
結野さんとどこか似ている。きっとこの人がヴァイオリンを奏でたら、彼女と同じような、陽気で軽やかで、踊っているような音色が辺りを漂うのだろうなと、直感的に思った。
「やっぱり! 初めまして。私は小村美咲っていいます。栞とは専攻する楽器は違いますけど、同じ学科でよく一緒にいるんです! それで、よくりんくんって人の話をしてくれて、それがもう楽しそうに話すんですよ。大学から急に栞、周りにツンとした態度を取り始めて、どこか元気もなくて……。そんな栞があんまり楽しそうに話すから、どんな人か気になってて! 会えて嬉しいです!」
立て板に水を流すような調子で、興奮気味に話す小村さん。
結野さんが僕のことを他人に話してくれていたことに、嬉しさが込み上げてくる。
でも、ツンとしているというのはどういうことだろう。
確かにフルートのことになると少し傲慢になることはあるが、基本的には明るく人あたりの良い性格だから、ツンとしている結野さんをあまり想像できない。
「そんな上等な人物じゃないですよ。でもありがとうございます。あの、それで、彼女がどこにいるか、ご存知です……? 携帯に連絡はしたんですけど、全く反応がなくて」
「あ、そうでしたね。ごめんなさい、今日は大学に来ないって今朝連絡があって。だからわからないんです。私もさっきオケのことで電話したんですけど、出なかったし。あ、ちょっと待ってくださいね、メッセージ送ったから……。だめだ、やっぱり既読もついてない」
「そう、ですか……」
小村さんに会えて、トントン拍子で結野さんに会えるかもと期待していたから、落胆も大きかった。
しばらく無言で俯いてしまって、小村さんが慌て始めた。
「小村、どうしたん?」
前方にたくさんの気配を感じて顔を上げると、中庭に見えていた学生の団体が小村さんを囲うように立っていた。先ほどキャンパスを歩いていて、行きずりに見た学生とは異なり、彼ら彼女らはオフィスカジュアルのような、綺麗めの服装をしていた。
「あ、みんな、今日栞ってどこにいるか知らないよね? この人は林道さんっていって、栞と小学生からの幼馴染なんだって。私もたまに栞から話聞いててさ、あれ? そういえば、なんで栞を探してるんでしたっけ?」
幼馴染という響きに首を小さく傾げていたから、突然の問いかけに心が揺れた。
そういえば、結野さんを探してる理由を考えていなかった。宮野との複雑な出来事を語ったところで、訝しげに見られるだけだ。
「あ、えっと、彼女とこの前会った時にキャンパスを見せてくれるって約束をしていて、時間通りに校門前に来たんですけどいなくて……」
高速で頭をフル回転させて得た理由だったけれど、思いの外淀みなく話すことができた。
小村さんや彼ら彼女らの「なるほど」といったように頷く様子を見て、さらに胸を撫で下ろす。
「栞、たまに抜けてるとこあるからなあ。それは災難でしたね。で、みんなわかる? 私も別件で連絡してるんだけど、栞から反応ないんだよね」
と、小村さんが問いかけると、コーヒー色のヴァイオリンケースを手に持った女性が「確実かはわからないけど」と切り出した。
髪は黒髪のロングで、白の半袖のブラウスに、グレーのジャケットの袖を通さずに羽織っている。
「前に、土曜の夕方はいつもいなくなるから、バイト?って聞いたら、図書館に行ってるって言ってたから、そこじゃない?」
忘れていた。そうだ今日は土曜日だ。天啓を得た気分になったけれど、すぐに心の中で頭を振る。
けど、違う。
しばらく僕は図書館に行っていないから、結野さんも行ってないはずだ。とりあえず、今日は大学には来てないことがわかっただけでも収穫。連絡はしているし、勢いでここまで来てしまったけれど、大人しく返信を待つのが一番かもしれない。
「ありがとうございます。その図書館、心当たりがあるので行ってみます」
行く気はなかったけど、せっかく協力してくれた結野さんの友達に失礼はしたくなくて、否定はしなかった。「不躾にすみませんでした。失礼します」と去ろうとした時、小村さんが僕を呼び止めた。
「林道さん、もしこの後栞に会えたら伝えて欲しいんです。さっき連絡も入れたけど、三月のオケのこと、無理しないで栞のペースで考えて、返事くれればいいからねって」
小村さんに続くように、後ろの彼ら彼女らも頷く。
「と、言いますと……?」
「あ、いや、最近、というかここ数ヶ月、栞、いつもよりさらに元気なくて……。よく咳もしてて、講義も休みがちだったから、私たちも心配で」
みんなの様子を見てると、居心地の悪そうな、本当に心配そうな表情をしているから、本音なのだろう。
接している感じ、とても人柄の良い人たちだということはわかる。
結野さんの暗い変化は、僕が彼女を傷つけたせいだ。その事実が胸のうちをきつく縛った。
「栞って不器用なだけだと思うんですよ。大学から急にクールになったけど……。だって、栞の音は素敵だから。あ、栞って本当にすごいんですよ。あのビブラートをコントロールする技術。揺らぎを添えたドラマチックな響きは、栞にしかない唯一無二の音色って感じなんです! あ、すみませんつい……」
小村さんの純粋無垢な表情に、思わず微笑む。
「わかりました。絶対に伝えます」
と、僕は応えた。結野さんの音は素敵。
その言葉が心から嬉しかったから。
