※
大学で吐いて、泣きに泣いたあの日。
少しでも気分を紛らわせたくて、誰も使っていない練習室でフルートを吹いた。十分ほど吹いて、気持ち悪くなって、激しい咳が出てしまった。咳を落ち着かせると、私は逃げるように家に帰った。「栞? 早かったわね」と、リビングからママの声がしたけど、構わず部屋に戻った。
乱雑に鞄を投げて、フルートをそっと床に置いて、うずくまってまた泣いた。「栞、どうかしたの?」と、扉越しに聞こえる声。「ごめんママ。何もないから、お願い、一人にして」と、自分でも驚くくらいの低い音が出た。「わかった。何かあったらすぐに言ってね」と、声の余韻と足音が遠ざかっていくのを感じて、また啜り泣いた。
フルートは一見すると扱いやすい楽器に見えるかもしれない。けれど、見た目以上に体力がいる。歌口に唇を当てて、息を吹き込んで音を出す。口から出した息の半分は楽器の外に出てしまうから、金管楽器の中で最も大きいと言われるチューバと同じくらいの息がいる。
程度の差はあれど、楽器の演奏にはそれなりの体力がいるから、よく部活で吹奏楽部が制服のまま外を走る珍妙な景色も、理にかなっていることがわかると思う。
華やかに見える世界にも、見方を変えれば地味な暗がりがある。
私は傍目から見たらいたって健康に見えるだろう。でも、感じる。以前よりもずっと、フルートを吹くことが辛くなっている。体力的にも、精神的にも。短めの曲でも、演奏後にすぐ咳き込んでしまう。紡がれる一音一音が、日に日に気に食わないものになっていく。
たかだか音楽。ううん。違う。
私にとっては、それが心であり、命そのもの。
吹くことが生きること。満足に吹けない人生なんて、耐えられない。
たとえ生物的な命の終わりが、すぐそこまで迫っているとしても――。
きっと、この先、どんどん吹けなくなっていく。
命が、心が、少しずつ削られていく。
私は、自分が強いと思っていた。でも、そんなこと全然なかった。
弱かった。情けないほどに。
フルートが吹けなくなる残りの人生に、少しも耐えられそうにない。
生きる意味も、ない。
どうせ終わるなら、私から、終わらせてやる。
お前なんかの、病気なんかの、私は、私の命は、言いなりにならない。
椅子の背もたれに、小さめの輪をつくったネクタイを強く結んだ。私が赤ん坊の時、口に咥えてよく遊んでいたらしくて、パパからもらったものだ。その時のことは当然覚えてないけど、大切に保管していた。
こんな方法で、人間が死ぬのかはわからない。
でも、いい。とにかく、終わらせるんだ。怖がるな。怖がるな。
震える唇を結び、頭を輪に通そうとした時だった。部屋の扉を叩く音が聞こえた。
「栞、紅茶入れたけど、下で飲む?」
部屋に鍵はない。けれど、癌を患ってからは何か問題がない限り、私に気を遣って両親が勝手に扉を開けることはない。私はそのまま心に勢いをつけて、頭を輪に通した。椅子がずれる音が、猛々しく鳴ってしまった。
「栞? どうしたの? ごめん、入るわよ……。栞! 何してんの⁉︎」
ママが見たこともない剣幕で私に駆け寄る。もの凄い力で、私の首からネクタイを外した。頭の中で、理性の蓋の壊れる音がした。
「やめて! 私死ぬから! 癌なんかで死ぬくらいなら、自分で死ぬ!」
「馬鹿なこと言わないで! あなたにはまだ命がある! 自分で終わらせるなんて、言うものじゃありません!」
「ママはいいじゃん! これからもたくさん楽器を奏でられる! 私は、私は、大好きな音楽を、もう、これからどんどんできなくなる! ダメな子になっていく! そんなの嫌!嫌!嫌! 堪えられない!」
「栞……。あなたは素敵な……」
「素敵? そうだよ! 私は楽器の上手い素敵な子! 裕福な両親に愛された素敵な子! うるさい、うるさい、うるさい! ママもパパも、私を愛してたんじゃなくて、娘が評価される自分を愛してたんでしょ⁉︎ 小さいころからみんなそう! 上辺ばっかり!」
溢れ出す敵意が、抑えられない。私、どうしちゃったんだろう。
涙が、止まらない。声が、詰まる。私、どうしたらいいの。ママが、泣いている。私を、抱きしめた。「ごめんね。栞、たくさんごめんね。治してあげられなくて、ごめんね」って。昔は、練習でとにかく厳しくて、怖くてしょうがなかった両親が、いかに自分のことを愛してくれていたのか、皮肉にも病気になってわかった。わかっても、この先たくさん恩返しができるわけじゃないのに。ごめんね、ママ。ごめんね。
「ごめんなざい。ひどいごと言っで……」
「ううん。何もひどいことなんて言ってない。気にしないの」
ママの温もりが体中を駆け巡る。申し訳なさを感じてしまうけど、しばらくは、このままで……。
「ママ、わだし、いぎだい。もっどもっど、フルート、吹いでいだい……」
ママは黙って頷きながら、ただ「そうだね」と頷いてくれた。声も息も、ママの全てが温かかった。
同じ週の土曜日、午前中に、久しぶりにママと出かけた。駅前のデパートで服を見たり、お昼は喫茶店でご飯を食べたり。
心から楽しかったけれど、やっぱりどうしてもママに気を遣ってしまって、人混みの中でいつ体調が悪くなるかわからない不安もあって、眩暈がするほど気疲れしてしまった。家に帰って、部屋に着くなりベッドに飛び込み、そのまま眠りに落ちた。
二時間ほど眠って、目を開ける。最近、目覚めた後にしんとした部屋を見渡すと、とめどない恐怖が体の底から湧き起こる。身の寄せどころを失った、孤独という名の恐怖。健康の時に感じていた孤独とは、また別種のもの。本当に情けないけど、その恐怖を感じる度に、いつも涙が出てくる。
泣いた後しばらく呆然としていると、今日が土曜であることを思い出した。りんくんの姿が頭に浮かんだと同時に、私は身支度を手早く整え、リビングにいたママとパパに声をかけて急いで家を出た。
もしかしていないかもと、不安を抱きながら図書館に着いた。中川さんに挨拶して階段を急いで上がる。
夕陽に照らされながら、本を読むりんくんが、ちゃんと、いてくれた。
金波銀波みたいな煌めきを帯びた姿。いつも静かで、どこか寂しげで、何かを隠しているようなミステリアスさ。でも、陰鬱な雰囲気なんて全くない。心を縛る糸を緩めて、そっと撫でてくれるような、安心感。
小学生の時、クラスメイトのみんなと自分の微妙なズレに嫌気がさしていた頃。フルートを頑張れば頑張るほど、みんなとの間に距離が空いて、会話をしていても何処となく孤独を感じていたあの頃。
いつもみんなから離れた位置で悠然と本を読んだり、何かを書いてるりんくんが度々視界に入った。
学校の帰り道、おばあさんに道を聞かれたのか、りんくんが荷物を持ちながら近くのバス停まで歩く姿を見た。別の日でも、見慣れない親子と道を指差しながら何かを話している姿を見た。とっつきにくい子かと思っていたのに、意外と優しいんだなと思って、ますます気になるようになった。
思い切って声をかけたグループワークの日は、何度思い返しても私の人生で一番誇れる瞬間だ。
私のフルートを聴いて、その場の情景とか、音の先に込めた、私の形にならない”言葉”に気づいてくれたのは、彼が初めてだった。
あの、異常にも見えるほど、吸い込むくらいに物事を見つめる澄んだ彼の瞳。何もかもを自身に取り込もうとしているかのような、無垢な瞳。
久しぶりに会っても、その感性は変わっていなかった。
家に呼んで、防音室で初めて体が触れ合った。雰囲気だけじゃなくて、りんくんにはママやパパとは別の種類の温かさがあった。
それは、私が欲しかった、”安心”だった。
気を遣わずに、身を預けられる安心。
音に隠れた私の本当の言葉に、いつも気づいてくれる彼だから。
だから、そう、私、恋をしたんだと思う。りんくんに。
ううん。違う。もっともっと特別な感情。好きを超えた先にある、感情。
でも、その気持ちは言わない。だって、それこそ、本当に怖くなる。りんくんが好きで、好きが深くなるほど、君の側にいれなくなることが、怖くなる。
だから、言わない。言いたい、気づいてほしい、私の思いに。
でも、言わない。
頼りない命。音楽が私の手元から、流砂のように流れ落ちていく恐怖。
見出せなかった、生きる意味。
残りの命で、彼の人生を少しても照らしてあげたい。
自分に生きる安心をくれた彼の、役に立ちたい。
私の、音で。
大学で吐いて、泣きに泣いたあの日。
少しでも気分を紛らわせたくて、誰も使っていない練習室でフルートを吹いた。十分ほど吹いて、気持ち悪くなって、激しい咳が出てしまった。咳を落ち着かせると、私は逃げるように家に帰った。「栞? 早かったわね」と、リビングからママの声がしたけど、構わず部屋に戻った。
乱雑に鞄を投げて、フルートをそっと床に置いて、うずくまってまた泣いた。「栞、どうかしたの?」と、扉越しに聞こえる声。「ごめんママ。何もないから、お願い、一人にして」と、自分でも驚くくらいの低い音が出た。「わかった。何かあったらすぐに言ってね」と、声の余韻と足音が遠ざかっていくのを感じて、また啜り泣いた。
フルートは一見すると扱いやすい楽器に見えるかもしれない。けれど、見た目以上に体力がいる。歌口に唇を当てて、息を吹き込んで音を出す。口から出した息の半分は楽器の外に出てしまうから、金管楽器の中で最も大きいと言われるチューバと同じくらいの息がいる。
程度の差はあれど、楽器の演奏にはそれなりの体力がいるから、よく部活で吹奏楽部が制服のまま外を走る珍妙な景色も、理にかなっていることがわかると思う。
華やかに見える世界にも、見方を変えれば地味な暗がりがある。
私は傍目から見たらいたって健康に見えるだろう。でも、感じる。以前よりもずっと、フルートを吹くことが辛くなっている。体力的にも、精神的にも。短めの曲でも、演奏後にすぐ咳き込んでしまう。紡がれる一音一音が、日に日に気に食わないものになっていく。
たかだか音楽。ううん。違う。
私にとっては、それが心であり、命そのもの。
吹くことが生きること。満足に吹けない人生なんて、耐えられない。
たとえ生物的な命の終わりが、すぐそこまで迫っているとしても――。
きっと、この先、どんどん吹けなくなっていく。
命が、心が、少しずつ削られていく。
私は、自分が強いと思っていた。でも、そんなこと全然なかった。
弱かった。情けないほどに。
フルートが吹けなくなる残りの人生に、少しも耐えられそうにない。
生きる意味も、ない。
どうせ終わるなら、私から、終わらせてやる。
お前なんかの、病気なんかの、私は、私の命は、言いなりにならない。
椅子の背もたれに、小さめの輪をつくったネクタイを強く結んだ。私が赤ん坊の時、口に咥えてよく遊んでいたらしくて、パパからもらったものだ。その時のことは当然覚えてないけど、大切に保管していた。
こんな方法で、人間が死ぬのかはわからない。
でも、いい。とにかく、終わらせるんだ。怖がるな。怖がるな。
震える唇を結び、頭を輪に通そうとした時だった。部屋の扉を叩く音が聞こえた。
「栞、紅茶入れたけど、下で飲む?」
部屋に鍵はない。けれど、癌を患ってからは何か問題がない限り、私に気を遣って両親が勝手に扉を開けることはない。私はそのまま心に勢いをつけて、頭を輪に通した。椅子がずれる音が、猛々しく鳴ってしまった。
「栞? どうしたの? ごめん、入るわよ……。栞! 何してんの⁉︎」
ママが見たこともない剣幕で私に駆け寄る。もの凄い力で、私の首からネクタイを外した。頭の中で、理性の蓋の壊れる音がした。
「やめて! 私死ぬから! 癌なんかで死ぬくらいなら、自分で死ぬ!」
「馬鹿なこと言わないで! あなたにはまだ命がある! 自分で終わらせるなんて、言うものじゃありません!」
「ママはいいじゃん! これからもたくさん楽器を奏でられる! 私は、私は、大好きな音楽を、もう、これからどんどんできなくなる! ダメな子になっていく! そんなの嫌!嫌!嫌! 堪えられない!」
「栞……。あなたは素敵な……」
「素敵? そうだよ! 私は楽器の上手い素敵な子! 裕福な両親に愛された素敵な子! うるさい、うるさい、うるさい! ママもパパも、私を愛してたんじゃなくて、娘が評価される自分を愛してたんでしょ⁉︎ 小さいころからみんなそう! 上辺ばっかり!」
溢れ出す敵意が、抑えられない。私、どうしちゃったんだろう。
涙が、止まらない。声が、詰まる。私、どうしたらいいの。ママが、泣いている。私を、抱きしめた。「ごめんね。栞、たくさんごめんね。治してあげられなくて、ごめんね」って。昔は、練習でとにかく厳しくて、怖くてしょうがなかった両親が、いかに自分のことを愛してくれていたのか、皮肉にも病気になってわかった。わかっても、この先たくさん恩返しができるわけじゃないのに。ごめんね、ママ。ごめんね。
「ごめんなざい。ひどいごと言っで……」
「ううん。何もひどいことなんて言ってない。気にしないの」
ママの温もりが体中を駆け巡る。申し訳なさを感じてしまうけど、しばらくは、このままで……。
「ママ、わだし、いぎだい。もっどもっど、フルート、吹いでいだい……」
ママは黙って頷きながら、ただ「そうだね」と頷いてくれた。声も息も、ママの全てが温かかった。
同じ週の土曜日、午前中に、久しぶりにママと出かけた。駅前のデパートで服を見たり、お昼は喫茶店でご飯を食べたり。
心から楽しかったけれど、やっぱりどうしてもママに気を遣ってしまって、人混みの中でいつ体調が悪くなるかわからない不安もあって、眩暈がするほど気疲れしてしまった。家に帰って、部屋に着くなりベッドに飛び込み、そのまま眠りに落ちた。
二時間ほど眠って、目を開ける。最近、目覚めた後にしんとした部屋を見渡すと、とめどない恐怖が体の底から湧き起こる。身の寄せどころを失った、孤独という名の恐怖。健康の時に感じていた孤独とは、また別種のもの。本当に情けないけど、その恐怖を感じる度に、いつも涙が出てくる。
泣いた後しばらく呆然としていると、今日が土曜であることを思い出した。りんくんの姿が頭に浮かんだと同時に、私は身支度を手早く整え、リビングにいたママとパパに声をかけて急いで家を出た。
もしかしていないかもと、不安を抱きながら図書館に着いた。中川さんに挨拶して階段を急いで上がる。
夕陽に照らされながら、本を読むりんくんが、ちゃんと、いてくれた。
金波銀波みたいな煌めきを帯びた姿。いつも静かで、どこか寂しげで、何かを隠しているようなミステリアスさ。でも、陰鬱な雰囲気なんて全くない。心を縛る糸を緩めて、そっと撫でてくれるような、安心感。
小学生の時、クラスメイトのみんなと自分の微妙なズレに嫌気がさしていた頃。フルートを頑張れば頑張るほど、みんなとの間に距離が空いて、会話をしていても何処となく孤独を感じていたあの頃。
いつもみんなから離れた位置で悠然と本を読んだり、何かを書いてるりんくんが度々視界に入った。
学校の帰り道、おばあさんに道を聞かれたのか、りんくんが荷物を持ちながら近くのバス停まで歩く姿を見た。別の日でも、見慣れない親子と道を指差しながら何かを話している姿を見た。とっつきにくい子かと思っていたのに、意外と優しいんだなと思って、ますます気になるようになった。
思い切って声をかけたグループワークの日は、何度思い返しても私の人生で一番誇れる瞬間だ。
私のフルートを聴いて、その場の情景とか、音の先に込めた、私の形にならない”言葉”に気づいてくれたのは、彼が初めてだった。
あの、異常にも見えるほど、吸い込むくらいに物事を見つめる澄んだ彼の瞳。何もかもを自身に取り込もうとしているかのような、無垢な瞳。
久しぶりに会っても、その感性は変わっていなかった。
家に呼んで、防音室で初めて体が触れ合った。雰囲気だけじゃなくて、りんくんにはママやパパとは別の種類の温かさがあった。
それは、私が欲しかった、”安心”だった。
気を遣わずに、身を預けられる安心。
音に隠れた私の本当の言葉に、いつも気づいてくれる彼だから。
だから、そう、私、恋をしたんだと思う。りんくんに。
ううん。違う。もっともっと特別な感情。好きを超えた先にある、感情。
でも、その気持ちは言わない。だって、それこそ、本当に怖くなる。りんくんが好きで、好きが深くなるほど、君の側にいれなくなることが、怖くなる。
だから、言わない。言いたい、気づいてほしい、私の思いに。
でも、言わない。
頼りない命。音楽が私の手元から、流砂のように流れ落ちていく恐怖。
見出せなかった、生きる意味。
残りの命で、彼の人生を少しても照らしてあげたい。
自分に生きる安心をくれた彼の、役に立ちたい。
私の、音で。
