十分ほどの演奏が終わると、彼女は急に大きく咳き込んだ。確か、前にも似たようなことがあった。
緊張からなのか、体調が思わしくないのか。
「結野さん、大丈夫?」
彼女は屈んで必死に深呼吸をしながら、ずっとフルートをきつく握っていた。咳が辛いからというより、まるで、誰かに奪われまいと守っているような……。彼女から返ってくる言葉はなくて、僕は背中をさすることしかできなかった。駆け寄った際の衝撃で倒れた丸椅子が、僕たちの横に転がっていた。
結野さんの体の揺れが治ってきたところで、僕はもう一度「大丈夫?」と言った。「うん」とか「はい」とか、簡素な返事すらなく、代わりに彼女は勢いよく立ち上がり、いつもと変わらない笑顔で僕に向き直り、
「ごめん!ちょっとむせちゃって! どうだった?演奏。良かったよね絶対。だって結野栞の演奏だもん!さあ、褒めまくりたまえ!」と、早口で捲し立てた。
ちょっとむせたという程度では決してなかった。けど、咳き込んだことを触れてはいけない空気が漂っていて、というか彼女からビリビリと伝わってきて、「めっっっちゃすごかったよ。相変わらず素敵な音だね」とだけ応えた。彼女が満足そうな表情を見せるから、まあ、もやもやはあるけど、いいということにしておく。
「どんなところがいいと思った?」
「うーん。曲はドビュッシーの曲で合ってるよね?」
「お!よく知ってるね! 感心感心。そうだよ。勉強でもしてきた?」
テストでいい点が取れた子どもを褒めるような口ぶりに、少しむっとなるけど、我慢だ。
「勉強ってほどじゃないよ。最近、たまにだけどクラシックの動画とか観たり、音楽の本読んだりしてるだけ」
「いいねえ。本当に感心だ。で、その知識を元にどう思った?」
音楽のことになると、少し尊大な態度になる結野さんの癖。改めた方がいい気がする。けど、嫌な気持ちにはならない。それだけ彼女の音楽への姿勢が真剣で、自分をも焦がしかねない熱意が、美しさを感じるほどに彼女の体から迸っているから。死とはまた違う、生の逞しさと美がそこにはある。
「そうだなあ。合ってるかわからないけど、まるで夢と現実の境界線を揺らして朧げにしているような、甘く温かい音色だったなって思う。現実で嫌なことがあったり疲れたことがあったら、そっと慰めてくれるような……」
そこまで言って結野さんを一瞥すると、予想外の反応に驚いた。口角は上がっているのに、両目は潤み、今にも泣きそうな表情をしている。彼女が今どんな感情なのか、なぜそういう表情になるのか、理解できなかった。
「ど、どうしたの?」
「ううん。やっぱりすごいね、りんくんは。音のその先を……」
「音の先って?」
「……。なんでもない! ありがとね! フルート、聴いてくれて! あ、そうだ。この後は私の部屋においでよ。ちょっとゆっくりして解散にしよう」
「へ?」
部屋? 結野さんのってこと? 本当に何も邪な感情なんてなく、思わず顔が紅潮するのを感じた。
それをみた結野さんはまた意地悪い笑みを浮かべた。
「あー。やっぱりか。りんくんはっ」
「だから僕は潔白な人間だって!」
「ん? まだ何も言ってないけど? ってことは、ちょっとはそういう感情があるってことか! むっつり変態だなあ」
「本当に何も思ってないって!」
「あはは! 冗談だって! りんくんって面白いね。純粋で素直で、ダイヤモンドの原石みたい」
「……。それって褒めてるの?」
「褒めてる褒めてる! 素直だから、磨けば一気に輝きだす。つまり素敵な人ってこと!」
「絶妙に意味わかんない」
結野さんは「おい!」っと言って僕の肩を小突こうとしたのか、僕に歩み寄ると転がっていた丸椅子につまずき、バランスを大きく崩した。
「あぶなっ!」
顔を包む甘やかな匂い。胸に沁みる彼女の体温。丸椅子の転がる音の余韻が、静寂を飾る。
「大丈夫……? 結野さん」
「う、うん。ごめん、つまずいちゃった」
引き潮のように静寂が引いて、換気扇の音が耳に届く。意識が急激に収斂して、状況を冷静に理解させる。
「あ! ごめん!」
咄嗟に結野さんから離れようとしたけれど、動けなかった。両腕が、僕の腰に回されていた。
「どうしたの……?」
「ううん。なんでもない。ごめん、少しだけ…少し、だけ」
啜り泣く声。今日の結野さんは、とても情緒がおかしく感じる。けれど、震えながら泣く姿を、初めて見た。嫌なことがあったのかもしれない。話を聞いたほうがいいのかもしれない。けれど、今はただ、彼女の悲しみに満ちた音を、受け入れることにした。
僕はそっと、彼女の左肩と頭に手を添えた。
結野さんの部屋では、お互いの最近の学校生活の話をした。毎週の図書館でも軽く話しているから、そんなに話題の手持ちがなかったのだけれど、彼女の話は尽きなかった。まるで、生き急いでいるかのように、少し異常にも見える勢いで。よく自分に話しかけてくれる小村美咲さんという高校からの友達のこと。一緒に学生オーケストラをやっている仲間のこと。みんないい人ばかりで、大好きだということ。
嬉しそうに話したり、時折なぜか悲しい表情を見せたり。我慢の堰が切れたように彼女の話は澱みなく続いた。何気ないこんな日常が、これからも続きますようにと、心から願った日だった。
なのに、結野さんに玄関で見送ってもらった帰り道、心臓を握られたような痛みに出会った。
彼女の家の近くの交差点。見たことのある金髪の男性が横切った。
間違いなく、宮野だった。
緊張からなのか、体調が思わしくないのか。
「結野さん、大丈夫?」
彼女は屈んで必死に深呼吸をしながら、ずっとフルートをきつく握っていた。咳が辛いからというより、まるで、誰かに奪われまいと守っているような……。彼女から返ってくる言葉はなくて、僕は背中をさすることしかできなかった。駆け寄った際の衝撃で倒れた丸椅子が、僕たちの横に転がっていた。
結野さんの体の揺れが治ってきたところで、僕はもう一度「大丈夫?」と言った。「うん」とか「はい」とか、簡素な返事すらなく、代わりに彼女は勢いよく立ち上がり、いつもと変わらない笑顔で僕に向き直り、
「ごめん!ちょっとむせちゃって! どうだった?演奏。良かったよね絶対。だって結野栞の演奏だもん!さあ、褒めまくりたまえ!」と、早口で捲し立てた。
ちょっとむせたという程度では決してなかった。けど、咳き込んだことを触れてはいけない空気が漂っていて、というか彼女からビリビリと伝わってきて、「めっっっちゃすごかったよ。相変わらず素敵な音だね」とだけ応えた。彼女が満足そうな表情を見せるから、まあ、もやもやはあるけど、いいということにしておく。
「どんなところがいいと思った?」
「うーん。曲はドビュッシーの曲で合ってるよね?」
「お!よく知ってるね! 感心感心。そうだよ。勉強でもしてきた?」
テストでいい点が取れた子どもを褒めるような口ぶりに、少しむっとなるけど、我慢だ。
「勉強ってほどじゃないよ。最近、たまにだけどクラシックの動画とか観たり、音楽の本読んだりしてるだけ」
「いいねえ。本当に感心だ。で、その知識を元にどう思った?」
音楽のことになると、少し尊大な態度になる結野さんの癖。改めた方がいい気がする。けど、嫌な気持ちにはならない。それだけ彼女の音楽への姿勢が真剣で、自分をも焦がしかねない熱意が、美しさを感じるほどに彼女の体から迸っているから。死とはまた違う、生の逞しさと美がそこにはある。
「そうだなあ。合ってるかわからないけど、まるで夢と現実の境界線を揺らして朧げにしているような、甘く温かい音色だったなって思う。現実で嫌なことがあったり疲れたことがあったら、そっと慰めてくれるような……」
そこまで言って結野さんを一瞥すると、予想外の反応に驚いた。口角は上がっているのに、両目は潤み、今にも泣きそうな表情をしている。彼女が今どんな感情なのか、なぜそういう表情になるのか、理解できなかった。
「ど、どうしたの?」
「ううん。やっぱりすごいね、りんくんは。音のその先を……」
「音の先って?」
「……。なんでもない! ありがとね! フルート、聴いてくれて! あ、そうだ。この後は私の部屋においでよ。ちょっとゆっくりして解散にしよう」
「へ?」
部屋? 結野さんのってこと? 本当に何も邪な感情なんてなく、思わず顔が紅潮するのを感じた。
それをみた結野さんはまた意地悪い笑みを浮かべた。
「あー。やっぱりか。りんくんはっ」
「だから僕は潔白な人間だって!」
「ん? まだ何も言ってないけど? ってことは、ちょっとはそういう感情があるってことか! むっつり変態だなあ」
「本当に何も思ってないって!」
「あはは! 冗談だって! りんくんって面白いね。純粋で素直で、ダイヤモンドの原石みたい」
「……。それって褒めてるの?」
「褒めてる褒めてる! 素直だから、磨けば一気に輝きだす。つまり素敵な人ってこと!」
「絶妙に意味わかんない」
結野さんは「おい!」っと言って僕の肩を小突こうとしたのか、僕に歩み寄ると転がっていた丸椅子につまずき、バランスを大きく崩した。
「あぶなっ!」
顔を包む甘やかな匂い。胸に沁みる彼女の体温。丸椅子の転がる音の余韻が、静寂を飾る。
「大丈夫……? 結野さん」
「う、うん。ごめん、つまずいちゃった」
引き潮のように静寂が引いて、換気扇の音が耳に届く。意識が急激に収斂して、状況を冷静に理解させる。
「あ! ごめん!」
咄嗟に結野さんから離れようとしたけれど、動けなかった。両腕が、僕の腰に回されていた。
「どうしたの……?」
「ううん。なんでもない。ごめん、少しだけ…少し、だけ」
啜り泣く声。今日の結野さんは、とても情緒がおかしく感じる。けれど、震えながら泣く姿を、初めて見た。嫌なことがあったのかもしれない。話を聞いたほうがいいのかもしれない。けれど、今はただ、彼女の悲しみに満ちた音を、受け入れることにした。
僕はそっと、彼女の左肩と頭に手を添えた。
結野さんの部屋では、お互いの最近の学校生活の話をした。毎週の図書館でも軽く話しているから、そんなに話題の手持ちがなかったのだけれど、彼女の話は尽きなかった。まるで、生き急いでいるかのように、少し異常にも見える勢いで。よく自分に話しかけてくれる小村美咲さんという高校からの友達のこと。一緒に学生オーケストラをやっている仲間のこと。みんないい人ばかりで、大好きだということ。
嬉しそうに話したり、時折なぜか悲しい表情を見せたり。我慢の堰が切れたように彼女の話は澱みなく続いた。何気ないこんな日常が、これからも続きますようにと、心から願った日だった。
なのに、結野さんに玄関で見送ってもらった帰り道、心臓を握られたような痛みに出会った。
彼女の家の近くの交差点。見たことのある金髪の男性が横切った。
間違いなく、宮野だった。
