ことばにおとをー君の死を、僕の最高傑作の燃料にー

※

りんくんを、追いかけることができなかった。

宮野と付き合っていることの誤解だけなら、すぐに追いかけた。
けれど、違う。私は彼を傷つけてしまった。古傷を抉り、その上に新しい傷をつけてしまった。

知らなかった。りんくんがいじめられていたなんて。
わかっていなかった。
人の、脆くて、儚い心と向き合うことの難しさを。恐怖を。

癌になってから人との関わりを極端に少なくしていたから、自分ばかりに目がいって、他人の心まで寄り添えなかった。
死の恐怖に囚われて、人と生きることの難しさを、いつの間にか、下に見ていたのかもしれない。

ただ、りんくんを守りたかった。彼の助けに、少しでもなりたかった。
私を助けてくれた人をバカにされて、どうしても許せなくて、彼の素晴らしさを伝えようと……。

雨が強くなってきて、視界が煙る。密かに、静かに、大事に積み上げてきた拠り所が、瞳から洗い流されていく。どうしてこんなに、うまくいかないのだろう。

あれから、しばらくその場で呆然と立ち尽くしていた。いくら話しかけても私の視線が中空を見つめていたからか、宮野は諦めて、「またくるからな」と言葉を乱暴に捨てて、去っていった。

そぼ濡れた服が、手錠のように心を縛る。
そのまま帰宅して、部屋に閉じこもった。
母親の心配する声は、遥か遠くから聞こえてくるようで、淡く朧げに耳の周りを浮遊するだけだった。

余命宣告から数ヶ月、もうたくさん泣いてきたからか、悲しいのに涙も出ない。
瞳も、肌も、思考すらも、潤みは消えて枯れてしまった。
窓に当たる夕立の粒が、不規則な音を生んでいる。
それだけが、ばらばらになった私の感情の欠片に都合よく当たって、虚しい響きとなって、私に意地悪く寄り添ってきた。

宮野とは、神奈川にいた時、高校一年の時の文化祭で出会った。
容姿端麗で他校に来ているのに取り巻きも多く、目立った存在だった。

けれど、私は全く彼に興味がなかった。

外のコンクールとかでほとんど参加はできていなかったけれど、私は吹奏楽部に所属していて、文化祭で一部のメンバーと小さな演奏会をした。演奏会が終わり、音楽室に帰ろうと、ひと足先に体育館と校舎を結ぶ外の渡り廊下を歩いていたところで、宮野に話しかけられた。

自信に満ちた表情と声色。上辺では性格も良く、取り巻きも肯定してくれているからなのか、下心を隠せていないことにも気づけていない。悪い人ではなさそうだけど、苦手なタイプだった。愛想良くその場を躱したけれど、それが良くなかった。

私に対する自身の好意を受け取ってもらえたと勘違いした宮野は、放課後、頻繁に私を校門前で待ち伏せていた。
何度も、交際を申し込まれた。外面がいいから、私の友達も付き合えばいいと囃してきたけど、それもなんとか躱していた。

けれど、一ヶ月ほど経ったある日、宮野の態度が一変した。人気のないところで待ち伏せて、私に詰め寄り、見たことのない敵意に満ちた冷然とした目で、何度も脅迫まがいの交際の申し出を繰り返した。私は怖くなって、仕方なしに交際を受け入れた。

まるで無音の世界を流離さすらうような交際期間の中で、一つだけよかったことがあった。
ずっと頭の片隅にあったりんくんの存在が、また私の中で煌めき出したことだ。

高校の入学時、小学生の時に仲の良かった山路俊子という女の子と偶然再会を果たして、私とよく遊んでいたりんくんの話題が会話に上がったことがあった。

私が転校した後にいじめは受けていなかったのか、その話は出なかったし、あまり俊子ちゃんも関わりがなかったみたいだから、詳しくはりんくんの状況を知らなかったけれど、中学まで一緒だった彼女から、りんくんがどこの高校に進学したかは教えてもらった。

宮野がりんくんと同じ高校と知った時は、とっても嬉しかった。神奈川にいた時も、電車を乗り継げばすぐにひばり公園には行ける距離だったけど、流石に何もなく偶然を装って会いに行くのは恥ずかしくてできなかった。これがきっかけになって、また会えるかもしれない。

でも……りんくんの名前を出したのが、宮野との関係にとって完全な悪手だった。

二人で歩いていて、人気のない通りに差し掛かった瞬間、側のアスファルトの壁に詰め寄られ、「今、俺と一緒にいるのに、あんな取り柄のないやつのことなんか口にすんな」と、ドスの効いた声で、脅すように言葉の石をぶつけてきた。

「あいつ、俺たちと全然関わろうとしねーし、いい気なもんだよな」とか、「甘やかされて育ったんだろーぜ」とか、りんくんへの中傷がとめどなく流れ出てきた。

もう耐えられなくなって、その場で勇気を出して別れを申し出た。殴られることくらいは覚悟してたけど、私から思いの外大きな声が出て、偶然通りかかったサラリーマン風の男性二人が異変を感じて私たちに話しかけてきたからか、宮野は逃げるようにその場を去った。

それ以降は私の前に現れることはなくて、安心していたのに、今更、どうして。

いや、わかってる。宮野は、自分の考えこそが”正”で、それ以外の答えだったり、自分より劣っているとみなした人が評価されていると、たまらなく嫌な人なんだ。常に優秀で、正しい自分が誰かに拒絶されたら、耐えられない人。脆く弱い心を必死に隠して、常に気を張っている人。

きっと、私がりんくんといるところをどこかで目撃したんだろう。風の噂で、宮野が志望大学に落ちたと聞いたから、繊細な心が余計に脆くなって、自分に背を向けた私が、自分より劣っている人として認定しているりんくんといることが、耐えられなかったのだろう。宮野自身の人生への腹いせにも思える。

……いや、どうでもいい。私は、りんくんを傷つけた。
私の元から、りんくんがいなくなった。

先が崖になっている道を、優しく照らしてくれていた人が、消えてしまった。
不意に、鞄から覗いたノートが目に入った。
濡れてしまったけど、歌詞の書かれたページは無事だった。
視線を紙面に落とす。出ないと思っていた涙が、こぼれ落ちた。

ねえ、りんくん。私は、死が、ものすごく怖い。
君のいてくれるおかげで、少し和らいではいても、本当に怖い。

なのに、なんで?
君はそんな死さえも、なんでこんなに美しく捉えることができるの?

天国に行ったら、また一緒に過ごそうって、なんで思えるの? 
死の先でも、人を思いやれるの? 
君がまだ、私と違って死を隣に置いていないから?

ううん。
君は死ぬ間際でも、きっと、ずっと、世界が煌めいて見えるんだろうね。
そう、断言できる。

早くまた会いたいよ、りんくん。
君の瞳に映る煌めいた世界に、私を少しでも長く、いさせてほしい。

部屋を力無く見渡す。
少し埃の付いたフルートケースが、部屋の隅で佇んでいた。


※

あれから、数ヶ月が経った。

結野さんには会えていないし、連絡も取っていない。図書館にすら行ってない。小さい頃を思い返して考えても初めてのことだ。図書館司書の中川さんから、何度かうちの母親に心配の連絡があったけど、大学が忙しくてと言ってもらっている。

大学に行って、講義を適当に受けて、バイトをして、帰ってレポートをしたり、携帯で動画を目だけで追って漫然と過ごしたり、意味を感じない日々の繰り返し。

何もする気になれないけど、何かをしていないと自分を保てそうにない。
後悔と反省に、向き合う勇気が持てない。わかってる。わかってるよ。結野さんは、人を馬鹿にするような人なんかじゃない。

いじめの時と似た状況で、忘れたかった記憶がまた脳裏に浮かび上がって、宮野の表情が恐ろしくて、咄嗟に、自分を守るために、身勝手に彼女に敵意を向けてしまった。庇ってくれた彼女を、守りたかったのに、僕は逃げ出したんだ。

何より醜いのは、自分の本音を覗かれる恐怖からの逃避。どこまでの身勝手な、逃避。
物語を書いて、人から認められて、成功して、そんな未来を願っておきながら、抱いてしまう。自分勝手な恐怖。矛盾。

幸せと感じていた日常はなんの努力の結果でもなくて、ただ神様の出来心で、幸運を渡してもらっていただけなのに。
僕はそれを自分で投げ捨てた。



「それで? 結野さんを傷つけてしまって、どうすればいいかと。そういうことか?」

僕は黙って頷く。商店街のファミレスは、休日にも関わらず客がほとんどいない。
本田は眉間に皺を寄せながら、不服そうな面持ちをしている。

「それはなかなかのやらかしだねぇ、りっちゃん」

デリカシーなく言い放つのは、本田の隣でにやついている野口だ。結野さん、宮野との一件が起こる前、野口に会いたいと以前から言っていた本田の要望に応えて、バイト終わりに待ち合わせて三人で遊んだら、あっという間に二人は意気投合していた。

で、今回のように三人でたまに会っていた。結野さんのことは、本田からペラペラと、そして所々誇張されて野口には伝わっている。日々のルーティーン以外は何もする気にならなくて、あの一件以降は誰とも会っていなかったけれど、一人ではどうしても考えがまとまらなくて、行動への勇気も出なくて、相談として二人に声をかけた。

「笑い事じゃないよ。結野さんは何も悪くないのに、最低だ。本当に」

野口は深い息を吐きながら、椅子にもたれかかった。

「最低だ。本当にって、ただの自己防衛じゃん。いやいや、そこまでは悪くないよとか言って欲しいの? もしそうなら俺は帰るよ。傷つけたことが事実で、選択肢は一つしかないのに、結局は逃げる免罪符を欲しがっているようにしか見えないな。今のりっちゃんからは。それに、りっちゃんは色々考えすぎて思いつめて、どこか本心を隠すようなことがあったけど、それじゃあ誰もりっちゃんの気持ちなんてわからないし、わかってもらえないよ。自分を守るために振りかざす善意なんて、暴力だよ」

野口から次々に放たれる言葉の矢が、そろそろ射抜かれる場所がなくなるくらい全身に刺さりまくる。「まあ、そこはのぐっちの言うとおりだな」と言う本田の同意も、さらに追い討ちをかける。

「けど。宮野の件は、本当にすまんな……。歴代の彼女はなんとなく知ってたけど、そのうちの一人が結野さんだったのかね。基本的にあいつは秘密主義だったし、よくわかんねーけど。どの人とも長続きはしてなかったイメージだな」

急に、本田が悲哀に満ちた目色で僕に視線を合わす。長続きしていないイメージ。その言葉が胸のうちで少しの時間引っかかって、でもすぐに腹の底に落ちて消えた。

「いや、前にも言ったけど、本田が悪いんじゃないよ。むしろ全くの無関係じゃん」

「うーん。あいつ、妙にプライドが高すぎるとこがあるというかさ。大学受験の失敗がそれに重なって、色々と耐えられなくなったのかなって。肩を持ってるわけじゃねーよ? ただこないだ、安井にもう一度連絡を取ってみたら、口止めされてたみたいなんだけど、ランクを落とした志望大学も落ちたみたいでさ。センター試験で思った以上に点を取れなくて、そこからずるずるそれを引きずって。んで、今は浪人中なんだと」

話を一旦切ると、本田が野口に安井(宮野と仲の良かった優しい男)の説明をしている。そうか、だから宮野はこちらにいたのか。センター試験の失敗は、精神的にかなりダメージがあるし、その後で調子を崩して大学に落ちるパターンは珍しくない。アイスコーヒーを手を伸ばしたところで、本田が再び話し出す。

「今は安井もほとんど連絡が取れないんだって。とりあえず宮野に会って、一言言ってやろう思ったんだけどさ。絶縁される前に、なんとなくあいつの凶暴性というか、危なっかしいところに気づいてはいたから、なんとかすべきだった。ごめん、林道」

建前とかではなく、本気で僕に謝っていることが、彼の真剣な目色から伝わってくる。たとえ自分が悪くなくても、相手の心情を慮った言動ができる。本田の”誠実な他者への関心”という強さを側で見てきたのに、何も学んでこなかったなと、思わず両手に力がこもった。「本田のせいじゃないって、本当に」と、落とすように力無く言葉がこぼれた。

「まあとりあえず、りっちゃん。男ならぐちぐち悩んでないで、すっぱり謝れってことだよ。本田っちみたいに。そもそも、さっきも言ったけどりっちゃんは色々考えすぎ。俺も本田っちも、りっちゃんのそういうとこが大好きだけど、もっと感情に正面から向き合うことも大事だと思うよ」

「のぐっちに賛成。林道、今回の件は完全に宮野がわりーよ。でも、お前は結野さんを傷つけたと思ってんだろ? ”宮野”っていう環境のせいにして、このままでいたら、それこそあいつと同じだよ。同類。もし林道がそうなら、この場で縁切るわ」

彼らの、友達の言葉に、思考が冷静になって一つの道が脳裏に敷かれる。
そうだ、自分は逃げたとかなんとか、悩んでいるだけでさらに現実から逃げようとしてた。

物事を多面的に捉えて、わざと複雑にして、ひたすらに逃げようとしていた。”自分の異常性に悩んでいる”という剣を振りかざして、人を傷つけた。悪いと思ったら、素直に謝る。この歳になって、そんなことにもすぐに気づけない。そんな自分が本当に情けない。

「ありがとう、二人とも。ごめん、ちょっと今日はもう帰る」

財布を出そうとして、野口に止められた。

「ここはおごるから、その代わり今度大学でたっっっぷり、結野さんって人のこと聞かせてね」

僕は野口と本田にもう一度お礼を言って、店を後にした。