次の日。朝の必修科目の外国語の講義は、いつも以上に耳に入ってこなかった。国文科では一部の英文科の講義も履修することができて、英語は存分に学習の機会があるから、特に深い考えもなく中国語を選択したことに今はとても後悔している。
中国語がどうこうではなく、”必修科目”と”無関心”が組み合わさると、こうも耳が音を遮断してしまうことを知らなかった。夕方の予定という気がかりも加わった今日は、言うまでもなく爆睡だった。
昼は向こうのからの誘いがあって、食堂前で野口と待ち合わせた。僕はいつも通り唐揚げ丼を頼む。野口は外国語で一緒になった人の中に自分の好みの女性がいたらしく、最近はその話を延々と聞かされる。
申し訳ないけど、今日は夕方のことがとにかく気がかりで、野口の話の八割くらいが、鼓膜に届かず儚く消えていった。
四限の音声学の授業はサボり、僕はそそくさと大学を後にした。電車に乗っている間は袖仕切りに身を任せて、視界を高速で滑る景色をただ呆然と眺めていた。心は朝からずっと、図書館前にあった。
図書館に着いたけれど、約束の時間まではまだ一時間くらいある。季節は初夏。今は本を読む気にはならないし、まだ外にいてもぎりぎり耐えられる気がする。僕は側の池まで移動して、ベンチに腰掛けた。今日はいつものおじいさんがいなくて、少し寂しさを感じながら、池に悠然と浮かぶ睡蓮を見つめていた。
暮合の物悲しい空気が園内に漂い始めた頃、西口の方面から歩いてくる結野さんが視界に入った。彼女は僕に気づくと、控えめに手を振って、駆け足で向かってくる。
珍しく、今日はフルートを肩に掛けていなかった。初めてかもしれない。フルートと一緒にいない、彼女を見るのは。
「お疲れ様。楽しみで少し早くきたのに、りんくんのが早くて少し悔しい」
結野さんはわざとらしく、不機嫌な顔を見せる。楽しみで、という言葉が頭の中で大きな字になってこびりついた。必死に冷静を保つ。
「僕も今来たとこだよ。急に誘ってごめんね」
痺れた足を、心の中で叱咤する。
「ううん。めっちゃ嬉しかった! それで、何か相談とかでもあるの?」
「相談じゃない。ちょっと移動しよう」
僕はまず、結野さんを図書館裏手の小さな広場に案内した。平日は特に周りの人通りが少なく、落ち着いた雰囲気に包まれた場所。「こんなとこあったの、知らなかった」と、彼女も興味津々に辺りを見渡していた。一基しかないベンチに二人で腰掛ける。
持ってきたトートバッグに静かに手を入れて、僕はノートを取り出した。あえて、小学生の時に見せたノートと同じメーカーのものを購入して、それに歌詞を書いた。結野さんはすぐに気づいたのか、目を見開いた。
「このノートって、昔見せてくれた……」
覚えていてくれて、嬉しかった。思い出が再び、嬉々として脳裏で色めき立つ。
「うん。昔のはぼろぼろになったから、新しいやつだけど」
「新しく、小説を書いたの?」
「ううん。実は、歌詞を書いてみた。結野さん、ずっと前にノートに書いた物語を褒めてくれたでしょ? それをベースに、歌詞として短くリメイクした」
「あの、亡くなった、ピアノの好きなおばあさんに向けた……」
内容まで覚えてくれていたことに、少々驚いた。開かずの引き出しを覗かれたような、多少の焦りも。緊張するな、見せるんだ。綺麗な方の自分の思いを。
「そう。でも今回は、少し違う」
僕はノートを開いて、「読んでみてほしい」と、彼女に渡した。
しばらく結野さんはノートをじっと見ていた。すぐ読み終わる長さだけど、繰り返し読んでいるのか、それとも内容が気に入らなくて、返す言葉を見つけられずにいるのか。不安でしょうがなかったけれど、彼女が読み終わり言葉を出すのを待った。
数分経って、次第に彼女の手が小刻みに震え始めたのがわかった。戸惑う。何か嫌な箇所でもあっただろうか。啜り泣く声も聞こえて、ほとんど僕はパニックになった。
「結野さんどうしたの⁉︎ ごめん、何か気に障るような箇所とかあった⁉︎」
結野さんは激しく首を振る。「違う」と、力強く言葉を絞り出した。
「すごいね。本当に、素敵な言葉。やっぱり、りんくんはきっと……」
結野さんの言葉が切れた。続きがわからない。
けど、とりあえず傷つけたわけではないことに、僕は安堵した。
「すごくないけど、なんていうか……」
この歌詞に込めた思いを話そうとしたところで、
「この歌詞、きっと、主人公はりんくんだよね?」
と、結野さんに言い当てられた。前に彼女が言っていた言葉を借りるなら、音のその先、言葉の先にあるものを見つけてくれた。
「うん、これは、結野さん……への、なんていうか、結野さんには感謝してるんだ。小学生の時、色々と自信がなくて、みんなと馴染めなくて、しんどくて、でも、結野さんと、フルートの音色のおかげで救われたから……。たとえ自分が死んでも、結野さんにはずっと笑顔でフルートを吹いててほしいなって」
しどろもどろ。自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。結野さんは大切な人だから、もし自分が先に死んでも、君にはずっと笑顔でいてほしい。そんな想いを、すらすらと言いたかったのに。
「でもさ、これって、死んでも私を縛りつける、呪いの言葉にも見える」
意地悪い笑みを浮かべながら、僕を見る。
「違うよ! 別にそんなつもりじゃ!」
「冗談だよ。嬉しい。本当に。ありがとう、りんくん」
変わらず小悪魔的な笑みを浮かべているのに、彼女の瞳に決意が滲んだような鋭利な光が仄めいた。
大粒の雫を頬に垂らして、僕を見つめる結野さん。なぜそんなに泣くのだろう。笑顔でいてほしいのに、本当に嬉しいのかと不安になる。でも、彼女が嬉しいと言ってくれたなら、それを信じる。
「ううん。こちらこそ、そんな風に言ってくれてありがとう」
幸せそうに口角を上げながら、歌詞を見つめる結野さんを僕はただ見ていた。
隣にある温もりを、大事にしたかった。
時間はそこまで経っていなかったけれど、いつの間にか空は掻き曇っていて、一雨きそうな兆しがあった。
外灯に光が灯り始める。
「結野さん、今日は楽しかった。そろそろ解散しよっか」
「うん、私も。また土曜もあるしね」
二人でベンチを立った時だった。
外灯の下で、人影を認めた。息が止まる。
金髪に、すらっとした体型。改めて見ると、目に隈があって以前よりもかなり不健康に見える。
顔は相変わらず整っているからまだマシに見えるけれど、学生の時の輝きは消えていた。
「宮野……くん? なんでこんなところに?」
寒気がした。宮野はにやっとして、人を下に見るような、そう、高校の時に受け続けた、冷然とした目色を浮かべた。そして、隣にいた結野さんが、「宮野、なんであんたがいるの?」と言った。二人に接点なんてないはずだ。知り合い?と僕が彼女に尋ねるより先に、宮野の「は?」という敵意に満ちた言葉が辺りの静寂を汚して、空間を不穏に支配した。僕と彼女を交互に見て、急に鼻息が荒くなり眉間に皺が寄る。
「宮野じゃないだろ。啓太だろ? 栞」
栞。下の名前の呼び捨て。かなり親しい間柄だったのだろうか。胸のうちで、締め付けられる感覚が走る。また、宮野は僕を一瞥して、見下すような目つきを見せて、再び結野さんに視線を戻した。
「栞、こんなやつとなんでつるんでんの? こいつ、高校の時はずっと教室の隅に一人でいて、みんなから嫌われてて、正直言って人間の底辺だよ。見るだけで吐き気がする。栞、お前はこんなやつといていい人間じゃねーよ」
言葉が出ない。この場にいたくない。隣で結野さんも震えているのがわかる。二人がどんな関係かは知らないけど、怖がっているなら、僕が守らないと。乾ききった唇を結び、半歩前に出る。
「謝れ……」
不意に、隣から言葉が発せられた。
見たこともない、結野さんの冷たくて、怒った表情。
「は? 何?」
宮野は結野さんの表情を見ても、気にする様子も見せない。
「りんくんに謝って! あんたなんかと違って、りんくんは誰よりも素敵な人! 優しくて、人の心の先に、想いを寄せられる人! あんたなんかに、バカにされる筋合いなんかない!」
結野さん……。嬉しかったけど、宮野の表情が、憤怒に変わって空気が異常に張り詰めて、それどころではなかった。
「うるせぇ! おい林道! 何庇ってもらって嬉しそうにしてんの? お前なんか栞に合わねーんだよ。栞は俺と付き合ってんだ。気安く一緒にいるな」
え、結野さんが宮野と、付き合っている?
「は? もうあんたなんかと付き合ってなんかっ——」
「わかったな林道! なーんもない、からっぽで、親からも甘やかされて……。お前が一緒にいていい人間じゃねーんだよ! 俺も栞も!」
思考が固まる。音が消えた。
靄がかかったように、視界が薄暗く灰色に染まっていく。
「いい加減にして! りんくんに取り柄がない? あんたなんかりんくんの足元にも及ばない! りんくんは、素敵な物語を、素敵な言葉をかける!」
結野さんはノートを開いて、宮野に見せつける。
結野さん、やめて。それを宮野なんかに見せないで。お願い。
ーーまだ君以外に、たとえ片割れの感情でも本音を覗かれる覚悟はないんだ。
宮野なんかに、僕の本音を暴かれるなんて、絶対に耐えられない。
「はは。お前もしかして、高校の時も実はこんなの一人で書いてたとか? 根暗かよ」
いじめの時の痛みが、頭の中で駆け回る。
心の芯に唾をかけられ、思い出しくない過去が周りで渦巻く。
みんなの敵意が蘇って、棍棒で打ち据えてくる。もう、やめてくれ。
感情がばらばらに爆ぜて、理性の蓋を吹き飛ばす爆発音が胸のうちで響いた。心の中にあった”いい子”の手札が、闇に落ちていく。
「あんた、りんくんをこれ以上ばかにするならっ……!」
「もう、やめろ!」
僕の大声が、空気を劈く。
荒々しい音になって、辺りにぶつかっていく。
「りんくん……?」
結野さんが心配そうに、僕に手を伸ばす。
振り払う。どうせ、どうせ……!
「どうせ結野さんも、僕をバカにしてたんだろ! 宮野くんと付き合ってるのに、期待させるようなことして、からかってたんだ!」
ーー僕はやっぱり、誰からも認められない。欠陥人間だから。
「ちがっ……!」
「違わない! それになんでノートを見せたんだ! 結野さん以外に見せたくなかったのに……! 中学でいじめられて、ノートをボロボロにされて……それからずっと!」
鋭利な言葉の一つひとつが、自分の口から勢いよく放たれる。
僕の言葉の余韻が、静寂に泥を塗って、空気を闇に沈めていく。
「宮野くんの言うとおり、結野さんに、君みたいに未来が明るい人の側に、僕なんかが側にいるべきじゃないんだ」
もう、この場にこれ以上、いたくない。
耳に音が蘇る。青葉が騒ぎ始めた。いつの間にか、暮雨ぼうが街に落ちていた。
僕は二人に構わず駆け出した。「りんくん!」という結野さんの声。
僕の背中の前で、彼女の音は雨に打ち落とされ、儚く土に染み込んだ。
一歩踏みだす毎に、徐々に雨足が激しさを増していった。
中国語がどうこうではなく、”必修科目”と”無関心”が組み合わさると、こうも耳が音を遮断してしまうことを知らなかった。夕方の予定という気がかりも加わった今日は、言うまでもなく爆睡だった。
昼は向こうのからの誘いがあって、食堂前で野口と待ち合わせた。僕はいつも通り唐揚げ丼を頼む。野口は外国語で一緒になった人の中に自分の好みの女性がいたらしく、最近はその話を延々と聞かされる。
申し訳ないけど、今日は夕方のことがとにかく気がかりで、野口の話の八割くらいが、鼓膜に届かず儚く消えていった。
四限の音声学の授業はサボり、僕はそそくさと大学を後にした。電車に乗っている間は袖仕切りに身を任せて、視界を高速で滑る景色をただ呆然と眺めていた。心は朝からずっと、図書館前にあった。
図書館に着いたけれど、約束の時間まではまだ一時間くらいある。季節は初夏。今は本を読む気にはならないし、まだ外にいてもぎりぎり耐えられる気がする。僕は側の池まで移動して、ベンチに腰掛けた。今日はいつものおじいさんがいなくて、少し寂しさを感じながら、池に悠然と浮かぶ睡蓮を見つめていた。
暮合の物悲しい空気が園内に漂い始めた頃、西口の方面から歩いてくる結野さんが視界に入った。彼女は僕に気づくと、控えめに手を振って、駆け足で向かってくる。
珍しく、今日はフルートを肩に掛けていなかった。初めてかもしれない。フルートと一緒にいない、彼女を見るのは。
「お疲れ様。楽しみで少し早くきたのに、りんくんのが早くて少し悔しい」
結野さんはわざとらしく、不機嫌な顔を見せる。楽しみで、という言葉が頭の中で大きな字になってこびりついた。必死に冷静を保つ。
「僕も今来たとこだよ。急に誘ってごめんね」
痺れた足を、心の中で叱咤する。
「ううん。めっちゃ嬉しかった! それで、何か相談とかでもあるの?」
「相談じゃない。ちょっと移動しよう」
僕はまず、結野さんを図書館裏手の小さな広場に案内した。平日は特に周りの人通りが少なく、落ち着いた雰囲気に包まれた場所。「こんなとこあったの、知らなかった」と、彼女も興味津々に辺りを見渡していた。一基しかないベンチに二人で腰掛ける。
持ってきたトートバッグに静かに手を入れて、僕はノートを取り出した。あえて、小学生の時に見せたノートと同じメーカーのものを購入して、それに歌詞を書いた。結野さんはすぐに気づいたのか、目を見開いた。
「このノートって、昔見せてくれた……」
覚えていてくれて、嬉しかった。思い出が再び、嬉々として脳裏で色めき立つ。
「うん。昔のはぼろぼろになったから、新しいやつだけど」
「新しく、小説を書いたの?」
「ううん。実は、歌詞を書いてみた。結野さん、ずっと前にノートに書いた物語を褒めてくれたでしょ? それをベースに、歌詞として短くリメイクした」
「あの、亡くなった、ピアノの好きなおばあさんに向けた……」
内容まで覚えてくれていたことに、少々驚いた。開かずの引き出しを覗かれたような、多少の焦りも。緊張するな、見せるんだ。綺麗な方の自分の思いを。
「そう。でも今回は、少し違う」
僕はノートを開いて、「読んでみてほしい」と、彼女に渡した。
しばらく結野さんはノートをじっと見ていた。すぐ読み終わる長さだけど、繰り返し読んでいるのか、それとも内容が気に入らなくて、返す言葉を見つけられずにいるのか。不安でしょうがなかったけれど、彼女が読み終わり言葉を出すのを待った。
数分経って、次第に彼女の手が小刻みに震え始めたのがわかった。戸惑う。何か嫌な箇所でもあっただろうか。啜り泣く声も聞こえて、ほとんど僕はパニックになった。
「結野さんどうしたの⁉︎ ごめん、何か気に障るような箇所とかあった⁉︎」
結野さんは激しく首を振る。「違う」と、力強く言葉を絞り出した。
「すごいね。本当に、素敵な言葉。やっぱり、りんくんはきっと……」
結野さんの言葉が切れた。続きがわからない。
けど、とりあえず傷つけたわけではないことに、僕は安堵した。
「すごくないけど、なんていうか……」
この歌詞に込めた思いを話そうとしたところで、
「この歌詞、きっと、主人公はりんくんだよね?」
と、結野さんに言い当てられた。前に彼女が言っていた言葉を借りるなら、音のその先、言葉の先にあるものを見つけてくれた。
「うん、これは、結野さん……への、なんていうか、結野さんには感謝してるんだ。小学生の時、色々と自信がなくて、みんなと馴染めなくて、しんどくて、でも、結野さんと、フルートの音色のおかげで救われたから……。たとえ自分が死んでも、結野さんにはずっと笑顔でフルートを吹いててほしいなって」
しどろもどろ。自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。結野さんは大切な人だから、もし自分が先に死んでも、君にはずっと笑顔でいてほしい。そんな想いを、すらすらと言いたかったのに。
「でもさ、これって、死んでも私を縛りつける、呪いの言葉にも見える」
意地悪い笑みを浮かべながら、僕を見る。
「違うよ! 別にそんなつもりじゃ!」
「冗談だよ。嬉しい。本当に。ありがとう、りんくん」
変わらず小悪魔的な笑みを浮かべているのに、彼女の瞳に決意が滲んだような鋭利な光が仄めいた。
大粒の雫を頬に垂らして、僕を見つめる結野さん。なぜそんなに泣くのだろう。笑顔でいてほしいのに、本当に嬉しいのかと不安になる。でも、彼女が嬉しいと言ってくれたなら、それを信じる。
「ううん。こちらこそ、そんな風に言ってくれてありがとう」
幸せそうに口角を上げながら、歌詞を見つめる結野さんを僕はただ見ていた。
隣にある温もりを、大事にしたかった。
時間はそこまで経っていなかったけれど、いつの間にか空は掻き曇っていて、一雨きそうな兆しがあった。
外灯に光が灯り始める。
「結野さん、今日は楽しかった。そろそろ解散しよっか」
「うん、私も。また土曜もあるしね」
二人でベンチを立った時だった。
外灯の下で、人影を認めた。息が止まる。
金髪に、すらっとした体型。改めて見ると、目に隈があって以前よりもかなり不健康に見える。
顔は相変わらず整っているからまだマシに見えるけれど、学生の時の輝きは消えていた。
「宮野……くん? なんでこんなところに?」
寒気がした。宮野はにやっとして、人を下に見るような、そう、高校の時に受け続けた、冷然とした目色を浮かべた。そして、隣にいた結野さんが、「宮野、なんであんたがいるの?」と言った。二人に接点なんてないはずだ。知り合い?と僕が彼女に尋ねるより先に、宮野の「は?」という敵意に満ちた言葉が辺りの静寂を汚して、空間を不穏に支配した。僕と彼女を交互に見て、急に鼻息が荒くなり眉間に皺が寄る。
「宮野じゃないだろ。啓太だろ? 栞」
栞。下の名前の呼び捨て。かなり親しい間柄だったのだろうか。胸のうちで、締め付けられる感覚が走る。また、宮野は僕を一瞥して、見下すような目つきを見せて、再び結野さんに視線を戻した。
「栞、こんなやつとなんでつるんでんの? こいつ、高校の時はずっと教室の隅に一人でいて、みんなから嫌われてて、正直言って人間の底辺だよ。見るだけで吐き気がする。栞、お前はこんなやつといていい人間じゃねーよ」
言葉が出ない。この場にいたくない。隣で結野さんも震えているのがわかる。二人がどんな関係かは知らないけど、怖がっているなら、僕が守らないと。乾ききった唇を結び、半歩前に出る。
「謝れ……」
不意に、隣から言葉が発せられた。
見たこともない、結野さんの冷たくて、怒った表情。
「は? 何?」
宮野は結野さんの表情を見ても、気にする様子も見せない。
「りんくんに謝って! あんたなんかと違って、りんくんは誰よりも素敵な人! 優しくて、人の心の先に、想いを寄せられる人! あんたなんかに、バカにされる筋合いなんかない!」
結野さん……。嬉しかったけど、宮野の表情が、憤怒に変わって空気が異常に張り詰めて、それどころではなかった。
「うるせぇ! おい林道! 何庇ってもらって嬉しそうにしてんの? お前なんか栞に合わねーんだよ。栞は俺と付き合ってんだ。気安く一緒にいるな」
え、結野さんが宮野と、付き合っている?
「は? もうあんたなんかと付き合ってなんかっ——」
「わかったな林道! なーんもない、からっぽで、親からも甘やかされて……。お前が一緒にいていい人間じゃねーんだよ! 俺も栞も!」
思考が固まる。音が消えた。
靄がかかったように、視界が薄暗く灰色に染まっていく。
「いい加減にして! りんくんに取り柄がない? あんたなんかりんくんの足元にも及ばない! りんくんは、素敵な物語を、素敵な言葉をかける!」
結野さんはノートを開いて、宮野に見せつける。
結野さん、やめて。それを宮野なんかに見せないで。お願い。
ーーまだ君以外に、たとえ片割れの感情でも本音を覗かれる覚悟はないんだ。
宮野なんかに、僕の本音を暴かれるなんて、絶対に耐えられない。
「はは。お前もしかして、高校の時も実はこんなの一人で書いてたとか? 根暗かよ」
いじめの時の痛みが、頭の中で駆け回る。
心の芯に唾をかけられ、思い出しくない過去が周りで渦巻く。
みんなの敵意が蘇って、棍棒で打ち据えてくる。もう、やめてくれ。
感情がばらばらに爆ぜて、理性の蓋を吹き飛ばす爆発音が胸のうちで響いた。心の中にあった”いい子”の手札が、闇に落ちていく。
「あんた、りんくんをこれ以上ばかにするならっ……!」
「もう、やめろ!」
僕の大声が、空気を劈く。
荒々しい音になって、辺りにぶつかっていく。
「りんくん……?」
結野さんが心配そうに、僕に手を伸ばす。
振り払う。どうせ、どうせ……!
「どうせ結野さんも、僕をバカにしてたんだろ! 宮野くんと付き合ってるのに、期待させるようなことして、からかってたんだ!」
ーー僕はやっぱり、誰からも認められない。欠陥人間だから。
「ちがっ……!」
「違わない! それになんでノートを見せたんだ! 結野さん以外に見せたくなかったのに……! 中学でいじめられて、ノートをボロボロにされて……それからずっと!」
鋭利な言葉の一つひとつが、自分の口から勢いよく放たれる。
僕の言葉の余韻が、静寂に泥を塗って、空気を闇に沈めていく。
「宮野くんの言うとおり、結野さんに、君みたいに未来が明るい人の側に、僕なんかが側にいるべきじゃないんだ」
もう、この場にこれ以上、いたくない。
耳に音が蘇る。青葉が騒ぎ始めた。いつの間にか、暮雨ぼうが街に落ちていた。
僕は二人に構わず駆け出した。「りんくん!」という結野さんの声。
僕の背中の前で、彼女の音は雨に打ち落とされ、儚く土に染み込んだ。
一歩踏みだす毎に、徐々に雨足が激しさを増していった。
